いわき病院控訴審答弁書に対する反論
精神障害の治療と人道及び人権 次期公開法廷(平成26年1月23日)を控えて
平成25年12月6日(矢野真木人9回忌)
矢野啓司・矢野千恵
第1、いわき病院と渡邊医師の過失
6、控訴人(原告)は証明できていないといういわき病院の主張
いわき病院代理人の常套句は「控訴人は未だ証明できていない」である。この言葉は、「控訴人の主張は決定的ではなく、事情でしかない、従って過失責任を認定できるレベルではない」という主張であるが、裁判官に対する間違った誘導である。
(1)、高度の蓋然性を証明できる証拠?
いわき病院代理人は地裁審議の過程で「AならばB」または「AなければBなし」という素朴に過ぎる科学的と称した論理、及び統計的概念を持ち込む場合の論理として「80〜90%以上の高度の蓋然性」という主張を行った事実がある。「AならばB」または「AなければBなし」の論理は「1対1対応の成立」であり、「100%の結果でなければならない」と言う意味である。要約すれば「原因に対する結果は100%確定的でなければならない、低くてもせいぜい80〜90%以上の高度の蓋然性が求められる」の意味となる。
(2)、渡邊医師の低い医療水準
ところで、いわき病院で渡邊医師が純一氏に行った医療は「100%確実でないとしても、80〜90%以上の確実性」を達成した医療であったのだろうか?渡邊医師は純一氏の主治医に平成17年2月14日に就任後に重度の強迫性障害を有する慢性統合症の患者に対して抗精神病薬の処方を「リスパダール(前医の処方)→2月16日トロペロン→2月24日リスパダール(SZ医師処方)→3月1日リスパダール+レボトミン→3月4日コントミン+リスパダール→3月29日コントミン+プロピタン→7月25日コントミン+プロピタン+リスパダール(純一氏の強いリスパダール要請により、単剤処方ではなく大量投与に懲罰的にリスパダールを追加して過剰投薬をした)→7月29日コントミン+プロピタン(純一氏は苦しみリスパダールを諦めた)→8月4日プロピタン+セロクエル(同じく過剰投与して苦しめた)→8月9日プロピタン→11月23日抗精神病薬中止→12月7日プロピタン」と変化した。
この間に純一氏の統合失調症病状は2月14日に前医のLS医師が「Stable(安定)」と診断していた状況から不安定化/悪化し、アカシジアの症状も顕著となり悪化した。渡邊医師は「アカシジア対策で11月23日から抗精神病薬の処方を中止した」ほどである。渡邊医師は抗精神病薬を5剤(トロペロン、レボトミン、コントミン、プロピタン、セロクエル)処方したが、純一氏の病状を改善していない。即ち、渡邊医師の統合失調症治療は「80〜90%以上の確実性で病状を改善する水準」であるどころか、「抗精神病薬の処方で混迷して治療効果を上げることができない極めて低い水準であった」と結論づけられる。
パキシル(抗うつ剤)を突然中止された純一氏は強迫症状が改善するどころか、悪化した。またアカシジア緩和薬アキネトンを生理食塩水に代えたプラセボテストが無効であったことはIG鑑定人すらも認めたところであり、渡邊医師の向精神薬処方変更による治療の確実性は全く無かったと言って良い。このようないわき病院及び渡邊医師の精神科臨床の低い治療水準という事実があるにもかかわらず、控訴人には「80〜90%以上の高度の蓋然性(確実性)」を過失証明の条件とすることは非論理的である。即ち、極めて水準が低く錯誤と怠慢と不作為がある精神科臨床医療を容認するが、その医療の問題を指摘する意見は、80〜90%以上の高度の蓋然性(確実性)が無いとして排除する結果となり誤りである。本裁判で「80〜90%以上の高度の蓋然性(確実性)」を条件とすることは現実性が伴っていない。自らは医師の裁量権を盾にして根拠に乏しい医療を行うが、その過失性を問われた際には、「80〜90%以上の確実性」を請求する事は論理的整合性がない二重基準である。いわき病院と渡邊医師の過失は「論理的整合性」により演繹的な手法で証明・確認されることが正しい判断である。
(3)、薬剤は安全性と薬効で承認された筈
いわき病院代理人は個別の薬事処方の議論をし、高松地裁は向精神薬の問題を個別に検討して過失がないと判決した。そもそも、プロピタン(抗精神病薬)が中止により80〜90%以上の高度の蓋然性で等しく全ての統合失調症患者に殺人事件を発生させる薬剤であるならば、その危険性故に承認される筈がない。またパキシル(抗うつ薬)が継続投与や中止により80〜90%以上の高度の蓋然性で等しく全ての統合失調症患者に殺人事件を発生させる薬剤であるならば、その危険性故に承認される筈がない。いわき病院の主張は社会的現実性を伴わない「無茶な」極論である。プロピタンとパキシルには薬理学上認定された薬効があり、処方上の注意を守っておれば安全性が確保されるため精神科医療で使用することが容認されているものである。これらの薬剤を個別に論じても、80〜90%以上の高度の蓋然性で等しく全ての統合失調症患者に殺人事件を発生させる薬剤という結論に達するはずがない。
