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高松地方裁判所判決の項目別問題点


平成25年5月14日
矢野啓司・矢野千恵


2. 「渡邊医師が12月4日に生食筋注した」という無理なこじつけ


(1)、判決のこじつけ:12月4日に渡邊医師は経過観察していない

判決(P.114−115)は「イ 本件犯行当日の外出許可の点について」の「(ウ)診療看護について」という、重要な課題と思われないところで、極めて重要な意見を述べた。

判決(P.115)は「渡邊朋之医師は、同年12月4日に、野津純一氏からアキネトンの筋肉注射を求められた際に、生理食塩水の筋肉注射しか行っていないが、その2日前にプラセボの効果が見られた事を踏まえ、経過観察を行っている期間内の出来事と言うことができ、処方変更の効果判定を怠っていたとは認められない。」と断定した。

この判決部分は矢野が指摘した「経過観察が適切に行われなかった」という重大な過失要因に関連しており、正々堂々と「経過観察」の議論に上げたうえで、判決判断として言い渡すべきであった。12月4日に渡邊医師は生食筋注を自ら行った事実は無く、判決のこじつけである。


(2)、渡邊医師が自ら筋注していないことは明らか

判決(P.115)は、渡邊朋之医師自身が行ったと認定したことで、渡邊朋之医師が患者を直接観察していないにもかかわらず、渡邊朋之医師自身が経過観察をした事実として認定しており、不適当である。そもそも生理食塩水の筋注は渡邊朋之医師の11月22日付けの指示の下で看護師が実行したもので、渡邊朋之医師自身は筋肉注射を行っていない。また仮に12月4日(日)の12時に渡邊朋之医師自身が筋注を行ったのであれば、野津純一氏が『「アキネトン打って下さい、調子が悪いんです」表情硬く「アキネトンや、ろー」と確かめる』とプラセボ効果を疑ったことが看護記録に記載されているが、渡邊朋之医師自身がこの野津純一氏の発言に反応を示していないところが不可思議である。渡邊朋之医師が自ら生食筋注をしていて、アキネトンでない可能性を疑った野津純一氏に何も反応せずにプラセボ筋注を続行していたとしたら、医師失格である。

A意見書I(P.22〜23)も「12月3日午後以降はプラセボ効果が消失していた」ことを確認し、このような状況で、渡邊朋之医師自らが日曜日の正午に筋肉注射をわざわざ行っていながら、診療録に本人の記載が無いことはあり得ず、渡邊朋之医師が経過観察を行っていた証拠にはならない。いわき病院は第13準備書面(P.32−33)で渡邊朋之医師がプラセボ筋注をしたと記述していない。更にA意見書I(P.23)で「(12月4日の状況で、12時に行われた生食筋注を本当にアキネトンかと疑った事実に関連して)こうした情報を渡邊医師が把握していたか否かについては、診療録にも記載はなく判断することはできない。」と鑑定した。判決(P.115)の「渡邊朋之医師は、(中略)経過観察を行っている期間内の出来事」という裁判官の事実認定はA意見書Iと矛盾する。いわき病院鑑定人でさえ医療的事実として確認できない事象を、判決が勝手に事実を創造してはならない。

判決(P.115)は渡邊朋之医師自身がプラセボテストの生理食塩水筋肉注射をしたと誤解したが、主治医が沢山いる入院患者に生理食塩水の筋肉注射を自ら行うことはあり得ない。判決は主治医が自ら行わない行為を積極的に医療行為があった事実として認定したが不適切である。(判決の医師法第17条(非医師の医業禁止)及び第20条(無診察治療等の禁止)違反疑い)


(3)、矢野側は渡邊朋之医師が12月4日に筋注したと主張していない

判決(P.16)は『甲原告の主張「アキネトンに代えて生理食塩水を筋肉注射した過失」』で、矢野の主張として「渡邊朋之医師が診察したとされる同月3日には、野津純一氏は頻繁にアキネトン筋肉注射とイライラ治療薬の与薬を求め、同月4日には、本当にアキネトンを筋肉注射されているかまで疑っていた。このように、渡邊朋之医師は、野津純一氏の求めを無視して薬効がない生理食塩水を注射し続けることにより、…」と記述した。矢野は「12月3日に渡邊朋之医師が診察したと認めていない」。また「12月4日に渡邊朋之医師が野津純一氏の求めに応じて自ら生食筋注をした」とも主張していない。判決(P.16)は矢野の主張を改変して記述した。また判決(P.92)「D意見書」でも「渡邊朋之医師は」の文言を挿入して「渡邊朋之医師はプラセボとしての生理食塩水を筋注しており」と記述して、「D鑑定人は渡邊朋之医師が自ら筋注を行っていたと認めた」と鑑定意見の背景にある事実を改変した。これらは裁判所による「渡邊朋之医師の患者野津純一氏に対して医療行為を行った事実のねつ造」である。矢野もD鑑定人も、12月4日に渡邊朋之医師が野津純一氏を診察したと主張していない。


