いわき病院控訴審答弁書に対する反論
精神障害の治療と人道及び人権 次期公開法廷(平成26年1月23日)を控えて
平成25年12月6日(矢野真木人9回忌)
矢野啓司・矢野千恵
第7、いわき病院と渡邊医師の過失責任
1、いわき病院と渡邊医師の精神科開放医療の法的責任
いわき病院代理人は第1準備書面(P.4〜6)(平成19年2月7日)で以下の通り主張した。そして、その主張した内容は判決(P.39〜41)で(被告いわき病院及び被告渡邊の主張)として引用されているが、「池田小学校児童殺傷事件を始めとする」など、取り消し線を付した部分は判決文では削除されている。
5 本件のように精神科医療の途上で発生した事故に対する医療側の責任をどのように判断するかという問題は、国際社会におけるわが国の精神科医療をどのような位置に置くことになるかという問題と極めて強く結びついているのである。
本件において医療側の責任の有無を判断する過程で検討されるべき具体的内容は以下の通りである。
第1に、具体的に治療を担当していた医師が、当該患者である被告NZに対して単独外出許可を与えた判断において、単独外出中に患者が包丁という非常に危険な本来的凶器を購入し、さらに通行人を待ち伏せして突然刺殺するであろうとの、具体的予見可能性および回避可能性が存在し、医師として注意を払ったならば殺人を具体的に予見し、殺人を具体的に回避することができたと法的に判断できなければ、当該患者に外出許可を与えた医師の判断において、本件殺人事件に対する注意義務違反は認められない。
第2に、本件患者である被告NZに対する1年以上に亘る入院加療中、担当医師が患者に対する診断、治療方針の決定、投薬等の具体的治療行為の過程において、他の治療法等を選択しなければ当該患者が外出中に他人を刺殺するとの具体的危険性が存在し、そのような具体的結果を予見することが可能であり、かつ結果を回避する事が可能であると法的に判断できなければ、担当医師の当該患者に対する本件医療行為には、本件殺人事件発生についての注意違反義務は認められない。
第3に、既に触れたとおり、本件は精神障害者という歴史的にその人権保障が図られるべき人間の処遇を考えなければならない場面に直面しており、結果回避方法として当該患者を隔離拘束して社会から遮断することをもって法的因果関係を安易に肯定するという手法は、無意味かつ危険であるという点に注目する必要がある。当該精神障害者を絶対に病院の外に出さなければ確かに本件殺人事件が発生することはなかったのであるから、自然的因果関係において単純に考えれば外出許可と本件殺人の間に「AなければBなし」という条件関係が存在することになる。しかしながら、精神科病院は犯罪者(未決・既決)を社会から隔離収容する拘置所・刑務所等の施設とは異なり、精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである。池田小学校児童殺傷事件を始めとする精神科受診歴を有する犯罪者による悲惨な事件により、理由もなく命を落とす被害者が存在する一方で、不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実、そして、そのような悲惨な事件を防止するとともに、精神障害者に対する不当な偏見・差別を解消することを目的として定められ平成17年から施行されるに至っている心神喪失者(注:等が欠落)医療観察法の適用範囲・具体的運用等の中で、精神障害者に対する処遇の程度が法的に検討されることが重要であり、そのような法的評価を通じて導かれた相当な処遇を出発点として、法的因果関係の有無が判断されるべきなのである。特に、本人の入院形態が、「自傷他害のおそれのある精神障害者」に対する社会防衛的要素の含まれる「措置入院」ではなく、自傷他害のおそれなど認められない患者本人の意思による「任意入院」である点は重要な判断要素とされるべきである。
しかも、被告NZが起こした本件殺人事件は、被告NZに責任能力が存在することを前提として刑事事件として正式起訴され、限定責任能力との認定のもと殺人罪と銃刀法違反の併合罪の罪責を問われ、宣告刑としては極めて思(注:重の誤植)い懲役20年(注:判決は懲役25年)という判決言渡しによって確定し、現在被告NZは刑務所に服役しているという事実は軽視されてはならない。心神喪失者(注:等が欠落)医療観察法施行下にあって、患者の精神障害から重大犯罪を起こす懸念のある触法精神障害者は、通常人と同様に単純に有罪判決を受けて刑務所医に服役という流れに乗るのではなく、鑑定入院を経て治療反応性が認められれば指定医療機関に審判入院して精神科医療を受けることになる。つまり、被告NZが医療観察法の手続きに一切乗せられなかったということは、すなわち、被告NZの本件重大犯罪は自らの自由意思により惹き起こされたものであって、被告NZの精神疾患罹患とは直接の関連性はないと法的に判断されたということになるのである。この点は、本件における因果関係のみならず注意義務違反を論ずる場合に極めて重要な要素となるところである。
このような判断を経て、はじめて精神科医の医学的専門的判断による医療における裁量の違法を、不法行為責任という法的制度の中で問うことができるか否かが決定されることになるのである。
上記のいわき病院の主張を以下で、個別に議論する。
【1】、本件のように精神科医療の途上で発生した事故に対する医療側の責任をどのように判断するかという問題は、国際社会におけるわが国の精神科医療をどのような位置に置くことになるかという問題と極めて強く結びついているのである。
