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いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性


平成26年5月7日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


5、野津純一氏の放火暴行歴と結果予見可能性

(3)、精神科医療と危機管理


(1)、精神科医師の基礎知識

石井毅「研修医のための精神医学入門」星和書房、P.17に以下の記述がある。

4)危険の兆候を捉える
  患者に危険な兆候、例えば自殺傾向、暴力傾向、非常識な考え、秘密で親密な人間関係などを認めたときは、冷静、客観的な態度で接すると同時に、その危険性をわずかな兆候でも逃さず、重大性を認識して対処すべきである。特に自殺観念に対しては、率直な対応を心がける。危険の迫っているときは機を失せず、必要な対応をとる。

精神科医師になるための基本的入門書には、「危険な兆候」として「自殺傾向」と「暴力傾向」をあげており、診察・診断の現場では、「重大性を認識して対処すべき」として「危険の迫っているときは機を失せず、必要な対応をとる。」と結んでいる。精神科医療の基本知識=常識に基づけば、患者から放火と暴行の過去の行動に関して説明や申告があったとき(野津純一は渡邊朋之医師に説明した)、主治医が「刑事記録ではないから」、また「患者は任意入院で開放処遇だから」として無視しても良いとする理由はない。

いわき病院は任意入院の開放処遇の患者である「野津純一氏が殺人を行う結果予見可能性などは、矢野真木人を殺人する前の時点ではあり得ない」という見解である。また、殺人を行う80%〜90%以上の高度の蓋然性を証明することを控訴人側に要求した。言い換えれば、「70%までの殺人を行う可能性では、仮に危険性があっても、結果を予見して回避する義務は無い」との主張でもある。この様な主張の背景には、患者の病状の悪化に関心が無く、精神科開放医療で最悪の事態の発生を未然に防止する心構えを持たず、結果予見性を考慮することが無く、また結果回避の努力を行わないという、殺人事件や殺人未遂事件の発生を容認したいわき病院の人命無視の精神科医療がある。現実に矢野真木人は通り魔殺人事件の被害者となった。


(2)、デイビース鑑定医師団の意見

デイビース鑑定医師団は意見書(I)(2012年3月1日)で「野津純一氏の暴行(violence)及び放火(fire setting)歴は将来の殺人行動の可能性を示す過去履歴」とした。野津純一氏の潜在的な他害傾向を示す事実として「暴行と付け火(violence and fire-setting)」を指摘したが、「arson:放火罪」や「felony:重罪」と犯罪に直接結びつけた認識ではない。行動や傾向としての暴力や付け火であり、犯罪を構成するか否かは別問題である。殺人事件の結果予見性を確認する上で、刑事記録がある「殺人ないし殺人未遂」者に限定しない。患者に開放処遇を行うには患者の行動履歴の確認は必須であり、野津純一氏の場合は「病状が悪化した際に殺人・傷害を行う結果予見可能性があった」と鑑定した。

デイビース鑑定医師団はラボーン事件英最高裁判決を証拠として提出したが、英国では、犯罪を起こす恐れ(5%程度であっても)があることを想定し、それを防ごうとしているので、全ての放火暴行の記録や証言を調査分析して、患者の社会復帰を促進する精神科治療に活用するのが当然である。いわき病院の精神科医療には、予防医学的視点と意識が乏しい(皆無)と言える。いわき病院では患者と市民を守る視点が欠如していた。デイビース鑑定報告書(Ⅰ)(2012年3月1日)は、リスクアセスメントとリスクマネージメントが重要と鑑定したが、日本語に置き換えれば、リスクアセスメント(結果予見可能性)とリスクマネジメント(結果回避可能性)である。これは精神科医療において必要な危機管理であり、精神科入院患者による自傷他害行為を抑制して防止するには、日本と英国に違いはない。しかしIG鑑定報告(II)は「イギリスなら自分も同じ結論だとか、日本では、当時も今もそのような考え方は普及していない」と主張したが、人間の生命の安全と保全に関することで怠慢を容認し不作為を容認する鑑定意見である。

デイビース鑑定団のように考えなければ、放火暴行等は予防できないし、通常の常識的な日本人ならそう考えるはずである。いわき病院は、入院前問診で野津純一氏の暴行歴を聞き取り、その上入院後に看護師襲撃事件があったにも拘わらず、渡邊朋之医師はその危険性が発現する可能性を全く検討していない。いわき病院は人が死に傷つくことに無頓着である。そしていわき病院代理人とIG鑑定人は医師と病院の過失がうやむやになることを望んだ主張を繰り返してきた。IG鑑定意見は、日本の精神科医療は、患者の人権に配慮している(例えば、犯罪者として精神障害者を見てはいけないという認識)からではなく、病院の都合(看護師等の人手がないとか、精神科医師の負担が大きくなる等)で主張を展開していると思われる。日本にある、殺人事件の発生を容認するメカニズムとして、指摘できる。


