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「いわき病院事件」報告
いわき病院側鑑定意見書に対する原告矢野の反論


平成23年9月19日
矢野啓司・矢野千恵



 II、原告矢野の反論

平成23年7月29日付け、A大学教授医学博士B氏が本法廷に提出した鑑定意見書に以下の通り反論します。

原告は、矢野真木人殺人事件に関係した事実を客観的に認識して解明することは、日本の精神医学に貢献することであると確信します。本件裁判で判定されるべきは、客観的な事実に基づく怠慢と過失の認定であり、その判断を権威に委ねることではありません。


1、反論主旨

B鑑定意見書は「最初に結論ありき」で、一般論に留まり事実に基づく検証がされておらず、こじつけに近いものです。B教授は、平成17年11月23日から純一に施行された処遇(複数の重大な処方変更後の病状変化、経過観察、治療、看護及び外出管理)に焦点を当てず、その代わりに全入院期間を論じ、一般論として個別項目別に議論をして、過失責任は無いとして鑑定意見を提出しましたが的を外しております。特に12月1日のプラセボ試験開始後に最終診察日を恣意的に変更したうえで裁判所が作成した争点整理案にも記載されている自傷行為の根性焼きに触れておらず、いわき病院の過失を正面から論じておりません。B教授が展開した論理は、「大学医療に携わる最先端の精神科医療を行っている特別の医師以外の、一般の精神科医師」には精神医学の基礎知識が無くてもかまわないとしており、本件訴訟の判決参考資料とするには問題があります。


2、B鑑定意見書の効力

B鑑定意見書は高度な専門家に期待される学術的な普遍性と客観性がいわき病院と渡邊医師を免責にする目的のため蝕まれて、数々の論理矛盾があります


(1)、鑑定の意義

原告矢野は「鑑定意見書」の本来的な意義は、精神医療の高度な専門家が、被告側もしくは原告側いずれの立場に立脚するにしても学者としての良心に則って、「訴訟の局面で本質的な争点に関連した、ある断面を科学的又精神医学的に透視して、そこにある根源的な問題を見通し、事件の本質と留意点を理論的に開示するもの」であると思量します。精神医療は社会的存在です。このため、理想的な中立の立場を原告は被告側鑑定人に求めませんが、透明性と客観性に裏付けられた学理により、事実を解明する姿勢を期待しました。

本来B鑑定人には、すべての原告、被告の主張事実を踏まえて発言することまでは、求められません。しかしながら、鑑定意見には、精神医学者としての本分に則って、精神医療の本質を見据えて、事件の背景を展望する「虹」の役割を果たす普遍性が期待されます。その「鑑定の虹」は、業界の独善を排して、本質的なところで、精神医学の発展と精神医療の改善に至るものであることが望ましいと思われました。


(2)、嘱託事項と根性焼き

B教授は根性焼きを無視して鑑定意見を書きました。根性焼きはいわき病院代理人の嘱託事項の2の項目にはありませんが、嘱託事項の3「その他、本件殺人事件に関し、いわき病院での野津の処遇について、精神医療における水準に照らして、これを逸脱する不手際は認められるか」に該当します。根性焼きは純一が他害行為をする行動の予見可能性を検討する上では重大な要素であるため、B教授は根性焼きを鑑定意見書で考慮するべきでしたが、「根性焼きを無視しないと都合が悪いから、言及しなかった」と思われます。


(3)、業界を守るという結論ありき

B鑑定意見書は「はじめに『精神医療業界を守る』という結論ありき」です。全ての論点についていわき病院と渡邊医師に落ち度がないことの弁明に終始した姿勢が貫かれており、結果として、無責任で反社会的な要素を容認しています。精神科病院は自分の病院にある入院患者の入院前問診すら調べる必要もなく、患者の精神状態の推移を観察する必要もないと主張しているなど、精神科医として誠実性を疑わせます。B教授には前提として、精神科医として学識と経験のある医師が下す判定は「とにかく正しい」としなければ、日本の一般の精神病院は成り立たない、という主張があるようです。大局観を持って国民の健康な生活を確保するという大義が見られません。


(4)、無過失を証明してない

B鑑定意見書は訴訟に関連した重要な精神医学的問題の全てに答えておりません。B鑑定意見書は、いわき病院内で純一が自傷していた根性焼きなど重大な事象を検討しておらず、限定的であることに留意する必要があります。B教授の鑑定意見書は、いわき病院側の利益擁護を目的として、根性焼きから的を外し、渡邊医師が人証で証言した最終診療日を変え、診察時刻を捏造し、不都合な所に触れずに、いわき病院と渡邊医師が純一に対して行った精神科臨床医療に、精神医学的な根拠を与えようとした努力の成果です。そのことがB鑑定意見書の価値を大幅に減じております。根性焼きを取り上げず、最終診察日を違え、診察時刻を捏造したB鑑定意見書は、無過失を証明しておりません。


(5)、入院医療契約の債務不履行と違法行為

B鑑定意見書が言及しない精神医学的以外の問題点として、いわき病院と純一の間には入院医療契約の債務不履行、医師法と精神保健福祉法に関連した違法行為、更にレセプトの不正請求などの反社会的行為等があります。また、いわき病院が純一に対して施行した精神医療には、倫理的側面や社会的規範からの逸脱等の要素があり、これらの側面からも過失賠償責任が発生します。


(6)、普遍性が持つ効力の欠如

原告矢野はB教授の鑑定意見書に高い精神医学的な学理に裏付けられた普遍性と説得力を期待しました。しかし残念ながら、いわき病院と渡邊医師を弁護するという責務があるためか、多くの箇所で前段の普遍的見解が、後段では事実が歪曲されて普遍性が持つ効力が失われております。

日本の精神医療のレベルは基本的に極めてお粗末とよく言われます。原告矢野は、B教授が「一般の精神科病院の一般の精神科医師」という弁論論理を堂々と展開したことに驚きました。それには、精神医療を普遍性の視点から評価する姿勢が何処にもありません。また日本の精神科医療の基本レベルでの質の維持と、長期的な視点に立った水準の向上という、精神医療の施行を通した社会正義の視点も見当りません。鑑定人の恣意にまかされた、極めて場当たり的で、責任感のかけらもない屁理屈をこねれば何とでもなるという、主張です。それは、いわき病院と渡邊医師が実現していた、怠惰で錯誤が多く無責任な精神科臨床医療と軌を一にする主張であることが残念です。

B鑑定書は、一般論としての意見では、中立性、客観性を装いながら、肝心の部分では、すべての論拠を明確にした上で客観的な判断を下すという、専門家鑑定に求められる科学的客観性を放棄して、都合のよい資料だけを取り上げ不利なものを無視しています。更に、原告と被告側の法廷資料は価値が低いとしたために生じた証拠と事実確認不足による勝手な推測でいわき病院に責任がないと主張しているにすぎません。


3、B教授の事実確認の問題

B教授の鑑定意見書は以下の通り事実関係を誤認した重大な問題があります。


(1)、渡邊医師の最終診察日

B鑑定意見書は、被告法廷代理人が署名押印した証拠説明書が添付されており被告法廷代理人が承認して提出した文書ですが、渡邊医師が人証時に宣誓の上で行った証言内容(最終診察日の11月30日)の日付変更を行っております。

渡邊医師は平成22年8月の人証で、「カルテ日付11月30日が本当は11月23日、かつ日付12月3日は11月30日の誤記載」と確定証言をしました。ところがB教授は11月30日を23日に訂正した方だけを採用して、12月3日の日付訂正を無視しました。都合が悪くなれば「訂正を再び元に戻す行為」で、いわき病院がB教授に対して「12月3日でした」と再訂正したのであれば、偽証を問われる行為です。最終診察日の日付変更は鑑定結果に大きな影響を与える事実の操作であり、日付変更に直接間接に関連した鑑定意見は全て虚偽の内容と判断されるべきです。

いわき病院は11月23日以降の薬事処方をこれまでに3回変更しました。B教授も「11月23日渡邊医師との面接(注:診療録では30日と記載されているが、記載の後にある作業療法や外泊許可の日付から23日に行われた問診の記録のように思われる)」と記述しており、診療録の記載に不自然な部分があることを認めました。度重なる診療録に記載された日付と処方内容の訂正は、診療録記載の不自然な部分と合わせれば、カルテ改竄を強く示唆します。また、いわき病院はレセプト12月分で入院精神療法IIの点数を請求しておりません。これは、渡邊医師の「12月3日の精神科診察はしていない」という自己申告をした証拠となる記録です。

渡邊医師が、プラセボ試験として純一に筋肉注射するアキネトンを実際に生理食塩水に代えたのは12月1日夜(21:20)でした。渡邊医師が12月3日に純一を診察したのであれば「インフォームド・コンセントを無視したが、プラセボ試験の効果判定をした」と主張することができる可能性がありますが、11月30日が最終の診察日であれば「効果判定を行わなかった事実が確定」します。このためB教授が12月3日に日付を再び変更することは誤認であり、かつ重大事実の事後の変更です。


(2)、根性焼き無視

根性焼きはいわき病院がB教授に嘱託した項目には入っておらず、B教授は純一が顔面左頬に自傷した根性焼きを無視して鑑定意見書を提出しました。統合失調症患者の自傷行為は精神保健福祉法に基づく外出許可の認定及び他害行為の予見可能性と結果の回避可能性の議論に影響する重大な要素です。B教授がいみじくも記載したように、「統合失調症による人格変化の結果としておこる人格障害を有する純一」の自傷行為は、精神医学的に重要な事実、でした。B教授は精神医学者として自らの判断で根性焼きを評価した上で、鑑定意見書を執筆する必然性がありました。

根性焼きは、B教授が最重要と指摘した資料及び高松地方裁判所作成(平成22年7月)争点整理案に記載があります。特に警察が撮影した写真は重要です。更に、身柄拘束直後の12月7日高松南署と12月11日高松北警察署での純一供述、S鑑定に根性焼きをした経緯が書かれています。12月7日供述では、「問(左の頬に火傷のような跡がありますが、それはどうしたのですか)、答(3日ぐらい前、病院の中の喫煙所でタバコを吸っていたとき、衝動的というか何か訳がわからなくなってタバコの火を自分に押しつけてできたもの)、12月11日の供述では(タバコを吸うことを邪魔されてイライラし激情していたので12月6日の数日前からタバコの火を左手の人差し指の付け根とか左頬に持っていき根性焼きをした…イライラしていたので腹立たしさを押さえるためにやった、根性焼きをすると心がすっきりした)、(12月6日の事件前には根性焼きでは心がすっきりしないくらいイライラしていた、誰でもいいから殺してやろうと考えた)」と記録があります。

12月7日供述の3日前は12月4日で、生理食塩水筋注のプラセボ効果が消失し、生理食塩水の筋注に代えてアキネトン筋注を考慮してもよい状態(=治療的介入が必要)とB教授も認めた日です。B教授が根性焼きに触れずに鑑定意見書を提出したことは、鑑定に当たって必要欠くべからざる事実を無視しました。B教授は根性焼きを嘱託事項で「質問されてないから答えない」、「聞かれた範囲ではいわき病院に責任は無い」という姿勢ですが、科学者として誠実ではありません。B教授は「平成17年12月当時の一般精神医療の水準にある精神科医」は(殺人事件を)事前に予測できないとしておりますが12月4日以降に渡邊医師が診察しておれば、根性焼きを当然発見したはずです。B教授が鑑定意見とした「熟練した精神科医が診察していたとしても精神症状の変化を察知することは困難だった」は完全に誤りです。


