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いわき病院控訴審答弁書に対する反論
精神障害の治療と人道及び人権
次期公開法廷(平成26年1月23日)を控えて


平成25年12月6日(矢野真木人9回忌)
矢野啓司・矢野千恵


第2、控訴審答弁書に対する反論


4、一般病院の一般の医師だから基本的な事項の過失でも責任は問われない?

いわき病院が推薦した専門家鑑定人のIG千葉大学医学部教授は「渡邊医師は大学病院の医師の水準ではない一般の精神科医師であり、いわき病院は一般の精神科病院であるので、大学病院の水準では適切でない精神科医療を行っても過失責任は問われない」という論理を展開した。これに関してIG鑑定人は鑑定意見書(I)(II)(III)で、「一般の精神医療の水準」に関して何も具体的に論じていない。特に(II)(III)の「一般の精神科病院」を論じた部分では、いわき病院の「結果予見可能性」と「結果回避可能性」に関する「法的な過失責任論」を論じたが、まるで弁護士の意見で、本件裁判で精神科大学教授に期待された、精神医学の鑑定意見とは言えない内容である。

上記のIG教授の弁護論理は国立大学医学部の教授が主張する精神医学論としてふさわしくない。また、本件裁判の鑑定団にはSD医師(現、カナダ・トロント大学医学部)、DC医師(現、英・ケンブリッジ大学医学部)等の英国人精神科医師が参加しており、国際社会から見れば、日本の精神医学会の評判を落とす材料にしかならないことを、裁判官には理解して海外の医師達の発言にも注目していただきたいところである。本件裁判を通して、日本の精神科医療が健全に発展して国際社会の信頼をより強固にすることが求められている。

控訴人矢野は矢野真木人殺人事件直後の平成18年に「渡邊医師は国立香川大学病院精神科外来担当医師をしている」という支援者からの通報を得て、香川大学病院を訪問した。精神科外来受付の診療時間の掲示板の医師名表示に「渡邊」の名前があり、受付担当者に「渡邊先生は、いわき病院の渡邊院長先生ですか?」と質問して、「そうです」と確認を取った。渡邊医師が「国立大学病院で精神科外来を担当する医師である事実」は高松地裁段階で控訴人矢野は何回も言及したが、いわき病院からは「否定」が一切ない。この場合「否定できない事実」は「渡邊医師が国立大学病院の医師である事実」を認めたことになる。

渡邊医師は精神科医療知識に乏しく、不勉強の上に患者を診ず、診察要請に応えず、その上で事件が起きても「一般病院の一般の医師だから過失責任は問われない」という論理は事実認識を間違えたIG千葉大学教授の鑑定意見である。しかしながら、IG鑑定意見の本質は「日本中全国に数多ある一般の精神病院の、何千人・何万人もの一般の精神科医師であれば、今日の情報社会にあって大学病院の水準に達しない低い水準の不適切な精神科医療を行っても、許されて、仮に失態や失敗があっても過失責任を問うことは間違っている」という論理となる。この鑑定意見は国立大学医学部教授として極めて無責任かつ不見識である。

更にIG千葉大学教授の論理は「同じ内容の医療事実で医療過誤事件が発生した場合」に「大学病院の医師は高い水準の医療が要求されるため過失責任を問われ」、他方「一般病院の医師は低い水準の医療が標準となるため過失責任が問われることがない」という論理となる。これは、社会が容認してはならない臨床医療における二重基準の主張である。更に、先端医療の発展を損ない、低水準の医療のままの劣悪な精神科医療に改善と改革を促進することがない、低位平準化を促進する鑑定意見であり、極めて不適切である。IG鑑定人の「一般病院だから許されて過失責任は問われない」は間違いである。大学病院で過失責任が問われるほどの精神科臨床医療は、社会的に許されてはならない。大学病院では過誤と判断される医療行為であれば、当然のこととして民間一般病院でも過誤であり、過失要件を構成する。IG鑑定人の「渡邊医師の純一に対する治療は大学病院では不十分」という鑑定意見は極めて重要である。

