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いわき病院事件:地裁敗訴で控訴しました


平成25年5月14日
矢野啓司・矢野千恵


3、高松地裁判決の問題点

【1】、野津純一氏の「精神科医療」の問題であり「入院処遇」の問題ではない

判決(P.9−10)は(原告矢野の主張)の(イ 反社会性パーソナリティー障害を診断できなかった過失)で、「被告渡邊は、被告純一の入院処遇において、被告純一の反社会的人格を前提とした綿密な評価と対応を考慮し、被告純一の行動異変に最大の注意を払う義務があったが、これを怠った診断(治療)の過失がある。」と記述したが、これは記述の間違いである。矢野が一貫して指摘したことは野津純一氏に対する「精神科医療の質と内容」であり、「被告純一の入院処遇」ではない。

これに関連して、矢野は起訴状等の文書で「被告純一の入院処遇」を問題にしておらず、措置入院相当などの主張をしていない。「措置入院相当」との言は、いわき病院が医療問題から法廷審議の焦点を反らす目的で主張してきたところであり、矢野の論点ではない。矢野はこのいわき病院の主張に対して「任意入院で無責任な自由放任か、さもなければ閉鎖病棟処遇で、論理に飛躍がある」と指摘してきたところである。

矢野は裁判を開始した当時は、刑事裁判のT鑑定に従い「反社会的人格障害」の診断を問題にした。これは野津純一氏の放火暴行履歴を正確に調査把握して、野津純一氏の病状予測に活用することが必要であると指摘した事である。裁判審議が進んだ段階では、リスクアセスメントとリスクマネジメントという言葉を使用したが、本質は、同じである。矢野は野津純一氏を「閉鎖処遇にしていないことが問題」とせず、一貫して「いわき病院の治療に錯誤と怠慢があることが問題」と指摘してきた。本件裁判の本質は、いわき病院の治療と、野津純一氏の病状変化に対応しない任意入院患者野津純一氏に対する医療過誤であり、判決(P.9−10)が行った矢野の主張の要約は不適切である。

判決(P.112)が「病棟の機能を無視した入院患者処遇の過失の有無について」で、いわき病院では第2病棟とアネックス棟の機能が精神科病棟として機能が不十分である問題を、野津純一氏をアネックス棟に入院させた問題に転嫁したことは錯誤である。本質的な問題は、野津純一氏に対して行われた、第2病棟付属アネックス棟の精神科医療と看護が不適切であったため、11月23日に実行された大規模な処方変更後の病状の経過観察と治療的介入という精神科医療と患者看護に不作為があった事実である。いわき病院アネックス棟では患者が顔面に自傷した根性焼き瘢痕を発見できないほど、看護に怠慢があったが、その理由の一端は、高齢認知症者介護の合間に行われた精神科看護にある。


【2】、後出しじゃんけん論と「Justice」

精神科医師と本件に関連して医師の医療判断の問題を議論すると「後医は名医」また「後出しじゃんけん」という反論を往々にして受ける。即ち、医師は日常の臨床で患者の病状の変化に対応して即時の判断を迫られており、限られた時間内の判断では必ずしも最適の処置を行うとは限らない。ところが、その医師が行った医療を他者が後から見れば、前医の処置後の患者の状態の変化を知っており、容易により優れた判断にたどり着くことができる。従って「後医は名医」だけれど、その判断は「後出しじゃんけん」で、適切とは言いかねるというものである。


(1)、判決は原告の指摘を「後出しじゃんけん」として排斥

判決(P.115)は「平成17年11月23日の薬剤処方変更後も、軽快、悪化の変動はあるものの、その症状の大部分は従前とほぼ大差のないものであり、事後的にみれば異常行動の予兆ということはできても、本件犯行当時、これらを異常行動の予兆と捉えることは極めて困難である。」と述べた。

統合失調症の患者に抗精神病薬(プロピタン)を中断して統合失調症の治療を行わない状態で、突然中断による重大な危険性が指摘されている抗うつ薬(パキシル)の急激な断薬を行った後で、判決(P.115)は「(その他の兆候に関連して)統合失調症の幻聴(父親の悪口が聞こえる幻聴)やアカシジアなどの精神症状(イライラ悪化)を訴えており、特定◯◯の症状は、当時の知見では、異常行動の予兆とはみなされていなかった」と、理由をつけて書くべきであるが、判決はその内容(症状)を指摘できていない。