(3)、全入院期間ではなく11月23日以降の純一の問題

B教授は、木ノ元代理人から嘱託された項目を個別に、また純一がいわき病院に入院後の全期間にわたる治療の問題として、予見可能性と回避可能性を論じておりますが、的外れです。矢野真木人が純一に通り魔殺人された事件におけるいわき病院と渡邊医師の過失責任は、平成17年11月23日以後の純一の病状の変化と渡邊医師の治療及びいわき病院の看護の事実に基づいた、鑑定を行うことで明らかになります。純一の病状が安定している時の殺人衝動の予見可能性を論じても意味はありません。重要なポイントは11月23日以降そして特に12月1日以後の患者観察と治療的介入であり、それから的を外した鑑定意見書には裁判の参考とする価値がありません。


(4)、「12月3日午前中の診察」は事実の捏造

上記の(1)、で記したとおり、12月3日の渡邊医師による純一の診察はそもそも事実ではありません。

しかし、B教授の論理を解析すれば、渡邊医師の過失責任を否定する目的意識による事実の捏造が認められます。B教授によれば、「12月3日の朝11:10時より前に診察を実施」しており、その後11:10時に「ムズムズ時 生食1ml 1×筋注とする」の指示は「看護師によるプラセボ効果ありと評価されたことが(渡邊医師の)念頭にあったものと思われる」と解釈しました。その上で、『その後の経過は、このプラセボ効果ありという評価が必ずしも適切ではなかった可能性を示している。すなわち、12月3日は16:45、21:30と生理食塩水の筋注が行われ、12月4日0:00時(=12月3日24:00時)には、「又、手足が動くんです。注射はいいです。何かクスリ下さい」と述べイライラ時頓服薬を服用し』と記述して、16:45時以後の生理食塩水筋注に効果がなかったことを指摘しました。ここで、極めて重要なポイントは、「渡邊医師の診察が12月3日の午前中に行われていた」という、B教授の認識です。

いわき病院第7準備書面(平成20年11月14日付)には「12月3日が渡邊院長の外来日であったため午後7時頃に面接を診察室で行った。精神科の面接であるので、時間は30分ほどであった」と記述されております。仮に、12月3日に渡邊医師の診察が行われていたとしても、その実行時間は19時であり、16:45と21:30の生食筋注の間で診察が行われており、B教授が渡邊医師を免責にした事実関係は否定されます。渡邊医師が11:10時の前に診察していたとすることは重大事実の捏造です。

なお、上記(1)で指摘したとおり、渡邊医師の純一診察は11月30日(水)が最終日であり、12月3日(土)に診察を行った事実はありません。B教授は診察日を変更した上に、診察時間まで鑑定意見書執筆の都合から捏造しました。そもそも、渡邊医師は純一を診察することがあっても、19時以後の夜間に行うことが通常であり、午前中に診察を行うことがありませんでした。いわき病院は12月3日を「渡邊院長の外来日であった」としております。渡邊医師は12月6日(火)朝10:00時に純一の診察要請を受けた際には、外来診察中であることを理由にして、診察拒否をしました。第4準備書面で「渡邊医師は外来診察を中止し、緊急に野津の診察をしない判断をした。これは医師として誤った判断ではない」と記述してあります。12月6日の朝の外来診察中に拒否をした渡邊医師が、12月3日には外来診察を行っている午前中に純一を診察したとする蓋然性はまるでありません。


(5)、事件直後12月7日の処方復帰を除いた鑑定意見書

B教授は「純一が本件殺人事件の犯人として逮捕されたことを病院が知った時点以前の部分がもっとも重要な資料と言える」として、事件直後の12月7日に渡邊医師が警察の留置場に拘束された純一に届けた薬の処方内容を鑑定意見の検討対象から外しております。渡邊医師が事件直後に行った処方復帰にはプロピタン定期処方の再開(プロピタン中止は誤りであったという自覚)およびドプス再開(ドプスが純一のムズムズ・イライラに有効であるとこの時点では考えていた証拠)等、重要な情報が含まれています。渡邊医師は事件の発生を知って抗精神病薬を中断した自分の処方間違いに気がついて、警察の薬提供要請に応じて大慌てで元の処方に回復したものであり、本音の部分と薬事知識の不足が正直に現れています。B教授は「12月3日以降の処方自体は過誤と言えない」としましたが、本当に問題がなければ「事件を知った後での処方復帰」は必要ないはずです。B教授がこれらを不問にしたところに、渡邊医師の過誤に触れたくないとする配慮が読み取れ、B鑑定意見書の本質を露呈しております。


4、社会の向上や合目的性を否定するB鑑定意見書

B教授の鑑定意見書は、社会の改善と向上、また最低限の精神科臨床医療水準を社会に普く施行するという、社会人として、医師としての善意の期待、および社会における公序良俗の普及の精神から逸脱したものです。


(1)、最低限の医療水準を守る見識の欠如

B教授は、いわき病院代理人から嘱託されて鑑定意見書を作成しましたが、提出文書は不作為で錯誤が多いいわき病院と渡邊医師の精神科臨床医療を容認するものです。一般の精神科病院や一般の医師であれば基本的な間違いでも許されるとするB教授の主張は医師法第1条の医師の役割に反します。もしこのような考えを容認したB教授の主張が正しいとなれば、日本では普く精神障害者に対して、必要最低限の精神科臨床医療水準を守る事ができなくなります。B教授が用いた鑑定論理は、最低限の公衆衛生を国民全体に維持・提供するという、医療の基本的な命題に抵触します。


(2)、一般の精神科病院といういわき病院の免責理由

B教授は、いわき病院は一般の精神科病院であり、大学病院で実現している臨床精神神経薬理学の知見から逸脱した薬事処方を施行しても過失責任は無いと断じました。B教授は大学病院と一般の精神科専門病院との間で、具体的にどこに違いがあるかを明示せずに、いわき病院の免責理由としました。これは精神保健福祉法に基づく精神科医療の社会的基準及び標準を破壊する極めて不埒な論理です。B教授の論理が精神医療過誤を免責する理由として、精神医療界に普遍すれば、日本の精神医療の向上を期待することができないどころか、最低レベルの質の担保すらできず、荒廃するまま放置されます。これでは社会正義に反します。

なお、いわき病院は日本病院評価機構からK県で最初に認定された精神科病院で、本件裁判中にも更新されました。事件当時は、K県で最優秀の民間精神科専門病院という評価を誇っておりました。B教授の主張は、そのような優秀という折り紙がついた医療機関の精神科医療水準が劣っていて当然という論理です。それでは、精神科医療の質の向上を期待できません。


(3)、一般の精神科臨床医師という渡邊医師の免責理由

B教授は、「一般の精神科臨床医師である渡邊医師」と表現して、精神科専門医であり、かつ高度な専門性を有しているとして精神保健指定医に認定されている渡邊医師が、精神薬理学的知識で大学では誤りとされている診断や治療をしても、社会として問題にする事ではない、と主張しました。B教授のような精神医学教育を担う国立大学医学部精神科教授が「精神神経薬理学を専攻とする医師や大学病院など最先端の医療知識に接する機会の多い医師ではない一般の精神科臨床医師」と堂々と精神科臨床医療のレベル格差を容認した主張をすることでは、わが国の精神科医療の水準を保てないことになります。これは大学教授として責任放棄です。

なお、渡邊医師は事件当時に国立K大学医学部付属病院精神科外来担当医師として多年度に渡り継続的に外来診療を受け持つ大学病院医療を担う医師でした。B教授が渡邊医師を、精神薬理学的に誤った診断や処方をしても当然の「一般の精神科臨床医師」と断定することは事実ではありません。


(4)、SST普及協会役員

B教授は「一般の精神科病院の一般の精神科医師」という表現でいわき病院と渡邊医師は末端医療の担い手として精神医療の水準が劣り精神神経薬理学の知識に多少の錯誤が有っても仕方が無い、それは許容される範囲と、鑑定意見書を報告しました。B教授は渡邊医師がSST(Social Skills Training:社会生活技能訓練)普及協会という全国組織の役員(平成17年の事件当時から平成23年の現在まで継続)及び事件当時の北四国会長であり、精神障害者の開放医療の分野では有力な指導者である事実を承知していないようです。SST普及協会は精神障害者の社会復帰と社会参加を促進する目的で精神医学研究者と精神臨床医学者が設立した全国組織です。純一はいわき病院から社会復帰を目的とした許可外出中に殺人しており、SST普及協会が推進する事業活動中の事件でした。渡邊医師に低水準の精神科臨床医療を容認して、薬事処方の錯誤を容認することはいわき病院の低水準で劣悪な精神科開放医療水準を全国標準とするに等しいことです。B教授が「一般の精神科病院の一般の精神科医師」として過失責任を免除する理由を挙げることは実体に則しておりません。


(5)、渡邊医師の医療記録

原告矢野は、何故B教授が「一般の精神科病院」及び「一般の精神科臨床医師」という言葉でいわき病院と渡邊医師を弁護する論理を考え出したかを疑いました。B教授はいわき病院の診療録と看護記録を検討して、その内容の貧弱さと錯誤がある状況に驚いたはずです。それで、医療水準が極めて低い片田舎でひっそりと医療活動を行う一般の民間医療機関を想像したものと思われます。そこには、精神科医療の末端の零細医療施設の特殊事情であるとの判断があるかもしれません。

B教授は純一の医療記録を鑑定して「いわき病院と渡邊医師の精神医療水準が極めて低く精神医学知識に間違いが多い」事実を認識したはずです。原告矢野は複数の医師に純一の診療録等の医療記録を検討してもらいましたが、一様に誰もが、「このような診療録では、日本病院評価機構の審査に合格するはずがない、おかしい」と感想を漏らしました。そこに、B教授のいわき病院に対して「一般の精神科病院」という表現を持ち込まざるを得なかった「ご苦労」の背景が見えますが、B教授は精神医学の基本的な知識と医療モラルに関連した怠慢や不作為を許してはなりません。

実際には、矢野真木人殺人事件は、K県では最優良を主張した民間精神科病院の病院長で、精神障害者の社会参加を促進する全国団体の指導者で、その上で国立K大学医学部付属病院精神科外来を担当する渡邊医師が実現していた、日本の最先端精神科医療に近い所で発生した不始末でした。B教授が弁論材料とした、一般の精神科病院の一般の精神科医師はレベルが低くても良いという、過失免責基準は妥当ではありません。原告矢野は渡邊医師を弁護する立場に立たざるをえなかったB教授に同情しますが、無理なこじつけ論を展開するべきではありません。


5、二重基準を容認したB教授の論理

B教授は、随所で「精神医療知識としては間違っているが、過誤ではない」と論理展開をしております。肝心の問題点は、いわき病院と渡邊医師が純一に対して行った精神科医療に精神医学的に合目的性があり、かつ、今日の精神科臨床医療水準に適合したものであるか否かの判断です。B教授は、いわき病院を擁護する立場であることは当然としても、学者としてのけじめを持って、学問的合理性に基づいた鑑定意見を提出するべきでした。


