WEB連載

出版物の案内

会社案内

英国のラボーン事件裁判判決
英国にあったいわき病院事件と類似した事件と裁判


平成24年10月15日
矢野啓司


いわき病院事件で原告矢野が推薦した鑑定者のデイビース医師団から、いわき病院を被告として争っている裁判と似通った裁判(ラボーン事件裁判)が英国であり最近最高裁判所の判決があったとして、情報提供がありました。この事件は2005年4月19日に自殺した精神科病院に任意入院していた患者Mに対する病院の責任が問われたものです。矢野真木人殺人事件は2005年12月6日でした。ラボーン事件裁判の英国最高裁判決は2012年2月8日でした。英国と日本の双方で同時進行の裁判が行われ、任意入院の精神科患者による人命の損失(英国の事件は自殺、日本の事件は他殺)に関連した病院の責任が問われていました。日本の裁判は未だに第一審を審議していますが、英国の裁判では最高裁判所の判決まで至りました。英国の事例は精神科医療の本質や人権また患者保護、医師の責任、更には近年における精神障害者を巡る課題に関連した国際的な潮流等を考える上で、大変参考になります。

それにしても、日本では精神障害者が自殺した場合には「本人が勝手に死んだ」として入院治療中の病院の責任が問われることはありません。矢野真木人殺人事件後で数年前に私が傍聴した精神障害者の犯罪に関連したシンポジウムで発表者が「精神障害者の自殺は問題にならない」と発言しました。また、いわき病院でも矢野真木人殺人事件の前後に複数の患者の自殺があったという内部情報があります。日本では入院中の精神障害者が自殺することはそれ程珍しいことではありません。デイビース医師によれば英国では患者の自殺は稀な事件であり、矢野真木人殺人のような他殺事件はほとんど無いそうです。日本でも、入院患者が自殺しない精神科医療、市民の生命に危険が及ばない精神科医療は実現可能であるはずです。

英国の事例ではNHS(国営健康事業)基金が運営する公立病院で発生した任意入院していた患者の一時帰宅中の自殺事件に病院側の責任が問われました。いわき病院は民間病院なので「公立病院と民間病院では問題が違う」と主張するかも知れません。しかしいわき病院の運営には健康保険や国民健康保険資金が投入されており、実質的に国民の社会保険負担及び税金負担でまかなわれており、社会的責任を果たす義務がいわき病院にはあります。この意味で、いわき病院に問われる責任は大きく、社会に対して公正な医療を行う義務があります。

(以下の報告は私どもが法廷に提出したラボーン事件に関する資料に「被告」の文字を削除するなどの手を加えたものです。また英語の原文を参照されたい方は、英(UK)最高裁判決文のURLを参考にして下さい。)


1、ラボーン事件の概要

この資料はデイビース医師団から提供を受けた、いわき病院事件裁判の野津純一による矢野真木人殺人事件と同時期に英国で発生したラボーン事件に関する2012年2月8日の英国(UK)最高裁判所判例である。事件内容は精神障害者の自殺と治療していた病院の責任を問うものであるが、本質的な問題点の多くは、いわき病院事件裁判と極めて類似している。

いわき病院事件裁判で、いわき病院は第11準備書面(平成22年12月17日付け)で「高度の蓋然性」を原告が証明することを要求し、「本件犯行が発生し、亡矢野真木人が死亡したとの可能性が、80〜90%程度以上の確率を持って証明できなければ、先例に照らし、およそ「高度の蓋然性」という因果関係認定の要件を充足するに足りないことは明らかである。」と主張して、いわき病院の外出許可により野津純一が殺人を行う「高度の蓋然性」(その主張の実態は、外出許可を受けたほぼ全ての患者が殺人という重大な他害行為を行うことを許容する主張である)を示す殺人が発生する確率があったことを証明することを原告に求めた。またいわき病院は野津純一が任意入院であることを免責の理由とした。更に抗精神病薬の中断、パキシルの突然の中断、アキネトンを中断して薬効がない生理食塩水に変更した処方変更、及び処方変更後に医師の診察が極端に少なかったことも、医師の裁量権の範囲内にあり責任を問えないとした。

