いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性
6、渡邊朋之医師の精神科医療の問題
(1)、渡邊朋之医師の問題
(1)、精神科医師としての基本的な問題
渡邊朋之医師は「純一は自傷他害のおそれなど無い任意入院患者である」との主張であり、主治医を交代した平成17年2月14日以降、野津純一氏から他害暴行歴を聴取しても野津純一氏の他害暴行行為の詳細を知ろうとしていない。また、いわき病院の臨床心理士等に指示して詳細な背景の聴取と分析を行わせていない。患者の自傷他害行為の危険性を診断することが求められる精神保健指定医としては適格性に欠ける主張である。渡邊朋之医師は精神科医師であり患者の暴力行為に関する過去履歴を任意入院患者であることを理由にして考慮の対象から排除することは、職務放棄である。
渡邊朋之医師は精神科医であり、またいわき病院は専門性を掲げる精神科病院でありながら、他者の心の動きを推し量る能力、つまり、人の信条、感情、願望、希望、意図などの精神状況を理解して感じることができる能力が大きく不足していた。専門家でなくとも、普通一般的に誰でも、人が示す行動が、その人の内面の感情、信条、意図などによってもたらされることを知っており、人の行動とその人の内的感情を結びつけて理解しようと努力もすれば、人の行動を予測したり、期待したりすることも可能になる。こうした努力をしなければ、誰かの行動を理解したり、予想したりすることが難しくなる。また、人が悲しんだり怒ったりする理由が理解できなくなる。渡邊朋之医師は、仕事として人の心の動きや意図を感じ取る能力が一般人以上に期待される立場にありながら、人の精神的情緒的問題を扱う上での資質に甚大な欠陥があったと言わざるを得ない。向精神薬中断後の経過観察が、不適切であったことは、こうしたことの反映である。何よりも、このことが、本件における問題の本質である。
(2)、いわき病院の不作為と怠慢の論理
野津純一氏が矢野真木人を殺人した事件前の長期的行動歴とパターン及び短期的な衝動性は、事件の予見性と回避可能性を判断する上で重要である。しかし、いわき病院は野津純一氏の生育歴や長期的で持続的な問題行動歴及びパターンを解析していない。その上で平成17年11月23日(祝日)から、複数の向精神薬を同時に突然中断して野津純一氏に即時的で衝動的な攻撃性を急激に亢進させた。主治医の渡邊朋之医師は自らが原因者であるが、野津純一氏に危険度が高まった状況の認識を持たず、患者を適切に経過観察していない。いわき病院は結果予見可能性と結果回避可能性を持たなかったが、法的責任を確定する理由になりこそすれ、責任を免除する理由とならない。渡邊朋之医師は患者が他害行為を行う可能性を判断することが任されている精神保健指定医である。
野津純一氏は渡邊朋之医師が主治医を平成17年2月14日に交代した時の最初の診察で、患者野津純一氏には前年10月21日から11月にかけての看護師襲撃事件と閉鎖処遇があり、また本人は素直に過去の暴行歴を話そうとしたが、渡邊朋之医師は関心を持たず追及して聞かなかった。また親は入院に際して暴行歴を正直に報告したが、いわき病院は知り得た情報を調査分析していない。更に、入院直後に看護師を襲った事実は、事件の1年以上前であり、「(事件予見可能性を示す)事件直前の行動ではない」との立場である。過去の事実を知らなければ責任は無いとするいわき病院の論理は怠慢の論理である。そもそも渡邊朋之医師は患者を前方視(プロスペクティヴ)で見ていない。
本件裁判では、精神科開放療法の必要性を認めたうえで、開放と放任は異なるとの認識が必要である。適切な精神科医療を行わないで、患者の過去歴に関心を持たず、病院が独自に行うべき調査や分析を行わず、患者を放任する不作為は許されない。患者の暴行歴を適切に評価することは自傷他害事故を予見して結果回避するために必要である。それは患者に対する管理・監督を強化することではなく、より適切な精神科開放医療のあり方に貢献するものである。精神科開放医療は患者の病状と行動様式を適切かつ客観的に分析した上で、誠実に医療を行うことで、実現される。
