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いわき病院事件:地裁敗訴で控訴しました


平成25年5月14日
矢野啓司・矢野千恵


6、判決論理と事実認定の錯誤

【1】、日本の精神科医療を破壊するとの批判


(1)、判決が許容した理想論という怠慢

A鑑定人が、意見書Iを「日本の精神医療を破壊する」と結んで、日本の精神科医療が成り立たなくなるとして反論した。その背景には、野津純一氏の放火暴行履歴ないし生活歴が影響している可能性がある。その意味は、『精神科医療現場には、トラブルメーカーや犯罪歴のある患者を敬遠する向きがある、こうした患者を受け入れたいわき病院は「よくやってるではないか」、「おかげで他の病院が助かるよな」という受けとめ方がある』その役割を果たしているいわき病院に過失責任を認めることは日本の精神科医療の弊害となる。更に、矢野が主張する「すべての人が等しく医療を受ける権利を有していることはわかる。そうはいうけれどなぁ…」、しかし「それは理想論であって現実的では無い」というのが本音であると考えられるところがある。

それでは、現実論にかまかけて、患者に起こった以下の精神科開放医療は許されるであろうか。またそれは「日本の精神医療を破壊しないこと」であろうか。そしてその精神科開放医療に社会は信頼を置くことができるのであろうか。

  1. 患者の過去履歴を無視した精神科医療
  2. 患者からインフォームドコンセントを得ない向精神薬の中止
  3. 専門職員の頭数が揃っておればチーム医療であるとして治療目的を周知しない医療
  4. 任意入院であれば日常の病状の変化を観察しない看護
  5. 重大な向精神薬中断後に経過観察と治療的介入を検討することがない医療
  6. 入院患者や市民に発生した犠牲の教訓から改善や改良を模索しない医療

(2)、基本は適切な医療

精神科開放医療の推進は日本が国際社会に約束した国策であり、後戻りは許されない。その政策を「外圧だから推進する」というのは余りにも情けない実態である。本来国民と社会の信頼を得て推進することが望まれ、精神障害者の多くに精神医学的治療効果が均霑し、精神障害者の多くが入院生活をから市民生活に転換することが望まれる。そのためには、適切な医療が精神障害者に約束されなければならない。

野津純一氏の不幸はいわき病院と渡邊朋之医師から適切な医療を受けられなかったところにある。何も野津純一氏は殺人事件を引き起こす必然性は無かった。また、適切な医療が行われていたならば、精神科医療の自動安全弁が働いて、野津純一氏が殺人衝動を持つこともなく、善良な患者として社会復帰を行っていた可能性もあったであろう。しかし、主治医と医療機関が適切な医療を行うことに怠慢であれば、回復の道は存在しない。野津純一氏の不幸は、渡邊朋之医師からいわき病院で適切な精神科開放医療を受けられなかったところにある。

日本の精神科医療は業界の都合であってはならない。もし業界の都合を優先することが「日本の精神化医療を破壊しないこと」であるとするならば、市民及び精神障害者と共存して発展する精神科医療として成長することは困難となる。


(3)、市民の精神科病院

全て病院は市民にとって欠かせないものである。従って、なんでも批判して病院の機能が果たせなくなることは誰も望まない。またそれは矢野が裁判を提訴した目的ではない。矢野は精神障害者の自立を促進する精神科開放医療を誠実に考えて裁判提訴に踏み切った。

良識ある普通の医者であれば、当然やるべきことがあるし、やってはならないことがある筈である。誰もが質の良い医療が提供されることを期待している。この願いは、精神科医療でも同じである。そもそも精神科開放医療を行う目的は、精神障害者であっても可能な限り寛解に近い精神の状態を維持して、日常生活で制限や束縛のない市民生活を行うことを可能とすることであると考えられる。精神科医療にこそ、精神障害者の自立を促進するに適う良質の医療と看護が求められる。矢野はその目的を明確にするために野津夫妻に民事裁判の共同原告となるよう求めた。それは、日本の精神科医療の発展を期待して、精神科開放医療を着実に実現し、社会の信頼を獲得することを願うからである。