(1)、国際社会における精神医療のあり方という判断基準
本件裁判の「医療側の法的責任に関する判断」は国際的視点と観点で行わなければならないと最初に提起したのはいわき病院側であることを認識しておく必要がある。その上で、控訴人(原告)はこれに異存は無いと同意した経緯がある。従って本件法廷は、日本の過去の判例を参考にすることは基本であるが、同時に「国際社会における精神医療のあり方」を十分に配慮した上で、判決されることが期待される。
なお、いわき病院は「精神科開放医療は日本が国連等で約束した国際公約であり、その実行を促進している精神科病院に過失責任を問うべきでない」と情状酌量を主張してきたが、そのような免罪の論理は存在しない。過失責任はあくまでも、医療行為における当然知るべき医療知識の錯誤や不認識、行うべき医療行為を行わない怠慢や不作為の事実を基にして法的に確定されなければならない。
発生した事実を正確に認識して、法的理論に基づいた社会的判断を行うことが、法廷判断を行う前提となると確信する。
(2)、英国式の精神科開放医療の理念と実践
上記を踏まえて、控訴人矢野は、英国側からSD鑑定医師団(SD医師、MI医師、DC医師)を招聘した。いわき病院側は英国留学の経験があり、日本に英国式の精神科開放医療の理念と論理を持ち込んで、精神科開放医療の指導者であるべき国立千葉大学医学部教授IG鑑定人の、英国式の論理に基づくべきとしたIG意見書(I)を提出した経過がある。しかしながら、SD鑑定医師団からのIG理論といわき病院の医療の実態に関する矛盾を指摘した反論にあうと「イギリスで行われて始めて理解なもの」(第13準備書面、P.67、IG II P.14、IG III P.8)と理由にならない反論をした事実がある。
更に、控訴人矢野は、現代社会における国際的な人権認識の動向を踏まえた上で、外出許可と事故の発生に関して5〜10%の危険率でも外出許可を出した精神科病院に過失責任を求めた英国最高裁判決を参考事例として、本件法廷に提出した。しかしながら、高松地裁判決は、この「英国における事例の証拠提出」を無視して、「80〜90%以上の高度の蓋然性を原告矢野は証明できていない」とするいわき病院代理人の論理を採用し、控訴人(原告)の主張を退けたが、日本国憲法で保障された基本的人権と、今日における国際社会の人権認識の動向を無視した判決であり、極めて残念な法的判断姿勢である。
控訴人矢野は本件裁判が国際的に尊敬されるに値する判断に至ることを期待している。英国の事例をただ単に控訴人と裁判官を煙に巻き、いわき病院と渡邊医師の精神医療に関する錯誤や怠慢及び不作為を隠蔽する手段として用いようとした、いわき病院代理人とIG鑑定人には反省を求めたい。
(3)、責任を取る精神科医療と患者と市民の人権
いわき病院には「そもそも、精神科医療で精神科病院と精神科医が過失責任を取らされることがあってはならない」、また「精神科病院と精神科医が過失責任を取らされることは公序良俗に反している」という思い込みがあるようである。しかしながらこれは国際的常識ではない。精神科病院も精神科医師も過失を犯すことはあり、それにより事件や事故が発生した場合には「法的責任を果たす」ことで、精神科医療の発展は約束され、より多くの信頼を社会から獲得することができる。
精神科医療は精神科医療機関と精神科医など精神科医療提供者のためにあるのではない。精神科医療は患者である精神障害者の人権を損なうものであってはならない。精神科開放医療は精神障害者の治療を促進して、可能な限り多数の精神障害者が寛解して普通の市民として社会参加する道を拡大することが目的である筈である。精神障害者には市民としての人権が尊重されなければならない。更に、精神科医療は市民の支持がなければならず、市民の命を犠牲にしても良い、市民の犠牲は避けられないという前提を持ち続けることはできない。そのような精神科医療は今日の国際社会では通用しないと、自覚する必要がある。
国際的に通用する精神科医療を実現することは日本の尊厳に貢献する。
◎、以下の(2)から(10)までの項で、控訴人矢野が指摘して、いわき病院と渡邊医師の過失責任を追及する純一氏に対する精神科医療の期間は、特別に言及しない限り平成17年11月23日から12月7日の身柄拘束までとする。
【2】、第1に、具体的に治療を担当していた医師が、当該患者である被告NZに対して単独外出許可を与えた判断において、単独外出中に患者が包丁という非常に危険な本来的凶器を購入し、さらに通行人を待ち伏せして突然刺殺するであろうとの、具体的予見可能性および回避可能性が存在し、医師として注意を払ったならば殺人を具体的に予見し、殺人を具体的に回避することができたと法的に判断できなければ、当該患者に外出許可を与えた医師の判断において、本件殺人事件に対する注意義務違反は認められない。
(1)、具体的特定を要求する論理の非現実性
いわき病院代理人は「包丁の購入」、「通行人を待ち伏せ」及び「突然刺殺」を「具体的に予見できること」を控訴人が証明する事を求めたが、非現実的であり得ない要求である。そもそも精神医療の内容の如何は、それが重大な過失であったとしても、「包丁の購入」、「通行人を待ち伏せ」及び「突然刺殺」と高度の蓋然性をもって具体的に直接関係する事はあり得ない。この様な、非常識で非現実的な論理を弄ぶ精神科病院と精神科医師であるからこそ、事件事故の発生に関連して「具体的予見可能性および回避可能性」を自らの精神科医療行為の中で持つことができなかったのである。
