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いわき病院の精神科医療の錯誤と過失
(精神科医療と精神保健福祉の現実の問題)


平成21年6月19日
矢野啓司
矢野千恵

まえがき


1、意見陳述(矢野)-12


私たちは高松地方裁判所に「意見陳述(矢野)-12」(以下の、高松地方裁判所提出文書)を提出しました。(実際に提出された文書では、医療法人社団以和貴会いわき病院(いわき病院)と野津純一の前には「被告」と書かれています。また言及されている機関や医師などは実名です。)


2、「白か黒」を決める文章

読者の中には、私たちが過失責任を明確に断じた激しい文章を書くことに違和感を感じる方もいるようです。通常の人間関係では、白と黒を殊更に明確にする行為は常識を欠くと見なされます。しかしながら、裁判の場では、原告の私たちがが「黒」と言わずに「灰色だから問題があります」と抑制した主張をすることは「白であり、相手には責任はありません」と同じ意味です。このような背景があることをご承知下さい。


3、精神科医療水準の向上

以下の文章は、いわき病院が裁判に自己弁明の証拠として提出した資料と文献に限定した、いわき病院で野津純一に対して行われた精神科医療の問題点、およびこれまでのいわき病院の主張との矛盾を指摘したものです。いわき病院の精神科医療の重大な問題点が見えています。いわき病院は病床数248の中規模の精神科病院です。決して小さな医院ではありません。また、香川県で最初に日本病院評価機構から認定された精神科病院であるとして優良病院と自認して社会的評価を誇っています。ところが病院長は精神保健指定医でありながら精神医学的知識は極めてお粗末と言うしかありません。これは、日本の精神科専門医師の養成に本質的な問題があることを示唆します。また問題の本質は現代の精神科医療で求められる必要最低限の医療水準が、精神科病院の指導者である病院長ですら確保されてないところにあります。

私たちには精神障害者問題に関係している多くの専門家から「いわき病院の事例は、特殊事例ではありません。精神医療の現場では普通に見られる状況です。」というご意見をいただきます。日本全国で一般的な状況である可能性があるとしたら、日本の精神科医療の水準を抜本的に改善する道が模索されて、決意をもって改革されなければなりません。


4、悲劇の芽は摘み取らなければなりません

いわき病院が野津純一に対して行っていた精神科医療は極めて不適切な内容です。病気を適切に診断せず、統合失調症患者の抗精神病薬を中断しました。検査データの意味を取り違えて誤診をした上に、危険な急性症状(奇異反応)が発現する可能性がある薬(レキソタン)を過剰に投与しました。この重大な処方変更に伴う薬事評価をしておりません。そして患者の顔に生じている瘢痕も観察していません。入院患者は正確な診断を受けず、適切な治療処方を受けず、主治医による経過観察も行われず、診察を願い出ても拒否されていました。このような杜撰な医師と専門病院で治療を受ける患者は悲劇です。なぜ、そのような病院が優良病院として認定さるのかが重大な問題です。統合失調症は100人に1人が罹患する病気です。その治療を行う医療機関と医師の精神科医療を信頼できない状態は許されません。医師は専門技量を常に向上する義務が課せられなければなりません。悲劇の芽は摘み取らなければなりません。


5、精神保健福祉の未来像

読者に訴えたいことは、「日本で、精神障害者の社会復帰と自立促進が本当の意味で促進される精神科医療が実現されているか」、また「精神障害者と健常者の人権は平等に運営されているか」という課題です。これは「精神障害者が健常者から差別されている」だけではなく「健常者が精神障害者から不平等に扱われていないか?」ということも含みます。私たちが行っている民事裁判は決して特殊事例ではありません。日本の精神保健福祉の未来に大きく関係する裁判であると確信します。いずれ出るであろう判決が、精神障害者に関連する各種の課題の礎石になるものと確信して、私たちは今日の法廷の場の戦いを進めています。

私たちが提訴している民事裁判は、刑法第39条に定められた心神喪失および心神耗弱がこれまで適用されてきたあり方に疑問を投げかけます。また、精神障害者の社会復帰と自立促進を大義名分にすれば、精神科医療機関は精神科医療を実施する段階で、無作為や怠慢も許されるというような論理に対しても、過失責任を問うことで明確に疑問を提起しています。私たちは日本の精神科医療のありかたに疑問を投げかけています。私たちは日本の法曹界と精神医学会の専門家の常識に「その常識は正しいのですか?」と疑問を投げかけています。

