裁判で勝訴できないか敗訴する場合
(いわき病院事件裁判が社会に問う課題)
いわき病院事件裁判は平成18年6月23日に高松地方裁判所に提訴してから6年半の審議を経て平成24年12月21日に結審し、判決は平成25年3月27日(13時10分)に行われます。
ある記者から「判決の見通しはいかがでしょうか?」及び「納得いかない場合、控訴する予定ですか?」という質問をもらいました。私たち原告は審議された内容は「原告有利」と確信します。しかし、いわき病院がかたくなに否定している「根性焼き」などの事実関係の認定や、「一般の病院の一般の医師に責任を問うべきでない」という論理で、裁判官がいわき病院と渡邊医師に合理的な理由があると考える場合には、医師の裁量権という認識も働いて、被告側が過失責任を問われない判決が出る可能性を否定できないと考えております。
地裁審議中に、裁判長は何回も「この事件は、必ず上級審に持ち上がる、地裁の役割は、上級審での審議に備えた、事実関係と双方の主張の審議を尽くすこと・・」と、発言しました。また、いわき病院の裁判戦略は「上級審での勝訴」であることは明白です。その上で私たち原告は、この事件が日本の精神医療に持つ意味を高め、社会的インパクトを獲得するためにも、地裁レベルの判決で確定せず、上級審、そして望むらくは最高裁で原告勝訴の判決をいただきたいと希望しております。私たちが望む結果は、単にいわき病院に勝訴することだけではありません。判決を通した、日本の精神医療に変革を迫り、人権に関連して社会の動きを一歩前に進めるきっかけ作りです。
いわき病院事件の原告は、殺人事件の被害者矢野真木人の両親である私たち矢野夫妻と、殺人事件の犯人両親の野津夫妻であり、共にいわき病院と渡邊医師の医療に錯誤、不作為、怠慢などがあった過失責任を追及しております。原告野津夫妻の代理人が交代しましたが、新代理人のKS弁護士は、就任直後に開廷した結審法廷の前後に原告側で協議した際に、「私は控訴審から本格始動しますので・・」と、私たちに説明しました。野津代理人も、裁判が地裁レベルで結審せず上級審に持ち上がることを前提にしております。
いわき病院事件裁判の高松地裁判決で、原告敗訴の場合、私たち原告矢野が諦めることはありません。そもそも、一審敗訴で諦めるくらいなら、矢野真木人が殺人されてから7年を過ぎる今日まで、膨大な作業を乗り越えて、ここまでやり抜くことがはできません。過去の裁判では、このような事例で、個人が原告として法廷で闘っても、原告全員が敗訴しており、討ち死にでした。私たち原告矢野はそれを承知して提訴し、敗訴しないためには何をすべきか何を主張すべきかを考えながらここまで来ました。私たちは、仮に地裁で敗訴、高裁でも敗訴、そして最高裁でも敗訴の場合に、それでも社会に何を訴えて、何を残せるか、どのような形で礎になるかを考えて、この裁判に臨んでおり、その手段の一つがロゼッタストーンHP公開です。このような機会を与えて下さったロゼッタストーン社には、大変感謝しております。
いわき病院事件裁判では、原告側は、矢野夫妻も野津夫妻も、代理人交代という試練を乗り越えて、継続して裁判体制を整えております。共に柔な覚悟ではありません。高松地裁審議の最終段階で前の野津代理人が個人的な不始末により退任しましたが、この時、私たちは仮に野津代理人を引き受けて下さる弁護士が現れない場合、原告矢野だけでも上級審の審議を継続する覚悟でした。このいわき病院事件裁判は「殺された被害者の立場」だけがモティベーションで裁判を行っているのではありません。重要な課題は「精神科医療で治療を受ける患者の立場及び治療を病院に任せる家族の立場」です。このため、私たち矢野夫妻は野津夫妻に代理人を置いて裁判を継続するように必死にお願いをしました。私たちが、原告側の裁判体制を維持してきた努力も容易なものではありません。
1、判決を左右する事実認定項目