IG鑑定人が鑑定作業の過程で、渡邊医師の精神科医療の基本を無視して薬物療法の知識に錯誤がある事実に気付いて困惑したであろう事は容易に理解できる。しかし、IG鑑定人は渡邊医師の錯誤と怠慢と不作為の精神科臨床医療を容認して、それを妥当であると主張した事実は重い。IG鑑定人は本人の精神医療に対する誠実性及び学者としても良心が問われる状況があることを認識するべきである。鑑定意見書に署名押印した事実は重い。学術論文で無いから構わないという責任と名誉回避の論理はない。


5、一般人の常識感覚を持たない非常識論

いわき病院代理人は「統合失調症患者は誰もいつでも他害行為を行う危険人物であると、控訴人矢野が偏狭な認識を持って、裁判を提訴しかつ控訴しているかのような主張」を継続してきた。また「精神障害者はすべからく閉鎖病棟に閉じ込めるべきであると原告矢野が主張した」かのような弁論を行い、不幸なことに高松地裁判決はいわき病院の主張に同調した認識を示した。控訴人矢野が統合失調症患者に差別意識を持ち差別言動を行っていたら、純一氏及び控訴人NZと共にいわき病院と渡邊医師を被告(いわき病院)とする民事裁判を長期間維持することは不可能である。控訴人矢野は「いわき病院と渡邊医師が行った純一氏に対する精神科臨床医療が錯誤と怠慢及び不作為に満ちた非人道的な実態があり、純一氏はこの事件で命を失った矢野真木人と共通する立場を持つ」と確信する。この認識を基にして控訴人矢野はいわき病院と渡邊医師による精神科臨床医療事故の被害者として控訴人NZと協力関係を維持してきた。

いわき病院と渡邊医師が主張した「任意入院患者であるから自傷他害の危険性は考えられない」とした主張は「一般人の常識感覚を持たない非常識」である。また精神科専門医として資質の欠如が疑われる。この様な現実と実態を見ない非常識論を振り回すからこそ「入院患者純一氏の病状変化を観察せず、入院患者の苦しみを放置して顧みない精神科臨床医療を行い、入院患者の病状の悪化を見過ごす医療を行う結果になった」のである。精神障害者は半人前の人権で放置されて良いのではない。精神障害者といえども、また統合失調症に罹患しているとしても、真っ当で十全な人権が保障される精神科医療が約束されなければならない。純一氏の悲劇は、主治医の渡邊医師から適切な経過観察を行ってもらえず、必要な医療的保護を受けられず、精神障害で入院した患者として任意入院を理由にして患者として人権無視をされたところにある。更に、一度殺人事件という重大犯罪を行った後では、任意入院していたことを理由にして全てを純一氏本人の自由意志による責任として、いわき病院と渡邊医師が精神科入院医療で錯誤及び怠慢と不作為があった責任から逃げている事実である。

純一氏は放火他害履歴がある慢性統合失調症患者であった。純一氏は任意入院したので、他害行為を行う可能性が全く無かったのではない。本人は「再発時に一大事が起こった」(平成17年2月14日、4月27日カルテ)と自ら抑えきれない衝動があり得ることを認識していた。いわき病院と渡邊医師は純一氏に精神科開放医療を推進する精神科医療機関及び精神医療専門医として、純一氏が善良なる社会人として社会参加を達成する医療条件を見つけ出し確定する精神科医療を行う責任を有していた。いわき病院と渡邊医師は、非常識な論理を振りかざして、純一氏に対する医療で、精神薬理学的に錯誤があった。渡邊医師は、経過観察と医療及び看護で怠慢と不作為を行い、精神科専門病院としてまた精神医療専門医として認定され、かつ国立大学医学部付属病院で外来担当医師を恒常的に行うことを認められていた精神科専門医師として、純一氏が怖れていた「再発時の一大事」が発生する可能性を抑制する努力を行わなかったところに重大な過失責任が存在する。


6、前方視的判断と後出しジャンケンの論理

高松地裁判決(P.116)は「(8)小括 当時の医療水準を前提とした前方視的判断として、被告病院、被告渡邊に治療上の過失、看護監督義務違反の過失があったとは認められない。」と判決した。しかし、この「前方視的判断」という地裁判決論理は基本的に間違っている。高松地裁判決がいわき病院の後出しジャンケン論を容認したことは、精神医療裁判の論理として甚だしい錯誤である。