(3)、信用できないいわき病院看護師の患者観察

いわき病院と渡邊朋之医師は「事件直前の野津純一氏には病状悪化は無かった、また殺人を行う行動を示す兆候が無かったので、殺人の結果予見可能性と結果回避尾可能性は無かった、従っていわき病院は過失を問われない」と主張できない。いわき病院第2病棟アネックス棟では患者管理と看護が適切ではなく、患者の精神症状と病状悪化に関して正確な確認と記録を取っていない。看護師は野津純一氏が顔面左頬に自傷した根性焼きを、根性焼きが存在したことに関して確認がある12月6日午後から7日午後まで25時間に亘り発見していなかった事実は明白であり、看護師の患者観察が信用できないことが証明された。更に、野津純一氏の病状が改善せず、安定化もせず、その反対に増悪していたことは、SG刑事裁判鑑定人が確認した事実である。

【参考】FN鑑定人のコメント(看護観察の不備)

野津純一氏は12月3日以降にアカシジアの悪化を訴え、12月4日にはプラセボを疑う行動を見せたが、プラセボは続行された。この時期以降に野津純一氏は顔面左頬にタバコの火で自傷行為(根性焼き)を行ったと検察・警察調書で述べたが、いわき病院の看護師は誰も発見していない。野津純一氏が7日に警察に身柄を拘束された時には数日を経過して黒化した古い根性焼きが確認されており、また

6日、 pm0:20 目撃者が根性焼きを確認(ダイソー店員の供述)した
6日、 pm0:24 事件発生
6日、 pm1:00 野津はいわき病院に戻った
pm8:00 NN看護師が検温
pm9:00 TU看護師がイライラ時の頓服薬を与薬
7日 am8:00 NN看護師が検温、
不食の訴えに食事をとるよう促したが顔の傷に気付いていない

以上の事実により、患者の顔面左頬の根性焼きをいわき病院の看護師は誰も気付いていない。いわき病院の看護観察力と看護記録は、その真実性が疑われる。なお、12月4日以後の野津純一氏は「気味悪く、近寄りがたい状態」と表現した精神科医がいるが、患者の顔面を正視しない看護を繰り返していたとすれば、不適切である。


1)、看護師の勤務実態について
  看護師の勤務形態は、3交代制か当直制(2交代制)と考えられるが、NN看護師の勤務時間は、pm8:00に検温し、翌朝am8:00に検温している。3交代制勤務であれば、準夜勤と深夜勤を継続していることになる。休憩を取ったとしても長時間労働で深夜を含む時間外労働となる。当直制であったとすれば、仮眠を取っていたことになる。中味の濃い看護体制ではない勤務形態がうかがわれる。

2)、看護観察の低さ
  看護師の行う検温は、体温の測定のみでない。表情や顔色、精神的動揺など短時間に様子を観察する。看護師が違和感を感じたときは、その気持ちを患者に質問して確認するのが一般的である。ダイソーのアルバイト店員が短時間で左頬の傷を発見できるほど目立つものであった。看護師が顔を合わせていながら変化に気付かないほどの観察力の低さである。また、夕と朝の連続2食の不食に対して、看護師として原因把握をすべきであるが、アセスメントもプラン(看護計画)も記述されていない。

いわき病院では、看護師の患者観察も根性焼きを発見しないなど、目の前の事実の確認という点で信頼性が極めて低い。いわき病院には、信頼性に足りる事件直前の野津純一氏の行動を観察した記録は存在しない。いわき病院に記録が無いことをもって、事件直前の患者の異常性が確認できなかったとして、結果予見可能性と結果回避可能性を否定する事は、何も医療行為を行わない怠慢を無過失として容認することである。


(4)、いわき病院の精神科開放医療


(1)、精神科開放医療の実現

いわき病院の精神科開放医療で殺人事件が発生した問題の本質は、いわき病院が行った野津純一氏に対する精神科医療である。精神科医療の普遍性から物事を理解すれば、精神科医療の対象者が持つ性質や傾向を理解することが基本となる。精神科医療に求められる課題は、人の行動特性を変化させることが可能な心理的治療(精神分析や認知行動療法など)であり、精神科臨床医療の現場の経験やエビデンスの蓄積の中で、当たり前のこととして共有されるようになる。精神科開放医療を実現することは、精神科医療を病気の治療手段としてだけ見ることから脱皮して、それだけでなく、精神科医療は人間生活を豊かにする手段として目的を転換する必要がある。それが本件裁判の核心の課題であり、精神障害者が健常者と同じ市民として社会参加を達成することを可能にする精神科医療が日本に定着するための法的解決が判決に期待される。


(2)、渡邊朋之医師の精神科開放医療に対する確信

渡邊朋之医師が精神科開放医療の可能性に確信を持っていたか疑わしい。効果を上げるためには、患者の適性と病状を正確に把握して、薬物療法も副作用が少ない手段を選択することが期待される。渡邊朋之医師はその方向性を目指して努力した形跡が認められない。むしろ、任意入院を弁解理由にして、何も行わず、何も知らないで、ともかく「治療」を行い、さっさと退院させればよい。そのような無関心と無責任が渡邊朋之医師にあると推定される。また、精神科開放医療で人身事故(自殺、他殺、傷害)が発生することはやむを得ないと考えて、発生する可能性がある事件や事故で精神科医療機関と精神科医師が責任を問われないと考えていた。そのような不真面目な開放医療は許されない。これでは精神障害者の社会参加は、目的を達成できない。渡邊朋之医師の錯誤と不真面目な医療には、過失責任を問うことが求められる。



   
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