(1)、医師の裁量権と社会正義

日本の国内医療水準はB教授が主張するほど恣意的なものではないはずです。医師の裁量権は認めますが、無原則に医療水準をいじり回すことには極めて慎重でなければなりません。医師の裁量権は無制限ではありませんし、医師が裁量権を行使する時にはその分、より重い責任が生じます。裁量権を主張して統合失調症治療ガイドラインの指針から逸脱した治療を施しておいて「悪化するはずはない」と診察拒否をすることは過失です。渡邊医師は、医師の裁量権を純一に対する精神科臨床医療で行った錯誤と怠慢に対する責任回避の論理的根拠としており、極めて不誠実です。


(2)、異なる医療水準が適用される病院の平成17年の事件

B教授は「一般の精神科病院と大学病院では医療水準が異なる」、また「平成17年12月当時の一般精神科医療の水準」と主張しました。しかし、具体的に何が水準に差異をもたらす要因・要素であるかを明記しておりません。これは、B教授が鑑定作業をする上での、基本姿勢であり、B鑑定意見書の価値を減殺します。


(3)、精神薬理学的なダブルスタンダード

B教授は、精神薬理学的な問題に関連して「大学病院では間違いであるが、一般精神科病院では過失ではない」、という論理を展開しましたが、これはダブルスタンダード(二重基準)であり、適切ではありません。「定型的とはいいがたい処方がなされている」は、大学病院に限らず一般病院でも「誤診で誤処方だった」のです


(4)、「後知恵」論=「後出しじゃんけん」論

B教授は『いわゆる「後知恵」で過失の有無を検討するのは明らかに適切でない』と主張しました。しかし、矢野真木人が遭遇した通り魔殺人事件の過失責任を被害者側が解明する行為は全てが「事件発生時点から、過去に遡る探求」であり、全てが「後知恵」です。「後知恵」論は精神医療界で多く語られる論理のようですが、「後知恵」=「後出しじゃんけん」として事故が発生した原因を客観的に解明して有効な対策を講じなければ、渡邊医師が行っていたような怠慢で錯誤ある精神科臨床医療の蔓延を許すことになります。いわき病院と渡邊医師の事例は、精神医療界では一部の部所で発生した不始末です。それをB教授のような権威者が正義を曲げて過失ではないと弁明することは、悪貨が良貨を駆逐する状況の発生に荷担することです。

凡そ全ての事件は、それが精神医療に関係しているか否かに関わらず、事件発生から過去に遡って原因を探求することが基本です。それは発生した重大な事実に基づく「後知恵」が働くことです。重要なことは、事件が発生したことに関連して、過去の行為に、違法性、反社会性、社会基準から技術的・倫理的な逸脱、非人道性、等の有無の発掘と確認です。B教授が鑑定意見書を提出するに当たって「後知恵」論を主張することは、自ら「原因探求の眼を閉じていた」その上で「鑑定意見書を執筆した」と主張したことになります。


(5)、平成17年12月当時と
平成23年7月の時間差の上で免責する理由

B教授は、平成23年になって初めて本件訴訟に参加しており、事件発生から5年半が経過し、訴訟が提訴されてから5年が経過した時点でした。B教授が平成17年12月当時と医療水準が異なると主張した項目は全て、本件裁判開始後継続して審議されてきた項目です。ところが、B教授は平成23年7月になって初めて、時間差による免責理由を申し立てました。「裁判が長期化すれば、このような後付けのとんでも主張が飛び出すのか」と、改めて驚きました。これは、B教授が否定した「後知恵」=「後出しじゃんけん」そのものです。そもそも、自分達には「後知恵」が許されるが、精神医学に意見を差し挟む者には「後出しじゃんけん」を許さないという論理は、間違いです。

B教授はこの5年間に、医療技術の何がどのように変化したから免責になるという根拠を具体的に説明せず、独断の鑑定意見書を提出しました。いわき病院も、これまでそのような主張を一回もしたことはありませんでした。B教授の論理は、「私は大学教授だから何でも正しい」と主張して、権威を振り回しているようなもので、利害が異なる者の紛争処理をする根拠としては、普遍性及び客観性と透明性に欠けます。渡邊医師は精神保健指定医、K大学病院精神科外来担当医師、SST普及協会役員等の肩書きを持つ高度な医師であり、B教授が主張する「平成17年当時では不問にするべき低水準の精神科医師」と認定されるべき客観性と社会的な蓋然性がありません


6、渡邊医師の診断と錯誤

B教授は結論として「平成17年12月時点の一般精神医療の水準を考えれば、いわき病院で純一に関する処遇には、特に問題ないと考えられる。」として、いわき病院の純一に関する処遇(=診察、診断、治療、看護、外出許可)に特に問題ないと結論づけました。いわき病院及び渡邊医師が行った、以下の諸点は、平成17年12月という時間差を持ち出すまでもない、精神科医学に関連する基本的な錯誤です。


(1)、統合失調症の診断

B教授の統合失調症診断理論に同意します。また「純一は統合失調症」とするB教授の診断にも同意します。しかし、「いわき病院入院時に統合失調症と診断できていたか」に関して、前主治医のN医師が診断できていたことを根拠に上げておりますが、原告矢野はN医師の診断を全く問題にしておらず、不必要な記述です。勤務医のN医師が適切に診断していたにもかかわらず、何故、病院長の渡邊医師が診断できなかったのかが問われます。B教授は問題の的を外して過失責任の有無を論じております。

B教授は「診療録には渡邊医師が統合失調症と診断した旨の明確な記載はないが、診断変更をした旨の記載も見られない」として、渡邊医師を擁護しております。しかし、B教授は「統合失調症の疑い」と記載されたOT処方箋(平成17年2月14日付)を見ず、また歯科診療録にファイルされた「歯科診察依頼書」(病名:強迫神経症、2月16日)の記載も、B教授が参照した文献リストで証拠採用しているにもかかわらず、鑑定意見書では事実認定しておりません。事件直後の平成17年12月8日と12日に渡邊医師は「純一の診断名は統合失調症と強迫神経症。しかしあくまでメインは強迫神経症」「統合失調症であることを示す数値は低い」と警察と検察官に供述しました。いわき病院第5準備書面で、渡邊医師は「主治医交代時に、一時的に幻聴や妄想がほとんど無く、思考の一貫性が保たれており、執拗な足のムズムズ、自らの手洗い強迫などの訴えがあれば他の疾患、特に強迫性人格障害や他の疾患を再考するのは臨床医としては当然のことである」と主張しました。渡邊医師は、純一を統合失調症ではなく強迫神経症と疑っていたために「統合失調症と診断した旨の明確な記載」を行わなかったのです。

B教授は「統合失調症という診断が適切になされ、その診断に基づいて統合失調症に対する適切な治療が行われていれば、過誤は無いと考えられる」と記述しております。渡邊医師は、統合失調症の診断を適切に行えなかったのであり、また、抗精神病薬の副作用であるアカシジアを適切に診断できず、抗精神病薬他の中断を行い、その後の経過観察を行わなかったのであり、適切な治療介入を行いませんでしたので、B教授の論理に基づけば、渡邊医師は過失責任があります。


(2)、反社会的人格障害の診断

原告矢野は刑事裁判におけるS医師の鑑定書を元にして純一は反社会的人格障害としてこれまでの意見を陳述してきました。しかし、B教授が指摘した反社会的人格障害の用語は間違いで、反社会性人格障害もしくは非社会性パーソナリティ障害とする意見に同意します。またB教授が提示した診断理論に同意します。

純一の他害行為歴に関連した反(非)社会性の診断及び解釈として、以下の4種類があります。

  1. 人格障害と診断したS鑑定
  2. 人格障害に加えて統合失調症による精神疾患の影響の関与を認めた刑事裁判判決
  3. 純一は人格の問題というよりは統合失調症の幻聴と妄想などの病的体験に影響された他害行為、とするB鑑定意見
  4. 他害の事実は承知しているものの反社会的人格障害と診断できないとして、将来の他害行為の可能性を全否定した渡邊医師の見解

原告矢野は、「反社会的人格障害(反社会性人格障害:非社会性パーソナリティ障害)と診断することを否定した渡邊医師が、純一に他害行為が有った個人の履歴を無視して、他害行為をする可能性を予見する事を否定したことが錯誤である」と指摘してきました。

B教授は「(純一が)隣家に土足で怒鳴り込んだ件や包丁をもって診察に出かけた件についても、情報は乏しいものの、人格の問題というよりは、統合失調症の幻聴、被害妄想、関係妄想、恋愛妄想などの病的体験に影響された他害行為と考えるほうが、精神医学的には適切なように思われる」として、純一は「統合失調症の幻聴、被害妄想、関係妄想、恋愛妄想などの病的体験に影響された他害行為」と結論づけておりますが、原告矢野はこれに同意します。

その上で、B教授が認定した純一の他害行為から「K県庁前のY医院前の通行人襲撃事件」(H医師の入院前問診に記載)が欠落しております。更に、放火事件に関連して「16歳時の火事の件については、詳細は不明であるが、少なくとも逮捕・補導に至るような行為ではなかったことが明らか」と記述しておりますが事実誤認です。放火事件は自宅と両隣の3軒が全焼した大火災であり、「逮捕・補導」の記録がないことをもって、無視できる事件ではありません。そもそも純一は「精神障害者」と「未成年」であることで逮捕・補導の対象とならなかったと考えられるケースです。逮捕・補導の有無をもって精神障害の判断基準とすることは、原因と結論を混同しており事実を客観的に評価しておりません。

精神科の病状予測には当然「他害」のおそれが含まれ、自傷・他害行為を防ぐための治療的介入は治療に伴う危険を最小限にするためのリスク・マネージメントに外なりません。いわき病院の病院運営には、このような「リスク管理の概念が欠落」していたことは明白であり、過失責任が問われます。渡邊医師が、主治医として容易に知ることができた純一の他害行為に関連した過去歴を、職務に忠実に調査したのか否か、そして純一が他害行為をする将来の可能性をいわき病院が認識して有効な治療的介入をしたか否かの問題です。B教授が鑑定人としてどれほど事実に即した評価をして鑑定意見書を執筆したかが問われます。


(3)、アカシジアの診断とCPK値

B教授は「アカシジアをCPK値で診断していたと誤解されても致し方ない」と記述して、「渡邊医師がCPK値でアカシジアを診断していたことは間違いであった」と認定しました。B教授は渡邊医師がアカシジアをCPK値で診断したことは一過性の軽い間違いという視点で鑑定意見書を記述しましたが、渡邊医師はアカシジアをパーキンソン症候群ではなくてパーキンソン病と診断するなどアカシジアの診断と治療で最後まで錯誤が続きました。渡邊医師がアカシジアをCPK値で診断した診療録の記述に関しては、平成17年2月から5年5ヶ月以上経過した平成22年8月の人証でも宣誓の上で、「アカシジアをCPK値で診断したことは間違いではない」と主張した事実があります。渡邊医師が「純一のイライラ・ムズムズの症状をアカシジア(パーキンソン症候群)では無いと確信していた誤診が確定」しました。

B教授は「診療録の不正確な記載」と記述しましたが、これは弁護のための苦渋の方便で、B教授の事実に対する姿勢に疑いを抱かせます。本件は民事裁判の鑑定であり、B教授は渡邊医師の人証時の発言を確認した上で、鑑定意見書を作成するべき責任がありました。


7、精神科医療と患者の情報

B教授は「いわき病院で純一に関する処遇(=診断、治療、看護、外出許可)には、特に問題ないと考えられる。」としましたが、純一の処遇に重大な影響がある事前の情報収集の問題は、一般の精神科医療と限定するまでもない、基本的な渡邊医師の怠慢です。


(1)、いわき病院内にある純一の他害行為に関する情報収集怠慢

B教授はで「患者の過去の他害行為に関する情報は、その患者の将来の他害行為のリスクを評価するための最も重要な情報」また「一般に、受診してきた患者本人やその家族から生活歴や病歴を聴取し、診断・治療を行っていくのが精神科臨床の通常」と述べました。しかし、渡邊医師が「平成13年における2回のいわき病院入院記録」、「H医師による入院前問診と父親の他害行為歴の説明」及び「2月14日の主治医交代時の問診で純一が申告した『25才の時に一大事が起こった』の自己申告の裏付けを取らなかった」等の、他院ではなくいわき病院内の情報収集怠慢を不問にしました。これらはいわき病院が把握しても、渡邊医師が認識せずに純一の診断と治療および外出許可を判断していた問題であり、原告矢野がいわき病院の情報収集と情報整理の問題として繰り返し指摘してきたことです。B教授は原告矢野の指摘を頭から無視して一般論として「他機関に他害行為歴を問い合わせるのは無理」と弁護しましたが、問題の本質を捉えておりません。B教授の論理に従い、事実を正当に評価すれば、渡邊医師に過失責任があります。


(2)、幻聴や妄想が確認されても
理性が残っておれば病的体験は否定されるか?