また、父親の悪口が聞こえる幻聴は11月23日までは野津純一氏になかった種類の幻聴であり、イライラが最高潮に達していたのに、症状の大部分は従前とほぼ大差ないと断定する理由を書いていない。このことは、事件直後の警察・検察の取り調べ内容や刑事裁判T医師の鑑定内容を否定するものである。

判決(P.115)は「事後的に見れば異常行動の予兆と言える」と判断したが、そもそも抗精神病薬(プロピタン)の中断と抗うつ薬(パキシル)の突然の中断を行うに当たって精神科医師としては常識である危険情報に基づいて予め異常行動が発現する可能性を想定した体制を取り、主治医は「異常行動の予兆」を慎重に観察するべき義務があった。渡邊朋之医師は精神科医として、やるべき診察をせず、複数の向精神薬中断後に注意を払わず、記録も付けない程の怠慢であったことが最大の過失で、その結果、自傷他害が最悪の形で現れたということである。

判決(P.115)の「事後的にみれば異常行動の予兆ということはできても、本件犯行当時、これらを異常行動の予兆と捉えることは極めて困難である。」の部分に関して異議がある。「異常行動の予兆」に関する注意義務は、論理的にも抗精神病薬(プロピタン)の中断と抗うつ薬(パキシル)の突然の中断という大規模な処方変更を行うに当たって主治医に付帯する義務であり、いわき病院が「事後の論理」と主張したことは詭弁である。判決がいわき病院の詭弁をそのまま認めたことは安易であり、客観性と普遍性の原則から外れている。


(2)、事件後の原因解明は「後出しじゃんけん」?

矢野も野津夫妻も共に、平成17年12月6日の野津純一氏による矢野真木人殺人事件が発生した事実を踏まえて原因究明と過失責任を認定することを請求している。特に、矢野真木人と矢野は事件が発生する前には、野津純一氏を知らず、ましてや野津純一氏がいわき病院で統合失調症の入院治療を受けている事実を全く承知しない。このような条件では、野津純一氏に異常行動が発生する未然の情報収集と調査検討を行うことはあり得ない。また野津夫妻の場合も、抗精神病薬(プロピタン)の中断と抗うつ薬(パキシル)の突然の中断を行うことに関して事前説明をされておらず、「異常行動」が発生する可能性を知らされない状況で、息子野津純一氏に異常行動が発生する未然の情報収集と調査検討を行うことはあり得ない。判決の「事後的にみれば異常行動の予兆ということはできても」という前提は原告側から見ればあり得ない事実の可能性を前提にしており不適当である。全て事件の原因解明は事後の作業であり、過失認定は過去の行為の正当性を判断する作業である。「事後的にみれば異常行動の予兆」が確認できるのであれば、その「異常行動の予兆」を見逃した精神科医師に過失責任を問う理由が存在する。

矢野は矢野真木人が殺人された事件の原因を究明するために精神科医師に協力と助言を求めた。そして「事件発生後に原因究明をすることは、後出しじゃんけんであり、不適当である。精神科医師は医療現場では、現在の症状から未来の変化を予測するのであり、後方視野で後から原因究明をするのは間違いである。」として、「不正な後出しじゃんけん」と言われた。しかし事後の原因究明不要論は、処方変更などの重大な精神科医療行為に関連して、主治医が未然に危険性(リスク)に対処する義務を否定する安易な対応を奨励する事になる。

判決(P.115)が殺人事件の被害者遺族である矢野に「後出しじゃんけん論」持ち出すことは非情でありかつ非人道的である。また人命の損耗という重大な結果に対して「原因究明をしてはならない」というご都合主義の論理である。どのような分野であれ例外なく、重大な事件や事故が発生した際には、事件発生後から事件当時を振り返って、過去の事実を再現することで、過去に遡って原因を究明して、将来の同様の事件の発生を防ぐ建設的な手段を講じることが正しい社会的な手段である。「事後的にみれば異常行動の予兆ということはできても」という論理を判決(P.115)が支持していては、殺人事件で原因の追究が不可能となる。精神科医療だけが「後出しじゃんけん論」を主張することは、他の医療や科学技術と比較して特別な立場にあると主張するようなものである。しかし、それは、公正と公平を希求する社会が容認してはならない論理である。