英国(UK)ラボーン事件裁判で検討された精神障害者の人権擁護に関する論理には、いわき病院事件裁判の参考となる考え方がある上に、精神障害に関係する医療と人命の損耗に関連する国際的な認識の動向等に関係する視点に光明をもたらすものである。またいわき病院は「高度の蓋然性」を主張することで、精神障害者の人権を尊重しない精神科医療を行い、更には市民の生命に犠牲が出ることを容認しており、延いては、精神障害者と精神科医療に対する社会の信頼を損なっていることは明白である。英国で行われた社会の信頼を獲得する精神科医療に対する試みは、いわき病院事件裁判でも大きな参考となる。


(1)、精神障害者の人権と生存権

英国(UK)ラボーン事件は英国内法(ヴィクトリア憲章第9条)および国際法(ヨーロッパ人権条約第2条)に基づいて判決されており、わが国の国内法に基づくいわき病院事件裁判とは律する法体系が異なっていることが前提である。しかしながら、精神障害者の人権を巡る国際的な判断基準の動向の現況を示す証拠として極めて重要な英国(UK)最高裁の判例である。

精神障害者の人権の問題はいわき病院が第1準備書面(平成19年2月7日付け)で『第二次世界大戦後の国際社会においては、精神病患者に対する治療の目的が、治安維持による社会防衛ではなく、患者の保護及び社会復帰にあると言うことが明確に位置づけられ、国連の非政府間国際機構である国連人権連盟や、国際保健専門職委員会(ICHP)、国際法律家委員会」ICJ)等の国際機関が中心となって、国際社会における精神病患者の人権抑圧の改善、精神保健サービスの改善・充実に尽力しているところである。さらに1991年の国連総会決議では「精神病者保護及びメンタルヘルスケア改善のための原則」が採用された』、また『わが国の精神科病院における人権侵害の現状は一朝一夕のうちには完全に解消されず、このことが国際的関心事となり、昭和59年に国際人権連盟は日本の精神科医療を公に批判し、昭和60年に国際保健専門職委員会(ICHP)及び国際法律家委員会(ICJ)が日本に調査団を派遣したうえ、日本の精神医療の時代遅れを指摘するとともに、精神障害者の人権が保障されていないと批判し、精神保健サービスの改善等の勧告を日本に出している。すなわち、わが国の精神科医療は世界的に見て、患者の自由、保護を守る側面において遅れているとの認識で一致しているのである。』そのうえで、『本件のように精神科医療の途上で発生した事故に対する医療側の責任をどのように判断するかという問題は、国際社会におけるわが国の精神科医療をどのような位置に置くことになるかという問題と極めて強く結びついているのである』と主張した。

いわき病院事件裁判では精神障害者の人権に関連する国際的な動向も判断基準となるものであり、これに関していわき病院に異存は無いものと考える。


(2)、任意入院患者の外泊許可と医師の責任

英国(UK)ラボーン事件は、精神科病院に任意入院していた強度の精神症状を伴ううつエピソードを持つ患者M・ラボーンの外泊許可の運営に係る病院と主治医の業務義務(operational duty)を問うものであった。いわき病院事件裁判は、被告いわき病院に任意入院していた精神病患者(統合失調症)の外出許可に関連して発生した殺人に対する病院と主治医の業務上過失責任を問うものである。共に病院外における外出・外泊許可を受けた任意入院患者が行った生命奪取に関係しており、極めて近似した事件である。


(3)、自殺危険率と病院と医師の責任

英国(UK)最高裁判所は2012年2月8日の判決で、精神科病院に任意入院していた患者の自殺危険率(リスク)が5%〜10%と極めて低い又は中程度に低い程度であっても、外泊許可を受けた患者が自殺を実行することの予見性に関して「現実的かつ緊急性」があったことを認定して病院と医師の過失責任を認めた。

いわき病院事件裁判でいわき病院は80〜90%程度以上の他殺率という極めて高い「高度の蓋然性」を主張している。英国(UK)最高裁の5%〜10%という極めて低い自殺危険率でも病院と主治医の責任を求めた論理は、いわき病院事件裁判においても貴重な論理および殺人と自殺の危険率に関する国際的な常識観を提供するものである。