B教授は「純一は、これまでの治療経過のなかで、人を殺したくなるという趣旨の発言を主治医等に語ったこともあったようだ」と述べて、純一の殺人意思を確認しています。B教授は「純一には犯行1〜2ヶ月前から妄想があり、イライラ感を解消するために人を殺そうと思うようになった」、また今までの他害行為は全て「統合失調症の幻聴、被害妄想、関係妄想、恋愛妄想などの病的体験に影響された他害行為」だったと純一の幻聴・妄想と他害行為の関連性を認定しました。更に、事件当日の純一の状況に関連して、「ドアの開け閉めの音や他の患者の話し声に対しても妄想的な解釈が強まり、イライラが募り、そのイライラ感を解消するためには、誰でもいいから人を殺すしかないと思った」と確認しました。

ところが、B教授が出した結論は「病院内で殺人を行うことは躊躇われた」ことを理由として「本件犯行は幻覚・妄想などの病的体験に基づくものではない」でした。B教授は病的な妄想で他害の危険性が高まれば純一が自己管理を全く行えない暴走状態であるべきだったと主張しているようです。B教授が病的な妄想による他害行為と鑑定したK医大主治医刺殺未遂事件の時も純一はバイクに乗り、エンジンをかけて、道路交通法で引っかかることもなく、K医大病院に到着して、大病院内で目的の医師がいる場所まで間違えずに到着しました。幻聴妄想等の異常体験に基づく他害行為の時でも、理性の幾分かは残っているという証明です。B教授の鑑定意見は客観的な事実を尊重しておらず、精神医学的な論理矛盾があり、鑑定意見書は本来の役割を果たしておりません。


(3)、一般の人であっても気がつくような異常

B教授は「純一には一般の人でも気がつくような異常は見られなかった、このため精神状況の変化をいわき病院と渡邊医師は気がつくことはできなかった」と鑑定しました。ところが、12月6日犯行直前の12時過ぎに、100円ショップのレジ係(素人)が顔面左頬に自傷した根性焼き瘢痕を発見しました。その前の10時には、Z看護師が純一は異常な状態であるとして、緊急の診察要請を渡邊医師に伝えておりました。その日の午後に病室を訪れた母親は純一の左頬に痣を見つけました(12月9日高松北警察署供述)。確認された事実に基づけば、いわき病院は6日13時頃から7日13時頃まで丸一日の間、素人でも気がついた純一顔面の異常を発見しておりません。その前の数日間純一が自傷した根性焼きをいわき病院スタッフの誰も発見しなかった蓋然性は極めて高いことになり、異常を発見して対処する事がなかった渡邊医師には、過失責任が発生します。根性焼きを無視して鑑定意見書を作成したB教授は事実認定を誤りました。いわき病院が顔面の火傷瘢痕という容易に発見できるはずの異常に気がつかなかったことは、あり得ないことのように思われますが、そのあり得ないことが現実に発生していたことを認識すれば、いわき病院で純一に発生していた常識外れの医療と看護の怠慢の実体が明白となります。


8、インフォームド・コンセント

B教授は「いわき病院で純一に関する処遇(=診察、診断、治療、看護、外出許可)には、特に問題ないと考えられる。」としました。しかしインフォームド・コンセントは、平成17年12月であれば患者純一の意向を無視しても良い問題ではありません。


(1)、いわき病院が提出した
第1号証拠の「国際法律家委員会レポート」

いわき病院は本件訴訟が提訴されて最初の主張で、本件裁判の基本テキストとして、「国際法律家委員会レポート(精神障害者の人権)1996年出版」を提出して、これを基準に本件訴訟は判決されるべき、と主張した経緯があります。

上記レポートでは、第3次調査団報告で「(六)治療、(3)人間は自己決定の権利と責任を持っている」P.205と指摘されております。更に、「第IV章、日本における精神病患者の人権についての調査」のP.244「(iii)患者のカウンセラー」で「多くの国々において、コミュニケーションと権威のギャップは、患者が精神病者であろうとなかろうと、医師と患者の間は不可避的に存在するのである。このギャップは、特に日本において顕著である。つまり日本の様に、患者と医師の間に上下関係のあるところでは"上位に立つ人"に対する最大の服従と尊重を社会文化的規範が要求しているからである。」と指摘しています。そして「(2)"聴聞"手続き」の「(a)現在の実施状況」では「医師(特に精神科医師)は、患者に医療情報を与えることにしばしば乗り気ではない。同様に、患者はインフォームド・コンセントの権利を有していない。」と踏み込んで記述しました。同レポートの「資料3」(3)「精神病者の保護及び精神保健ケアの改善のための原則」の「原則11—治療の同意」(P.286)には「(1)治療は、(中略)、患者のインフォームド・コンセント無しには行われない」「(2)インフォームド・コンセントとは、おどしや、不適当な誘導(inducement)を行うことなく、患者が理解し得る書式と言葉を使い、適切かつ了解し得る言葉を用い、適切かつ了解し得る以下の情報を正しく説明した上で、自由意志により得られる承諾を言う。(a)診断の見立て、(b)治療目的、治療法、おおよその治療期間および予想される効果、(c)より侵襲性の少ない(less intrusive)方法を含め、他に考えられる治療方法、および(d)治療で生じる苦痛、不快感、危険性および副作用」とあります。

いわき病院は自らの論理に忠実でなければなりません。原告を攻撃するときに使用した論理を、同じ論理で原告が反論した際には、当然のこととして、それに誠実に応える義務があります。原告を攻撃しても良いが、自らを免責する論理や論点はありません。


(2)、病状悪化後も生理食塩水をプラセボとして
筋肉注射し続け放置したこと

B教授はアキネトンに代えて生理食塩水をプラセボとして施注した問題をインフォームド・コンセントの問題として捉え、そして鑑定時点(平成23年7月)ではなく平成17年12月当時では非難するのは不適切と断じました。

いわき病院は本訴訟が提訴された直後に、いわき病院側の第一文献として、国際法律家委員会のレポートを法廷に提出したものです。この文献を基準に判断するならば、インフォームド・コンセントの必然性を事件当時に認識していた証拠であり、その認識の上でインフォームド・コンセントを無視したプラセボ試験を病状悪化後も行い続け、更に診察要請にも応じなかったことに責任を有しており、いわき病院と被告渡邊医師は非難される理由が存在します。12月2日の看護記録に「薬が変わってから調子が悪い」また「院長先生が薬を整理しましょうと言って一方的に決めたんや」という純一の発言があり、渡邊医師が純一に対して説明責任を果たしていなかった現実を証明します。平成17年12月当時でも国際法律家委員会レポートを基準にしてインフォームド・コンセントの問題としても非難されるべきです。

B教授は、病状悪化後にプラセボ筋注を継続した問題を、インフォームド・コンセントの問題として的を外して論じました。しかし、本質はアカシジア(パーキンソン症候群)に対する渡邊医師の診断と治療の問題です。B教授は抗精神病薬の副作用という観点では「ダントリウムやドプスの処方のように、定型的とはいいがたい処方がなされていること、中枢性抗コリン薬や抗うつ薬が漫然と継続的投与されていること、アカシジアの原因薬物として抗精神病薬しか考慮されていないことなど、現在の臨床精神神経薬理学の知見からはいささか疑問に思われる点もある」と記述して、渡邊医師の間違いを指摘しました。B教授は「定型的とはいいがたい処方がされている」と遠回しの意見を述べましたが、これは渡邊医師が正しく持つべき基本的な知見の欠如であり、精神保健指定医としては許されない錯誤です。

B教授は、渡邊医師がパーキンソン症候群(アカシジア)にドプス処方を長期にわたり継続していた事実を前にして鑑定意見書の執筆で困惑したはずです。このため、わずか1日で中止(平成17年7月5日処方、6日中止)したダントリウムと処方を継続したドプスを並記して、ドプスの露出を緩和する意図があったと思われます。渡邊医師は、事件後に抗精神病薬のプロピタンとドプスを処方再開しました。平成19年8月に提出した処方(9,の(1)の2)、3)、)でもドプス継続投与を主張した上に、平成22年8月の人証でも「純一にドプスが効いた」と主張しました。渡邊医師がドプス処方を間違いと認識していなかった証拠です。B教授は「アカシジアにドプス処方は間違い」と指摘する必然性がありました。このような診断と薬事処方の基本的な間違いを大学の水準ではないとして容認することは、学者として信頼性を損ないます。


(3)、インフォームド・コンセントと医療プロセスの適切性

B教授は、「医師の過失の有無が、医療行為の結果ではなく、医療行為が行われるまでのインフォームド・コンセントの有無など医療行為に至るプロセスが適切に行われたか否かによって判断される」と述べましたが、平成17年11月23日から純一に対して実行された一連の処方変更はインフォームド・コンセントを無視して施行されたものです。またB教授は「医師の過失の有無も、他害行為が起こったか否かではなく、患者の病状予測やそれに基づいて行われる治療的介入が適切に行われていたかどうか」とも述べておりますが、渡邊医師は12月1日からプラセボ試験を実施したにも拘わらず、症状が悪化しても治療的介入を行っておりませんでした。B教授は、論理的帰結として、「いわき病院と渡邊医師には過失責任があった」と鑑定意見書に記述することが当然でした。

B教授は、12月3日に渡邊医師の診察があったとしましたが、同日に渡邊医師が診察した記録は無く、診察した事実がなかったことになります。そもそも渡邊医師は当初には「12月3日には19時から外来診察室で30分程度の診察をした」と主張しておりましたが、原告から「土曜日の午後7時に外来診察室で診察するのは病院職員の労働条件の観点及び病院管理運営の常識に照らせば極めて不自然」また「30分も診察をして純一の肉声記録が皆無でおかしい」と指摘されて、人証で「12月3日ではありませんでした、11月30日です」と訂正したものです。その宣誓をした上での訂正を、「処方変更の効果判定の説明をするには都合が悪い」として再訂正することは、証拠と記録の事後訂正の繰り返しであり極めて悪質です。これは、純一が身柄拘束された12月7日に診療録が急遽大急ぎで改竄された可能性を強く示唆します。