(3)、いわき病院の後出しじゃんけん戦略

いわき病院が平成24年12月21日の結審法廷に提出した第13準備書面とA意見書IIIは後出しじゃんけん戦略そのものである。特に第13準備書面に記された『本件で問われるのは、事件発生前に一般の精神科病院である被告病院で行われていた精神科医療が適切なものであったかどうかであり、いわゆる「後知恵」で過失の有無を検討するのは不適切である』はいわき病院の「後出しじゃんけん戦略」の確信を述べたものである。

上述の主張は、「(渡邊朋之医師に関して)大学病院の医師でもない一般の病院の医師」という表現が付けられていたが、矢野から「渡邊朋之医師は、国立香川大学医学部付属病院精神科外来担当医師を兼任している」との指摘を受けて、いわき病院が「ひそかに」削除したものである。

いわき病院の「一般の精神科病院」という弁論戦略は実は、不作為の事実を指摘されて回答が困難になった際に、「一般の精神科病院である被告病院」と弁明すれば、何であっても過失責任を回避できるという不誠実な論理である。そもそも、いわき病院は、「どの医療行為が過失責任を免責されるべき精神科医療行為」であるかを特定する議論をしていない。いわき病院が追い詰められれば「一般の精神科病院」を口実にして逃げれば良いという、極めて不誠実な「後出しじゃんけんの論理」に基づいた法廷論理と戦術である。

いわき病院第13準備書面は「精神科医あるいは精神科医療に可能なことは、あくまでも患者の病状予測であり、病状予測に基づいて行われる治療的介入である」と述べた。しかしいわき病院と渡邊朋之医師が平成17年11月23日から行った抗精神病薬(プロピタン)中断、抗うつ薬パキシルの突然中断、及び生理食塩水プラセボ投与という大規模な処方変更の後で、主治医は診療録に記録を残した医療行為を11月30日の夜間に一回しか行っておらず、適切に「患者の病状予測」を行い、「病状予測に基づいて行われる治療的介入」を行ったとは言えず、いわき病院と渡邊朋之医師には過失責任が存在する。野津純一氏の主治医は、自ら大規模な処方変更を行ったにもかかわらず、その後の野津純一氏に関して、主治医に可能な「病状予測」を行わず、「病状予測に基づいて行われる治療的介入」も行っていない。従って、「被告純一の起こした他害行為は、一般的な精神科病院における医学的診療や看護観察の水準で、察知することは不可能な種類の精神症状の変化に基づくものであると考えるべきである」(いわき病院第13準備書面)と主張することはできない。そもそも2週間に一回しか診療を行った記録が存在せずそれも極めて簡単なもので、加えて顔面に自傷した根性焼きを発見しない看護である。患者野津純一氏の病状の変化は「察知することは不可能な種類の精神症状の変化」ではない。患者の顔面の異常すら発見できない「ほったらかし」の現実があったのである。


(4)、「後出しじゃんけん」を容認するが「12月3日を11月30日に」に変えない判決

いわき病院は、法廷審議の過程で「後出しじゃんけん」を行った。渡邊朋之医師は人証で、「平成17年11月30日の診察を23日に、また12月3日の診察を11月30日に変更して、更に、12月3日にも診た」と主張した。これらは裁判が開始された後の「証拠記述内容の変更と、12月3日の診察は記録のない事実の主張」である。いわき病院が人証以外にも第10及び第13準備書面で日付変更を申し立てた以上、判決が「他の変更は受け入れて、12月3日の診療録記載は11月30日に変更せずに判断」したことは錯誤である。判決(別紙2、P.128)との整合性もつかない。「12月3日を11月30日に変更することは“被告に不利”だから再訂正して元に戻す」を判決が選択したのであれば、余りにも不公平というべきである。この他にも、いわき病院は本件裁判中に、証拠のない主張や、矢野に対する事実でない中傷を行ったが、裁判所は概ねいわき病院の主張を事実として無批判に受け入れて認定した。『原告に対しては「事後的にみれば異常行動の予兆ということはできても」として主張を否定』し、『いわき病院に対しては「後出しじゃんけん」行為を容認して、後付けの弁明を行わせる』ことは「Justice」ではない。

「後出しじゃんけん」にしないために、医師には、きちんとした診断と診療記録の義務付けがある。法廷の審議は事件発生後に行われ、過去に発生した事件の原因を究明する役割であり、加害者側が行う「後出しじゃんけん論」を無批判に容認する事があってはならない。判決が「事後的に見れば過失が疑われる」であれば、事前に過失への対応が不可能であったのか否か、また、その対応を取ることが非常識であったのか否かが厳しく問われなければならない。