いわき病院事件裁判の判決を左右する事実関係の認定項目で最も重要であるのは「根性焼き(火傷の瘢痕)を事件前に野津純一が自傷していたか否か」です。いわき病院と渡邊医師は「根性焼きはいわき病院内では自傷していない、12月7日の身柄が拘束された時に根性焼きが確認されたのであれば、同日にいわき病院から外出した後の傷である」と主張しました。A鑑定人は「原告と被告双方に意見の違いがあり、判断しない」との意見ですが、実質的に「根性焼きは無かった」という前提で鑑定意見を述べました。これに対して原告側の鑑定人は全て「警察が把握した目撃情報、検察の写真情報、及び起訴前S鑑定に基づけば、事件前に根性焼きの瘢痕が有ったことは否定できない」との見解です。
いわき病院事件で事実認定や判断を要する項目の中でも重要なものには精神医学的な判断が必要であり、精神科医療の素人である裁判官が判断に迷うと思われます。ところが、根性焼きは野津純一の顔面左頬に「(できてから24時間以上経過した)火傷の瘢痕が有ったか、否か」の問題であり、精神医学的な判断を必要としません。根性焼きの事実認定は、いわき病院内における野津純一に対して行われた精神科医療の事実関係の認定と判断を左右する重大な項目です。例えば、根性焼きが事実認定される場合には「いわき病院内の医療と看護は、患者の顔を見ないで行われていた」という「責任感のある病院ではあり得ないはずの」驚くべき結論が導かれます。
根性焼きに関する裁判官の事実認定の判断は「事実認定する」、「事実認定を否定する」もしくは「事実認定を回避する」の三通りです。根性焼きの事実認定が行われる場合には原告有利であり、事実認定が否定されるか回避される場合にはいわき病院有利で判決が下されるでしょう。この判断は、地裁、高裁、更には最高裁で互い異なるものになる可能性があるでしょう。いわき病院の戦略は「根性焼き全面否定」で、その上で精神医学の大権威者であるA教授による鑑定意見ですので、仮に地裁レベルで事実が「認定」されても、高裁もしくは最高裁レベルで「否定」または「回避」そしてその上で、権威の格差に基づく過失責任を回避する判決を期待しているものと推察でき、「事情判決」を期待していると推察できます。
いわき病院は原告に平成18年6
月に起訴状で根性焼きを指摘された事に対して、「原告は、根性焼きに関する確かな証拠を入手することはできない」と高をくくり、同年7月に法廷に提出した答弁書で、職員が「気がつかなかった」を「無かった」として「全面否定作戦」に出たものと想定されます。根性焼きは警察が犯人確認の証拠とし、野津純一が平成17年12月7日に身柄を拘束された時に取材したテレビの映像は動画でした。このため、原告が根性焼きの瘢痕を確認できる写真を法廷に提出することは不可能と踏んだのでしょう。しかし、原告矢野はテレビ放送のビデオ画面から写真撮影して法廷に提出すると共に、検察からも身柄拘束直後の写真の証拠提出を受けることができました。検察からの証拠提供は、裁判開始当初は困難でしたが、裁判が長期化したためその後に改正された犯罪被害者救済制度の拡充で可能となったものです。
いわき病院が根性焼きを全面否定する作戦に出た背景に「(根性焼きは)判決を左右する重大な事実」という認識を持っていた証拠でしょう。事件直後の精神鑑定でも根性焼きの存在が確認されておりますので、いわき病院は根性焼きに関して事実関係の主張で作戦を誤ったことになります。しかし、その上に権威で法廷における事実認定をねじ曲げることができるか否か、事情の主張が何処まで判決理由に影響するか。これからの根性焼きに関する動向の次第では法廷の信頼性が問われる課題となっております。
以下に、事実認定または評価が争われている項目を列記します。
- 11月23日までの野津純一の病状はどのような状況だったか、また11月23日以後の病状は改善していたか悪化していたか、診察する必然性があったのではないか