なお、極めて重要なB教授の見解ですが、純一は12月4日に治療的介入が必要な状態にあったと認めました。渡邊医師は抗精神病薬中断によりアカシジアが逆に悪化することもあり、病状悪化の予測をするべきなのにしませんでした。B教授の論理に従えば、「渡邊医師には過失責任が問われる」という結論になります。


9、病棟機能を無視した入院患者の処遇

B教授は「いわき病院で純一に関する処遇(=診察、診断、治療、看護、外出許可)には、特に問題ないと考えられる。」としました。しかしいわき病院の第2病棟は老人認知症患者の介護が中心で、併設されたアネックス棟における精神障害者の看護が十分でない実態がありました。


(1)、病棟機能と国際法律家委員会レポート

いわき病院は老人認知症も精神疾患と主張して、痴呆老人の介護を目的とした第2病棟に精神障害者の治療を目的としたアネックス棟の併設は問題ではないと主張しました。しかし、いわき病院が本法廷に第Ⅰ号証拠として提出した、国際法律家委員会レポート「精神障害者の人権」(P.151〜152)は第2次調査団報告「第III章 精神保健サービスの評価」で、精神科病棟で精神障害者と老人認知症の患者が混在している状況を「多くの病棟は、老人患者で一杯となっている。多くの者は、精神科的問題はあまりなく、重大な身体的問題を持っているように思われた。こういった老人患者が定期的に再診断されたことはなく、老人痴呆(まま)という命名は年齢とわずかの精神症状だけによって成されているように思われる。(中略)これらの病院は基本的に老人のためのナーシングホーム、すなわち老人ホームとして機能している。これらの病院が、急性期のケアと治療のために緊急に必要とされる職員と資源を費消(まま)している」ので改善されるべきとしております。


(2)、病棟機能を無視した入院患者処遇

いわき病院は純一に対して「病棟の機能を無視した入院患者処遇が行われていた」という原告矢野の主張は、開放病棟か閉鎖病棟かという問題ではありません。純一が入院していたアネックス棟は精神科入院患者が最大でも10人で痴呆老人主体の第2病棟に付属していたため、痴呆老人の介護が看護の中心で、精神科看護を行う精神科看護師の配置が極端に少なかったという問題です。原告矢野が事情聴取したところ、第2病棟に配属された精神科看護師は「精神科看護をしていると、手がかかる痴呆老人の介護をさぼったと非難された」またいわき病院で勤務した経験がある精神科医師も「アネックス棟では精神障害者に眼が届きにくい実態がある」と発言しました。


(3)、放任された純一

アネックス棟に入院して外出許可が与えられていた純一は、個室の横に設置されたエレベータの暗証番号を教えられていましたので、病棟から外に出るためにわざわざ遠くの第2病棟ナース・ステーションの前を通る必要はありませんでした。また、いわき病院は純一の根性焼きを発見しておりませんが、そもそも看護師がアネックス棟には配属されておらず、老人介護の片手間で精神科看護を行っていたために、患者の顔面を観察しない手抜きが行われていたと推察されます。


(4)、精神保健福祉法の理念にそぐわない
極論で運営されていたアネックス棟

いわき病院における純一の処遇は、「開放病棟なので、外出制限は少なくとも精神運動興奮による他害の可能性が認められなければ精神保健福祉法違反であり、日中の外出は自由」でした。しかしB教授は『「措置入院かそれとも開放病棟での自由放任」という極論は精神保健福祉法の理念に全くそぐわない』と指摘しましたが、それが実行されていたのが第2病棟アネックス棟だったのです。B教授はこのようないわき病院アネックス棟の実態を承知せずに、一般論として鑑定意見書を提出したものと思われます。


10、重大な処方変更と効果判定

B教授は結論として「本件原告が指摘する投薬の方法(薬剤選択、投与量、投与時間等)如何により本件事件を事前に回避できたと判断し得るエビデンスはない」と結論づけておりますが、以下のエビデンスを意図的に無視しております。


(1)、「平成17年11月23日からプロピタン中止」に疑惑

原告矢野が調査したところ「プロピタンの中断は一ヶ月以上継続していた」という内部情報があり、その蓋然性は10月27日から11月2日までの診療録と薬剤師報告から裏付けられます。更に、渡邊医師は以下の4種類の処方を裁判所に提出しました。

  1. カルテ(11/30よりプロピタン、パキシル、ドプス中止)
  2. H19.8.20提出処方(プロピタン、パキシル、ドプスは継続投与)
  3. H19.8.21提出処方(プロピタンは11/23より中止、パキシル・ドプスを継続投与)
  4. H22.8月9日人証時(プロピタン、パキシル、ドプス共11/23より中止)

渡邊医師は事件から5年も経過してから人証時に宣誓の上で 4. が正しいと主張しました。そのような主張をしたこと自体、カルテは改竄されたもので、処方の内容や日付が信用できないという証明です。

B教授は「11月23日からのプロピタンの中止は2週間程度であれば、体内に残存していた抗精神病薬成分の薬効が継続していた可能性がある」ことを理由にして推測で記載しております。渡邊医師の診察が行われず効果判定が実行されなかったことに触れないための便宜的な記述です。B教授はプロピタン(抗精神病薬)の中断を、経過観察及び処方変更の効果判定との関連で論じておらず、抗精神病薬の中断と矢野真木人殺人事件の関連性を論じることを避けました。これはB鑑定意見書の価値を損なうもので本質から目を逸らす行為です。

B教授は「アカシジアの原因薬物としては抗精神病薬しか考慮されていないことなど、現在の臨床精神神経薬理学の知見からはいささか疑問に思われる」と記述して、被告渡邊医師の抗精神病薬中断に問題があった事を認めています。その前提として、純一が「陰性症状が重篤な慢性期の統合失調症」で、「統合失調症による人格変化の結果としておこる人格の障害」で、「純一の幻聴・妄想と他害行為の関連性」があることをB教授は認識しております。抗幻覚・抗妄想作用と抗ストレス作用が確認されている抗精神病薬の中断は軽い問題ではありません。B教授は厚生労働省重篤副作用疾患別対応マニュアル指針を引用して、「アカシジアの『判断が難しい場合は積極的に疑わしい薬剤の減量や中止を試みることも大切である』記載されており、その点からも過失とは言えない」と意見を述べました。しかし、「積極的に減量」は試みるべきでしたが検討すらされませんでした。「積極的に中止」は急性アカシジア発生時のみに有効で、慢性アカシジア・遅発性アカシジアでは改善せず、離脱性アカシジアでは中止により逆に悪化します。純一は急性アカシジアではなく、「積極的中止」は不適でした。渡邊医師は警察の身柄拘束後、プロピタンの再処方をしておりました。更に本件裁判では、被告渡邊医師はプロピタンを11月23日から中断せず全期間にわたって継続投与していたとする処方(上記の 2. )を法廷に提出しておりました。このことは過失認識を持っていた証拠です。B教授が「事件発生後の12月7日に渡邊医師が処方を元に戻したことに触れない」のは事実から目を逸らし不利なことに目をつむる欺瞞です。

B教授は、抗精神病薬の中断問題でいわき病院が免責される根拠として「精神神経薬理学を専攻とする医師や大学病院など最先端の医療知識に接する機会の多い医師ではない一般の精神科臨床医師である渡邊医師」と述べて、「被告渡邊医師には過失責任を問えない」として、鑑定意見を書きました。

被告渡邊医師は、精神科専門医であり、精神保健指定医です。日本の精神医療制度の根幹を成す問題として、精神医学の大学教授であるB氏は、精神保健指定医が統合失調症患者に処方する抗精神病薬に関連する医療知識で、臨床精神神経薬理学の知識に誤りがあっても問題ないと結論づけております。この論理は、B鑑定意見書の信頼性を揺るがす、精神保健指定医の錯誤と怠慢を許す論理です。日本の精神医療制度は恣意的であってもかまわないという主張であり、精神保健福祉制度を揺るがす鑑定意見です。


(2)、レキソタンを増量しパキシルを突然中断

B教授は「急性期の統合失調症の治療時の、レキソタンの併用や増量」の問題として鑑定意見を述べておりますが、状況確認を違えています。H17年11月23日にレキソタン増量した時の純一は急性期の患者ではありませんでした。精神状態が安定していた純一に急性期治療を施すのは誤りです。純一にはレキソタン2倍の他5種類のベンゾジアゼピンが処方されており、急性期でもないのに、渡邊医師が漫然と長期大量連続投与し診察拒否したことが問題です。統合失調症治療ガイドラインP.174には「ベンゾジアゼピンの副作用として、脱抑制による攻撃性、興奮などを引き起こすだけでなく、陽性症状を悪化させる危険性がある」と記載があります。また、同P.175に「ベンソジアゼピンは漫然と長期投与すべきでない」と記載されています。

レキソタン増量と同時に行われたパキシル中断は、平成22年8月の渡邊医師人証時に、三度目の処方訂正(前項(1)、の 4. )でいわき病院として新たに確認した事項です。パキシルの突然の中断は、断薬症状が起こりやすく問題行動を誘発することが知られており、主治医は注意深い経過観察を行う義務があり、診察要請拒否は過失です。B教授は、ベンゾジアゼピン系の薬剤の問題を、限定的に捉えており、渡邊医師が経過観察をしなかったこと、及び純一が自傷行為をしていたことと連関させた鑑定意見ではありません。B教授の本項における鑑定意見は的を外しており、パキシル中断には全く触れておらず、その結果としていわき病院の無過失を証明できておりません。


(3)、プラセボ効果消失後も
生理食塩水の筋肉注射を継続したことの意味

B教授は、純一のアキネトン依存傾向を認めて、渡邊医師が生理食塩水筋注を行ったことを容認しています。しかし、被告渡邊医朋之医師は平成17年10月27日の診療録に「ドプス増量、プロピタン変更」の方針を記載し、11月7日には「ドプスが増えて関節が痛くなる」と純一から聞いてカルテとレセプトの傷病名に「膝関節炎」と誤診して記載しました。この時期、パーキンソン症候群(アカシジア)をパーキンソン病と誤診していた被告渡邊医朋之医師はパーキンソン病薬のドプスが純一のムズムズに有効だと思い込んで抗コリン(抗ムスカリン)作用の無いドプスの大量投与をしていました。「注射に依存傾向」の看護記録はドプス無効を知らない看護師の記述であり、本質は被告渡邊医朋之医師の知識不足により抗コリン(抗ムスカリン)剤の絶対量が不足しアキネトン依存に見えただけです。B教授はパーキンソン症候群(アカシジア)にドプスを処方した事は間違いと認識していた「ドプスは定型とは言い難い処方」にも拘わらず「アキネトン依存傾向」という看護師の記述に「これ幸い」と飛びついて、渡邊医師のドプス処方間違いに目をつむり、渡邊医師に過失責任は無いと論理をねじ曲げましたが、精神医学者としての尊厳に関わることです。