(3)、措置入院でなければ自傷他害を予見しない非常識
いわき病院と渡邊朋之医師は、任意入院患者であることを理由に自傷他害行為を行う可能性は考えられない患者と主張して、自傷他害行為が発生する可能性を予見することを最初から放棄していたので、結果回避可能性は最初からない。いわき病院が野津純一氏の行動パターンを解析して、「突然相手を襲う」可能性、「社会生活を行っている自分より若い男性を襲う」可能性、また「凶器は包丁である」可能性を承知していたら、当日の野津純一氏に対する外出許可を与えるに当たって、より慎重であったであろう。特に、顔面の根性焼きなど病状悪化のサインに気付いておれば、外出を許可するにしても、単独行動を制限するなど対応して、事件の発生を未然に防止できたはずである。
精神障害者に対する行動の予見可能性を検討して、必要な場合「結果回避可能性」を目的とした行動の制限を行うことができる理由を、「措置入院患者」もしくは「過去に殺人ないし殺人未遂履歴を持つ患者」に限定すれば、病状が悪化していて自傷他害の危険な兆候を示している患者がいても、実際に重大な他害行動を起こすまでは、患者の救済を含む積極的な対応が行えないことになる。またそれは重大な人身事件の発生を容認する事を前提にした精神科医療であり、精神科開放医療を行う精神科医療機関及び精神科専門医として社会的責任を果たさない義務違反である。
野津純一氏のように過去に放火暴行履歴があり、本人が病状悪化時に発生する可能性がある再発時の一大事を申告して、「現に主治医が行った向精神薬の処方変更で病状が悪化していても、経過観察を行わず病状が悪化した事実を知らない、殺人もしくは殺人未遂行動を行うまで、他害行動を行う可能性を予見せずに、殺人という結果が発生するまで漫然と待つ」というのは無責任で不作為の臨床精神科医療である。その法的責任が免除される根拠としては、「措置入院でないから」と主張することは、精神科開放医療を行う精神科医療機関及び精神科医師として、重大事故の発生を「仕方が無い」、また「未然に対応する必要もない」と容認し、殺人事件の発生に荷担する行為である。
特に、渡邊朋之医師は20年に亘る病歴を持つ慢性統合失調症の野津純一氏に抗精神病薬(プロピタン)定期処方を中止して統合失調症の治療を中断した。その上で、同時に平成17年12月当時には精神科専門医の常識であったパキシル(抗うつ薬)突然中断をする危険性に認識を持たないか、薬剤添付文書を誤解した証言を行っており、専門医としては行ってはならない錯誤があった。渡邊朋之医師は野津純一氏が危険な自傷他害行動を行う可能性が極めて高くなっていたことを予見すべき義務があった。当然のこととして、危険行動を予見する義務があったのであれば、その行動を当該患者が行うことを回避するための最大限の努力をしたことを示す証拠を残していなければならない。しかしながら、いわき病院には、結果予見可能性と結果回避可能性に関する義務を果たしたとする証拠は存在しない。そこに、いわき病院と主治医渡邊朋之医師の矢野真木人殺人事件の発生に対する過失責任が存在する。
(2)、渡邊朋之医師は医療者として不見識
(1)、渡邊朋之医師の医療従事者としての意思
複数の向精神薬の同時突然中止やプラセボの投与といった、医療行為の中でも、とりわけ標準的ではなく、大規模な変更といえる医療行為を行う際には、心身への侵襲度や副作用等に関して、平均的ないし定型的医療行為を行う時以上に、患者にとっての利益・不利益と言う観点から予見性を持っておくこと、そして実施中における緻密な観察と情報収集を怠ることなく、患者にとっての不利益が発生ないしそれが予測された場合には、迅速な対応と柔軟な計画の変更が求められる。こうした医療従事者としての意思を持って行う医療が、渡邊朋之医師といわき病院には、決定的に欠けていた。
渡邊朋之医師の向精神薬中断後の経過観察が、不適切であったことは、こうしたことの反映であり、事件直近の野津純一氏への対応だけでなく、全経過を通した渡邊朋之医師の野津純一氏に対する医療的関与に問題があった。そもそも野津純一氏の入院医療とは何だったのか、患者にとっての利益・不利益という観点から、よりパターナリスティックな選択をして、善管注意義務を果たそうとしていない。野津純一氏に対する治療経過を通して、渡邊朋之医師は自らの判断で行った選択に対する役割を果たそうとする医師としての覚悟や意思及び義務感が稀薄である。