(4)、医師の裁量権と業務責任

英国(UK)ラボーン事件裁判で病院側は「精神科病院と医師側は医師の裁量権は法に基づく怠慢の認定基準より更に幅広いものである」と主張したが、英最高裁は合理的で適切な手順を踏んでいない場合には医師は裁量権の主張はできないと判断した。医師の裁量権は無原則に拡大して通用するものでないとしたことが重要な論点である。


2、任意入院精神科患者の自殺防止にかかる業務義務

    ■英国NHSが公開しているラボーン事件要約(翻訳:矢野啓司)
    http://www.hrlc.org.au/court-tribunal/uk-court-or-tribunal/rabone-anor-v-pennine-care-nhs-foundation-trust-2012-uksc-2-8-february-2012/

(1)、要約

英国(UK)最高裁判所は任意入院精神科患者の自殺リスクに対する病院の保護義務不履行に関連した判決において国家の人権擁護義務を拡大した


(2)、事実関係

病院はM・ラボーン、強度の精神症状を伴ううつエピソードがあり重大な自殺未遂後に1週間入院していた若い女性、の求めにより週末の一時帰宅を許可した。その時の介護計画は、同女の帰宅に同意していない両親に介護を任せることであった。翌日同女は公園の木で首つり自殺を行った。父ラボーンはNHS基金に対してMの遺産権に基づいて怠慢による損害賠償請求を行った、また同人とラボーン夫人は人権及び基本的自由の保護のための条約(ヨーロッパ人権条約)第2条に定められた生命権違反を申し立てて自らの損害賠償請求を行ったものである。病院はMに対する怠慢による責任を認め本人の遺産権として7500ポンドを支払った。しかしながら病院はヨーロッパ人権条約第2条に定められた生命権の侵害は否定していた。


(3)、判決

英国最高裁判所はラボーン夫妻の主張を支持し、ヨーロッパ人権条約第2条の生命権を侵害したとする判決を下した。判決理由は次の通りである。

■ヨーロッパ人権条約第2条の規定:「すべての者の生命に対する権利は、法律によって保護される」。この規定はヨーロッパ人権裁判所の解釈で国家に次の3項の義務を課しているものとされる:
  • 時効で無効となった例外的な状況で生命保護の停止を差し控える消極的義務
  • 国家が責任を有する可能性がある死に関連して適切な公開調査を行う積極的義務
  • 一定の条件に基づいて生命保護を行う積極的義務。特に、この第3義務は国家の法の支配の下にある生命を守る適切な手段を講じる責務を課す(「業務義務(operational duty)」として知られる権利)
■業務義務(operational duty)に関連して明確な定義はないが、以下の要素が関係するものとされる:
  • 被害者の脆弱性
  • 国家は個人の福祉と安全に責任を有すという前提(支配権:exercise of control を含む)
  • 現実かつ緊急的な生命の危険性
  • 普通では個人が生命の危険にあると考えられない例外的な生命の危険

これらの要素に基づけば、Mは任意入院で国家が措置入院としていない非公式の患者であるが、同女に現実的な自殺危険性があり極めて脆弱であるために入院していたことは明白である。病院は必要であればMに特定されていた自殺危険性に対して保護目的で措置入院にする権限があった。それ故、病院には同女に対する責任があった。

結論として、医療的証拠に基づけばMの自殺危険性(リスク)は低度〜中度(わずか5〜10%程度)であるが、この程度の危険性でも危険性無しもしくは架空とすることはできない程度に実質的意味がありかつ有意な兆候である。Mの危機(リスク)は本人が病院に入院した時点から自殺を完遂するまで持続して、結果的に「緊急かつ現実的」となったが、危険性(リスク)は低いという蓋然性はあったものの「現実的かつ持続的」であった。以上により、この事件では業務義務が存在したが、問題はこの義務不履行が如何にして発生したかというところにある。

この点に関連して、病院が危険認識を持つべきであり、かつ危険性の認識を保有すべきであったことに関して疑問はない。その上で、病院は怠慢を認めることは自動的に業務義務不履行を認定することにはならないと主張したが、業務義務の認定に関する基準は怠慢に対する場合と同様に合理性である。それ故、本件が置かれていた状況、及び予防措置を導入することや入手可能な(情報などの)資源を得る事の容易性や困難性などを検討することが必要である。本件では、Mの独立性も対象になる。一般的な立場に立てば、Mの帰宅を合理的に説明できる精神科医師がいなければ、病院はMの自殺を防止するために可能な全てを行うまでに至らなかったことになる。