- 12月6日の事件前に野津純一は顔面左頬に根性焼きを自傷していたか否か
- 抗うつ薬パキシルの突然中断に関する危険情報を、主治医が事前に知ることができたか否か、また承知する義務が有ったか否か
- 抗精神病薬(プロピタン)、抗うつ薬(パキシル)とアカシジア薬(アキネトン)を同時に中断した処方は適切であったか否か
- アキネトンを中断して生理食塩水を筋注したプラセボテストを開始してから主治医が一回も診察せず、看護師の報告を元にしてプラセボ効果を評価したことは適切であったか否か
- いわき病院は野津純一の放火他害履歴を知りかつ評価することができたか否か
- 渡邊医師は野津純一が他害行為を行う危険性を知り評価することができたか否か
- いわき病院は野津純一に外出許可を出すに当たって、リスクアセスメントとリスクマネジメントを行う必要性があったか否か
- 危険の予見性を判断するには外出許可者の殺人危険率が80〜90%以上であることを原告が証明する「高度の蓋然性」が要件となるか否か
- いわき病院は「一般的な病院」として免責されるべきか否か
- 渡邊医師は「大学病院レベルの医師では無い一般的な医師」として免責されるべきか否か
- いわき病院に過失責任を認定すれば、日本の精神医療が破壊されるとして、過失責任の認定を「事情判決」の論理で回避するべきか否か
2、原告勝訴(いわき病院敗訴)の場合
高松地裁判決が原告勝訴の場合、A鑑定人は「日本の精神医療を破壊する」との鑑定意見で、日本を代表する精神医学者として「精神病院側が敗訴することがあってはならない」という、強い意思表明をしました。いわき病院事件裁判は、本来一病院の不始末ですが、既に「いわき病院」の手から離れつつあります。しかし、「日本では精神科病院と精神科医師の錯誤や怠慢による不始末に過失責任を求めることは許さない」というような論理では、精神医療の改革は期待できません。
原告は私人であり、本来であれば論理と客観性で問題の本質を社会が解明して、率先して改革に取り組んでもらいたいと希望します。しかし、残念ながら、現時点で精神障害者が関係する人権認識で世論の主流は、いわき病院と渡邊医師の論理の側にあります。この人権認識は「事情の論理」で普遍性に欠けるため日本の弱点であり、この裁判を通して変革を迫る要素です。
高松地裁判決で、私たちが勝訴の場合は、手続き的には、「いわき病院さん、お手なみ拝見・・」です。下記に、私ども原告矢野が想定する、いわき病院が考えるであろう、反論のための、論点を記述します。
(いわき病院の主張から、そのままの引用ではなく、原告矢野が編集したものです)
(1)、野津純一の病状は改善していた
野津純一の病状は改善していたのであり、いわき病院は野津純一に対して入院以来14ヶ月に渡り適切な医療を行って、病状は改善していた。処方変更は退院を控えて、一人で生活することになる患者が薬の自己管理を容易に行えることを目指した、最後の調整であった。殺人事件は、野津純一の統合失調症がいわき病院の治療効果で寛解に近い状態の時の、退院を控えた最終段階で発生した。また、懲役25年が確定したことからも、完全責任能力が認定された野津純一が抱いていた、他人には知ることができない個人が抱いた殺意により殺人行動を行ったもので、当時入院させて精神科医療を行っていたとしても、いわき病院が責任を問われる理由は全く無い。そもそも、自由意思を持つ人間の犯罪にまで責任を取らされていては、精神科開放医療は行えない。
(2)、日本の精神医療を破壊する
精神科開放医療は、日本の国際公約であり、後戻りさせてはならない。原告矢野の主張は素人の空論でしかない。また英国側デイビース医師団の鑑定意見は日本の実情を知らない理想論であり、日本の精神医療に定着するはずもない。いわき病院が敗訴すれば、開放医療で社会復帰が可能と思われる患者まで、社会復帰を阻害されることになり、影響が大き過ぎる。日本の精神科開放医療を後退させてはならない。