(1)、プロスペクティブ(前方視)とレトロスペクティブ(後方視)の論理
  いわき病院はプロスペクティブ(前方視)及びレトロスペクティブ(後方視)という用語を持ちだして、「プロスペクティブ(前方視)な立場で医療を行っている精神科医師と精神科医療機関にレトロスペクティブ(後方視)の非難を浴びせる控訴人(原告)の主張は適切ではない」と主張してきた経緯がある。

上記は日本語に取り入れられてないカタカナ用語で理解困難であるが、「精神科医師は医療現場で、患者の病状の変化を予想して多数の医学的選択肢からその時点までの情報を基にして考えられるの最善の方式を選択して治療を行っている。未来は確実性を持って予見できるものではない、従って不幸な結果となる事態は、時には発生し得ることである。この様な医療行為に徒に過失責任を負わせることは、医師の医療行為を萎縮させて、精神医療の健全な発展を損なうことに繋がる」、他方「控訴人(原告)の行為は、発生した結果から過去に遡る視点であり、結果から一直線に医療行為事実を遡り、断定的に過去の医療行為に過失があったと主張するが、これは間違った論理である。医療現場では『後医は名医』という言葉がある。結果を知った後や、前医が失敗した後であれば選択肢は既に限定的となっており、より有効な治療的選択を主張することが可能となる、従って容易に『後医は名医』となる。原告の主張は事後から過去を展望した断定論理であり、『後出しジャンケン』の卑劣な要素を指摘できる」という解釈を原告矢野は精神科医師から教えられた。

原告矢野は「純一氏による矢野真木人刺殺」という深刻な事実から本件に携わってきた。従って「矢野真木人死亡の原因」を追求することは、矢野真木人の人権回復を願う両親としての権利である。原因追及はレトロスペクティブ(後方視)な行為であり不適切であるとか、「後出しジャンケン」であり卑劣であると非難される筋合いはない。全て事件事故は、事実が発生した後で過去に遡って原因解明を行うことで、将来の新たに同様の不幸な事件事故が発生する可能性の芽を抑制・削減できるのである。矢野真木人殺人事件は社会的にも重大な事件であり、市民は街頭で理由もなく生命を奪われてはならないのである。その原因究明を行う行為を「後方視的判断(後出しジャンケン)」と非難することは何人も行ってはならないと確信する。

上記の「後方視的判断(レトロスペクティブ:後出しジャンケン)」非難は精神医療専門家が用いることがある、原因究明を阻止するための論理である。「後出しジャンケン」と指摘されると、殺人事件被害者の立場の控訴人矢野も「え?」と一瞬怯んだ。この「怯み」は、控訴人代理人であれ、裁判官であれ、「自らの行為が正当であるか否かを自問」して等しく覚える「怯み」だと理解する。しかし精神医療専門家が多用する「後方視的判断(レトロスペクティブ:後出しジャンケン)」の言葉は、自らの職能の特権的立場を守るための「心理作戦」と考えることが正しい。精神科医療の現場でも、殺人事件のような重大事件が発生した場合には、事件が発生した時点から過去に事実をたどる原因究明の作業は行われなければならない。それは専門分野に関係しない、正確に原因究明を行う常道である。

いわき病院の論理に従って、渡邊医師の純一氏に対する精神科臨床医療を平成17年11月23日からプロスペクティブ(前方視的判断)で述べれば以下の通りとなる。渡邊医師は処方変更を導入した翌日の11月24日から12月7日までの14日で、診察したのは11月30日のみであった。渡邊医師がプロスペクティブ(前方視的判断)で、複数の向精神薬の中止に伴う病状の変化を予想して積極的に純一氏の病状改善に立ち向かっていた兆候や証拠は何処にもない。従って、いわき病院と渡邊医師が控訴人(原告)矢野を「レトロスペクティブ(後方視判断)」の問題提起と批判する事はできない。渡邊医師は前方視的判断を行っていなかった。

そもそも、渡邊医師は複数の向精神薬中止後の純一氏の病状変化に無関心であった。前方視的判断を行わず、患者の病状の変化に無関心な精神科臨床医療の結果、純一氏に強烈な他害衝動である殺人行動を誘発したことに気付かず、治療的介入を行うこともなく、殺人事件を未然に防止することが可能であるにもかかわらず、対応を何も取らなかったのであり、重大な過失が存在する。