精神科医療が行えることは以下の通りである。
- 当該患者の過去の行動履歴を調査して行動上の問題の有無を知る(結果予見可能性)
- チーム医療を徹底して、患者に関する医療情報及び看護や観察の注意事項等を医師、薬剤師、看護師や作業療法士等に周知し、必要な場合には特別の指示を出して、適切な治療体制を整えなければならない(結果予見可能性と結果回避可能性)
- 上記1、と2、に基づいて患者に行動上の問題が発生し得る条件や状況を推察する(結果予見可能性と結果回避可能性)
- 患者が罹患している病気を適切に診断して、例えば統合失調症など診断した病名の治療の基本を守り、病状の変化に対応した治療を行う(結果予見可能性と結果回避可能性)
- 患者の病状の変化や悪化を診察・看護を通して観察・確認して、行動上の問題を発生する可能性がある予兆を確認する(結果予見可能性)
- 患者に病状の悪化を確認した場合には、治療的介入などを行い病状の回復に努め、必要に応じて外出許可をきめ細かく見直す(結果回避可能性)
- 患者に向精神薬等の治療薬の処方を導入や変更する際には、薬剤添付文書の記載を確認して、その注意事項を遵守する(結果予見可能性と結果回避可能性)
- 医師の裁量権で独自の判断で一般的な治療指針や処方基準から逸脱した薬事療法を行う場合には、診察や観察の回数を増やして慎重な経過観察を実施するなど、特別の体制を取る必要がある(結果予見可能性と結果回避可能性)
- 患者に外出許可を出す際には、その度に、日常の基本的、継続的な確認事項として患者の病状を確認すると共に、患者の持ち物や服装に異常が無いことを確認する(結果予見可能性と結果回避可能性)
精神科開放医療における予見性とは「包丁の購入」などという具体的な行動ではない。そのような予見は万人に不可能であり、不可能なことを行動指針として病院職員に要求すれば、職員の職務規範(モラル)の荒廃を避けることができず、事件事故の発生に関して結果予見可能性と結果回避可能性が著しく低下することになる。結果予見可能性と結果回避可能性は現実的な課題として、精神科臨床医療で実行されなければならない。
(2)、医師として注意義務
渡邊医師は平成17年11月23日に慢性統合失調症患者の純一氏に抗精神病薬(本件ではプロピタンであるが、プロピタンに限定されない)を含む複数の向精神薬の処方変更を実行したが、医療記録を残した経過観察の診察は12月7日までの14日間で11月30日夜に1回おこなっただけである。更に、抗精神病薬の中止や複数の向精神薬の処方変更を行った事実を第2病棟の医療スタッフに周知せず、重要事項の指示も行っていない。この様な事実は、渡邊医師が「医師としての注意義務」を果たさなかったことを証明し、いわき病院代理人の主張は、前提を間違えており、根拠が無い。
(3)、当該患者に外出許可を与えた医師の判断
本件では「純一氏に対する外出許可」で問題になるのは「日常の、2時間以内の外出許可」である。いわき病院は「親の付き添い付きの、一時帰宅や、他医院の診療外出に関する、医師が押印した外出許可記録」を提出して、「問題は無かった」と主張して、地裁判決もそれを根拠にして「外出許可に問題は無かった」と認定した。しかし、矢野真木人殺人事件が発生したのは「日常の、2時間以内の外出許可」の間であり、外出許可の運営に問題が無かったという証明になっていない。
「日常の、2時間以内の外出許可」はいわき病院第2病棟ナース・ステーション前に置かれており、外出をする患者は「看護師詰め所(ナース・ステーション)にいる医師や看護師に申し出て許可を得た後に外出簿に記帳して、第2病棟ナース・ステーション前のエレベータから外出する事ができる」、また「帰院時にも、看護師等の確認を得て、帰院時刻の記載をする」とされている。しかしながら、実際には看護師等の確認は行われず、患者の自主的な申告で外出簿に記載が行われ、患者の病状や外観の確認などが行われていなかった。更に、純一氏はアネックス棟エレベータの暗証番号を教えられており、また「院内フリー」の行動許可があるため、実質的に「日常の、2時間以内の外出許可」の管理は行われない事実があった。
いわき病院が「当該患者に外出許可を与えた医師の判断」を、純一氏のいわき病院入院時や、平成16年11月の一時的閉鎖処遇が解かれアネックス棟に帰された時、もしくは平成17年2月14日の主治医交代時に行った判断に基づくとするならば、「日常の、2時間以内の外出許可」に関して何も言及や弁明をしてないことになる。いわき病院は「日常の、2時間以内の外出許可」に関して何も管理を行っていない。また「親の付き添い付きの、一時帰宅や、他医院の診療外出に関する、医師が押印した外出許可記録」を提出したことは、2時間以内の外出であっても、本来は、毎回外出の都度、患者の病状確認などを行う必要性があったことを認識して記入を求めていたことを証明するが、実際の運用では、2時間以内の外出の場合には、医師や看護師が患者の状況を確認して外出許可を与える体制にはなっていなかった。いわき病院には「当該患者に外出許可を与えた医師の判断において、本件殺人事件に対する注意義務違反があった」。
【3】、第2に、本件患者である被告NZに対する1年以上に亘る入院加療中、担当医師が患者に対する診断、治療方針の決定、投薬等の具体的治療行為の過程において、他の治療法等を選択しなければ当該患者が外出中に他人を刺殺するとの具体的危険性が存在し、そのような具体的結果を予見することが可能であり、かつ結果を回避する事が可能であると法的に判断できなければ、担当医師の当該患者に対する本件医療行為には、本件殺人事件発生についての注意違反義務は認められない。