【3】、「日本の精神医療を破壊する」に基づいた「事情判決」

A鑑定人は意見書Ⅰの結びで以下の通り結論意見を述べた。判決はこれに動かされた「事情判決」であるが、社会の公序良俗に反している。

  平成17年12月時点の一般精神科医療の水準を考えれば、いわき病院での純一に関する処遇には、特に問題はないと考えられる。
  最後にあらためて述べるが、野津純一による本件事件を、平成17年12月当時の一般精神科医療の水準にある精神科医が事前に予測することは不可能であると言わざるを得ない。被害に遭われたご家族の心痛を察するに余りあるが、その責任をいわき病院における純一に対する医療に求めることは間違いである。本件原告が指摘する投薬の方法(薬剤選択、投薬量、投与時期等)如何により本件事故を事前に回避できたと判断し得る医学的エビデンスはない。純一を完全な閉鎖処遇下に置いておけば確実に事件を防止することができたと結果的に言えても、それは延いては精神科医療そのものを破壊することになる。この点を銘記していただきたい。

(1)、平成17年12月時点の一般精神科医療の水準を考えれば、いわき病院での純一に関する処遇には、特に問題はない

矢野は「いわき病院内における野津純一氏の処遇」を問題にしていない。いわき病院は「甲原告は純一を措置入院相当と主張した」と矢野の真意を曲解した文言を記述することで、矢野が「あたかも精神科開放医療を否定して、全ての精神障害者を閉鎖病棟に閉じ込めるべきであると主張した」かのような中傷を行ってきた事実がある。また矢野に精神障害者に対する偏見とスティグマがあるかのように決めつけたいわき病院の発言もあった。いわき病院は「スティグマ&ドグマで精神障害者を捉えることは許されない」という総花的な視点で矢野の主張を「閉鎖処遇要求(措置入院相当と主張)」と決めつけて非難し、他方ではいわき病院自らは「開放医療を行っているので不可侵であり批判される立場にはない」という思い上がった論理である。

矢野はいわき病院に入院していた当時の野津純一氏を閉鎖病棟に置かなかったことをいわき病院の過失として主張していない。矢野が裁判を提訴して期待したことは、「精神科開放医療の受益者である野津純一氏に、社会参加を促進する事ができる、内容と実質がある精神科医療を、いわき病院が行うこと」であった。

A教授は「平成17年12月時点の一般精神科医療の水準を考えれば」と主張することで、いわき病院医療の問題のみならず、「一般精神科医療を行う全ての精神科医療機関」の問題であると主張を拡大したが、矢野はいわき病院で任意入院患者に対する処方見直しや外出見直しなどのリスクマネジメントが適切に行われていたか否かを問うものである。平成17年12月当時と平成25年3月の現在では、入院処遇に関する制度改正は行われておらず、A教授の指摘は根拠のない空論である。

いわき病院は野津純一氏が「任意入院患者」であることを理由にして、精神疾患に罹患し、必要があり入院していた野津純一氏の日常の病状観察を行わず、外出許可の運営に関しても、その日の精神の状態の如何に関わりなく不介入の精神科開放医療を行っていたが、このことが、野津純一氏に対する保護を行わない不作為となったのである。矢野がこの問題を指摘するといわき病院は「措置入院相当と主張した」と言葉を返してきた。任意入院患者といえども、病状と精神の状態に変化はある、このため短時間の外出制限や付き添い付きの外出を行うなどの対応は、任意入院と開放医療を野津純一氏に維持したままで可能である。

矢野はいわき病院が任意入院のままで対応可能で適切な精神科開放医療を行わなかった問題を指摘してきた。そのことが、いわき病院は野津純一氏の精神科医療を適切に行わなかった問題である。


(2)、野津純一による本件事件を、平成17年12月当時の一般精神科医療の水準にある精神科医が事前に予測することは不可能

A教授は「平成17年12月当時の一般精神科医療の水準」を問題にした。本件で問題となったいわき病院が野津純一氏に行った精神科医療は「平成17年12月当時の一般の精神医療の水準」からかけ離れて「劣悪」、「不満足」かつ「怠惰」なものであった事実である。A教授は「平成17年12月当時」という言葉を挿入することで、目眩ましを行い、裁判官が判断不能になる戦術を使用した。しかし、以下の問題は、平成17年12月当時も現在も、精神医療の水準として基本的な常識であり、医療水準の変化とは関係無い。