いわき病院渡邉医師には、怠慢と不勉強による重大な過失があった。裁判を通して、現実の日本社会で許される許容範囲は何処にあるか。患者やその家族、周辺の市民の感覚で考え、あるべき精神科医療を提示していくことは原告(矢野及び野津の共通願いである)が提起した本裁判の課題である。少なくとも、いわき病院と渡邊朋之医師が行っていた怠慢を裁判の結果が助長することになって欲しくないと考える。


(4)、事情判断により安易な医療認定を行った

事情判決であり、いわき病院の精神科病院としての公的機能を尊重して、基本的に過失責任を問わないという姿勢で判断されており、過失のキーポイントに関連して事実関係の確認が甘く、また論理性を厳しく追及することがないままに判決が行われており、事実認定に大きな問題がある。

医師には、かなりの裁量の余地があり、診断や治療法の個々の判断には誤りが生じることは避けられないことである。しかし、いわき病院の場合で、過失の本質は、自ら行った患者の病状を悪化させる可能性がある処方変更の後で診察を怠ったことと、記録(診療内容の証拠)がないことである。

判決は、被告に大甘の内容で、公平な判断を避けて、分からないことは病院に利益にという思惑で書かれている。元々精神医学を理解してない人間が分からないことには責任を課さないという姿勢になれば、過失責任を問うことはできない。判決は「疑わしきは罰せず」の原理に従った可能性があるが、医師法違反の容認、裁判所による事実認定の錯誤、及びいわき病院の患者治療における不作為と注意義務違反を容認した間違い判断である。

刑事事件のT医師が「外出には人が付き添うべきであった」、「開放管理はするべき状態に無かった。」と明確に評価していることに比べ、あまりにいわき病院に傾いた判決である。事実に基づいて客観的に法律理論で過失責任を論じるのではなく、事実を歪曲した判決である。


【2】、原告側意見の歪曲


(1)、矢野の主張のねじ曲げ

判決はいわき病院が主張した矢野意見の歪曲を容認した。

  1. 矢野が開放医療に反対しているかのような前提
  2. 野津純一氏を閉鎖病棟において厳重な処遇するべきだった
  3. 自由を認めない、精神科病棟への閉じ込め

矢野は「開放病棟における任意入院でも、入院患者は適切な医療を受ける権利がある」こと、「患者の自由行動を許可することは患者の日常の病状の変化に対応した患者管理を不在にすることではない」ことを指摘している。精神科開放医療を行う前提として、患者は精神症状が病的であるために入院治療を受けるのである。病院と医師が患者の「過去履歴と異常行動」を承知して治療を行うことは、患者の社会参加を促進するためにも必要である。いわき病院は野津純一氏を「ほったらかし」にして保護せず、適切な治療を怠ったことで、殺人事件の発生を未然に防止することに失敗した。


(2)、原告側の主張に裁判所が加筆した渡邊擁護

判決では事実認定に関連して、「重要な向精神薬中断後に主治医の渡邊朋之医師が患者野津純一氏の病状の変化を経過観察していたか否か」、また「根性焼きの見逃しが、被告いわき病院が過失責任を問われる理由になるだけの、重大な患者観察上の過失か否か」が問われている。

これらに関する事実認定で、裁判官が加筆を行うことで原告側意見の操作を行った事実が認められる。その上で、「渡邊朋之医師は12月4日にも患者観察をしており、経過観察を怠ったとは言えない」及び「根性焼きは、観察できないほどの小さな問題」という判決となっており、極めて重大である。

以下に指摘する裁判官の加筆部分は、一見他愛ない加筆のように見えるが、判決の方向性を左右する重大な事実の改変であり、原告側意見の歪曲である。これらの改変を元にして判決を被告側有利(過失責任を否定する方向)に導いた鍵が隠されている。特に渡邊朋之医師の筋注に関しては、原告側矢野とD鑑定人の歪曲された主張が、12月4日に主治医が野津純一氏を経過観察した根拠とされており悪質な事実の改変である。


1)、野津純一氏の「入院医療の問題」を「入院処遇の問題」に変更
  「被告渡邊は、被告純一の入院処遇において、被告純一の反社会的人格を前提とした綿密な評価と対応を考慮し、被告純一の行動異変に最大の注意を払う義務があったが、これを怠った診断(治療)の過失がある。」

