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矢野真木人殺人事件 (刑事裁判を経験して)
平成18年8月28日
矢野 啓司
1、矢野真木人殺人事件の概要と経緯
- 殺人犯は精神障害者
矢野真木人(享年28才)は、平成18年12月6日の午後0時25分頃、香川県高松市香川町のショッピングセンターキョーエイの駐車場に停めてあった、自分の車に乗り込もうとして車の後ろですれ違った、犯人野津順一(当時36才)に万能包丁で右胸を刺され、心臓大動脈を切断されてほほ即死の状態で死亡した。
- 病院の診断ミス
犯人は、近隣の精神病院であるいわき病院の入院患者で、病院の言によれば「社会復帰の訓練で実地訓練の外出中」に、100円ショップで万能包丁を購入した直後の犯行であった。逮捕後に犯人野津純一は、病院の喫煙所が汚れていたことにイライラしたこと、病院の非常階段の開け閉めの音が煩わしくその騒音から父親の悪口を言っているという幻聴などを聞き、犯行を思い立ったものであった。また事件の一週間前には、前記のイライラと投薬の過剰によるムズムズ等に悩まされて、左の頬にタバコの火を押しつけるという根性焼をしていた。犯人はいわき病院から「統合失調症」および「強迫神経症」の診断を得ていたが、犯行後に拘留期間を2ヶ月延長して行われた精神鑑定では「慢性鑑定不能型統合失調症」および「反社会性人格障害」の診断がされ、検察官を通じて鑑定医は「いわき病院の診断は間違いであると判定した」とのコメントを聞いた。
- 一人を殺した精神障害者に懲役25年
犯人は平成18年2月27日に起訴され、高松地方裁判所で裁判が行われ6月23日に、懲役25年の判決が言い渡され、被告側は控訴せず結審した。我が国で人一人を殺害した統合失調症の殺人犯に対する懲罰としては初めて下された厳罰である。判決理由で「犯人野津純一は四半世紀に及ぶ極めて寛解が難しい重篤な統合失調症であるが、犯行時には事理弁識能力や行為制御能力を有していた」とされた。
- 統合失調症は自動的に心神喪失ではない
犯罪被害者となって初期に最も困惑したのは、法曹関係者のほとんど全てが「統合失調症が重ければ自動的に刑法第39条の規定により、心神喪失が適応される」という固定認識を持っていたことである。刑法第39条が制定された約100年前の当時の精神医学水準と現在では全く異なっている。それにも関わらず、過去の未発達な精神医学の水準を元にした判例が前例とされ続けるところに問題の本質がある。精神鑑定の専門家を自負する医師の中にも「統合失調症だから無罪」と安易な発言をする者がいるが、これは医師としての領分を逸脱している。統合失調症は自動的に心神喪失の状態をもたらすものではないことが司法関係者の共通認識になる必要がある。
- 民事訴訟におけるいわき病院の屁理屈
私どもは、刑事裁判でいわき病院の責任も糾明されることを望んだが、いわき病院が起訴されるまでには至らなかった。このため、私どもは6月23日にいわき病院および野津純一に対する民事裁判を提訴して、現在まで第一回公判が行われた。被告いわき病院は「刑事裁判で認定された起訴事実」を「原告の創作」であるとして否定し、合わせて判決の根拠となった精神鑑定結果を「間違いである」として否定した。その上で、判決の趣旨をねじ曲げて「犯人野津純一に懲役25年が確定したことにより被告野津の精神状態が正常であることが証明されたので、治療により精神障害を完治させたいわき病院に責任は無い」としている。現在の制度では、このような屁理屈が許される。
2、被害者の立場から警察や検察にお願い
- 警察にお願いした
私どもは、犯人が精神障害者であることに驚愕した。殺された息子の葬儀を終えてすぐに、犯人を逮捕した担当の警察署に出向き、刑事課長に面会を求めた。その上で、「精神障害者が犯人であったとしても、犯罪を放置することは警察の機関としての設立目的に外れている。被害者として、積極的に警察には協力するので、犯人を安易に釈放することが無いように、また警察の背景捜査も、確実に行ってもらいたい」と要請した。