(4)、反社会的な命題
そもそも本件裁判でいわき病院代理人が第11準備書面で言い始めた「80〜90%以上の高度の蓋然性」とは、「いわき病院の医療で純一氏が矢野真木人を殺害する確率が80〜90%以上であることを証明せよ」という、非現実的かつ広範な殺人事件の発生を容認することを前提とする反社会的な命題である。いわき病院代理人が言い始めた「80〜90%以上の高度の蓋然性」の概念は、統計学的な論理的背景を持たず、医学という自然科学的な事実(エビデンス)の裏付けがない、思いつきで行った控訴人(原告)に対する要求である。
なお、純一氏が見ず知らずの矢野真木人を特定して殺人する確率を80〜90%以上の高度の蓋然性で証明することが可能であるならば、矢野真木人も自らの生命に危険が迫っている高度の危険性を事前に察知可能な筈である。その場合、矢野真木人は生存するべく対策を講じて逃れるはずで、結果として純一氏の殺人行動は失敗することになる。矢野真木人は危険に身をさらすことを好む人間ではなかった。
(5)、常識ではあり得ない渡邊医師の精神科臨床医療
渡邊医師が殺人事件という極めて危険な状況を発生させるに至った状況は、精神科臨床医療では常識としてあり得ない一連の錯誤と不作為が原因であった。
渡邊医師は任意入院患者であるとして純一氏の放火暴行履歴を掌握する事がなかったが、精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例である。渡邊医師は放火暴行履歴がある慢性統合失調症の患者に抗精神病薬維持療法を無期限中止したが、離脱症状や精神症状の悪化(行動の障害、思考の歪曲)出現が予想され、精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例である。渡邊医師は抗精神病薬の中止と同時に禁断症状が激しく出るパキシル(抗うつ薬)を突然中止したが、複数の向精神薬の同時中止は精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例であり、かつ「やってはならない」と注意喚起されていたパキシル突然中止も精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例である。
更に、渡邊医師は複数の向精神薬の突然中止とプラセボテストを実行した後で看護師に変更内容と注意事項を伝えずに観察と判断を任せて自ら効果判定をしなかったが、精神科医が経過観察を行わない医療は精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例である。その上で、重要な時期になる患者の病状の変化を診察せず観察も治療的介入もしていない、これも精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例である。事件前の純一氏には「精神科臨床としてはあり得ないほどの極めて珍しい事例」が幾重にも重なっていた。事例としては、100件に1件どころか、1万件以上の事例でも1件あるとは考えられないほどの珍しい状況に純一氏は置かれていた。これは全て不誠実で合理性のない精神科医療を純一氏に行った渡邊医師の錯誤と怠慢と不作為の結果である。ここに、主治医で病院長渡邊医師の過失責任が存在する。
(6)、高度の蓋然性を証明できる統計的手法
純一氏が置かれていた極めて珍しい状況から発生した殺人事件は、全ての精神障害者全体もしくは全ての統合失調症患者を母集団とすれば、統計的に80〜90%以上の高度の蓋然性という結論はあり得ない。しかし、純一氏が置かれていた状況と極めて似通った事例だけを集めることが可能であれば、その母集団は日本全国で集計しても数十人〜数百人程度の極めて珍しい集団となり、殺人事件や重大な他害行為の発生率は、80〜90%以上の高度の蓋然性と言っても良い程度の高い比率となるであろう。
現実に日本では精神障害者による殺人事件は年間で百数十件程度発生している。その内容も病院内の事件が多く、病院の外の街頭における不特定の他者の対する殺人は少ないとされる。しかしこれらの事件の背景を精神臨床医学および社会科学の視点から解析すれば、純一氏がいわき病院で経験した医療実態と通じるものを発見する可能性があると考えられる。それは精神医学会もしくは精神病理に関係する公権力等のみが行えることである。そしてそれに基づく知見が得られるならば、日本の精神科開放医療は大きく前進し精神障害者の社会参加の扉は大きく開かれるであろう、また不幸な事件の発生を削減することにも繋がるであろう。