(1)、被告NZに対する1年以上に亘る入院加療中
控訴人矢野は純一氏が平成16年10月1日にいわき病院に入医院してから平成17年11月22日までの精神科医療に問題が無かったとは言わないが、矢野真木人事件に直接結びついたとまでは言えない。しかし、平成17年2月14日に渡邊医師が主治医を交代した後の精神科医療は、CPK値の意味を取り違えるなど、渡邊医師の精神科医師としての力量が極めて低いものであったことを証明するが、事件の背景にその力量の低さがあるとしても、他人を刺殺する直接の要因にはなっていない。本件裁判では「被告NZに対する1年以上に亘る入院加療中」といういわき病院の主張は意味を成さない。いわき病院と渡邊医師が純一氏に対する精神科臨床医療で過失を行ったのは平成17年11月23日から12月7日までの間である。
(2)、「担当医師が患者に対する診断、治療方針の決定、投薬等の具体的治療行為の過程において、他の治療法等を選択しなければ当該患者が外出中に他人を刺殺するとの具体的危険性が存在し、そのような具体的結果を予見することが可能であり、かつ結果を回避する事が可能であると法的に判断できなければ」
この事件は、渡邊医師が、診断、治療方針、投薬等(中止を含む)の過程で、正しい治療法を選択しなかったことが、自傷他害を引き起こしたのであり、結果として殺人を起こす事態を招いた。主治医が薬剤の取扱い方を誤り、経過観察を怠り、治療的介入を行わなかったことが問題なのであり、上記の【2】の(1)で記述した9項目をおこなっておれば、通常の力量を持った精神科医師であれば、結果を容易に予見することが可能であり、かつ、最悪の結果を回避できた。
なお、渡邊医師の場合は、不勉強で統合失調症治療の基本を承知せず、薬剤に関する情報を確認する事がないため、診察しても気付かず、治療的介入を行わないことはあり得ることである。現実問題として、いわき病院はプロピタンとパキシルの薬剤添付文書を読み間違えた主張を本法廷で行ったことは、力量の低さを証明する。渡邊医師は、精神医療の基本を収得せず、また自ら研鑽しない極めて能力が低い医師であった、精神科専門医であること、また精神科病院長であることが間違いである。渡邊医師は複数の向精神薬処方変更の錯誤、およびその後の経過観の診察を行わず病状確認を行わなかった怠慢と不作為で法的過失責任が問われなければならない。能力が低すぎて何もしない医師が、それ故に過失責任を免除されることは、医療の荒廃を促進し、公序良俗に反する。このような無能な医師を排除するメカニズムが社会には必要である。
渡邊医師はアカシジア治療を目的とて11月23日から、慢性統合失調症の患者純一氏に対して抗精神病薬(プロピタンだけの問題では無い)維持療法を中止して、その上で複数の向精神薬の処方変更を行った。その際に、突然の中止をしてはならないと添付文書に注意書きがあるパキシルを抗精神病薬の中止と同時に「突然中止」した。抗精神病薬の中止とパキシルを突然中止する処方変更は極めて危険であり、抗精神病薬離脱及びパキシル離脱の症状が強烈に現れ、最も危険な他害行為が発現する可能性が極めて高くなり、その状況では、重大な自傷他害(根性焼きや殺人行為)に至ることも十分に予想可能な状態である。抗精神病薬の中止とパキシルを突然中止する処方変更は具体的な危機(危険性)である。
また、渡邊医師は統合失調症の治療の基本を失念し、パキシルの添付文書をきちんと読まずに生半可な知識で重大な結果に至る可能性がある処方変更を実行したので、「具体的結果を予見することは不可能」だった。しかし、医師の不勉強を免責の理由や根拠とすることは間違いで詭弁である。統合失調症の治療の基本を失念してパキシルの添付文書の基本的な重要事項に従わず、経過観察を怠ったことは、精神科専門医として法的過失責任の根拠となる。通常の力量を持った医師であれば、統合失調症治療の基本を遵守し、薬剤師の助言を尊重し、製薬会社の情報は日常の規範として内容確認を行ったはずである。著しい力量不足故の医師が行う「医師の裁量権で法的に免責という弁明」を、野放しにしてはならない。医師の裁量権は、一般的な医師がごく普通の専門的治療として行われる場合に認められるもので知識不足や怠慢の結果として行われた無責任で劣悪な医療までも裁量権とするのは間違いである。
渡邊医師は11月23日以降、必要とされる経過観察の診察を行っておらず、患者の病状を踏まえておれば、適切な力量を持った精神科医師であるならば、当然純一氏の異常な状態を発見して、治療的介入(この場合は、プロピタンとパキシルの投与を再開する)を行うことにより、結果を回避できる可能性があった。なお、不勉強な渡邊医師の場合は薬剤についての知識不足や、怠慢により経過観察と診察を行わなかったため、「適切な治療的介入の手法に認識が無かった」と推測される。従って渡邊医師の場合は「不幸な結果回避が不可能」であった。しかし、このことは精神医療専門医として法的に過失責任を回避できる理由とはならない。
この様な貧困な能力の医師が国立香川大学医学部付属病院の外来を担当していたが、IG鑑定人は「大学病院の医師では無い」として弁護し、精神医学的とは言いかねる法律家の鑑定意見を書いた。渡邊医師にしろ、IG鑑定人にしろ、学問に対して誠実性に欠ける姿勢は日本の精神医学の尊厳を損なうことであり、極めて残念である。
(3)、本件殺人事件発生についての注意違反義務