- 検察を動かした報道対応
犯人野津純一は犯行の翌日に警察に逮捕されて、その翌日には高松地方検察庁に移送された。犯人の自白過程は「警察では警官がこわかったので否認したが、検察庁では取り調べに当たった若い検察官が優しそうなお兄さんだったので、進んで自白した」と聞いた。私どもは、2月24日と3月27日に地方検察庁で事件の概要の説明を受けて、私どもの考えについて説明した。その際に地方検察庁検事正が私どもと面会して、私どもが新聞やテレビで積極的に発言していたことを詳細に検討したこと、また私どもが緊急出版した著書の『凶刃』も読んだことなどをあげて、検事正が直々に担当検察官に「起訴して厳罰を求刑するように指示した」と説明した。
- 精神障害者でも重大犯罪犯は必ず起訴するルールが必要
通常の場合、担当検察官は「精神障害者を起訴しても、万一裁判で無罪となった場合には、その検察官の昇進など将来性に傷が付く可能性があるので、安易に流れて不起訴処分にすることが多い」と精神障害者の犯罪に関した多くの書物に書かれている。その意味で、矢野真木人の殺人事件では地検トップの検事正の指示があったことが、若い検察官の心を動かして、犯人野津順一に厳罰が課された大きな要因である。この点を話すと、多くの他の精神障害者による犯罪被害者は「不公平」感を持つようである。精神障害者の場合、火災や人身傷害や婦女暴行などの重大犯罪でも、逮捕されない、もしくは逮捕されても不起訴になる場合が多い。犯罪者は誰によらず「必ず逮捕して起訴するルール」を確定することが望まれる。「精神障害者が犯人であれば、現場が逮捕拘束せず安易に釈放するという判断が行われる慣例」は法執行上の間違いだ。
- 女性検事の効用
私どもが幸運であった事がある。犯人の起訴は2月下旬で、第一回公判が4月中旬だった。4月の人事で、裁判担当の検察官が異動した。その上、第一回公判を担当した男性検事も病気入院して、第2回公判は別の検察官が担当した。普通このような頻繁な担当官の交代は望ましくない。しかし殺人犯人の野津純一に対しては、そのことが裁判では有利に働いた。担当検事は背が高くて若くまた見栄えの良い女性だった。犯人野津は、自分自身の弁護士にも裁判長にも不真面目な態度で対応した。ところが、若い女性検事の「殺意はありましたね」という質問に対しては、明瞭な声でしかも喜々として「はい」と答えた。37才で独身の犯人が持つ若い女性へのあこがれがなせる技であったが、この答えが厳罰を課す大きな要因となったと思われる。若い女性検事の担当と犯人の心の鍵を開けた役割は、怪我の功名としたものであるが、大いに助かった。裁判の場では、このような思いがけないハプニングもある。
3、判決確定後に証拠の遺品が返された
- 証拠品の遺品は裁判前に見たかった
刑事裁判の判決が確定した後で、被害者である矢野真木人が殺害された時に着ていた衣類などの証拠物品が地方検察庁から返却された。その際に「返してもらいたいか」という問いだったが、遺品は本来遺族に返却するのが当然であり、違和感を覚えたものだ。返却された衣類には殺害された際の包丁の傷跡が明瞭に残っており、包丁の挿入角度や深度を推察できるものであった。このような証拠品は、起訴前後もしくは裁判の途中であっても、遺族には開示するべきだ。それによって、被害者が持つ犯罪の実態認識が大いに異なることになる。また被害者の家族は、証拠物件が開示されないと、被害者が死ぬに至った経緯が一切わからない。これは知る権利を阻害していると考える。
- 加害者の証拠物件も見たい