(4)、ヴィクトリア憲章との関連性

本判決は(人権と責任に関するヴィクトリア憲章第9項)の生命権の規定に関連する業務義務が任意入院(措置入院ではない)精神科患者の自殺リスクの可能性を検証した最初の判例である。本件は生存権の発展に寄与し、生命を保全する積極的な権利が存在することを確認した事件である。

ヴィクトリア憲章にはラボーン夫妻から請求された賠償手段に関する規定は無いが、病院側が「ラボーン夫妻はヨーロッパ人権条約に基づいて請求権を持つ被害者に該当しない」とした主張で破れたことは記録に値する。ヨーロッパ人権裁判所は再三にわたり「死者の家族は自らの権利として人権条約第2条の規定に基づく調査義務並びに関連する義務に関して提訴することが可能である」と述べている、またラボーン夫妻が怠慢に関連した請求で賠償金を既に受け取っていた事実はヨーロッパ人権条約第2条の請求を妨げない。


参考(以下は、訳者が挿入したものである)

(1)、人権及び基本的自由の保護のための条約(ヨーロッパ人権条約),
   213 U.N.T.S. 222,  効力発生 1953年9月

第二条(生命に対する権利)

すべての者の生命に対する権利は、法律によって保護される、何人も、故意にその生命を奪われない。ただし、法律で死刑を定める犯罪について有罪の判決の後に裁判所の刑の言い渡しを執行する場合は、この限りでない。

生命の略奪は、それが次の目的のために絶対に必要な、力の行使の結果であるときは、本条に違反して行われたものとみなされない。

(a)

  不法な暴力から人を守るため

(b)

  合法的な逮捕を行い又は合法的に抑留した者の逃亡を防ぐため

(c)

  暴力又は反乱を鎮圧するために合法的にとった行為のため


(2)、ヴィクトリア憲章第9項   Right to life
Every person has the right to life and has the right not to be arbitrarily deprived of life.
全ての人間は生命権を持ち個人的な意図により奪われることがあってはならない

3、ラボーン事件に係る英国(UK)最高裁判決
自殺リスクに関するNHS基金と精神科医師の業務責任
翻訳:矢野啓司 (本表題は翻訳者が作成した)

Rabone and another (Appellants) v Pennine Care NHS Foundation Trust (Respondent)
before Lord Walker、Lady Hale、Lord Brown、Lord Mance、Lord Dyson
JUDGMENT GIVEN ON、8 February 2012、Heard on 7 to 9 November 2011
http://www.bailii.org/uk/cases/UKSC/2012/2.html

英国最高裁判決文からいわき病院事件裁判と関連性が高い第33章〜第43章を抜粋した。
  訳者注:下記で【訳者の説明記述】の部分は、判決文にはない訳者のコメント挿入である。

33、

本裁判官【Lord Dyson:ダイソン卿】が既に論じたとおり、ヨーロッパ人権裁判所は非公式【任意入院】の精神科患者の自殺に対して業務義務が存在するか否かに関しては検討していない。しかしながらストラスブルグ判例に基づけば少なくとも国家の管理下にある場合には現実的かつ緊急の自殺リスクから個人を保護する義務が存在する。他方、ヨーロッパ人権裁判所は一般的なケースでは医療怠慢はヨーロッパ人権条約第2条の業務義務に該当しないと言及した。