(4)、Dr指示中左記(生食1ml)施注

生食(1ml)筋注は12月1日21時20分が最初であり、OZ看護師は「Dr指示中左記施注にて様観」と看護記録に記載しており、OZ看護師が生食筋注を行ったことは明白である。看護記録に基づけば、いわき病院では医師の指示のもとに生食筋注を看護師が行っていた。

第1回目 12月1日(木)21:20 生食1ml 筋注 NsOZ「Dr指示中左記施注」
診療録に医師記載なし
第2回目 12月2日(金)11:00 生食1ml 筋注 NsMS「左記施注する」
Dr渡邊 生食20ml 1A(1ml使用)Nsサイン
第3回目 12月3日(土)16:45 生食1ml 筋注 NsAR「左記施注する」
Dr不明 Nsサイン
第4回目 12月3日(土)21:30 生食1ml 筋注 NsTK「左記施注する」
DrM 生食20ml 1A NsKH
第5回目 12月4日(日)12:00 生食1ml 筋注 NsAM
DrM 生食20ml 1A NsKH
第6回目 12月5日(月)21:00 生食1ml 筋注 NsAM「左記行う」
DrNY 生食20ml 1A NsAR

判決(P.115)は渡邊朋之医師が生食筋注をしたと認定したが間違いである。そもそもいわき病院は第13準備書面(P.44)でも12月4日に渡邊朋之医師がプラセボ筋注を自ら行ったと記述していない。看護記録では12月4日(日)12時の生食筋注にAM看護師(1ml)の署名があり、診療録では12月3日と4日にM医師(20ml)とKH看護師の押印がある。この状況は、生食筋注(1ml)を行ったのはAM看護師であることを示す。同時にレセプト請求根拠の診療録ではM医師が(20ml、大塚生理食塩水)のアンプルを記入しKH看護師が確認印を押した。患者野津純一氏の反応を『「アキネトン打って下さい、調子が悪いんです」表情硬く「アキネトンや、ろー」と確かめる』と看護記録にAM看護師が記載している。アキネトンは1mlアンプルを使用しており、20mlアンプル注射を行えば、野津純一氏は明白な違いに気付き『「アキネトンや、ろー」と確かめる』までもない事である。生食筋注は(1ml)で実施されたのである。従って、12月4日の生食筋注(1ml)はAM看護師が実施したことに間違いない。そして、渡邊朋之医師は生食筋注(1ml)を行っていない。


(5)、プラセボ筋注を経過観察の証拠としたのは論理矛盾

プラセボ筋注の問題はいわき病院推薦のA鑑定人すら12月4日以後はプラセボ効果が消失していた事実を認定した、渡邊朋之医師が自ら「プラセボ効果確認」を行わなかった問題である。ところが、判決は矢野とD鑑定人があたかも12月4日(日)12時にプラセボ筋注を渡邊朋之医師が行ったかのような主張をしたことにして、渡邊朋之医師の筋注を事実認定した錯誤を行った。

プラセボテストは12月4日の看護記録に記載された事実があるとおり、野津純一氏自身も疑っていたものであり、いわき病院と渡邊朋之医師が効果確認を行わない怠慢を行った事実である。ところが、驚いたことに、判決(P.111)は、この看護記録を「渡邊医師が診察を手続き的に行っていた証拠」として認定して、11月23日の処方変更後の渡邊朋之医師の経過観察が適切であったと認定したが、歪曲した論理である。


(6)、判決は渡邊医師の過失に気付くべきだった

プラセボテストはA鑑定人の判定では「失敗」だった(乙B15、P.23)のであり、これを基にして経過観察が適切に行われたと結論することは結果を歪曲した判決の間違いである。

判決は12月4日に渡邊朋之医師がプラセボ筋注をしたとして、免罪の認定をした。しかしながら、渡邊朋之医師は野津純一氏から直接プラセボ筋注を疑った言葉を聞いて何も対策をとっておらず、判決は重大な義務違反を黙認したことになる。プラセボテストは渡邊朋之医師を擁護する根拠となる事実ではない。

渡邉朋之医師と同時に、看護師は「野津純一氏がアキネトンかと疑い、不満を口にした記録を残した。主治医が「これを知りながら、無視して生理食塩水を自ら注射した」ならば、治療的介入の必要性にも気づかなかったことになり、注意義務違反で過失である。判決は、ともかくも野津純一氏を見たのだからと渡邊朋之医師を免責にしたのは間違いで、目前の異常を主治医が見逃した不作為を咎めなければならないはずである。


(7)、A意見書の目眩まし鑑定意見

A意見書I(P.23)「12月4日の様子からは生理食塩水の筋注に代えてアキネトン筋注を考慮しても良いのではないかと考えるが、アキネトン筋注をしなければ過誤になるというものではない。また、アキネトン筋注の有無は純一による本件殺人事件の発生と結びつくものではなく、アキネトン筋注をすれば本件事件が発生しなかったと判断できるものではない」と述べた。