(3)、根性焼きは無かった
いわき病院の沢山の医師や医療スタッフは全員精神科医療の専門家であり、野津純一に対しても誠実に精神医療意と看護を行ってきた。その全員が、野津純一の顔面にあったと原告側が主張するいわゆる根性焼きを視認していない。裁判所が、専門家の観察と診断より、幻覚妄想が認められた患者の意見及び、素人である原告の意見に従って、根性焼きの存在を認定したことは誤りである。医療現場における専門家の判断は尊重されなければならない。事件直前に野津純一が根性焼きをしていたとする医学的事実は認められない。警察における写真は、その時に医師が確認したものではなく精神医学的証拠とはならない。
(4)、医師の裁量権を束縛することになり精神科医療の発展を阻害する
野津純一の病状は改善に向かっていたのであり、決して悪化していなかった。これに基づいて、主治医は、慎重に診察した上で、処方変更を実行したものであり、処方変更後は医療記録からも病状が悪化していたという事実はない。原告の主張は、事件が発生した事実から後付けで理由をこじつけたものであり納得できない。医師は常に不確定な病状の変化に対応している。そもそも医師の裁量権を侵害している。医師には間違いをしても過失責任を問われない大きな裁量権が許されてなければならず、そのことで、より良い医療と、臨床医療の発展が実現される。素人の倫理や、日本の現実を踏まえない外国の論理で、いたずらな規制を医師に課してはならない。
(5)、野津純一に対する診察を定期的に行っていた
野津純一の診察は、11月23日(水)、11月30日(水)と毎水曜日の夕刻に定期的に行っていた。次回の診察は12月7日(水)の夕刻を予定していたが、昼過ぎに身柄拘束されたために診察ができなかった。12月6日は午前中の外来診察中であるし、定期的な診察の時でもなく、診察をしなかったことで過失責任が発生する理由は何処にもない。主治医は、長期の入院者で、病状が軽快している患者に対して、入院精神療法IIの保険適用基準である週一回の診察を守り、誠実な医療を行っていたものであり、責任を問われるべき理由は無い。
(注:この定期的に診察を行ったと言う主張はこれまでいわき病院側から主張されていない。しかし、渡邊医師の診察頻度を解析すれば、保険支払い基準という配慮があったことは明白である。この入院精神療法IIは、病状が安定している長期入院患者の医療基準であり、野津純一の場合のように、大規模な処方変更後で、病状が不安定になることが予想される状況では、保険支払い基準があるから診察や治療的介入を行わなくても良いとする理由にはならない)
(6)、処方変更は日常普通の医療行為である
野津純一に対して行った処方変更は精神科臨床医療では日常的に行われる医療活動であり、問題にされてはならない。抗精神病薬、抗うつ薬及びアキネトンの中断は医療スケジュールからたまたま一致したものであり、主治医として適当と判断したが、そのことを問題にされる筋合いはない。また処方変更後も入院精神療法IIの保険基準に基づいて週一回の診察を励行して、医師の診察の間の観察は精神医療専門の看護師が適切に行っていた。野津純一の状況は改善していたのであり、医師として不作為等を問われる理由は無い。
(7)、精神科開放医療では事故の発生はゼロにはならない
人間は全て死ぬ決まりであり、医療は最終的にはその現場に立ち会う職責である。また、健常者でも殺人事件はある、病院が患者の原因で発生した事件の全てに責任を取らされることになれば、死に立ち会う度に過失責任を問われる危険性が留めなく拡大する。ましてや、本件では野津純一が殺人する予見可能性に関して「高度の蓋然性」は無い。精神科開放医療が促進される場合、事故が発生する可能性はゼロではない。確率頻度が低い事例で、素人が根拠もない危険を申し立てて、過失責任を追究することは適切ではない。それでは、精神科医療が破壊され、公共の利益に貢献できないことになる。