  1. 平成17年11月22日以前
    渡邊医師は純一氏のしつこいイライラ・ムズムズ(アカシジア)治療で混迷していた。そして原因を心気的もしくは向精神薬と考えて、プロピタン、パキシル及びドプスを一挙に中止することにした。同時に、アキネトンを生理食塩水代えるプラセボテストの導入を行う薬物処方を決めた。
    薬剤を一つ一つ徐々に中止してゆく段階を踏むことは考えず、プロピタンに代えて他の抗精神病薬を維持投与することも考えず、抗精神病薬をいつまで中止するかも考えなかった。また処方変更後に第2病棟カンファレンスで看護師等のスタッフに純一氏の向精神薬を中止する治療変更計画を説明して対応方針を指示することもなかった。
    この時点で、渡邊医師は重度の強迫性障害を伴う慢性統合失調症患者の純一氏に抗精神病薬(プロピタンに限らない)維持療法を中止する事実を軽く考え、パキシルを突然中止することに関連した情報を確認していない。薬剤師は平成17年11月2日に渡邊医師の判断に注文を付ける薬剤管理指導報告を記録した後、純一氏の薬事処方に関するいかなる記録も残しておらず、11月23日からの複数の向精神薬の処方変更を実行した時には、渡邊医師に協力していないことは明らかである。更に渡邊医師は複数の向精神薬を中止することに関連して本人及び両親に説明せず、理解と同意を得ることがなかった。

  2. 平成17年11月23日(水)(休日:勤労感謝の日)
    プロピタン、パキシル及びドプスを一挙に中止したが、患者純一氏には「薬を整理しましょう」とだけ説明した。病棟職員には処方変更を行った事実を告げる必要性を考えることはなかった。(なお、緊急事態でもないのに、勤務体制が手薄な祝日から複数の向精神薬の中止という重大な処方変更を実行したことは、渡邊医師の病院内の情報共有のあり方に関する認識不足を示すものである。)

  3. 平成17年11月24日(木)〜29日(火)
    複数の向精神薬を中止した処方を知らされず患者観察の重要事項を指示されていない看護師、作業療法士等の報告から、渡邊医師は純一氏の病状が比較的に安定していることを認識した。渡邊医師は、自ら患者の病状変化を診察して確認すること無く、「純一氏に対する処方中止が成功した」と考えて慢心した可能性が指摘できる。

  4. 平成17年11月29日(火)〜30日(水)純一氏一時帰宅

  5. 平成17年11月30日(水)15:15 純一氏帰院
    19時、渡邊医師は純一氏を診察して、「患者 ムズムズ訴えが強い、退院し、1人で生活には注射ができないと困難である、心気的訴えも考えられるため ムズムズ時 生食1ml 1×筋注とする、クーラー等への本人なりの異常体験(人の声、歌)等の症状はいつもと同じである」とカルテに記載した。
    (渡邊医師がカルテに記録した最後の診察事実)
    渡邊医師は、純一氏のアカシジア(ムズムズ)が改善していないことに気付いたが、向精神薬を中止した事実を知らない看護師や作業療法士の報告などを参考にして、「処方変更の効果があった」と判断した可能性がある。
    (処方中止は成功したと誤解して、気が緩んだ可能性が推察できる)

  6. 平成17年12月1日(木)
    午前2:40時(渡邊医師が診察した同じ夜のことである) イライラ時の頓服、20:10時イライラ時の頓服、21:20 プラセボ筋肉注射(第1回目)実施。(純一氏にアカシジア状況悪化の兆候が強く現れた)

  7. 平成17年12月2日(金)
    12時の「プラセボ効果あり」の看護師報告を信頼したが、その後渡邊医師自身はプラセボ効果を確定診察してない。純一氏は15時からイライラ(アカシジア)で苦しみ始めた。 
    渡邊医師はスタッフからの「状況改善」という心地良く断片的な報告を信じるが、同時に記載された「手足の振戦などの悪情報」を無視する傾向が認められる。
    10:00 定時の記録がない  
    11:00 生食1ml 1A筋注 「内服薬が変わってから調子悪いなあ…、院長先生が『薬を整理しましょう』と言って一方的に決めたんや」四肢の不随意運動出現にて、本人希望もあり(アキネトン筋注の代わりに)左記施行する。苦笑しながら上記話す。夜間は良眠できているとのこと。
    12:00   「ああ、めちゃくちゃ良く効きました」筋注の効果あったと表情よく話す。プラセボ効果あり。
    15:30 イライラ時 1包 「手と足が動くんです」
    23:30 イライラ時 1包 本人希望にて与薬