私たちは、これまでいわき病院事件として裁判の経過を本ロゼッタストーン社HPを通して公開してきました。これは事実が明らかになることにより、自浄作用が働き、精神障害者に関連する日本の各種の制度が改革されることを願っているからです。私たちの生命には限りがあり、私たちが自分達の力で行えることにも限界があります。しかしながら、情報が公開されることにより、また問題が提起されることにより、関係する専門分野の皆様の間で、自発的な改革と改善の動きが継続することを願っています。


6、矢野真木人の願い

矢野真木人が殺人されることがなければ、精神障害者を取り巻く問題は私たちの課題ではありませんでした。しかし今では、これは私たちに定められた運命であると見極めて、裁判に取り組んでおります。私たちは民事裁判では矢野真木人の殺人犯の両親である野津夫妻と協力関係を築く道を選択しました。それは、精神障害者の社会復帰と自立促進および健常者との真の意味の共生が矢野真木人の命の願いであると信じるからです。



(高松地方裁判所提出文書)

I、総 論

いわき病院は本法廷にいわき病院がこれまでに行った主張をとりまとめて平成21年3月19日付で「証拠説明資料(乙B号証)」を証拠及び文献として提出した。この証拠説明資料は乙B第4号証から乙B第9号証までの文献複写と立証趣旨から構成されている。これらはいわき病院の精神医学的な見解と主張の根幹となるものである。


1、証拠文献の内容にいわき病院は責任を持つ

いわき病院は証拠説明資料を提出した理由は、これまで2年9カ月の間に提出された原告矢野夫妻のいわき病院の過失を指摘する主張に反論して、いわき病院には過失責任がないことを証明することを目的としている。いわき病院は、提出された文献の内容には責任を持たなければならない。

いわき病院にとって今回提出した証拠説明資料は極めて重要な意味を持っている。提出された証拠説明資料をもって、いわき病院は原告に対して論理的また精神科医療の側面から決定的な優位性を確立しなければならない道理である。換言すれば、いわき病院が提出した証拠説明資料を持ってしても、自らの精神科医療の正しさを証明することができなければ、いわき病院は野津純一に対して行った精神科医療に関連して発生した矢野真木人殺人事件に関する過失責任が問われることになる。


2、文献の記載といわき病院の医療実態は異なる

いわき病院は野津純一に対して社会復帰訓練のための外出許可を与え、いわき病院の精神科治療活動の一環として、外出訓練を行っていた。いわき病院は野津純一が外面に表出している状況を正確に観察せず、診断に際してはCPK(クレアチン・ホスホ・キナーゼ)値の医療データの意味を取り違えて誤診をした。また野津純一の統合失調症に関して定見を欠き、抗精神病薬を中断していた。さらに野津純一に人格障害の徴候が明白であったにも関わらず、反社会性人格障害を診断しなかった。いわき病院は奇異反応の副作用があるレキソタンを承認用量外の大量連続投与したが有資格者による薬事評価を行っていない。このため「野津純一が犯した殺人行動はいわき病院の医療過誤である」と原告矢野夫妻は主張している。いわき病院は今回提出した証拠説明資料により、「原告矢野夫妻の主張は間違いである」もしくは「いわき病院の医療処置は許された選択肢の範囲内にあり、仮に、矢野真木人殺人事件の発生がいわき病院の治療に関連していたとしても、いわき病院は社会的に過失責任を問われる理由はない」と証明しなければならないのである。

原告矢野夫妻は、いわき病院が平成21年3月19日に本法廷に提出した「証拠説明資料(乙B号証)」の副本に記述した「立証趣旨」と提出された文献の複写部分、およびその中でもいわき病院が重要箇所としてアンダーライン赤線を付して提出した部分に関する、乙B第4号証から第9号証までには、以下の「II、各論」の通りいわき病院が証拠提出した意図と反する多数の矛盾点を指摘する。


3、文献はいわき病院の精神医学的な錯誤を証明する

いわき病院が本法廷に提出した証拠説明資料は「提出する」と発言してから約1年をかけて準備して乙B第4〜9号証として提出されたものである。このため文献の内容を周到に検討した上で提出されたと考えるべきであり、文献内容の理解に錯誤は許されない。ところが、いわき病院は精神科専門医療機関であるが、自らが野津純一に対して行った精神科医療の根拠として提出した証拠説明書(乙B号証)の内容を適切かつ正確に踏まえずに、表面的な字面だけを追って資料を提出した様子が伺える。いわき病院長渡邊朋之医師は自らの専門分野の文献すら正しく理解していない可能性が極めて高いと指摘する。これらはいわき病院長の精神医学的知識の錯誤を証明するいわき病院が自ら法廷に提出した証拠文献である。