渡邊医師は「原因薬剤(プロピタン)は中止した」「CPK値が低く本物のアカシジアではない」更に「ドプスが効かない」ことで純一のムズムズ・イライラは「心気的なもの」と誤って確信し、プラセボ効果消失後もムズムズは「気のせい(=強迫神経症による過剰反応)」として取り合わず(=診察拒否)、この間に純一は顔面左頬に根性焼きをつくりました。渡邊医師がパーキンソン症候群(アカシジア)をパーキンソン病と誤診したドプス投与は、単に誤診と誤投薬だけではありません。渡邊医師の「純一のムズムズは心気的訴え」という誤診を決定付け、「強迫神経症で過剰反応をしている純一に対策としてレキソタンを2倍にしたから完璧」また「純一の統合失調症は極めて軽いものだから、抗精神病薬も欲しがるときだけの頓服で十分だ、幻覚が強いときだけトロペロンの注射をすれば問題ない(平成22年8月人証時の渡邊医師証言)」と間違いだらけの勝手な思い込みをし、「純一の診察要請を断固拒否却下」する決意をしたことで、本件事件発生の重要なターニングポイントになりました。思い込みと怠慢で診察拒否をしていた被告渡邊医師は精神科医師なら誰でも知っている基本的な診断と治療を間違うという過失を犯しました。

B教授は、渡邊医師がパーキンソン症候群にドプス処方を長期にわたり行っていた事実を発見して驚愕したはずです。立場上錯誤であると指摘することもできず、悩んだことでしょう。それで、精神薬理学的に正面から鑑定意見を書くことを回避して、インフォームド・コンセントの側面で鑑定意見を記述しましたが、それは的外しの論理です。B教授は「2(6) アキネトンに代えて生理食塩水を筋肉注射したことは錯誤と言えるか」の設問に、正面から回答する鑑定意見を提出しておりません。回答を回避したことは、いわき病院に過失責任があるとB教授が認識していたことになります。B教授は渡邊医師を免責する課題があるため精神保健指定医が基本的な錯誤を行ったという事実から目を反らしています。


(4)、「病状が悪化する筈がない」と「病状予測を思考停止」した錯誤

B教授は「処方変更に対する効果判定はおおむね適切に行われていたと考えられるが、12月3日に行われた純一の問診以降については診療録にも記載が無く判断できない」と記述しました。この記述は「最初に決論ありき」ですが、「12月3日には渡邊医師の診察は行われていない」ので鑑定意見に事実の裏付けがありません。

渡邊医師が医師の裁量権を錦の御旗に掲げて統合失調症治療ガイドラインの注意事項や薬剤添付文書の用法用量を守らず基本から逸脱した治療を行う場合は、治療は身体と精神への大きな侵襲作用であり、必ず「病状悪化の可能性」を頭に入れておかねばなりません。何故なら病状悪化の可能性は個人差が大きいからです。【A】さんで大丈夫だったから、【B】さんでも大丈夫とは限りません。「投薬方法如何で本件事故を回避できたと判断しうるエビデンスは無い」とB教授が断言しましたが、純一の場合は、処方変更前は精神状態が安定していたのに、処方変更後には幻聴や被害関係妄想が活発になり、イライラして顔に根性焼きをつくっていたなど、明らかに病状悪化が認められました。B教授は投薬の問題だけで結論を出しておりますが、渡邊医師は医師の裁量権と主張する処方変更後に効果判定を行わず、病状の悪化を看護師は気付いていたのに徒に放置して、何の処置も行わず、診察願いを却下して、純一の外出も思うままにさせて、一時保護を行わなかったところに過失責任があります。また個々の処方変更を単独で検討した場合には、統合失調症治療ガイドライン等の範囲内にあったとしても、複数同時に行えば、相互作用による病状悪化の危険性が高進します。渡邊医師は「病状が悪化する筈がない」と決めつけて「病状予測を思考停止」しました。もはや医師としての態度ではありません。B教授はこのような医師が精神保健指定医に指定されている現実にメスを入れることが本来の立場であるはずです。


(5)、チーム医療の機能不全

B教授は「医師のほかに看護師、作業療法士、精神保健福祉士、臨床心理技術者などからなる多職種協働チームによって、患者の医療を行っていくことは、現在、わが国の精神医療で推進されていることである。したがって、渡邊医師が、看護師や作業療法士からの報告をもとにして治療効果を判定することには何ら問題はない」と結論づけましたが、これは一般論であり、純一に対して施行された現実がなければ意味がありません。B教授は、いわき病院の医療記録や人証などの裁判記録から渡邊医師が多職種協働チームを機能させていなかった実体に気付いておりません。

純一に対する事実に基づけば、いわき病院では医師と看護師等の多職種が個々の患者の治療法について話しあうカンファレンスは行われておりませんでした。またカンファレンスが行われても主治医の渡邊医師が遅刻常習者で意味を成さなかったという内部情報があります。今回実行された複数の重大な処方変更が主治医から病棟看護師長にすら直接伝えられていなかったことは、平成22年8月の人証時に、O第2病棟看護師長が「渡邊病院長からは聞いていない」が、「診療録を見て知った」と述べたことから確認されました。処方変更に直接関係する職種の薬剤師は11月2日以後に薬剤管理報告書等を記述しておりません。薬剤師は10月27日に渡邊医師が診療録に記述した「ドプスを増やしてプロピタンを変更する」という主治医の方針に異を唱えて進言をしましたが、渡邊医師に無視されて、しかも主治医で病院長の渡邊医師が誤薬(ドプス増量)と統合失調症治療ガイドラインの指針を逸脱した処方(プロピタン中止)を実行に移したために、ついて行けなくなり、誤った処方変更への関与を否定するため薬剤管理報告の記述を止めてしまったものと推察されます。いわき病院では被告渡邊医師が行った処方変更でチーム医療が機能しておりませんでした。


(6)、プラセボ開始後に心理社会的療法は実施されなかった

B教授は「統合失調症の陰性症状が重篤であるにも拘わらず、いわき病院内では純一の社会復帰を目指して作業療法、社会生活技能訓練、退院教室、金銭管理トレーニングなどの心理社会的療法が積極的に提供されており、医師、看護師、作業療法士などがチームのように積極的に純一の治療に取り組んでいたことが窺える」と誉めました。しかし、SSTと作業療法などの訓練が同日同一時刻で行われたことが最低4回は確認されており、更に、レセプト請求を重複して行っていました。また心理社会療法を行っていると同時刻に純一が病棟にいた看護記録が散見され、実態が伴いません。

渡邊医師は事件直後の平成17年12月8日に警察官に「トレーニングの記録を確認しても目立った改善はない」と供述しました。平成13年に純一がいわき病院に入院した際の主治医で、平成16年10月にいわき病院に入院する前に主治医として治療に当たっていたY医師は「純一のような重篤の統合失調症患者が訓練で社会復帰できるなんてあり得ない」と原告矢野に言いました。そもそも、通常の時期の社会的心理療法の効果を渡邊医師自身が否定していたことは、重大な事実です。

    処方変更後の心理社会療法
    1)、作業療法記録
       11月24日、25日、12月1日(看護記録では同時刻に病棟に居た)
    2)、金銭管理トレーニング実施記録
       11月28日

B教授は重大な処方変更に加えプラセボ試験を実行していた時ではなくて全入院期間の心理社会的療法の実施状況を不正確に理解して誉めており、鑑定意見書は的外れです。渡邊医師が「効果判定があった根拠」とする11月23日以後の各種トレーニングは4回だけで、12月1日(9:30〜11:30)の作業療法が最後で、この日の夜(21:20)がプラセボ筋注開始で、時期が外れており効果判定の参考となりません。しかも、看護記録では12月1日の同時刻に病室に居た記録があり、作業療法(集団)に純一が参加したとする事実を確認できません。プラセボ試験を開始した12月1日以降の社会心理的療法は、渡邊医師が効果判定の参考としたと主張した根拠事実がありません。従って、処方変更の効果判定に関するB教授の鑑定意見は間違いです。渡邊医師の「処方変更に対する効果判定は行われておりません」でした。本件ではB教授はいわき病院の無過失を証明できておりません。B教授は自らの論理に忠実であれば、処方変更後の効果判定で渡邊医師に過失を認定することが当然でした。


11、殺人事件の発生を予見し回避できなかったいわき病院

B教授は「野津純一による本件事件を、平成17年12月当時の一般精神科医療の水準にある精神科医が事前に予測することは不可能であると言わざるをえない。」と結んでおりますが、これはB教授のリスク・マネージメント論と一致しません。純一は11月30日以後は主治医の診察を受けられず、B教授が認める通り、12月4日以降には特に必要性があった適切なケアと治療介入が行われておりませんでした。


(1)、リスク・マネージメント論と事件の回避可能性

B教授はGunnの研究を引用して「精神科医療にかぎらず、医師にとっては、リスクを評価するだけでは、不十分であり、固定されたリスクを可能な限り減少させる努力が必要である」と指摘しました。また事件の回避可能性に関しては「(英国の査問委員会は)事件は予測不能であったが、回避することは可能であったと結論付けていたが、その理由は、暴力の予測自体は不可能であるが、適切なケアがなされていれば、再発は予測可能であり、入院等の適切な介入が行われ、事件は起こらなかっただろう(と結論づけた)」とも述べています。

B教授は、純一がいわき病院に入院以来の精神科臨床医療に責任を問えるほどの問題はなかったとしていますが、これは入院直後から平成17年11月までの評価であり、平成17年12月の状況に対応しておりません。B教授の主張に従えば、純一による病院外における刺殺事件は「適切なケアがなされていれば、再発は予見可能であり、(外出の一時制限等)の適切な介入が行われたならば、事件は起こらなかった」と結論され、「事件は予見可能性があり、回避可能」でした。B教授は自らの論理に忠実であれば、いわき病院の過失責任を認定しなければなりません。


(2)、本件犯行当日に渡邊院長が
野津純一の診察をしなかった過誤

B教授は、外来診察中はよほどのことがなければ入院患者の診察はできないとして、「一般論として過誤ではない」と鑑定意見を述べました。しかし、原告野津夫妻は以下の通り願っておりました。

  1. 外来待合の列に並ばせる
  2. 主治医でなくても、他の医師に代診させる
  3. 外来診察後(その日の午後)に診察すると純一に伝える

B教授はこれに応えておりませんが、「本件純一のように、咽頭痛や頭痛といった通常の感冒の範囲の訴えであれば、外来の予約患者の診療が終了してから病棟に診に行くのが臨床実務上の常である」と結んでおります。渡邊医師は看護師を通じて「外来診察後に診察する」というメッセージを純一に伝えておらず、また病棟を訪問したとする弁明はその場限りで一貫性がなく矛盾に満ちたものでした。

B教授は、精神科医療では、重大な処方変更を受けて、しかもプラセボ試験の最中にあった入院患者の純一に異常が発生(プロピタン中断前は精神症状が安定していたのに、処方変更後は、幻聴や被害妄想が亢進しイライラして根性焼きをしていた)しても、主治医と入院加療を行っている精神科病院には治療義務はない、治療しなくても責任を問われないと鑑定しました。入院治療契約の債務不履行を容認する見解です。精神科医療に制度上の特殊性はありますが、民事訴訟法上の入院医療契約で債務不履行は許されません。B教授の鑑定意見は原告の主張に答えたものでなく、また不法行為を助長する内容であり、不適切です。