34、

それでは非公式【任意入院】精神科患者であるMの場合はどちらに該当するであろうか?本裁判官はNHS基金が現実的かつ緊急の自殺リスクから同女を保護すべき合理的な手段を講じる業務義務を有すことに関しては疑問の余地はないと考える。2005年4月19日に現実的かつ緊急の自殺リスクがあったか否か(そうであれば、義務不履行があったか否か)は本件では二次的な問題である。しかしながらその時点でNHS基金が認識していたか認識すべきであった現実的かつ緊急の自殺リスクがあったとすれば、その場合には本裁判官はMを自殺リスクから保護する合理的な手段を講じるべき義務があったと判断する。Mは現実的な自殺リスクを有していたが故に入院を許されていた。同女の精神状態の故に同女は極端に脆弱であった。NHS基金は同女に対する責任を負っていた。同女はNHS基金の管理下にあった。同女は措置入院ではなかったが、同女が外出にこだわった場合には同女を外出させないために精神保健法【MHA: Mental Health Act 1983】の権限を行使することが可能であり、かつまた行使すべきであったという点は明白である。ところで、本裁判官は現実問題としてNHS基金が同女の外出を不許可にした場合には同女は外出にこだわらなかったと予想された点を確認した。このことはNHS基金がMを管理していたことを示すものである。現実問題として、同女と仮定措置入院患者の立場の違いを検討しても仮定措置入院患者(措置入院をしている事を除けば)はMが置かれた状況と近似し本質的な違いは認められない。同女が置かれていた立場はこのような仮定患者に極めて近いものであり、身体的病気をもとに公立病院で入院治療をうける患者とは異なるものである。これらの要素を合一すれば、ヨーロッパ人権裁判所は本件の場合には業務義務を認定するものと本裁判官【Lord Dyson:ダイソン卿】は結論した。


以上、第1の問題点の判決部分

第2の問題点:

2005年4月19日にNHS基金が承知していたか承知すべきであったがそれを避ける為の合理的な手段を講じる事がなかった「現実的かつ緊急」の生命リスクがMにあったのではないか?


35、

第1の問題点に結論を出すに当たって、【一審】裁判官と控訴審の双方は残された全ての問題を徹底的かつ簡潔に判断した。第2の問題点に関連して、Simon J【一審裁判官、ヨーロッパ人権条約第2条の不履行では無いと判決した】は自殺危険率に関して4月19日(Mが病院から外出した直後)に5%、4月20日に10%、また4月21日には20%と推計したカプラン医師(NHS基金専門職精神医)が提出した証拠を採用した。一審裁判官は自殺リスクが「低度〜中度(しかしながら、有意)」と判断した。一審裁判官は現実的な自殺危険性はあったが、緊急の自殺リスクではないと結論付けた。Mの自主性を尊重しつつ合理的に自殺リスクを回避する手段を考察するにあたり、一審裁判官はヨーロッパ人権条約第2条の不履行があったとする立場を取らない。控訴審は自殺リスクが実質的にあったことを認めまた緊急性も高いと認定した。ヨーロッパ人権条約の不履行に関連して、控訴審は自殺が行われることを防止することは簡単でMに帰宅を許可しなければ良かったとした。Mの要請が拒否された場合、控訴審裁判官は医療的判断に反して本人はそれ以上帰宅にこだわることはなかったと判断した。このような状況判断に基づき、控訴審はNHS基金に業務義務の違反があったと裁定した。


36、

NHS基金は控訴審判決の全てに関して異議を唱えて上告した。NHS基金によれば自殺リスクは現実的でも緊急的でもなく、NHS基金による業務義務の違反は無いと主張した。クラス・フィスク女史【NHS基金法廷代理人】は、常識的に言えば(現実的で緊急の生命の危機)に関する業務義務の臨界レベルは高いと強く主張した。以下参照、判例、Lord Rodger、Savage case [2009] AC 681第41章、第66章 「高い臨界レベルがあり義務不履行を認定することは困難、単なる怠慢」。 参照、Baroness Hale判例第99章。


37、

本裁判官は業務義務違反を認定することは単なる怠慢を認定するよりも困難であることに同意する。怠慢を証明する場合には、危険性が現実的かつ緊急であったところまで証明する必要は無く、損害を受ける危険性が合理的に予見可能であることを証明すれば十分である。しかしながら業務義務違反の検定では怠慢の場合よりも判定基準が高く厳しいという事実が、「現実的かつ緊急」の意味や、特定の事件の事実関係に関して現実的で緊急の危険性(リスク)があるか否かの問題に影を落してはならない。


38、

本裁判官は、本件でMの自殺リスクは「現実的」であったと判決することは正しいと考える。カプラン医師が提出した証拠に基づけば、Mの自殺リスクは実質的かつ有意であり、かけ離れた空想では無い。カプラン医師とブリット医師(原告側専門家精神科医師)は一般的な責任感ある精神科医師であればMの自殺リスクは保護が必要な状態にあったと判断することに同意した。両者の意見に基づけば自殺リスクは現実的であった。本裁判官は、クラス・フィスク女史の「相当に高い程度の危険性がなければならなかった」という見解は採用しない。ストラスブルグ・ヨーロッパ人権裁判所の判例にも上述の見解を支持するものは無い。


