いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性
7、賠償請求が認められた判例と高度の因果関係
(1)、静岡養心荘患者による看護師殺人(静岡養心荘)事件
静岡地裁昭和57年3月30日判決(昭和52年(ワ)第134号)、(判時1049号1頁、判タ471号158頁)、(1989年6月 別冊ジュリストNo.102、P.98)
(1)、事件事実の概要
Aは昭和34年からS病院で治療を受けていたが、昭和49年3月被害妄想によりS病院長O医師をナイフで刺して全治2ヶ月の刺創を負わせた。Aは精神分裂病と診断され不起訴処分となった。Aは静岡県立第二駿府病院に措置入院となり、昭和51年1月から静岡県立精神病院養心荘に転入院した。
転入院後の昭和51年5月26日以降、病院から事業所に通勤稼働する院外作業療法を受けていたが、同年6月16日朝(院外作業開始から21日)、勤務先に向かわず、前記O病院長刺殺の意思をもってS病院に赴き、診療中のO院長を襲いかかったが果たせず、代わりにO病院長を室外に逃がした看護師Hを刺殺した。Aは精神分裂病による犯行として不起訴処分となり、養心荘に入院中である。
(2)、判決で過失を認めた相当因果関係の論理
- 精神病の診断、治療方法の選択等については、ある程度、主治医の主観的な判断が入ることはやむを得ないところで、その判断は一般的に尊重され、・・・、主治医らがAの分裂病を社会的寛解状態にあるものとみて同人に対し院外作業療法を実施したこと自体は相当な治療方法であった。
- Aに対し院外作業療法を実施するに際しては、主治医としては右病歴、症状等に留意し、前記のような配慮のもとに、従事すべき作業の種別、内容、勤務時間その他の条件等を調整し、同人の能力、症状に適応し、かつ、同人に対する状態観察、管理が可能な事業所を選んだうえで、同人を勤務稼働させる必要があった。
- 作業療法実施後も同人に病状の悪化再発の兆候が現れたならば、これに即応して治療その他適切な措置が行えるよう同人を常に養心荘の治療的管理下に置くべき注意義務があった。
- しかるにT医師は、
ア、 |
Aの一存で、養心荘から比較的遠距離にあり何らの連絡体制のとられていない、金属塗装工場との間に雇用関係を決定させた |
イ、 |
同人を一般人と同様の労働条件で、単独で右事業所に通勤稼働させた |
ウ、 |
本件院外作業療法中、Aを帰院後看護密度の高い閉鎖病棟に収容した |
エ、 |
病棟内で看護職員にAの状態を観察させ、異常があれば主治医に連絡するように指示していた程度 |
オ、 |
主治医はAを一週に1〜2回問診していたという程度 |
カ、 |
勤務先におけるAの状態を把握するための何らの方法も講じていなかった |
- K医師もAが、妄想性曲解とみられる訴えをしたり、勤務先を辞めたいと希望したにもかかわらず、本件院外作業療法を継続していた。
- 主治医らには、Aに対し本件院外作業を実施するにつき、養心荘の医師として同人を相当の治療的管理下に置くべき注意義務を怠った過失があった。
(3)、静岡養心荘事件における高度の因果関係
静岡養心荘事件では、Aは措置入院患者で、措置入院が解除されないままで、即ち、措置入院を継続する必要があるとする精神医学的判断が継続された状況で、院外作業療法という開放療法が行われたが、精神科開放医療を行ったことの妥当性は過失を構成する問題にされていない。いわき病院事件でも、控訴人は野津純一氏に精神科開放医療を実施したことを問題にしていない。この点で、状況は同一である。
静岡養心荘事件では精神科開放医療を実施するにあたって、主治医の義務違反が過失責任の根拠とされたが、その内容は、「病歴や病状の確認不十分、本人の能力や症状に対応した院外作業療法でなかった、院外作業所との連絡協調体制の不備、及び病状の悪化・再発時の対応がなかった、主治医の診察間隔(週に1・2回)で、患者の訴えを無視したこと」である。これらの観点は、精神科医療機関として、開放医療を行う上での基本が守られたか否かであり、措置入院であるか任意入院であるかは関係ない。また、精神科医療者及び精神科医療機関としての常識的な義務が果たされていたか否かの問題である。
留意すべきは、いわき病院は「外出許可者の10人中8人から9人以上が殺人する確率の証明」を控訴人に求めたが、そのような非常識な論理は静岡養心荘事件では過失認定の条件とはならず検討されていない。いわき病院が要求する「高度の蓋然性」の論理の正統性を判断する前例判決である。
静岡養心荘事件の判決要素を整理すれば、以下の通りとなる。
- 医師の診察や治療における主観的判断及び裁量権は尊重されることが、前提である。
- 措置入院患者であっても、開放医療を行うことは妥当性があり、問題ではない。
- 開放医療を実施するに当たっては主治医として、以下の義務があった。
ア、 |
病歴、症状等に留意する |
イ、 |
従事すべき作業の種別、内容、勤務時間その他の条件等を調整し、同人の能力、症状に適応する |
ウ、 |
Aに対する状況観察、管理が可能な事業所を選んだうえで、勤務稼働させる |
エ、 |
病状の悪化再発の兆候が現れた場合には即応して治療その他適切な措置を行う |
- 主治医はAを一週に1・2回問診していたという程度で、勤務先におけるAの状態を把握するための何らの方法も講じていなかった。また、Aが、妄想性曲解とみられる訴えをしたり、勤務先を辞めたいと希望したにもかかわらず、右のような本件院外作業療法を継続していた。
いわき病院では、主治医が慢性統合失調症の患者に抗精神病薬(プロピタン)を中止した上に、同時にパキシル(抗うつ薬)を突然中止して患者が病状悪化する原因をつくった。その上で、主治医の診察は2週間に1回限り(静岡養心荘では一週に1〜2回問診しても少ないと判定された)で、患者を適切に経過観察していたとは言えない。いわき病院は患者の病状を確認しないままで漫然と単独外出許可を継続していた。これらの状況は、静岡養心荘事件の判例に基づけば、法的に過失が認定される十分な要件となる。
(4)、病院と病院の争いである
静岡養心荘事件は不起訴処分となった精神障害者に対する病院の責任が認められた事例で極めて異例である。静岡県立病院の養心荘と死亡した看護師の間の民事訴訟であるが、実質は病院と病院の争いであることが訴訟を可能にした背景にある。病院関係者でなければ公判を維持することは不可能である。Aは元S病院の入院患者であり、S病院長O医師を業務の一環として助けようとした看護師をO医師に代わり刺殺した。S病院にはAに関する医療記録があり、またS病院は専門家集団である。一般の市民が精神科病院の不始末を訴えるよりは、遙かに容易であり、かつ専門的で組織的な事実解明が可能であったことが窺われる。なお、病院に過失責任を認めた論理には普遍性がある。
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