  8. 平成17年12月3日(土)
    渡邊医師は「この日(夜19時から)診察した」と主張し、IG鑑定人は朝10時前に診察したとして鑑定意見を書いたが、診療録には診察した事実の記載が無い。(地裁判決は11月30日の記録を基にして診察が行われたと誤認した。)
    純一氏は朝から「調子が悪い」と訴え、イライラ時及びアキネトン(いわき病院は生食筋注を行った)を要求した。「この日が断薬による病状悪化が顕著になった転換点」と指摘した精神科医師が複数いる。
    判決(P.115)は、渡邊医師が自ら筋肉注射をしたと認定した(控訴答審弁書P.26にある通り、認定の間違い)が、「患者を直接観察・診察して、病状悪化に気付かなかった」としたら、精神科医師として見識と技量が問われる。

  9. 平成17年12月4日(日)
    純一氏は深夜(0時)からアカシジアで苦しんだ。高松地裁判決は日曜日の昼12時に施行したプラセボ筋注を渡邊医師が行ったとして、渡邊医師が経過観察を行った事実としたが、渡邊医師は控訴審答弁書(P.26)(同上)で否定した。この日の筋注時に、純一氏はアキネトン注射が本物でないことを疑っており、IG鑑定人もプラセボ効果はないことを認めた。仮に、この日渡邊医師が純一氏を診察していたとしても、プラセボ効果判定を行わず、病状の悪化に気付かなかったのであるから、精神科専門医として診察能力が欠如していることを証明する。

  10. 平成17年12月5日(月)
    純一氏は、しんどさを訴えて、(向精神薬中止の観察指示を受けていない)看護師は風邪気味と考えて、風邪薬の屯服を投与した。MO医師がレセプト承認したが、これに対して原告矢野は「MO医師は診察していない」と指摘し続けた。いわき病院は8年間の裁判を通して、「MO医師が実際に診察した」と一回も主張・反論していない。(IG鑑定人が錯誤して「12月5日、MO医師診察」と記述した事実はある(IG意見書I))が、いわき病院が自ら「12月5日にMO医師が診察した」と記述した主張は一切ない)。8年間を通していわき病院は「根性焼きは医師・看護師が病院内で誰も見なかったから無かった」と一貫して主張してきた。12月5日にMO医師が診察していたら、12月5日に根性焼きがあったか無かったかMO医師の言葉としてはっきり言及できるはずであるが、何の言及もない。これはMO医師が診察しなかった証拠である。(なお、現時点で、MO医師が診察したという言葉が飛び出せば、尋問などを行い本人から直接的に確認する必要があることを指摘する。)この日も渡邊医師は診察していない。

  11. 平成17年12月6日(火)
    朝10時に純一氏は渡邊医師の診察を要請したが、外来診察中の渡邊医師は診察拒否をした。同時に「後で診察するから待て」というメッセージを純一氏に伝えていない。純一氏は「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるんやけど、咽の痛みと頭痛が続いとんや」と落胆と恨みの声をあげた。
    12時10分に純一氏は外出許可を得て外出して、12時24分に矢野真木人を刺殺して、13時には帰院して自室でふて寝していた。外来診察終了後の渡邊医師は純一氏を診察していない。

  12. 平成17年12月7日(水)
    純一氏は前日夕食と朝食を摂取せずに自室にいたが、渡邊医師は診察していない。純一氏は14時に事件時と同じ返り血を浴びた服装で外出許可を得て外出して、14時30分に警察に身柄を拘束された。
    純一氏は6日午後から7日外出までいわき病院内に約25時間いたが、いわき病院の看護師も医師も誰も純一氏の顔面を観察しなかったと見えて、顔面左頬の根性焼きを発見していない。

(2)、平成17年当時と現在(平成25年)の医療水準の違いという後出しジャンケン
  いわき病院が推薦したIG千葉大学医学部教授は「現在の医療水準で不適切・不適当な医療でも、平成17年当時の医療水準では過失とは言えない」という論理でいわき病院と渡邊医師を弁護する鑑定意見書を提出した。