  1. 入院患者の生育履歴を詳細に調査・記録して病状予測に活用すること。
  2. 統合失調症と診断された患者に対して、抗精神病薬治療を継続すること、万一中断する場合は周りに周知し、綿密な経過観察を行って再発の兆候を捉える、中止で効果がなければ再投与すること。本件事件は統合失調症治療中断中に発生した。
  3. 抗精神病薬の副作用のアカシジアをCPK値で判断することは間違いであること。
  4. 薬剤添付文書に記載された禁止事項を守るのは薬物療法の基本であること。
  5. 複数の重大な処方薬を中止する場合には、同時に突然行わず、処方薬を中止した効果を見極めながら漸減し慎重に段階を踏んで行い、診察回数を増やし病状の変化を確認して外出見直しを行うことも必要であること。
  6. インフォームドコンセントの原則に従って、患者の理解と同意を元にした医療を行うこと。特に、野津純一氏は精神科開放医療のもとにあり、自分に行われている治療内容に本人が納得することが重要である。「専断的治療行為」は違法である。(ジュリスト増刊2004.3、P.96)
  7. プラセボテストを行う場合には、患者が病状悪化する場合があるので、主治医は必ず予め設定した日にその効果を自ら観察して判定・記録すること。
    (注):野津純一氏は嬉しい気がすると「ドプスが効いた」「プラセボが効いた」と最初は言う患者である。他方、渡邊朋之医師は患者が一回だけ「良く効いた」と言うと、後で「やっぱりダメ」と言っても聞き入れない医者である。このため、正しい判定日にプラセボ効果判定を行わない場合には錯誤する可能性がある。看護師による12月2日の「プラセボ効果あり」は予定していた3日後ではなく、翌日の患者発言であり、短すぎたことも問題である。
  8. いかなる処方変更でも治療方針の変更を行った場合には、医療スタッフに周知すると共に患者観察の留意点と看護方針を指導して、主治医自らも患者の病状と心身の変化を慎重に見極める診察をしなければならないこと。
  9. 患者の病状が変化して、心神の状態が不安定になる場合には、精神科開放医療を行っていたとしても、患者の保護を目的として短期間の行動制限等の対応は可能である。

いわき病院は精神科医療の基本を無視して、主治医が患者の過去履歴を承知せず患者に処方変更をインフォームドコンセントせず、患者の病状変化を経過観察しない「精神科開放医療」を行っていた。これは驚くほど常識外れであり、通常であれば「そんなことはあり得ない」と即座に否定するような事実である。しかし、その常識外れがいわき病院で野津純一氏に行われていた「精神科開放医療」である。矢野が指摘していることは基本を守る日常の精神科臨床医療であり、近年の医療技術開発で達成した最先端の医療の導入ではない。

病院外における入院患者による殺人事件の発生は極めて希な事象である。主治医が精神科医療の基本を守っておれば、精神科病院に備わっている安全機能が作動して、殺人事件等という極端な事故は未然に回避できるものである。いわき病院が、全国数多ある市井の精神科医療の水準を日常の医療で誠実に維持する事は、基本中の基本である。いわき病院の過失責任は、当然の常識であるはずの基本を励行せず、不作為の医療をおこなったところにある。「平成17年12月当時から判決までの時点」で「一般精神科医療の水準」で何も特段に進歩した医療技術や制度は存在しない。


(3)、責任をいわき病院における純一に対する医療に求めることは間違い

慢性統合失調症の野津純一氏はいわき病院に任意入院して、精神科開放医療を受けていた。従って、野津純一氏の行動に関する注意義務は第一義的にいわき病院にある。その上で、いわき病院は野津純一氏が外出許可を受けて外出中の時間帯もレセプト請求を行い、保険給付を受けていた。いわき病院の保護下にあった野津純一氏が重大な犯罪を行う前の2週間の間、いわき病院は主治医が患者の経過観察を怠り、看護師も顔面に自傷した根性焼きを発見しないほど疎かな看護を行っていた。このような状況は入院医療契約の不履行であり、いわき病院は責任を回避することができない。そもそも、入院が必要な状態の患者の内服を中断して、外出指示変更や診察回数の増加が無いのは論外である(C鑑定人)。