なお、B教授の鑑定意見に基づけば、渡邊医師は外来診察後に診察するとの明確なメッセージを伝える義務がありました。B教授は純一の「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるんやけど…」の言葉を看護師が渡邊医師に伝えたとしておりますが、そうであれば尚更のこと、渡邊医師は純一に午後に診察するという明確なメッセージを伝える義務がありました。B教授は論理として、渡邊医師の過失責任を認めております。


(3)、野津に対する社会復帰訓練実施と単独外出許可の錯誤

B教授は一般論として答えましたが、原告矢野は一般論として精神障害者の社会復帰訓練と社会参加の促進及び開放医療に賛成で、問題にするのは、自傷行為中に、短時間の一時的な外出制限を行わなかった過失(精神保健福祉法違反)です。いわき病院は純一が日中に自由に外出できるようエレベータ暗証番号を教えていました。いわき病院は一度に複数の重大な処方変更を実行しながら、純一の病状の変化を観察・診断せず、アカシジアで苦しむ純一を放置し、純一の顔面左頬という極めて観察が容易な部所に対する自傷行為すら発見しませんでした。この治療放棄は、入院患者の自主性の尊重でもなければ、社会参加機会の拡大でもありません。いわき病院と主治医渡邊医師は精神障害者である純一の保護を行わなかったのであり、医療過失と、入院医療契約の債務不履行で、重過失責任を問われなければなりません。B教授の「純一を完全な閉鎖処遇下に置いておけば確実に事件を防止することができたと結果論的に言えても、」の鑑定意見は原告矢野が一度も主張したことがない論理であり、不適切です。


12、過失責任と精神医療の存続

B教授は「いわき病院で純一に関する処遇(=診察、診断、治療、看護、外出許可)には、特に問題ないと考えられる。」と結論づけました。しかし、その論理は学者としての医学論ではなく、「平成17年12月時点」と「一般精神医療の水準」を持ち出した精神科医療業界防衛論です。


(1)、日本の精神科医療を破壊する訴訟か?

B教授は「被害に遭われたご家族の心痛を察するに余りあるが、その責任をいわき病院における純一に対する医療に求めることは間違いである。本件原告が指摘する投薬の方法(薬剤選択、投与量、投与時期等)如何により本件事故を事前に回避できたと判断し得る医学的エビデンスはない。純一を完全な閉鎖処遇下に置いておけば確実に事件を防止することができたと結果論的には言えても、それは延いては精神科医療そのものを破壊することになる。この点を銘記していただきたい。」と述べました。

これはいわき病院と渡邊医師に過失責任が認定されると「日本の精神科医療が破壊される」という意見です。B教授は、渡邊医師の精神科医療および医学的エビデンスに錯誤があったことを認めておりますが、12月4日には治療的介入が必要とB教授が判断した現実と根性焼きという明白な先行現象があった事実を見逃して、「事件は回避できなかった」と無理矢理こじつけました。その根拠は「いわき病院は精神医療の水準が劣る一般の病院である」という理由です。またB教授は「純一を完全な閉鎖処遇下に置いておけば確実に事件を防止することができた」と原告矢野が主張もしていないことを持ち出して「精神科医療そのものを破壊することになる」、「この点を銘記していただきたい」と原告矢野を説教しておりますが、事実誤認です。


(2)、渡邊医師の債務不履行

B教授はいわき病院代理人から鑑定を依嘱された項目ではありませんが、渡邊医師といわき病院が純一に対して行った精神科医療に過失責任が問われる理由は、入院医療契約で債務不履行を行ったところにあります。

B教授は依嘱された項目をなぞり、個別項目を限定的に解釈して平成17年当時の一般病院の一般の医師の医療水準であればそこまで責任を問うことはできないという免責理由を掲げました。そのこと自体は、ほとんどが事実誤認に基づいており、本件事件の実態とかけ離れた鑑定論理です。平成17年11月23日以後にいわき病院が純一に対して行った精神科臨床医療は業務請負契約を誠実に履行しない債務不履行です。


(3)、事件の予見可能性

B教授は殺人事件の予見可能性に関して以下の通り述べて鑑定意見書を結びました。「野津純一による本件事件を、平成17年12月当時の一般精神科医療の水準にある精神科医が事前に予測することは不可能であると言わざるをえない。」この意見には「平成17年12月当時」と「一般精神科医療の水準にある精神科医」の限定語を差し挟んでいるとことが重要です。これらの限定語を外せば、以下の通り読み直すことが可能です。

野津純一による本件事件を、

  1. 現在(平成23年7月時点)では、一般的な精神科医療の水準にある精神科医でも、
  2. 平成17年12月当時でも、大学病院など最先端の医療知識に接する機会の多い医師であれば、

事前に予測することは可能である。

B鑑定書は、論理的に少なくとも現在(平成23年7月)の時点では「いわき病院の渡邊医師のような」一般的な精神病院の医療レベルにある医師でも、事前予測をすることは可能であると認めています。更に、大学病院など最先端の医療知識に接する機会の多い精神科医師であれば平成17年12月当時でも予測することが可能であったとしております。B教授は無条件に予測可能性を否定せず「患者の病状予測に基づく適切な治療介入という精神医療の可能性」を確信していると思われます。

いわき病院長渡邊医師は精神保健指定医でかつ国立K大学病院精神科外来担当医師で、K県で最初に日本病院評価機構に認定されたK県内最優良を自称する精神科病院の指導者です。また、精神障害者の精神科開放医療と社会復帰と社会参加を促進する全国組織SST普及協会の役員で、「平成17年12月当時でも現在でも、大学病院など最先端の医療知識に接する機会が多い精神科医師」に該当し、精神科医療を高水準に維持する指導者の一人です。B教授は平成17年12月の事件当時と現在(平成23年7月)の差異を殊更に持ち出して昔と今の違いを強調しますが、渡邊医師の過失責任論では、意味がありません。B教授は過失責任を認定する責務がありました。渡邊医師は、野津純一による本件事件の発生を事前に予測して回避することが可能な、高度な資格を有し、大学の先端医療に接する機会が多い精神科医師でした。


13、B鑑定意見書の論理

B鑑定意見書はいわき病院と渡邊医師に過失責任は無いという結論で、その基本的な論理は、以下の通りです。


    1)、普遍的な基準の否定
      a)、一般病院と一般の医師という精神科医療水準の差異
      b)、平成17年12月の事件当時と、平成23年7月の鑑定時という
        時間差の持込

    2)、恣意的な論理
      c)、事件直前の時期を外して全入院期間で論じた
      d)、アカシジアの問題をインフォームド・コンセントの問題にすり替えた
      e)、12月6日の午後の診察意図など、被告側がつじつま合わせで主張を
        変化させていた事実から眼を反らした

    3)、目的のための事実改変
      f)、最終診察日の診察時刻を午後7時(19時)から
        午前11:10時以前に変更した
      g)、渡邊医師の最終診察日を11月30日から12月3日に変更した
      h)、根性焼きを無視した

B教授はいわき病院と渡邊医師の精神科臨床医療と看護の実態を解明して、今日の医療水準と看護水準から見て逸脱や錯誤があることに気付いており、そのことは各項目の論理で「大学病院医療の水準ではない」とか「必ずしも適切ではない」等の表現で記述されています。B教授の本来の論理に従えば、いわき病院の精神科臨床医療に過失責任を認定することが論理的な整合性があります。

しかしながら、B教授は、いわき病院と渡邊医師の過失責任を、事実の無視と変更(改竄)を容認してまでして、一般の精神科病院の一般の医師だからという理由で、否定しなければならない任務を負っておりました。そこで考え出された論理は、事実を黙殺した、「問われてないから答えない」また「質問された範囲では過失はない」という精神科医師としての良心を疑う無責任な論理です。


(1)、普遍的な基準の否定

B教授が免責理由として掲げた第一の論理は普遍的な基準の否定で、「a)、一般病院と一般の医師という精神科医療水準の差異」ですが、これは日本で標準的で基本的な水準を守る精神医療が行われなくてもかまわないという主張です。更に、「b)、平成17年12月と平成23年7月の鑑定時の時間差」は、昔のことだから責任は問えないとする論理です。B教授はこれらの論理を展開するに当たって、具体的にどの項目の水準がどのように異なるもしくは時間の変遷で何が違ったかを説明しておりません。

一般の街中の病院であれば、大学病院の水準から劣る問題がある医療でも、過失責任は問えない、また過去の医療水準は現時点とは異なるので過失責任は無いとする鑑定意見です。これは精神医療に主治医の私的な裁量を無原則に容認するものであり、医師法第1条に定められた「公衆衛生の向上及び増進に寄与する」という観点から社会に普及する最低限の医療水準を維持するという視点が欠落しております。いわき病院に過失責任を負わせてはならないという、いわき病院側の立場で鑑定意見書を執筆するという請負契約の義務に負けて、大学教授としてまた精神医学者として原則から逸脱した鑑定意見です。


(2)、恣意的な論理

B教授が用いた「c)、事件直前の時期を外して全入院期間で論じた」、「d)、アカシジアの問題をインフォームド・コンセントの問題にすり替えるなど、的を外した論理を展開した」、また「e)、12月6日の午後の診察意図など、被告の主張がつじつま合わせで変化していた事実から眼を反らした」などは、いわき病院と渡邊医師に責任を負わせないための論理テクニックです。純一は被告いわき会いわき病院に入院中の全期間に渡って他害行為の危険性が切迫していたのではありません。また被告渡邊医師以外の医師の治療で問題なかった事実は渡邊医師を免責する理由にはなりません。アカシジアの診察で渡邊医師が数々の診察間違いをしていたことに眼をつむり、文章を埋めても、過失責任を免除する証明にはなりません。資料価値が低いとした原告と被告の意見陳述文書等は精神医学的な学問的価値は低いかも知れませんが、渡邊医師が証言内容を変化させてきた経過はいわき病院の過失責任を確定する上では重要です。B教授が過失責任を免除するために恣意的な論理づくりに腐心していたことは明白です。


(3)、目的のための事実改変

B教授に被告側鑑定意見を依頼するに当たっていわき病院は事実認定で大きな賭をしました。それは、診療録に記載された渡邊医師が純一を最終診察した日付と、根性焼きです。B教授は最終診察日を12月3日とし、根性焼きに触れずに鑑定意見書を書き上げました。これは、最終診察日は11月30日ではなかった、また根性焼きは無かったという前提です。そこには事実確認は不正確でも権威で押しつぶす意図が隠れているように感じられます。しかし、12月3日に渡邊医師は診察をしておらず、純一はいわき病院内で根性焼きを自傷しておりましたので、事実確認を放棄した、B鑑定意見書は価値がありません。


g)、12月3日の渡邊医師の最終診断は虚偽
  平成22年8月の人証で、渡邊医師が宣誓の後で「12月3日の渡邊医師の最終日診察記録を11月30日に変更した」事実は重いものです。いわき病院は再び事後の訂正をして12月3日に戻せません。渡邊医師の純一最終診察日は11月30日であり、12月には処方変更の効果判定も治療的介入も行っておらず、B教授が12月3日を渡邊医師が診察した最終日として鑑定意見を書いたことは間違いです。