(7)、不勉強で不真面目という本質
事件の本質は渡邊医師の精神医学基礎知識の欠如、及び向精神薬の添付文書を読まない不勉強と怠慢、複数の向精神薬の突然中止を同時に行う無謀な医療、処方変更と観察注意事項を病棟看護師に伝えない不作為、複数の向精神薬を突然中止した後で適切な経過観察を行わない怠慢と不誠実、及び患者の病状変化に対応した治療的介入を行わず外出許可を見直さない精神科臨床医療の不作為である。
この様な不真面目で「無い無い尽くし」の事例は極めて珍しいのである。この様な常軌を逸脱した異例の医療は統計を取りようがない。またこんな馬鹿なことをする精神保健指定医、ましてや病院長でかつ国立大学病院で精神科外来を兼任する精神科専門医は、日本中いや世界中を探してもいる筈がない。いや、これほどお粗末な事例は渡邊医師だけであって欲しいものである。「渡邊医師は一般病院の一般の医師であるので影響が大きすぎる」として過失認定を避ける理由とすることは、渡邊医師が純一氏に対して行った錯誤と怠慢と不作為の精神科医療を普及してしまう結果に至る可能性を懸念する。
いわき病院と渡邊医師の過失の証明は、精神障害者全員もしくは統合失調症患者全員を母集団とした統計的な80〜90%以上の高度の蓋然性で証明されるのではない。論理的整合性と演繹的に結果を導くことで過失があったことが証明されるのである。
いわき病院代理人は「控訴人は証明できていない」と言い続けるであろう。しかし、そのようなあり得ない事実を証明しろと主張する非現実的な論理に惑わされてはならない。いわき病院代理人の主張は「お月様、とってくれろと、泣く子かな」の類の荒唐無稽な主張である。
7、純一氏が社会参加できた可能性
平成16年10月から平成17年12月までの純一氏がいわき病院に入院していた頃の時期を念頭に置いて純一氏の社会参加の可能性を想定してみる。
(1)、ささやかな願い
純一氏は、いわき病院に任意入院して精神科開放医療を受けることを希望したのであり、精神障害者として社会生活を行う中で人生を全うする道を希望していたものと推定することができる。重度の強迫性障害を有する慢性統合失調症の患者である純一氏には良い意味の拘りがあり、自分に処方された向精神薬に関心が高く、自ら納得した抗精神病薬などの薬剤を毎日きちんと服用する大切さを認識していた。純一氏は慢性統合失調症であるが、自己認識はしっかりしており、許可された毎日の外出ではショッピングセンターに出向いて小さな買い物をして大判焼きを食するなど、それなりに満足感がある外出行動を行っていた。平成17年2月の時点では、リスパダールの抗精神病薬の投与で「Stable:安定」と前主治医がカルテに記載したほど順調に病状が改善して安定した状態であった。
(2)、病気が再発するのはいやだ!
純一氏には20年以上継続した放火暴行履歴がある。本人も「25才時、一大事(平成17年2月14日)」また「再発時に突然一大事が起こった(平成17年4月27日)」等と自己申告しており、ことの重大性と再び行ってはならないという禁忌の認識、病状の変化特に再発時という言葉で象徴される離脱時の問題に対する認識などを有していた。純一氏には「自分は社会生活を維持したい、そのためには一大事を起こしてはならない」という強い意識があったと考えられる。
純一氏の他害行為は、女性に対するあこがれと、その女性に相応しい相手になれない自らを認識する惨めな気持ち、更に、社会で溌剌として活躍している男性に対する羨望と、十全な社会生活を行えない自らの状況認識など、があると思われる。純一氏は統合失調症の病気がない自分に対する希求、社会人として仕事をして愛する妻と共に歩む人生などにあこがれがあると思われる。しかし現実の純一氏は仕事を全うすることができず、目の前の女性には無視される惨めな気持ちを持ち続けていたのではないかと想像される。そのような気持ちが強い時に、たまたま向精神薬の処方と服薬に問題があるなど、再発時の病状を自ら認識できるような状況で、他害行為を繰り返した可能性が高いと推察されるところがある。純一氏には向上心があるが、自らの統合失調症の病気のため達成感や充実感を持てない惨めさを認識し続けていたのであろう。
(3)、小さな幸せ