(2)、野津純一氏の病状変化に関する経過観察を怠ったこと
いわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に任意入院を許可して、精神科開放医療を行っていたことを「過失」と控訴人は主張していない。野津純一氏に重大な処方変更〈慢性統合失調症の患者に対して抗精神病薬(プロピタン)を中断すると同時にパキシル(抗うつ薬)を突然中断したこと〉を行った後に、経過観察の診察を適切に行わず、外出許可を病状の変化に合わせてきめ細かな運用の変更を行わなかったことが、野津純一氏の病状悪化を招きかつ殺人事件を誘発するという、重過失を構成した要素である。
渡邊朋之医師は精神科専門医でありかつ精神保健指定医である。またいわき病院は精神科専門病院であり、自らの独断の医療行為が原因であり、普通の一般的な精神科医師であれば予想可能な、野津純一氏の病状変化(病状が悪化することは十分に予見可能であった)に関する経過観察を怠ったことは,過失に留まらず、「未必の故意」とも言える犯罪行為である。いわき病院と渡邊朋之医師は、自らが行った医療的介入で、患者野津純一氏の病状悪化という結果の発生(殺人を意味しない)の可能性を予測することが普通の能力を持った医師であれば当然であったが、病状悪化という結果の発生を精神科専門医として容認した。渡邊朋之医師は、病状が悪化する結果を予見することが容易であったのに、適切な対応を行なわず、患者の野津純一氏を放置かつ無視した。渡邊朋之医師の精神科臨床医療は、単なる怠慢ではなく、「病状が損なわれても仕方ない」、「まあ良いか」という姿勢に基づいており、こうした姿勢が、殺人事件の発生を誘発し、未然に防止することができなかった。
複数の向精神薬を同時に突然中止したのは渡邊朋之医師である。主治医として、患者の病状が急激に変化(悪化)する可能性は当然の責任として予見可能であった。予見可能な病状の悪化に何も対応しなかったことには過失責任が伴う。渡邊朋之医師は当然可能な結果予見可能性を持たなければ、結果回避可能性はない。その原因者は渡邊朋之医師であり、いわき病院は過失責任から逃れられない。
(3)、渡邊朋之医師の薬物療法
渡邊朋之医師は患者の現在症に対処する薬物療法に依存していたことは明白である。ところが渡邊朋之医師本人は統合失調症治療マニュアルを真面目に勉強せず、また薬剤の添付文書の記述内容を正確に理解する努力を怠っていた。更には精神科医師として患者に向精神薬の処方を変更した後で、病状の変化を観察する経過観察を行っておらず、患者の治療を促進するための医師の技量が不足していた。
精神科開放医療で患者の社会参加を促進するには、先ず精神科医師が薬物療法に習熟して、患者にとって最善の薬事処方を見つけて、心神の状況を寛解に近い水準で維持する必要がある。それには、かつて日本でも一般的だった多剤大量処方は好ましいとはいえず、しかし少なすぎない適量の薬用量で治療することが国際的標準である。更に、薬物療法に合わせて、患者個人の能力や資質及び行動特性等を考慮に入れた看護や作業療法及びリハビリテーションの推進が期待され、着実に現実的な患者の社会参加を促進する治療が求められる。しかしながら、いわき病院で野津純一氏に行われたのは、渡邊朋之医師も効果は無かったと断言した、漫然と行われた保険点数稼ぎのための作業療法とリハビリテーションであった。現実の野津純一氏は社会参加に明確な目的意識もなく、自由気ままに外出して街中をぶらぶら徘徊していた。それが、患者の現在症だけを見て、状況に振り回されて対症療法的に薬を漫然と処方し、突然中止して、同時に、患者の自傷他害歴などを考慮しなかった。これがいわき病院の精神科開放医療の現実である。
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