精神科医師に要求されるのは、「殺人事件の抑制」の具体性ではない、主治医として治療している患者が、統合失調症や薬剤の重大な離脱症状を引き起こさないようにする病状管理である。純一氏の言葉で言えば「再発時の一大事」であり、純一氏の統合失調症の病状が再発しない治療的介入である。本件の場合は、病状が極めて深刻であり、結果として殺人事件が発生したのであり、渡邊医師の法的注意義務違反は明白である。
【4】、本件は精神障害者という歴史的にその人権保障が図られるべき人間の処遇を考えなければならない場面に直面しており、結果回避方法として当該患者を隔離拘束して社会から遮断することをもって法的因果関係を安易に肯定するという手法は、無意味かつ危険であるという点に注目する必要がある。当該精神障害者を絶対に病院の外に出さなければ確かに本件殺人事件が発生することはなかったのであるから、自然的因果関係において単純に考えれば外出許可と本件殺人の間に「AなければBなし」という条件関係が存在することになる。しかしながら、精神科病院は犯罪者(未決・既決)を社会から隔離収容する拘置所・刑務所等の施設とは異なり、精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである。
(1)、結果回避方法として当該患者を隔離拘束して社会から遮断する
控訴人矢野は「純一氏を隔離拘束するべきだった」という主張をしていない。いわき病院代理人は「嘘も百回言えば、他人は信じる」の格言を使い、控訴人が主張しない主張をねつ造し続け、残念ながら、地裁判決も事実確認をすることなく、安易にいわき病院代理人の主張に乗せられていたことは極めて不適切であった。
いわき病院の渡邊医師が純一氏に対して行った、錯誤と怠慢と不作為に満ちた医療を隠蔽する手段として「結果回避方法として当該患者を隔離拘束して社会から遮断する」等と、いわき病院代理人が控訴人の主張を勝手にねつ造して非難し続けた事は、法曹資格者として失格である。
(2)、法的因果関係を安易に肯定するという手法は、無意味かつ危険であるという点に注目する必要がある。当該精神障害者を絶対に病院の外に出さなければ確かに本件殺人事件が発生することはなかったのであるから、自然的因果関係において単純に考えれば外出許可と本件殺人の間に「AなければBなし」という条件関係が存在することになる。
控訴人矢野は、このような主張をしていない。いわき病院代理人には「論理学的な資質に欠陥」があるのではないか
(3)、精神科病院は犯罪者(未決・既決)を社会から隔離収容する拘置所・刑務所等の施設とは異なり、精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである。
控訴人矢野は、渡邊医師が病院長を務めるいわき病院の実態は、「精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設」という実態からはほど遠いものであったと指摘している。本件は、実際に起きた事件事実といわき病院と渡邊医師の精神科医療の実態と事実に基づいて、法的判断がされるべきであり、「精神科医療機関はかくあるはずという、思い込みや一般論」で判断されるべきではない。
いわき病院は本当に「精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである」と胸を張って主張できる実態があるとは思われない。
本件裁判で判明した医療法人社団いわき病院理事長・いわき病院長・精神保健指定医・渡邊医師の純一氏に対する治療は以下の通りであり、これを基にすれば、「精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設」という主張に深刻な疑問が生じる事になる。
- 任意入院を理由にして、自傷他害のおそれが無い患者として、純一氏の放火暴行履歴に無関心であった。このことは任意入院患者の場合には、患者が自傷他害の行為を行う可能性から保護されないことに繋がる。
- いわき病院の内部情報として入院患者の自殺は少なくないと聞いた。矢野真木人殺人事件の2年前の同月同日にいわき病院内で自殺があった事実があるため、いわき病院内では呪われた日という噂が広がったと聞いた。更に、矢野真木人殺人事件の直後にも入院患者の自殺があったという情報があった。いわき病院が任意入院患者を放任していた事実は、措置入院患者の場合は自由の束縛を硬直的に行い、病状観察や診察がいい加減で、処遇が極めて劣悪である可能性が示唆されるものである。
- 任意入院患者純一氏に対して向精神薬(抗精神病薬を含む)の処方変更は、患者に対する説明と同意の取得無しに行われた。社会から隔離されている措置入院患者であれば、いわき病院においては更に説明と同意を求めない精神科医療が普通に行われていると推測される。
- 渡邊医師は、向精神薬の添付文書を読まず、統合失調症の治療の基本を踏まえない治療を純一氏に対して行ったが、措置入院患者の場合には、任意入院患者よりも良好な状況に置かれることは期待できない。
- 渡邊医師は複数の向精神薬処方変更後、純一氏をきめ細かく経過観察をせず、14日間で1回しか診療録に記載する診察を行わなかった。任意入院の純一氏の場合には、病院外の目撃情報で「根性焼きの自傷行為」が発見されたが、いわき病院では全く観察記録が存在しない。いわき病院の精神科看護の実態は、恐ろしいばかりの粗放である。純一氏が措置入院で閉鎖病棟に入院していた場合、病状の変化が観察・診察・確認されず、自傷した傷の治療が行われず何日も放置されることがあり得たことになる。