IG鑑定人からは、平成17年当時と現在で、精神医療の何がどのように異なるかに関しては一切の説明がない。要するに、いわき病院が推薦した国立大学医学部の大学教授がその学識と権威を基にして「平成17年と現在の医療水準は異なる」と鑑定したから「異なるのだ」という客観性が何処にもない暴論である。

この様な弁論が通用するのであれば、精神医療裁判では裁判期間を引き延ばしに引き延ばして、やおら「当時と現在では医療水準が異なるので、過失責任を問えない」と鑑定意見書を提出すれば、全ての過失責任が解消することになり、極めて安易である。この専門家鑑定意見書は正に「後方視(レトロスペクティブ)的対応:後出しジャンケン」そのものである。


(3)、インタビューフォームと重篤副作用疾患別対応マニュアルという証拠
  いわき病院代理人は控訴審答弁書(平成25年10月1日付け)で、純一氏が苦しんでいたアカシジア対策として、パキシルの中止に関連して「パキシルインタビューフォーム」(2011年8月:平成23年8月)を参考文献として提出し、プロピタンの中止に関しては「プロピタンインタビューフォーム」(2013年2月:平成23年2月)を提出し、アカシジア対策の説明の根拠として「重篤副作用疾患別対応マニュアル」(平成17年度から各疾患4年計画の事業で、アカシジアが作成されたのは平成22年3月)を提出した。

渡邊医師が複数の向精神薬を中止した処方変更は平成17年11月23日に実施されたが、渡邊医師は純一氏のアカシジア治療の指針を平成22年3月刊行の重篤副作用疾患別対応マニュアル(アカシジア)に基づくと主張することは後出しジャンケン的対応である。パキシルインタビューフォーム(2011年8月)もプロピタンインタビューフォーム(2013年2月)など「証拠提出した版」は事件当時の平成17年12月6日当時には存在していなかった証拠文献である。仮に後出しジャンケンであったとしても、その主張が精神医学的に正しければ、なにがしかの弁明理由となる。しかし、いわき病院の解釈は重箱の隅をつついた無理なこじつけであり、双方のインタビューフォームの記述を正確に理解したものではない。いわき病院の不正確な理解と解釈論は、いわき病院が行った精神薬理学上の錯誤を証明する。

事件当時には、パキシル・インタビューフォーム2003年(平成13年)8月第7版)、及びパキシル添付文書2005年(平成17年)6月改訂第7版(及び2003年(平成15年)8月改訂第5版、2004年8月改訂第6版)が存在したが、そのパキシル突然中断の危険性に関する記載内容も、パキシル・インタビューフォーム(2011年8月)と変化はない。


(4)、一般病院の一般の医師という根拠
  いわき病院が推薦したIG千葉大学医学部教授は「渡邊医師は一般病院の一般の医師」という基準を設けて「大学病院の医師であれば不適切な精神科医療であっても、一般病院の一般の医師であれば、過失責任は問われない」という鑑定意見書を提出した。この弁明の目的意識だけの後方視(レトロスペクティブ)的対応で、非常識な過失責任免責論は本質的に「後出しジャンケンによる免責論」と同質である。

そもそもIG鑑定人は「一般病院」とはどのような病院か、また「一般の医師」とはどのような医師か定義をしていない。「一般の病院とは大学病院以外の全ての病院」であるならば、日本では、大学病院では不適切で過失性がある精神科臨床医療を普通の病院が行っていることになる。これでは日本の精神医療に適切な治療を期待することはできない。

また、「一般の医師とは大学病院に在籍しない全ての医師である」とするならば日本の精神科大学教育とは何か、また精神科医療水準はどのようにして維持されるか甚だしい疑問が生じることになる、IG鑑定意見はいわき病院と渡邊医師を免責することだけを目的とした不適切な意見(暴論且つ謬論)である。

その上で、付記すれば、渡邊医師は国立香川大学医学部付属病院精神科外来担当医師を兼任していたのであり、外見的には大学病院水準であるべき医師であった。しかし現実には大学病院の水準の医師とするには不適切な力量に欠ける医師が大学病院で治療に当たっていたのである。IG鑑定人のような精神科二重水準(ダブルスタンダード)の主張は許されない。また、日本の精神医学の尊厳を損なう鑑定意見である。



   
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