(4)、本件原告が指摘する投薬の方法(薬剤選択、投薬量、投与時期等)如何により本件事故を事前に回避できたと判断し得る医学的エビデンスはない

矢野は「投薬の方法(薬剤選択、投薬量、投与時期等)」の問題を指摘したことは確かである。しかし、原告の指摘はそれに終わらない。平成17年11月23日に「投薬の変更を行った」後で、患者野津純一氏に対して、いわき病院の医療と看護に不作為があったために本件事故を回避できなかった事実を指摘しているのである。更に、投薬の方法に関しても、抗精神病薬(プロピタン)の中断と抗うつ薬(パキシル)の突然の中断が極めて重大なリスク亢進の問題であったことを指摘した。

その上で、二剤の中断を同時に行ったことは、薬剤変更による病状の変化と心身の不安定化による危険性(リスク)が相乗効果により飛躍的に拡大した問題を指摘しているが、A鑑定人は意見書I、II、IIIでその問題に触れることを回避した事実がある。そもそも、精神医学者として見逃してはならない重大な問題を回避して、重大な問題を鑑定の前提にしない不誠実な鑑定意見である。A教授は「医学的エビデンスはない」と主張したが、重大な処方変更後の経過観察の不在と看護の怠慢、パキシル中断リスクを「全ての抗うつ薬継続投与中リスク」にすり替え、二剤同時中断の問題を外した上での鑑定意見であり、精神医学者として「医学的エビデンスがある常識」に眼をつむり、耳を塞いだ見解である。

本件事件が発生した本質は、主治医が医学的判断を行う前提となる観察(診察)を自ら行わなかったところにある。A鑑定人が主張した「投薬の方法(薬剤選択や量等)」というより、処方変更後に、診察も、治療も行わず、まともな記録をつけておらず、いわき病院は「きちんとした治療をしたエビデンス(証拠)がないほどひどい診療実態」であったことが問題である。事実は『いわき病院の「精神科開放医療」を大義名分とした「ほったらかし医療」』である。


(5)、純一を完全な閉鎖処遇下に置いておけば確実に事件を防止することができた

そもそも矢野は野津純一氏を「完全な閉鎖処遇下に置いていなかったことが問題」と主張していない。いわき病院とA鑑定人の裁判官に対する誘導である。

重大な問題は、「完全な閉鎖処遇」という言葉を使って、いわき病院と渡邊朋之医師が精神科開放医療を不真面目に行っていた事実から、裁判官の目を反らすことを意図していたところにある。矢野は野津純一氏を閉鎖処遇にするべきだったと主張していない。「完全な閉鎖処遇」をあたかも矢野の主張であるかのように鑑定意見を展開することは、いわき病院の医療的不作為から眼を反らし、本件裁判の本質が「社会保安のための精神障害者の収容要求」であるかのように論理を転換するいわき病院の目的に、いわき病院の臨床現場に疎いA鑑定人が乗せられたものである。

重要な視点は、任意入院で開放医療の患者野津純一氏に渡邊朋之医師が「適切で責任ある医療」を全うしていたか否かである。統合失調症で入院した開放処遇の患者に対して適切な医療を行い、向精神薬を中止したような場合は、患者の病状の変化は毎日観察する必要があり、万一、病状が悪化した際には積極的に患者保護を行うことで、精神科開放医療は成果を上げ、社会から信頼されるものになる。


(6)、延いては精神科医療そのものを破壊する

精神科医療は医師や医療機関の不勉強と怠慢や不作為を許すものであるならば、自ら荒廃し、自ら精神科医療を破壊することになる。医師の不作為と病院の怠慢に過失責任を問わないことで責任回避することでは、その不誠実な事実に改善の努力を期待することができなくなる。結果として、日本の精神科医療は自らを破壊する運命から逃れられない。

本件裁判の過程で、「平成17年12月当時の一般医療水準」がいわき病院の弁明とA鑑定人の弁護の主軸の論理であった。この論理は、平成17年から平成23年まで(A意見書Ⅰ報告時点の平成23年7月29日)の短期間のうちに精神科医療は飛躍的に進歩したと主張しており、精神科医療が健全な発展をしているかのような印象を受ける。しかし、それは間違いである。矢野はこの期間に本件裁判に影響をもつ精神医学的な進歩があった事実を確認した(デイビース意見書II)が、精神科医療水準の変化はなかった。そもそも、長期の裁判に持ち込んだ上で、被告側鑑定意見で「当時と現在の違い」を主張することは詭弁である。