矢野が一貫して指摘したことは野津純一氏に対する「精神科医療の質と内容」であり、「被告純一の入院処遇」ではない。矢野が「精神科開放医療の内容に錯誤と不作為がある」と主張した事に対していわき病院は「措置入院相当」と言葉を返し、裁判官の関心を逸らせて、処遇の問題に転換させた問題である。裁判所により「被告純一の入院処遇において」を加筆することにより、原告主張内容が書き換えられており、不適切である。


2)、甲原告(矢野)の主張「アキネトンに代えて生理食塩水を筋肉注射した過失」
  「被告渡邊が診察したとされる同月3日には、被告純一は頻繁にアキネトンの筋肉注射とイライラ治療薬の与薬を求め、同月4日には、本当にアキネトンを筋肉中射されているかまで疑っていた。このように被告渡邊は、被告純一の求めを無視して、薬効が無い生理食塩水を注射し続けることにより、アカシジアを亢進させ、更には被告純一の不安焦燥、挫折感、イライラ、医療者への不信感を増大させた過失がある。」

アンダーラインを付した「被告渡邊は」が裁判官による加筆である。矢野は渡邊朋之医師が12月4日に生食筋注を行ったと主張していない。また渡邊朋之医師は自ら12月4日に野津純一氏に対して生理食塩水の筋注を行っていない。問題の本質は、野津純一氏がプラセボ効果を疑っていても「プラセボ筋注の指示を渡邊朋之医師が出し続けた」ことである。本項で、矢野が判決の歪曲と指摘する箇所は「同月4日には・・被告渡邊は・・生理症塩水を筋注し続ける」である。ここを、素直に読めば、「渡邊朋之医師は12月4日に野津純一氏に生理症塩水を筋注した」となる。渡邊医師は診察もせずにプラセボ筋注の指示を出し続けたのであり、自ら野津純一氏の状況を確認したのではない。渡邊朋之医師による生食筋注という行為が無いにもかかわらず、矢野が「渡邊朋之医師は生食筋注を行った」と主張した事になり、重大な事実の改変である。

判決は「被告渡邊は、同年12月4日に、被告純一からアキネトンの筋肉注射を求められた際に、生理食塩水の筋肉注射しか行っていないが。」と記載したが、そもそも、渡邊朋之医師が12月4日の治療を自ら行った事実は存在しない。矢野の主張が、判決が12月4日の渡邊医師が筋注を実施した根拠にされることがあってはならない。


3)、甲原告(矢野)の主張「一週間前の根性焼き」
  「被告純一の左頬に入院当初から根性焼き跡が存在していたことは、被告純一の左頬の写真に関する甲号証の2の(3)〜(6)、(8)写真に新旧の根性焼き瘢痕が存在することから明らかである。」

甲原告(矢野)は「被告純一の左頬に入院当初から根性焼き跡が存在していた」と主張していない。野津純一氏に「入院当初から根性焼き跡が存在していた」のであれば、渡邊朋之医師が平成17年11月23日から実行した大規模な処方変更などの事実にかかわらず、またいわき病院の精神科医療にかかわらず、野津純一氏は顔面を自傷していたのであり、いわき病院に過失責任は無いという論理となる。これは、判決が自傷した時期を特定できないので、過失責任は無いとした根拠の一つである。従って、裁判官による原告意見の重大な歪曲となる。

いわき病院は「入院当初から鈎状の瘢痕があった」とか「ニキビ」という主張を「後出しじゃんけん」で本件訴訟が開始された後で主張した事実がある。しかし、いわき病院の医療記録には「顔面の異常」に関する記録は存在せず、入院当初から根性焼き跡が存在していた事実はない。「入院当初から」は、裁判官加筆によるねつ造である。


4)、D意見書
  「平成17年11月1日から本件犯行までの看護記録を読むと、S(Subject、主訴)とO(Object、所見)が多く、A(評価)とP(方針)が極めて少ない。被告純一は、薬の副作用であるアカシジアに苦しみ、足の不随意運動、イライラ感が強く、その辛さを毎日のように訴え、看護師はその事実を把握しているにもかかわらず、被告渡邊はプラセボとしての生理食塩水を筋注しており、必要な治療も看護もせず、被告純一の辛さを受け止めていない。」