渡邊医師が12月3日に本当に診察したのであれば、カルテ日付を誤記したり、5年も経過した後に変更したりはあり得ません。カルテ日付を、その場のご都合主義で、後ろや前に変更する行為は、B教授が適切ではないとしている「後知恵」=「後出しじゃんけん」そのものです。また、「後出しじゃんけん」の不正が過ぎます。


h)、根性焼き無視
  B鑑定意見書の鑑定意見を左右する最も重大な事象は根性焼きです。12月6日に純一が外出する前にいわき病院は顔面左頬の複数の瘢痕を発見しておりません。殺人事件前の根性焼き目撃者は100円ショップのレジ係ただ一人です。そして事件直後に母親が被告いわき病院第2病棟アネックス棟の自室にいる純一の顔面に痣を視認しましたが、いわき病院は誰も丸一日の間、純一が7日に身柄拘束されるまで発見しておりません。これは驚くべき事実で、この状況が12月4日以後継続していたと考えるべき蓋然性があります。12月4日以後の純一は診療録と看護記録を検討した精神科医師の言によれば「近寄ることがためらわれる状態」であり、いわき病院でも看護師等が純一に接近して看護することを避けたため顔を観察する事がなかった筈です。また5日の内科医の診察は診察した事実が無く、風邪薬の処方を事後に承認したものと推察されます。

いわき病院はこれまでの証言で「身柄拘束された時に顔面に瘢痕(根性焼き)が有ったのであれば、7日に病院から出て拘束されるまでの間に自傷したもので被告病院内では自傷していない」「根性焼きは野津の妄想である」と主張してきました。しかし警察が身柄拘束直後に撮影した写真では黒いカサブタが撮影されており、逮捕直前に自傷したものでないことは明白です。更に、平成22年1月の医療刑務所での純一人証時に原告被告側関係者が純一の左頬に後遺症の瘢痕を発見しなかった事実を根拠にして、平成22年8月の人証で渡邊医師は「700度のタバコの火で自傷したのであれば、火傷の傷跡が現在でも残っていなければならないはずで、傷跡がないことは根性焼きそのものが無かった」と反論しました。純一が根性焼きをしたのであれば、重度の火傷でなければならないという極論です。純一は、逮捕の3日ぐらい前(12月4日)に自傷したと証言しておりますが「いわき病院では純一に対して治療的介入が行われなかったこと、及び純一の顔を見ない『看護』が行われていたという事実があった」と発言したことになります。B教授も12月4日には治療的介入の必要性があったと認めており、いわき病院と渡邊医師の過失は決定的です。

B教授はいわき病院代理人から「根性焼きはいわき病院が確認した事実ではないから、触れないでもらいたい」と依頼された可能性があります。しかし、根性焼きを無視してはいわき病院が純一に行っていた精神科臨床医療の事実を正確に評価できないことは明白です。B教授は、診療録の他に警察資料を参照して鑑定意見書を作成しており、警察が撮影した純一の根性焼き写真を見て「根性焼きの存在を確認していた」はずです。根性焼きはいわき病院代理人の嘱託事項には入っておりません。しかしB教授が、根性焼きに関して「聞かれてないから答えない」又「聞かれた範囲では、いわき病院に責任が無い」として鑑定意見書を作成したのであれば、真実を語るべき精神医学者の基本的な姿勢を疑います。B教授は根性焼きの写真を見て、精神医療専門家として評価をする義務がありました。B教授が根性焼きに言及せずに鑑定意見書を提出した行為は、B教授がいわき病院に過失はないと鑑定意見書を提出する義務に縛られていたことを証明します。


(4)、精神科医療の特別意識の破綻

原告矢野は本件裁判を提訴して以来、戦いの場面展開が拡大することに驚きます。一地方の一民間精神科医療機関とその病院長を相手にした民事訴訟ではありません。被告側の配役が全国規模で、被告代理人はもとよりB教授に、経歴と権威に打ちのめされる程の圧力感を感じます。原告矢野はそこから、「何故、これほどの権威がいわき病院と渡邊医師を擁護する必然性があるのか」と考えます。その鍵はB教授が鑑定意見書の最後に記述した「それは延いては精神医療そのものを破壊することになる。この点を銘記していただきたい」と原告を説得しているところにあると思われました。

原告矢野は「息子が死ななければならなかった本当の理由が知りたい」と希望して提訴しました。また、矢野真木人が殺害された直後に、誰からも一様に「犯人を治療していた病院に責任を問うことはできない、それは常識」として言われたために、「それが常識であれば、常識がおかしい」と声を発することにしました。更に、加害者を観察して、一個の患者という人間に対する精神科医療の処遇のあり方として必要最低限の水準の医療を受ける権利が侵害されているところに違和感を持ち、加害者の両親に民事裁判に原告として参加するように呼びかけました。それは、発生した事実の確認をしたいという願い及び、加害者と被害者に共通する基本的人権の実現への願いでした。二つの家族が提訴した課題に法の光が差し込めば、本望でした。

原告矢野は、B教授の出現と、その鑑定意見書の結語に接して、改めて精神科病院組織と、精神医学者団体にとって本件訴訟が重大な意味を持っている現実を知らされました。特に「一般の一病院の、一医師」という無過失論に接して驚きました。この弁解が通用するのであれば、日本では精神科医療機関も精神科医師も過失責任を問えない不可侵の存在になります。全て国民は法の前で平等ですが、精神科医療界は自動的に免責で法律の枠外にあって当然とする、特別意識が見えています。私たち原告は「一地方の一病院の一医師の限定的な事件」と考えましたが、同じ言葉を使って、B教授は水準が劣り錯誤がある精神科臨床医療を一律に免責する理由としました。精神科医療は日本の法治制度の下にあります。一病院の一医師も、守るべき法治社会の原則を守ることが基本です。


(5)、業界擁護論から脱皮すべき時

B教授の鑑定意見は、いわき病院と渡邊医師の過失を認めると、結果的に「精神医療界の便宜主義に基づく、安易な開放的精神医療への道」が閉ざされるとした業界擁護論です。B教授が精神医学者として社会を科学的・客観的に見る視点を欠く短絡的発想に与していることが、極めて遺憾です。本件訴訟ではいわき病院と渡邊医師の過失がどの点にあり、その改善にどう取り組むかを明示することによって、日本の精神科臨床医療改善(治療介入の技術向上とリスク管理手法確立)につながる筈です。精神科開放医療の大義名分の下で、「精神病院の過失を一切表ざたにしてはならない」といった、精神医学界と精神科病院団体の閉鎖的な姿勢が、精神医療の後進性を保存して、精神医療の改善と信頼獲得を阻害して、大きな社会問題化していると思われます。

いわき病院と渡邊医師が典型的な事例で、優良・優秀の看板の下で、基礎的で間違いが入り込むはずがない部分の精神科医療診察と治療技術に錯誤があり、患者の病状が悪化しても医療介入を疎かにした医療機関と医師がまかり通る現実があります。それは、ある意味で日本の縮図です。今日、原発の安全性が社会の大きな課題になっておりますが、日本社会に普遍する専門家任せの業界内利益第一主義が、社会の基本的な問題を解決することができず、市民生活に犠牲を強いるという日本的問題の拡大を招き、国際社会で信頼を失っている現実があります。


14、原告矢野が提訴した目的意識

(1)、原告は被害者と加害者の両親

本件訴訟の原告は、精神障害者純一に通り魔殺人された矢野真木人の両親の矢野夫妻と、その犯人純一の両親の野津夫妻です。矢野夫妻も野津夫妻も共に、いわき病院及び渡邊医師が純一に対して行った精神科臨床医療が錯誤と過失に満ちたものであった事実に基づいて、「いわき病院で施行されていた精神医療の現実を正す事が、日本の精神医療に改善をもたらすことになる」と確信して、本件訴訟に臨んでおります。本件訴訟では加害者側と被害者側の家族が共に連携して、加害者を治療していた精神医療機関と精神保健指定医である主治医の医療過失責任を追及しております。原告野津夫妻は原告矢野が提訴して2年4ヶ月後に原告として訴訟に参加しました。原告矢野は原告野津夫妻の勇気を称えると共に、訴訟に原告として参加した決断に心から感謝しております。


(2)、日本の精神医療の課題を明らかにする

日本で被害者側と加害者側が法廷で連携することは希有な事例です。私たち双方の両親が、協力しなければ、「日本の精神医療の課題にメスを入れる」という重い扉をこじ開けることができないと確信するに至った事実背景を認識していただきたく存じます。原告矢野には訴訟が行われている事実を知った「他害の可能性がある精神障害者を支えている家族」及び「家族が精神障害者に殺害された遺族」から「頑張って欲しい」、「表に出られないが、密かに応援します」また「精神医療が改善されないと、私の入院中の家族の惨めさが改善されません」という声が届きます。


(3)、精神医療による不幸の削減

私たちには日本の精神医療を破壊する目的意識はありません。私たちの行動は、日本の精神医療を改善して、精神障害者の社会復帰を促進して、精神障害の既往歴がある者も健常者も共に等しく平等な人権が尊重される社会が確立されることが目的です。日本の精神科医療の現場で、普く、精神障害者に人権を尊重して、精神障害者の社会参加と社会復帰を促進する精神科医療が行われることを心から願います。きちんと患者に向き合い真っ当な治療をしている医師と病院がある一方で、いわき病院と渡邊医師のような、「単純な誤診、基本的な誤薬、診察怠慢、自傷他害のリスク管理なしで開放医療推進」が行われている実態の、怠惰な精神科病院が存在することは患者にも被害者にも悲劇です。このためにはいわき病院と渡邊医師に重過失責任を確定し、日本の精神医療も必要最低限の医療水準が全ての患者に約束される社会となる事を願います。


(4)、見えてきた課題

本件裁判を通して、私たちは親として矢野真木人の無念を解消する努力をしているだけです。おそらく、野津ご夫妻も息子純一の無念を晴らしたい気持ちだと思いますし、私たちは野津ご夫妻のお心を尊重します。私たちは野津純一の哀れな境遇を理解します。

本件裁判を通して、原告矢野の私たちには、いわき病院と渡邊医師の過失責任を確定するという課題だけでなく、日本の精神科医療を改善する課題が明らかになってきました。私たちは、裁判を通じて以下の課題に向かって進むことが、矢野真木人が命を失ったことで可能になった矢野真木人の最後の社会貢献だと確信します。

  1. いいかげんな精神科臨床医療を行なって通り魔殺人の原因を作った医療法人社団以和貴会(いわき病院)と渡邊医師に過失責任を確定する。

  2. ◎、以下は、原告矢野が本件裁判以後に展望する社会的課題です。

  3. 患者の権利を無視したいいかげんな治療を続けている一部の精神科病院と、それを黙認あるいは積極的に支持している一部の精神医学的権威に反省を求め、患者の権利に配慮した精神科医療を促進する。

  4. 精神障害者の犯罪に正面から取り組まず、犯罪を行った側も被害者も不幸にしている社会と法体系の現実を認識し、普く人権を尊重する社会を目指す課題がある。

  5. 精神障害者による人命の損耗等の事例に関連した事実関係を客観的な視点で解明して記録し、普遍的な社会の知識として活用することは、精神障害者ならびに市民の人権を約束する未来を展望することに繋がる。このため、全ての事例を調査して記録をする制度を確立することが求められる。


   

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