重大な問題は、進歩の事実が存在しないにも関わらず、進歩の弁論を行うことで、日本の精神科医療と精神科開放医療が進歩と発展の道から取り残されるところにある。既に日本の精神科医療が先進国の水準から遅れていることは有名な事実である。日本はこれまで欧米の先進諸国からは多少遅れていても、発展途上国からは遙かに上の水準にあると自負してきた。しかし、近年はアジア近隣諸国の医学水準の向上は飛躍的である。このままでは、日本の精神科医療は、近隣のアジア諸国からも後れを取り、更には、中東・アフリカ・中南米諸国からも取り残されることになる可能性が現実のものとなるであろう。日本の精神医療を破壊すると主張したいわき病院の無責任なご都合主義が日本の精神医療とその名誉を破壊する事になると予想する。

本件裁判は、リスクマネジメントという観点から、処方変更並びに中止における主治医渡邊朋之医師の医学的観察に加え、患者本人への説明とスタッフ間の情報の共有(いゆるチーム医療)を問題にすべきである。患者の人権を尊重して責任ある精神科開放医療という臨床医療を実践するところから日本の精神科医療は尊厳を保ち発展する。(E鑑定人)


【4】、精神科医療に法律適用の「特例」はあるか?

日本の精神科医療は「精神科特例」が適用されて、他の医療分野と比較して少ない人員(医師と看護師)で多くの患者を治療することが許される「特例」の恩典を受けてきた。これに関して、M鑑定団から次の指摘があった。

医師や看護者当たり入院患者数が一般科よりも多いいわゆる「精神科特例」は,精神科入院医療が,一般医療と比べて質的に劣るものであってよいことが,法的,制度的に容認されたものではなく,精神科特例を取り入れるかどうかは,基本的には経営者の判断の問題であり,また,精神科特例下においても,医療従事者の病棟機能別傾斜配置やトリアージュ(負傷程度に応じて治療優先を決めること)など,柔軟な判断と対応が求められることは,一般医療と同様である。基本情報を踏まえ,さらなる緻密な観察に基づく情報の収集と適切な対応が行われないこと,そのための面接の回数を増やせないこと,タイムリーな危機介入が行われないこと,患者の要望に適切に対応できないことなどを精神科特例という制度のせいにすることはできない。

精神科特例は1960年代から社会保安の役割を精神科医療に求めて精神科医療機関の数を飛躍的に拡大した時代の遺物であり、精神科医療を特別扱いすることが現時点では適切であるとは言えない。今日の精神科医療は精神科開放医療の時代である。精神障害者は精神科医療機関に閉じ込められるのではなく、可能な限り多数の社会参加が求められる。そのためには、精神科医療機関に患者に対するより大きな治療責任が求められる。

精神科医療機関と精神科医師は精神科特例があるから患者に対して不作為の医療を行っても責任を問われないという論理は間違っている。また、裁判所は明らかな不勉強と怠慢と不作作為を容認して、ともかく社会保安の目的で病院数を維持する事情判決を続ける時代ではない。精神科開放医療が促進されるためには、一人一人の精神科患者に対する良質な医療が約束されなければならない。それは、患者に対して不誠実で間違った医療を行った際には、その責任を問うことが前提になる。精神科医療は、他の医療分野と異なる特殊な医療であるとして、「特例」を法的問題で適用することは間違いである。

精神科医療機関と精神科医師にのみ、社会の正義と常識から外れた怠慢・不作為を許すことは、ありえないことである。法的無責任能力に関連して、精神障害者の事情を汲むことはあっても、精神科医療機関と精神科医師には科学技術の世界で論理によって判断されるべきで、法律上の特典は何ら与えられない。


【5】、矢野は健全な医療が野津純一氏に実現されることを望んだ

矢野は「真っ当な精神科医療が行われておれば殺人事件は発生しなかった」と考えて本件裁判を提訴した。刑事裁判で野津純一代理人も同様に発言した事実がある。野津純一氏はいわき病院と渡邊朋之医師の不勉強と、不誠実な医療及び怠慢で、結果的に矢野真木人を通り魔殺人し、その殺人行為により服役している。しかし、野津純一氏が刑事裁判で懲役刑が確定したことは、いわき病院と渡邊朋之医師の責任を免責や軽減する理由にはならない。野津純一氏は一級の精神障害者手帳を持ち、一級の障害者年金を受給する、法的にも真正正銘の精神障害者であるからである。