アンダーラインを付した「被告渡邊は」の部分はD鑑定意見に記述されていない。D鑑定意見は「看護師はその事実を把握しているが、プラセボ(疑似薬)としての生理食塩水を筋注するなど、必要な治療も看護もなされていない。」との記述であり、誰がプラセボを注射したかは不明である。鑑定意見は「他の医師の指示か看護師の単独判断であったかも知れない」のであり、生食筋注者を特定していない。ところが、判決は、「渡邉医師を登場させて」事実を歪曲した。本記述は日付を特定していないが、あたかも渡邊医師が野津純一氏に対してプラセボ筋注を自ら行っていたかのように事実をねつ造して、判決の「被告渡邊は、同年12月4日に、被告純一からアキネトンの筋肉注射を求められた際に、生理食塩水の筋肉注射しか行っていないが。」の記載の裏付けとした。


【3】、判決論理の錯誤


(1)、いわき病院の医療の現実

  1. チーム医療の認定を病院設置基準で専門職を雇用していることで認定したが、渡邊朋之医師は看護師と「情報の共有」をしておらず、チーム医療機能の実態を評価しない判決である。
  2. 大学病院と普通の精神科病院の医療水準の格差を容認したが、何が医療水準の格差であるか事実確認がない、A鑑定の権威に盲従した判断である。また、精神科専門病院に低位平準化を容認した判決である。
  3. 看護師の職務遂行の評価を、記録が無いことをもって、問題がない看護としての判決であり、記録も残さない怠慢の可能性を検討していない。
  4. 渡邉医師が書いた診断内容記録が12月1日以降全然無く、経過観察が行われなかった証拠である。
  5. 患者からの積極的な聞き取りや履歴の問い合わせもしておらず、犯行があった後、警察からの知らせで初めて気が付くなど、患者のケアに関心が薄く、一般精神科医療水準にあるとは言い難い現実がある。

(2)、処方変更の効果判定・経過観察

渡邊朋之医師は11月30日を最後にして野津純一氏に関する医療記録を残していない。判決は基本的に看護記録を元にして、渡邊朋之医師が自ら診察や診断を行ったとしたが医師法の条項に抵触するおそれがある。特に、12月1日から実行されたプラセボテストの効果判定に関しては渡邊医師自らの記録は一切存在しない。また処方変更の効果判定に関しては11月23日以後渡邊医師が患者の病状の変化を慎重に観察した事実が存在しない。判決は、精神科病院に過失責任を問わないことを至上命題として、無理やり理屈をこじつけたものである。


(3)、リスクアセスメントとリスクマネジメント及び治療的介入

判決は「歯科で野津純一氏を拘束した事実が無い」と弁明したいわき病院の「後出しじゃんけん」の弁明を元にして、いわき病院に責任は無いとしたが、論理の逸脱である。いわき病院では、精神科が行わない「リスクアセスメントとリスクマネジメント」を歯科が行っていた事実が重要である。いわき病院では、精神科が行わない「放火暴行履歴と暴力行為および暴力行為発現の論理」を考察した臨床医療を歯科で行っていた事実が判明したことを判決は判断するべきであった。

渡邊医師は、プロピタンとパキシルの突然の同時中止という最悪の選択をしたにも関わらず、そのリスク評価をしていなかった。平成15年8月(事件の2年4ヶ月前)にはパキシル突然中止のリスクが厚生労働省通達されていたこと(薬剤添付文書にも掲載)を考慮すれば、判決は渡邊医師の無責任さ、職務への怠慢の責任を追及すべきであった。


(4)、患者・野津純一氏の評価

薬剤師によれば野津純一氏は「コンプライアンスが良い患者」である。これは野津純一氏が自分自身の病状の変化と処方薬の効果に高い関心を持ち、真剣に症状の改善を期待していることを示している。その野津純一氏が高い関心からしつこく質問する状態を渡邊医師は強迫障害(OCD)の悪化と捉えて、真面目に誠実な答えを行う対応をしていない。患者に対する主治医の傲慢な態度と精神科専門医であれば当然知るべき薬剤中止のリスクに対する不勉強による無知が事件の背景にある。



   
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