II、各 論

以下の通り、乙B第4号証から第9号証までに関するいわき病院の立証趣旨といわき病院の精神科医療との矛盾を指摘するとともに、原告矢野夫妻の意見と反論を提出する。


1、医療現場におけるパーソナリティー障害 (乙B第4号証)

いわき病院が提出した「医療現場におけるパーソナリティー障害(患者と医療スタッフのよりよい関係をめざして)林直樹・西村隆夫編集、医学書院」のアンダーライン赤線を付して証拠とした部分の記述はいわき病院の主張を肯定しない。むしろ、以下のとおり、いわき病院の精神科医療の過誤と過失を裏付けるものである。


1)、引用文献の解釈をねじまげている

乙B第4号証では、いわき病院は、副本の立証趣旨で「パーソナリティー障害の診断には従来からDSMIII-IV、ICD-10に基づいて作成された構造化面接が重視されてきたが、これは一般の精神科面接における評価では評価者間によるばらつきが大きい」として「パーソナリテイ障害の診断に推奨されている構造化面接が使われたとしても、まだ妥当性と信頼性に問題が残されているのが実状であること。構造化面接による診断の実際上の問題として施行に時間がかかるので日常臨床の場での使用が困難であること」と主張した。

乙B第4号証はいわき病院が自ら提出した文献である。いわき病院は、評価者間の診断にばらつきがあることを理由として「構造化面接を行っても、反社会性人格障害を診断をすることは困難である」と主張した。しかしながらいわき病院が提出した文献に基づけば以下の2)、と3)、の通り、いわき病院が野津純一に反社会性人格障害を診断することは、医師間のばらつきが少なく信頼性が高い十分に診断可能な項目である。またいわき病院は野津純一の反社会性人格障害を示唆する十分な資料を収集していた。それにも関わらず、いわき病院は「反社会性人格障害は診断できない」と、本裁判を通して一貫して頑なに主張を繰り返している。

いわき病院は、自らが提出した文献の記述とは矛盾する不可能論を持ち出して、自らの医療の怠慢を許す論理とした。精神障害者の治療に責任を持つべき精神保健指定医としては許されてはならない論理である。いわき病院には反社会性人格障害ないし境界性人格障害の診断をしなかった過失がある。


2)、入院前問診で人格障害と暴力暴言歴を記録していた

野津純一は中学1年の三学期に登校拒否をして最初に診察を受けたRメンタルクリニック(I医師)にP.D.(境界性人格障害)と診断された。野津純一には若年の時から行為障害(子供の反社会的行動)があった。その上で、刑事裁判の精神鑑定では統合失調症と反社会性人格障害が診断されている。

平成16年9月21日に行われた、いわき病院入院前の父親問診では、担当したH医師は「diagは 統合失調症(S Dr)、重度OCD(K Dr)+人格障害(Z Dr)」、そして「暴力・暴言歴」を診療録に記載した。さらに、野津純一に対していわき病院内で行われた各種の心理テストでも攻撃性が指摘されていた。またいわき病院歯科では「暴力行動あり」とレセプト請求理由をいわき病院精神科入院患者である野津純一に関して記述していた。

反社会性ないし境界性人格障害を診断することは、いわき病院が主張するように「難しいものだった」とは言えない。今日の精神科医学の診断指針や臨床医学上の事実に基づけば十分に診察可能であり、いわき病院は診断することは可能であった。いわき病院は自ら記録した検査データを、正しく評価せずまた患者の診断に活用しない、医療実践を行っていたのである。これは、いわき病院の過失を構成する本質的な部分である。


3)、反社会性パーソナリティー障害の評価者間の信頼性は高い

乙B第4号証のいわき病院がアンダーライン赤線を付した部分によれば、「パーソナリティー障害の構造化面接を使った研究において、反社会性、境界性、回避性パーソナリテイ障害では比較的高い評価者間信頼性、再テスト信頼性が得られている」が、それに対して「その他の類型では再テスト信頼性が低いことが指摘されている」と記載されている。「反社会性、境界性、回避性パーソナリテイ障害」はいわき病院が主張するように「評価者間のばらつきが大きい」とは記述されていない。いわき病院が提出した文献はいわき病院の立証趣旨の裏付けとはならない。むしろ、いわき病院の精神医学的な知識の欠如を証明するものである。いわき病院は、自らの主張の論理が破綻していることに、重大な認識を持たなければならない。