A鑑定人は12月4日の野津純一の不調を、殊更にアキネトンにこだわることで、判決論理を本筋から逸らせる目眩ましを行ったが、12月4日には何らかの治療的介入が必要だったことを認めたことが重要である。

野津純一氏の不調は抗精神病薬(プロピタン)中断と抗うつ薬(パキシル)突然中断による離脱症状に理論的に由来するものである。12月4日に期待された治療的介入は抗精神病薬再投与とパキシル退薬症状緩和のためのパキシル再投与であり、薬事処方を平成17年11月22日以前の処方に戻せば簡単にできた。

渡邊朋之医師は事件後に警察の求めに応じて11月22日以前の処方で薬を届けたが、「しまった、本当に治療的介入をすべきだった!」と渡邊朋之医師が気付いた証拠である。「留置場ではトロペロン注射ができないから内服薬を処方した」という言い訳は詭弁である。間欠投与での統合失調症治療は再発が多く予後も悪い。(判決P.55)

平成17年11月22日以前の処方なら本件殺人事件は発生しなかったのである。野津純一氏はアカシジアがあってもそれなりに入院生活を送れていた(B鑑定人)ので、穏やかな生活に戻れたのである。


(8)、12月5日にM医師は診察していない

12月5日10時の看護記録によれば野津純一氏からON看護師に本人カゼとの訴えあり、「薬出しの要求あり」と、診察希望ではなく、薬出し要求をしたとの記載がある。従って、12月5日のM医師の診察はなく、カゼ薬だけ出してもらって野津純一氏は服用したと考えるのが普通である。12月3日、4日、5日の記載はレセプト請求のためのM医師と確認のためのKH看護師2人による事後サインである。その証明が20mlアンプルに対する承認であり、プラセボ筋注の1mlと事実が異なるところである。いわき病院第13準備書面(P.38)で「12月5日、M医師診察。」とあるのは「後出しじゃんけん」である。診療録には喉を観察した記録が無い。そもそも、顔面の根性焼きを観察しておらず、喉も顔も見ないカゼ症状の診察は怠慢である。真実は10時の看護師に対する「薬出し要求」であり、M医師は事後承認したものである。いわき病院が「根性焼きはなかった」また「根性焼きと言う自傷行為を被告病院医師らが見落としたということはない」と主張しているときに、いわき病院が「M医師診察時に根性焼きはなかった」と主張して、根性焼きを否定する目的でM医師の証言を積極的に持ちだした事実は無い。M医師が診察したとする根拠は無い。


(9)、過失責任を認めない大前提により発生した矛盾

判決は、いわき病院と渡邊朋之医師に過失責任を認めないことを大前提にして、事実を歪曲してまでして理屈をこじつけたものである。判決には、以下の問題がある。

  1. 看護記録を医師による診療(経過観察)記録として認定した
    (医師法第17条非医師の医業禁止、第20条(無診察治療等の禁止)違反の疑い)
  2. 判決(P.73)で12月3日を「渡邊医師の本件犯行前の最後の面接」と認定した上で、12月4日を「経過観察を行っている期間内」と断定した。
    (医師法第20条(無診察治療等の禁止)違反の疑い)
  3. 判決(P.115)は渡邊朋之医師が自ら野津純一に生食筋注を行ったとした。
  4. 判決(P.115)は12月4日の看護記録にある野津純一氏がプラセボ効果を疑っていた事実に触れておらず見過ごしである。
  5. A意見書I(P.22−23)は12月3日以降プラセボ効果が消失したと鑑定したが、精神医療の専門家でない裁判官が、4日にプラセボ効果を渡邊朋之医師が確認したとするのは、権限外の拡大解釈である。
  6. 判決(P.115)は渡邊朋之医師の保護責任者遺棄罪を見逃した。

判決の論理は「大前提として、いわき病院(日本の精神病院の代表として)は勝訴でなければならない」という観念で結論から事実の理解と解釈を行ったために、いわき病院を勝訴にさせる「こじつけの論理」を用いたことが問題である。判決は無理の上に無理を重ねたものである。


(10)、社会正義に反する「事情判決」

判決は、精神科医療機関と精神科医師の社会的役割を尊重して、可能な限り過失責任を負わせてはならないとする「事情判決」の論理で裁定されたものである。しかし、事実はいわき病院と渡邊朋之医師が任意入院患者野津純一氏に対して、インフォームドコンセントを行わず、平成17年11月23日から慢性統合失調症患者の野津純一氏に抗精神病薬(プロピタン)を中断して統合失調症を治療しない状態で精神病状が不安定な状態に置いた上で、突然の中断で危険性が発現する可能性が指摘されている抗うつ薬(パキシル)を突然中断した後の事件発生までの2週間で一回しか診察せず、患者の診察希望さえも拒否して、慎重な経過観察を行わなかった怠慢と不作為の「注意義務違反」医療にある。このような不誠実な医療に過失を認定せずに、容認することは、不正義を放置する事であり、公序良俗に反する。




   
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