- 純一氏の例から類推すると、措置入院中の患者がいわき病院内で重大事故に遭遇や死亡した場合、それに関する医療記録や看護観察記録医が存在しない可能性が極めて高い。すなわち、患者が勝手にケガや死亡したとされる恐れがある。
いわき病院で純一氏が経験した上記の実態、及びそこから派生するいわき病院内の措置入院患者に対して論理的に発生するであろう状況を想定すれば、いわき病院内の患者処遇に人権上の重大な懸念がある。それは、日本では過去の状況で、精神科開放医療の導入で改善されたはずであるが、依然として日本の現実ということになる。
医療刑務所に収容されている純一氏個人は、自由放任だったいわき病院の精神科開放医療を懐かしがり、いわき病院に帰れば再び自由な生活を満喫できると考えているようである。その自由放任のいわき病院の精神科開放医療は患者に病状悪化の原因をつくり、病状変化を観察も診察もせず、殺人という重大な他害行為を結果回避可能性があったにもかかわらず、患者保護を行わず、殺人事件の加害者にならせたのである。
いわき病院に象徴される日本の一般の精神科病院は精神科開放医療を着実に促進する義務がある。それは任意入院した患者の社会復帰促進に限られるのではない。措置入院した患者にも、良質な精神科医療が約束され、病状の安定化と回復が促進され、やがて社会参加の道が開ける精神科医療であるはずである。そして精神科開放医療の成果を上げる医療機関には社会の信頼も拡大するであろう。そのためには、精神科開放医療は市民との共存を図り、市民の信頼を得ることが条件となる。
(5)、池田小学校児童殺傷事件を始めとする精神科受診歴を有する犯罪者による悲惨な事件により、理由もなく命を落とす被害者が存在する一方で、不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実。(注:取り消し線は判決(P.40)が引用を行わなかった部分である)
控訴人矢野は精神障害者に対する「不当な差別や偏見」は無くすべきと考える。また本件裁判の目的の一つは、精神障害者に対する不当な差別や偏見を無くすため、日本における精神医療改革の必要性を認めた法的事実を創ることに、法廷審議と判決を通して貢献することであると確信している。そのことを最大の目的として、控訴人矢野は日本国内のみならず国際社会からも鑑定人などの協力者を得て、矢野真木人の死後8年以上に亘る長期の裁判を維持してきた。
その上で、いわき病院と渡邊医師及び、法曹資格者たるいわき病院代理人弁護士に申し上げる。なお、判決文(P.40)は「池田小学校児童殺傷事件を始めとする」を削除したが、この文言を考察から外すことはできない。本件では、「池田小学校児童」という直接的な表現が最も重要である。ここに、命を理不尽に奪われた者の無念の念が凝集し、その無念に無理解な態度が反面として現れる。
「池田小学校児童殺傷事件を始めとする精神科受診歴を有する犯罪者による悲惨な事件により、理由もなく命を落とす被害者が存在する一方で、不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実」という主張は、「池田小学校児童殺傷事件被害者として命を理不尽に奪われた多数の児童は、不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実の前では、命を奪われるべき理由があった」、言い換えれば「不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実があるため、池田小学校児童殺傷事件等の被害者は理不尽に命を奪われた、それは仕方が無い」と読める。
精神障害による不当な差別や偏見は重大な人権侵害である。そのことは間違いない。しかし、いみじくも「不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者」と人権擁護が基本的な義務であるべき、いわき病院代理人弁護士が記述したとおり「悩み」であり、「かけがえのない命を奪われる絶対の悲劇」ではない。生を保ち、生きて「不当な差別・偏見」を是正する活動などを行い、社会を改革・改善して行くことは可能である。
しかし、池田小学校児童殺傷事件で命を奪われた児童は生き返ることはあり得ない。殺人は永遠の回復不可能な人権侵害であり、精神障害者のもつ「悩み」などと比較できるものではない。生命は最も重要である。
矢野真木人は「不当な差別・偏見」の実行者ではない。殺害された池田小学校の児童の多くは命を奪われず健全に成人することができれば、彼らの多くは「不当な差別・偏見」を是正する社会活動を行っていたであろう。矢野真木人も池田小学校の児童たちも「不当な差別・偏見」を題目にして、一回しかない命を断たれる理由は全く無い。
その上で、いわき病院と渡邊医師及び、法曹資格者たるいわき病院代理人弁護士に申し上げる。
いわき病院代理人の記述は、今回の事件を他人ごとのように表現している。殺人と「不当な差別・偏見」を対比し、等値する論理は間違いである。またそのような安易な認識が、殺人や「不当な差別・偏見」を診て見ぬ振りをする不正義の根幹にあると指摘する。人権擁護を義務とする弁護士であれば、先ず、渡邊医師に主治医として純一の治療に過失を認めさせ、その結果発生した矢野真木人殺人の責任を取らせるべきである。
なお、日本における精神障害者の苦悩の現実は「不当な差別・偏見」ばかりではない、日本では精神障害者の多くが精神科病院の病棟・病室に閉じ込められてきた歴史がある。精神障害と診断されたばかりに、残る生涯を精神科病院の病棟・病室に閉じ込められ、人間として生きる希望や生きる喜びを享受する権利を奪われた人間は沢山いる。