(8)、リスクアセスメントとリスクマネジメントを要求されると業務過剰になる
リスクアセスメントもリスクマネジメントも完全ではない。行っても殺人事件が発生することはあり得る。その上に、外出許可を出す際の手続きが煩雑になり、業務過剰となるために、実行性がない。その結果、徒に精神障害者の外出を禁止することに繋がり、精神科開放医療の発展を阻害する事になる。
(9)、いわき病院のイメージ作戦
1)、優れた病院と言うイメージ
いわき病院事件裁判の高松地方裁判所結審は平成24年12月21日で、その翌々日の23日に、医療ドキュメンタリー番組(30分)でいわき病院は痴呆老人医療で優れていると報道された。この「優れた医療機関」、「優良病院に過失責任を負わせると公共の福祉と利益に反することになる」といういわき病院の「イメージ作戦+世論操作」は、今後も推進される可能性がある。いわき病院は香川県で最初に日本病院評価機構に認定された優良病院の看板を持ち、病院長の渡邊医師は国立香川大学医学部付属病院精神科外来医師を兼任して大学病院の医師という表看板を持つ。更に、渡邊医師は精神科開放医療を推進する精神医療専門家集団のSST(社会生活技能訓練)推進協会の全国役員であると共に北四国支部長という指導者であり、優良な病院の優良な医師というイメージには事欠かない。しかしながら、事件の本質は現実に行われた精神科医療の実質に責任を問う問題である。最初から、精神科医療は無責任で当然という前提はあり得ないはずである。いわき病院に過失責任を無制限に問わないことが公共の福祉と利益に適うという論理は、法治社会の原則から許されない筈である。
いわき病院は裁判の弁明で「(大学病院の水準ではない)一般的な地方病院の一般的な医師が、パキシル中断の危険性を認識しない医療を行っても過失責任を問うべきではない」と主張した。これに矛盾しているが「優良病院の先生で大学病院にも招かれる優れた先生に過失責任を問うのは間違い」また「理不尽な要求をされて苦しんでいる可哀想な、誠実で善良な先生に過失責任を負わせてはならない」いうイメージ作戦を行う可能性がある。その目的は「事情判決」をいただくことであると思われる。
2)、矢野発言のねつ造と中傷
いわき病院はこれまで矢野夫妻が発言したこともない表現を持ちだして「甲事件原告ら(原告矢野)の発言」として歪曲や中傷をした事実がある。これを再び繰り返して矢野は情動的で主張が常軌に外れている、従って「事情判決」が臨まれるという、イメージ造りの作戦を実行する可能性がある。
(注:原告が指摘した野津純一の殺人行動に関する事項は捜査記録や刑事裁判判決文から引用しており「意図的な創作」ではない。なお、矢野夫妻は「他者の管理下」、「犬が鎖につながれる」とか「猛獣的な気持ち」などという表現や、それを類推させる表現を使用した事実は無い。いわき病院に「お前の発言だ」と非難されて始めて、その言動の背景にあるいわき病院が認識として持つ「非人道性の本質」と「冷酷な姿」に驚いた)
◎いわき病院がねつ造した(仕掛けた)矢野発言や行動の事例
ア、 |
原告は、・・・。この点に関する被告野津の発言は、精神医学的説明は困難であり、信用に値しない(意図的な創作)と考えるのが相当である |
イ、 |
甲事件原告らは、慢性統合失聴者は、そのほとんどが幻覚妄想、思考の歪曲化などにより日常生活が常に他者の管理下でしか行えないと考えている。 |
ウ、 |
同原告らの指摘では、精神症状のため自らの意思で任意入院している患者といえども、犬が鎖につながれていると同様に退院まで誰かが付き添わねば外出できないことになる。 |
エ、 |
被告病院の職員は精神障害者に対して、甲事件原告らが主張するような猛獣的な気持ちでは接していない。 |
|