いわき病院と渡邊朋之医師には野津純一氏の処方変更後の病状変化の経過を観察しないために、結果として犯罪に追いやった責任がある。刑事裁判で野津純一氏に有期刑が確定したことで、いわき病院と渡邊朋之医師の医療的責任が軽減されるという論理はない。野津純一氏に「健全な精神科医療が行われておれば」野津純一氏は他害行為を行う犯罪を行わなかった。また「抗精神病薬(プロピタン)の中断と抗うつ薬(パキシル)の突然の中断」という予め病状の悪化が予想された大規模な処方変更後に適切な医療と看護を行っておれば、野津純一氏は矢野真木人を殺人することはなかった。野津純一氏は本人の放火暴行履歴に基づけば病状が悪い場合には、他害行為や暴行を行う可能性があったが、矢野真木人殺人は他害行為が極端に拡大した結果である。主治医には経過観察を行う義務がある。「精神科開放医療」は「ほったらかし医療」ではない。

矢野は「健全な医療が野津純一氏に実現されることを望み」本件裁判を提訴した。提訴するに当たって、矢野は野津純一氏が「健全な精神科医療を受けられない精神科入院患者の象徴」と考えた。また、大切な息子が何故死ななければならなかったのかを命を落とした本人に成り代わり絶対知りたいと思ったがそれは親としての責務である。いわき病院が訴訟を示談に持ち込み解決すると事件の原因究明ができなくなるため、示談提案を諦めさせる金額として4億3千万円余を請求したものである。この金額は矢野真木人が失った人生の価値の極一部を請求したに過ぎないものである。また、市民と社会に対する犠牲の押しつけには重大な社会的責任と対価が伴うことを承知しなければならない。そして、矢野は、野津純一氏を象徴とする精神障害者の社会参加を約束する精神科医療が確立されることを求めて、今後も裁判を維持する所存である。


【6】、判決といわき病院の医療倫理の問題


(1)、野津純一氏の外出許可に対する医師の責任

  1. 入院は(精神病に関わらず)、患者を医師又はその監督下にある看護師等の注意監視下に置くことで、治療を効率的に行うことを目的とするものであり、入院期間中患者は、自由行動を束縛されることを前提とするものであり、病院の判断によって、患者の単独外出を許可した場合、その患者の外出中の事故等に対して、病院側が責任を負うことは明白である。病院が免責となるためには、いわき病院が、リスクを含む単独外出許可を与えた正当な理由のあることを証明しなければならない。

  2. 判決で、それまでの単独外出によって、問題となる事故が発生していなかったことを理由にして、当日の外出許可は正当であったと判断している。この論理は、鉄道の踏切をおろすことを怠ったため発生した事故について、それまで、踏切のおろし忘れは幾度もあったが一度も事故は発生していないとして、事故に対する怠慢があった踏切番の責任は不問にするのに等しい。

  3. 野津純一氏に対する単独外出許可は開放医療のために不可欠の手段であったという誤った判断がある。開放医療とは、これまでの精神医療に暗い影を落としていた、精神病棟を一般社会から完全に遮断して行う拘禁型治療に対する反省から、とられる開放型の医療体制をいうものであり、病院内で自由度、定期的な帰宅体験、付添外出等、多彩な内容を含むものである。野津純一氏にとって単独外出という「医療ステップ」について、病院側はその正当性を証明しなければならないが、「開放医療のため」、また「これが認められなければ開放医療は成り立たない」という一般論主張にとどまり、外出時の病状確認と両親又は病院関係者の付添外出というステップをなぜふまなかったのか説明されていない。

(2)、治療結果に対する医師の責任

  1. 精神科医療も病気治療であり、医師の治療の可否は、すべて患者への治療効果で判断されなければならない。要するに医師は治療結果に対して責任を負うものであり、患者に起こった不幸な結果に対して、最善を尽くしてなお不可避なものであったことを自ら証明しなければ免責されない。

  2. 本件について、裁判所は、医師の治療が「患者の社会復帰」という崇高な目的のものであったとして、そのための治療の可否については、「正しい目的のためにおこなったものだから正しい」としている。医師が目的とした「患者野津純一の社会復帰への道」を完全に閉ざす結果となった病院の治療に対して「病院の治療がすべて正当であった」とする判決はスジが通らない。



   
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