また精神科病院に入院して例え短期間でも自由に社会活動をする権利を制限されることは個人にとって大変大きな精神的な負担と衝撃であり、精神科病院では入院患者の自殺が多いとされる。控訴人矢野が事件後にいわき病院関係者から事情聴取したところ、いわき病院でも患者の自殺は少なからず発生していると聞いた。また精神科病院では患者の自殺は「勝手に死んだ」として問題にされることがないと聞いた。
日本では精神科病院における精神科医療が人間の解放ではなく、人権の抑圧になってきた事実があり、いわき病院の純一氏に対する精神科開放医療にもその人権抑圧の要素が垣間見られるところが重大な問題である。
(6)、心神喪失者(注:等が欠落)医療観察法の適用範囲・具体的運用等の中で、精神障害者に対する処遇の程度が法的に検討されることが重要であり、そのような法的評価を通じて導かれた相当な処遇を出発点として、法的因果関係の有無が判断されるべきなのである。
本件裁判で審議されるべき本質は、いわき病院と渡邉医師の医療が、当時の精神科医療の水準に照らして適切であったか、否かが問題である。渡邊医師は医師として、いわき病院は病院として、最低限のこと(適切な薬剤処方、経過観察)すらやって来なかったことが問題であり、措置入院か任意入院かは問題ではない。
「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」は厚生労働省のホームページによれば「心神喪失者等医療観察法」と表示され「等」が挿入されており「心神喪失者医療観察法」ではない。「等」の有無はいわき病院代理人が単に表記を違えただけの問題である可能性は高いと考えている。しかし、いわき病院代理人はこれまでにも「微妙に言葉を変更する事で、問題の焦点を外したり、違えるテクニックを多用してきた経過がある」ため、単純にいわき病院代理人の表記を「心神喪失者等医療観察法」と同一と理解することも問題であり、一言付言する。
その上で、心神喪失者等医療観察法の下で、殺人事件被害者遺族となった立場から、この法律には改善すべき点が多々あると考えており、私見を申し上げる。
控訴人矢野は「心神喪失者等」として「心神喪失等の状態」を「心神喪失」から拡大的に運用する実態には問題が多いと考える。現実には「精神障害があれば幅広く心神喪失者等に認定され」、「理事弁識能力を幾ばくでも保ち、心神喪失ではない者も心神喪失者等」として幅広く「心神喪失者等医療観察法の適用」を受ける傾向があり、問題があると考える。
純一氏は「精神障害者であるので殺人しても罪は軽いはず」、また「処罰されても、せいぜい数年刑務所で過ごせば娑婆に帰ってこられる」と考えていた。このような純一氏のような「軽い気持ちで犯罪を行う」ことを心神喪失者等の認定が安易に行われることで許しているとしたら、法の適用に重大な問題がある。いわき病院代理人が事例としてあげた池田小学校児童殺傷事件の犯人宅間守(死刑執行)も「自分は精神障害者だから罪は軽い」として安易に犯罪を繰り返していたと報道された。「精神障害があれば罪は軽い」、また「精神障害者には不逮捕特権がある」という誤った認識が精神障害者の間に拡散する理由が日本の法治社会にあるとしたら、そのような状況を放置することは基本的に間違いであり、法治社会の尊厳を損なうことである。
純一氏の場合は、刑事罰が確定したため、本件民事裁判では警察や検察が捜査収集した証拠を多数参考にすることができて、それらを解析する事で、刑事事件当時には判明していなかった事実まで解明することができた。これらを基にして、被害者である素人には極めて持続困難な法廷論争を今日まで継続できた。しかしながら、仮に純一氏が「心神喪失者等医療観察法の適用」を受けていた場合には、刑法では無罪として取り扱われるため、本件裁判の控訴人(原告)は、一切の刑事裁判証拠を取得することができなかったことになる。その場合には、本件民事裁判は地裁審議の早い段階で証拠不十分により事情として棄却されていたと思われる。またその処分に控訴人(原告)は説得力ある反論手続きを行えなかったと考えている。心神喪失者等医療観察法を幅広く適用することは、殺人事件という究極の人権侵害を受けた被害者の救済の道を狭め、真実の追究を困難とする可能性が理不尽に高くなると考える。
(7)、本人の入院形態が、「自傷他害のおそれのある精神障害者」に対する社会防衛的要素の含まれる「措置入院」ではなく、自傷他害のおそれなど認められない患者本人の意思による「任意入院」である点は重要な判断要素とされるべきである。
いわき病院は院内の連絡体制が不十分で、主治医の精神科医師としての力量不足と怠慢のため、矢野真木人殺人事件には「結果予測可能性があったにもかかわらず結果予測をせず」、更に「結果回避可能があったにもかかわらず結果回避可能性を想像すらできなかった」のである。人間の大多数は善人であるが、社会の中には「精神障害の有無にかかわらず」、「健常者であるなしにかかわらず」、また「任意入院であるなしにかかわらず」、少数ではあるが自傷行為や他害行為を行う者は存在する。これは現実であり、精神医療従事者は現実に基づいた事実認識をすべきであり、自ら作り上げた理念で現実を見る眼を歪めてはならない。