純一氏は社会参加を行い、統合失調症の病気がある中でも小さな生活、小さな幸せを見つけることは可能だったと思われる。それを可能にする原動力は、病気治療のため向精神薬を飲み続けるという強い認識である。また統合失調症の病気を再発して一大事を起こしてはならないという自己規制である。このため、純一氏が理解して納得する治療が期待されていた。純一氏は自らを尊重してもらいたい人間であり、自意識にも強いものがある。
純一氏はショッピングセンターの大判焼き屋が大好きだった。この店は夏にはアイスクリームを売り、冬には大判焼きを売っている。純一氏より年上の夫婦が行っているささやかな茶店である。純一氏はこのような愛のある生活が羨ましかったのではないかと思われる。いわき病院から毎日のように出かけ、微笑んでくれる店の女房からアイスクリームや大判焼きを購入して、口にいっぱいにしてほおばることが至宝の楽しみだったのではないか。もしかしたら大判焼き屋の亭主の生活を夢見ていたかも知れない。自分にも手が届きそうな、手が届くかも知れない、愛と潤いのある現実にあこがれたであろう、純一氏のほほえましい姿が想像できる。
(4)、壊れていく悲しみ
平成17年11月23日以降の純一氏は「壊れていく自分」また「壊されていく自分」の認識があったのではないかと思われる。11月22日には作業療法(集団ミーティング)で「表情穏やかに参加されている。いつものように他者との交流は少なく、受身的な参加という状態ではあるもの、集団内に身をおくことには慣れてきたようで、以前のような集団から離れて座ることが減っている。希望の活動としては、散歩をあげている。発語は少ないものの、以前に比べると滑らかな口調、やわらかい表情での表出が増えた印象」と報告されていた。しかしその日も「イライラするので、アキネトンして下さい」と筋注を要求していた。そして複数の向精神薬を処方変更された後の11月25日には一時的に病状が回復して「カマグは調整して飲んでいる。他のはきちんと飲んでいます。薬が変わって、手が動かなくなって、ムズムズが無くなった。幻聴は続いている」と述べた。そして「表情良く売店で購入したマシュマロを食べている。四肢不随意運動無し、幻聴の内容は言わない。幻聴続いているが、支配されている様子なし」と看護師が観察した。
平成17年11月30日は渡邊医師の抗精神病薬中止後の最初で最後の診察で「患者、ムズムズ訴えが強い、退院し、1人で生活には注射ができないと困難である、心気的訴えも考えられるため ムズムズ時 生食1ml 1×筋注とする、クーラー等への本人なりの異常体験(人の声、歌)等の症状はいつもと同じである」と診療録に記載した。しかし、その夜から純一氏は身体の異常を訴え始めた。12月1日の朝10時に「夕の薬の切れたら、下肢がムズムズしてたまらんかった、まあ、寝たは寝たんやけど、朝になって朝の薬飲んだら、すぐよくなって、日中はどうもないんや〜」と看護記録にある。翌12月2日には「内服薬が変わってから調子悪いなあ…、院長先生が『薬を整理しましょう』と言って一方的に決めたんや、四肢の不随意運動出現にて、本人希望もあり(アキネトン筋注の代わりに生食1ml)施行する。苦笑しながら上記話す。夜間は良眠できているとのこと」と、渡邊医師の処方変更に対する不満を述べていた。12月3日と4日には手足のムズムズや振戦を訴え続けた。そして4日12時には『「アキネトン打って下さい、調子が悪いんです」表情硬く「アキネトンやろー」と確かめる』とプラセボテストを疑った。12月5日には「『少ししんどいです。足と手も動くんです。』四肢の不随意運動の訴えあり、自床にて経過、他患との交流無く、時々ホールでタバコを吸っている。本人風邪との訴えあり、薬出しの要求あり」と看護記録にあるが、主治医の渡邊医師は病状の変化に対応した診察をしていない。
12月6日の朝10時に純一氏は主治医の診察を要請したが、渡邊医師は拒否して、自ら患者の診察をせずに「咽の痛みがあるが、前回と同じ症状なので様子を見る(看護師より)」と診療録に記載した。同時刻に「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるんやけど、咽の痛みと頭痛が続いとんや」という純一氏の怨嗟の言葉が看護記録に記載されていた。
(5)、悲しい運命
純一氏は自らの保全を渡邊医師等の他人に依存する無力な立場にあった。精神障害を罹患した患者に対して絶対的に強い立場にある精神科医師が患者を無視する行為を繰り返した場合の落胆は非常に大きなものがあったと推察される。特に、純一氏のように自意識が強い人物の場合は尚更であろう。純一氏が社会参加を行う可能性を25年間停止される結果になったことは、本人の為にも極めて残念な事である。
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