矢野真木人殺人事件では「犯人野津順一が犯行時に着ていた衣類にも返り血が付着していた」と検察官から聞いた。ところが民事裁判でいわき病院は「衣類への返り血を発見することは到底不可能であった」と主張している。被害者には、刑事裁判の途中であっても凶器や犯人の衣類や逮捕直後に写した写真などの重要証拠品を閲覧する権利を保障するべきである。証拠品の状況の確認次第によっては、民事裁判の提訴根拠が異なることになる。さらに検察官の起訴状やその他全ての証拠品についても、犯罪被害者にはその閲覧及び複写の取得を公判の開始とともに認めるべきだ。その必要性は、民事裁判に入って痛切に感じた。これによって被害者から加害者側に対する証拠保全などが早い段階から可能となる。
4、刑事裁判と民事裁判の連携を早くして欲しい
- 付帯私訴制度の早期確立が望まれる
刑事裁判における付帯私訴制度の確立は早急に望まれる。しかし私どものように民事裁判の被告が刑事裁判の被告と同一でない場合もある。付帯私訴があるために、刑事裁判で訴求を逃れた被告に、刑事裁判で不起訴になったことをもって(責任を取る必要がないという詭弁の)無責任な主張を許してはならない。このための制度運用上の配慮が必要だ。なお、いわき病院は早い段階から「刑事裁判で起訴されなかったので、病院には責任が無いことが検察当局により証明された」と言っていた。
- 刑事裁判の証拠の全面的公開
刑事裁判後に提訴した私どもの民事裁判では、いわき病院は刑事裁判の証拠として採用され判決でも認められた数々の事実を「原告の創作である」とまで反論している。今後の民事裁判でこのようないわき病院側の主張が通るとは思えないが、検察官が調べた事実を公権力を持っていない原告が改めて証明しなければならないのは理不尽だ。刑事裁判で使われた証拠物件は全て被害者には公開されなければならない。
- 被害者による刑事訴求を可能にしてもらいたい
私どもは、いわき病院が言う「検察が病院を起訴しなかったことは病院に責任がないことが証明されたことである」という主張を、民事裁判の提訴を準備している段階でいわき病院側から聞かされた。検察官が不起訴にする場合でも、被害者が弁護士を通して、刑事事件として訴求できる道を確立することが望まれる。
このことは、刑事裁判で犯罪にかかる全ての関係者が揃うことを意味しており、犯罪の関係者が刑事裁判に出廷しなかったことを理由として、刑事裁判で認定された事実や論理まで後に続く民事裁判で否定する事を防ぐ効果がある。
今回、私どもが提訴した民事裁判でも使われる証拠や事実関係や論理は、刑事裁判でいわき病院の出席と弁明なしに、いわき病院の実状や診断の間違いなどとして認定されて裁定が行われた。これは裁判上の欠陥だ。少なくとも引き続いて民事訴訟が行われる事が明白である場合には、その関係者全ての証人喚問が刑事事件では必要である。
- 犯罪統計と事実をゆがめている
犯人野津純一はこれまで火災の原因者(17才の時、自宅および両隣を消失した大火災)、病院に凶器を持ち込んで騒ぎを起こした、街頭で通行人に殴りかけた、などの凶状歴があるが、いずれも逮捕されず事件になってない。「精神障害者による事件発生件数は健常者より少ない」という意見もあるが、犯人の野津純一はやっと4回目の殺人事件ではじめて犯罪統計に載った。そもそも精神障害者が原因の事件の多数は検挙もされないために暗数となっており、犯罪統計上も正確な数値が得られないのである。更に、反社会的な行動が経歴に記載されないため、今回もいわき病院が民事裁判で「反社会性人格障害を野津純一に犯行前に診断することは不可能だった」と主張する原因となった。事実が正確に把握されてこそ問題の所在が明確になる。上記2、の3)でも書いたが、現行の刑法第39条で心神喪失と結果的に認められる事件であったとしても、裁判手続きを回避してはならない。これは事実を記録して確認するための公共手続きでもある。
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