いわき病院は『自傷他害のおそれなど認められない患者本人の意思による「任意入院」である点は重要な判断要素とされるべき』と主張したが間違いである。このいわき病院と渡邊医師の主張に基づけば、患者が任意入院を希望すれば自動的に自傷他害のおそれが無いと精神科医師は判断せざるを得ないことになる。精神科医師の判断が患者に左右されると主張しており、情けない限りである。「措置入院」だから自動的に自傷他害のおそれがあり、「任意入院」は自傷他害のおそれが無いという主張は間違いである。精神科医師は患者の実態と病状を診断して把握する必要がある。
(8)、被告NZが起こした本件殺人事件は、被告NZに責任能力が存在することを前提として刑事事件として正式起訴され、限定責任能力との認定のもと殺人罪と銃刀法違反の併合罪の罪責を問われ、宣告刑としては極めて思(注:重の誤植)い懲役20年(注:判決は懲役25年)という判決言渡しによって確定し、現在被告NZは刑務所に服役しているという事実は軽視されてはならない。
刑事事件の判決では、「被告純一は、本件犯行当時、その事理弁識能力や行動制御能力を欠く状態にまでは至っていないが、それらが著しく減衰していた心神耗弱の状態にあったと認定」された(高松地裁刑事裁判判決P.7)。
刑事事件で有罪になったことは、純一氏の問題であるが、事理識別能力や行動制御能力を著しく減衰させた理由には、いわき病院と渡邊医師の「治療」がある。いわき病院と渡邊医師は、薬剤処方に書かれた注意を無視して、普通は考えられない複数の向精神薬を同時に中止する処置を患者に行っただけでなく、かつ、経過観察をしないというあってはならない過失があった。純一氏は、自己の責任を有罪という形でとっているが、同時に純一氏は、いわき病院と渡邊医師によるお粗末な「治療」の被害者でもあった。
純一氏の刑罰の軽重はいわき病院と渡邊医師の医療過失とは全く連動しない問題である。いわき病院と渡邊医師は論理が混迷して、精神医療の現実を正確に理解できないことを、上記の主張が証明しているとしたら、極めて深刻な事態である。
(9)、心神喪失者(注:等が欠落)医療観察法施行下にあって、患者の精神障害から重大犯罪を起こす懸念のある触法精神障害者は、通常人と同様に単純に有罪判決を受けて刑務所医に服役という流れに乗るのではなく、鑑定入院を経て治療反応性が認められれば指定医療機関に審判入院して精神科医療を受けることになる。つまり、被告NZが医療観察法の手続きに一切乗せられなかったということは、すなわち、被告NZの本件重大犯罪は自らの自由意思により惹き起こされたものであって、被告NZの精神疾患罹患とは直接の関連性はないと法的に判断されたということになるのである。この点は、本件における因果関係のみならず注意義務違反を論ずる場合に極めて重要な要素となるところである。(注:取り消し線は判決(P.41)が引用を行わなかった部分である)
控訴人矢野は、本法廷では純一氏に対する心神喪失者等医療観察法の手続きを問題にしているのではなく、また純一を措置入院させなかったことを問題にしていない。いわき病院代理人の主張は、控訴人矢野の主張を曲解し、いわき病院で行われた「医療」の過失をから目をそらすためにこのような議論を展開している。
いわき病院代理人が主張する「心神喪失者等医療観察法の手続きに一切載せられなかったということは、すなわち、被告NZの本件重大犯罪は自らの自由意志により引き起こされた」とは言えないし、また、犯罪が、「被告NZの精神疾患と直接の関連性はないと法的に判断された」とも言えない。事理識別能力や行動制御能力が著しく低下したのは、「治療」の過失によるものであるからである。薬剤の突然の中止が、病状の悪化(激越等)をもたらした可能性は極めて高く「本件における因果関係」の基本的な事実である。また渡邊医師が経過観察を怠り適切に診察を行わなかったことが注意義務違反の本質であり、純一の犯罪を容易にし、かついわき病院と渡邊医師は結果予見可能性と結果回避可能性を持たなかったと指摘する。
なお、精神科開放医療が成果を上げれば、当然の帰結として精神障害の既往歴がある人々の社会参加が拡大する。その場合、精神障害が寛解の状態になり、寛解の状態を保っているのであり、必ずしも精神障害が完全に治癒したことにはならない可能性が高い。そのような状況で、事件や事故の原因者となった場合に、積極的に心神喪失等と認定する処分が正しい法的手段となるのであろうか?市民として社会生活を全うすることは、法的権利を尊重されることと同一である。自分に都合が良ければ法的権利を主張し、都合が悪くなれば、免責を主張するようでは、真っ当な市民として信頼性に欠けることになる。
(10)、このような判断を経て、はじめて精神科医の医学的専門的判断による医療における裁量の違法を、不法行為責任という法的制度の中で問うことができるか否かが決定されることになるのである。(注:取り消し線は判決(P.41)が引用を行わなかった部分である)
いわき病院代理人の問題は、刑事事件被告純一の患者として治療を受ける権利を無視し、他害行為を一切患者の責任とする誤った法的判断の要求論である。心神喪失者等医療観察法の議論を持ち出すことで、いわき病院と渡邊医師が行った医療事実(過失)を隠そうとする問題である。更にIG鑑定人は、このいわき病院代理人の主張に付和雷同しており、精神科医療専門家としての鑑定意見が歪められており、極めて残念な事である。
いわき病院及び渡邉医師が行った「治療」の実態が、精神科医療の技術水準、患者の 権利、市民の権利からみて、過失でなかったか否かが決定されなければならない。
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