39、

自殺リスクに「緊急性」があったか否かという点に関連して、クラス・フィスク女史は「緊急的」な自殺リスクは切迫してなければならないという事実を控訴審が考慮してないとした意見を提出した。女史は「切迫した」という用語を以下に準拠した。判例Lord Hopeハートフォードシャー警察長官Van Colle [2009] 1 AC 225,第66章、及び判例 L [2007] 1 WLR 2135, 第20章、Lord Carswellは「緊急的」なリスクの意味に関して「現実的で持続的」と適切に要約した。本裁判官は「緊急的」という日常的な言葉の意味を説明するために他の言葉を用いることには慎重であるべきという見解を持つ。しかしながら本裁判官は「現実的かつ持続的」という語句に意味する本質があると考える。この考え方は未来の何時かに発生する危険性ではなく、職務義務不履行の嫌疑がかかった時点における自殺リスクに焦点を当てるものである。


40、

本裁判官はこの考え方はストラスブルグ・ヨーロッパ人権裁判所判例に沿うものであると考える。判例Opuz v Turkey (2010) 50 EHRR 28, 第134章で、ヨーロッパ人権裁判所は「被害者の健康と安全に対する持続的 な脅威」(強調 は本裁判官による)と断定した、それ故に緊急的な危険性(リスク)があった。判例Renolde v France (2009) 48 EHRR 969で、物故者は本人の死の18日前に自殺未遂を行っており、その後にも心配行動のサインを出し続けたが自傷行動は行わないでいた。ヨーロッパ人権裁判所は判例第89章に「本人の状態と次の自殺行動を行うリスクの緊急度に変化はあったが、裁判所は自殺リスクが現実的でありかつ【自殺者】に対しては突然の状態悪化に注意深い観察を行う必要性があったと考える」と記述した。自殺リスクには、ヨーロッパ人権条約第2条の請求を行うに足りる十分な緊急性があった。死の直前に自殺リスクが顕著であるべきという必然性は無い。


41、

本裁判官の見解に基づけば、2005年4月19日にMが帰宅を許された時に本件にかかる自殺リスクに緊急性があったと控訴審が認定したことは正しい。同女が一時帰宅中の2日間に自らの命を奪うであろう現実的なリスクが存在していた。このことは自殺リスクが存在して、持続しており、それ故に緊急性があったと認定するに足りる予見である。本裁判官は、これに反する判決を下す理由を見出さない。


42、

最後に業務義務不履行の問題がある。NHS基金には自殺リスクを承知すべき義務があったことに関して疑問の余地はない。それでは基金は自殺危険性を回避するために合理的で必要な手順を全て踏んだと言えるか?クラス・フィスク女史は、ミーガー医師【Mに外泊許可を与えた精神科医師】には法が容認する怠慢の範囲より幅広い「裁量権の許容範囲」があり、NHS基金がその怠慢を認めてもそれにより自動的に医師がヨーロッパ人権条約第2条の不履行を行ったことにはならない、とする見解を提出した。自殺を実行する危険度は低かったという裁判官の事実認定に基づけば、2005年4月19日にMを帰宅させる決定をすることは適切でありミーガー医師の決定権の許容範囲【医師の裁量権】内であったとする見解をクラス・フィスク女史は法廷に提出した。


43、

本裁判官【Lord Dyson:ダイソン卿】は、この見解を採用しない。業務義務の遂行に関して求められる基準は合理性である。「事件が置かれた環境、特に予防的措置を採用することが容易か困難か、手元にある【情報など】資源」を考慮する。判例Lord Carswell In re Officer L ([2007] 1 WLR 2135, 第 21章)参考。本件では、Mの個人的独立性を尊重することも考慮する必要がある。しかしながらMに2日間の一時帰宅を許可することは通常では精神科医師は行わないという点で一致している。この条件の下では、【医師の】識別力の幅を頼みとすることは不適切であると考える。NHS基金はMの自殺に関連して緊急性あるリスクを合理的に防止することを期待できることの全てを行っていない。控訴審判決は正しいと判決する。



上に戻る