2、統合失調症治療ガイドライン (乙B第5号証) 急性ジストニア


1)、裁判の判断基準としての有効性

(1)、「統合失調症治療ガイドライン」の編集者代表の序
  いわき病院は、錐体外路系副作用(EPS)の治療に関連して、『統合失調症治療ガイドライン(医学書院)』(以下の本章では「本文献」と記述する)を資料提出した。本文献は乙B第9号証でも引用されており、本件裁判では重要な判断基準として提出されたものである。

ところで、本文献の「序」(VIII頁)には編集者代表の以下の言葉が書かれ、「訴訟などにおける紛争解決の基準にすることはできない」と記述している。

海外の全ての治療ガイドラインがそうであるように、本書も今日の標準的な治療指針を推進し、解説したものとなっている。それはあくまでも治療の参考にするための推奨であって、治療の実践は精神科医である担当医の裁量に委ねられている。したがって、本書に記載された推奨をもって訴訟などの法的判断や保険をめぐる紛争解決の基準にすることはできない。

本文献に、上述の編集者代表の意見が記述されている以上は、本文献が本裁判の判断基準となるか否かについて、最初に検討しておく必要がある。


(2)、「ガイドライン」を臨床医療に使用する責任が伴う
  医療の専門科目に関係したガイドラインが編集されるには、そもそもそのガイドラインが「臨床医療で広く用いられる」という前提がある。医療活動は患者から料金を徴収して、各種の保険などから公的助成を受ける社会の中の契約活動である。また各々の患者は例え精神障害者でありかつ措置入院中の患者であったとしても、社会の一員として権利を有している。その患者に対する治療行為が社会の基本的な枠組みである法律、制度や保険等から切り離された別枠の活動であると主張することはそもそもできない。いかなる医療機関であれ、どのような資料や文献を用いた医療活動であれ、医療事故を発生させれば、社会活動に伴う法的責任が発生し、過失責任が問われるのである。


(3)、統合失調症治療ガイドラインの価値と編集者代表の言
  本文献である『統合失調症治療ガイドライン(医学書院)』は編集者代表が「訴訟などの法的判断や保険をめぐる紛争解決の基準にすることはできない」と書いているが、そもそも、編集者代表の言は文献の内容と価値を損なうものであってはならない。あくまでも、上述の編集者代表の意見は編集者の希望を述べた見解である。これをもって裁判所の判断が束縛されてはならない。編集者代表の法的基準に関する考え方と、文献に記載された精神医学的な内容の価値はまったく別問題である。

本文献は、現在のところ、我が国内で出版されている唯一の「統合失調症に関する治療ガイドライン」を名乗る書物である。本文献が「ガイドライン」として出版されたからには、この本に記載された統合失調症治療の知見を広く世の中で普及して標準的な治療処方として用いられることを編集の目的としていると推察する。その意味では、当然の論理的帰結として本件ガイドラインを用いて統合失調症に治療を実践する活動には、編集者代表の責任回避論には影響されない、社会的また法的責任が伴うのである。


(4)、「ガイドライン」を裁判の判断基準として提出したのはいわき病院である
  いわき病院は、今後の論理展開で、本文献の編集者代表が「判断の基準とすることはできない」と記述していることをもって、自己の責任回避の理由とすることはできない。そもそも裁判における判断の基準として、いわき病院が自らの論理を正当化するための根拠として本文献を提出した。本文献が「裁判の判断基準として有効である」と最初に主張したのはいわき病院である。


(5)、原告矢野夫妻の本文献に関する評価
  原告矢野夫妻は本文献の内容は優れており、本件裁判で「いわき病院の過失責任を問うための判断基準となるもの」であると考えている。

実は、原告矢野夫妻は、いわき病院が資料文献として本法廷に提出する前に、原告側も本文献を証拠として提出する可能性を過去に検討したことがある。しかし編集者代表が「裁判における判断の基準にすることはできない」と主張していたため、敢えてこれまで裁判所に本文献を提出しなかったのである。医師ではない原告矢野夫妻が本文献を証拠として提出しても、医師であるいわき病院長に編集者代表の言を引用されると、論理的に困難な立場に遭遇する可能性がある、と考えたからである。

今回、いわき病院は精神科医療専門機関として、また同病院長は精神保健指定医として本文献を本法廷に提出した。いわき病院は今後本文献の記述に照らし合わせて、過失が指摘されることがあっても、「本文献は裁判の基準として用いることはできない」と改めて主張することはできない。本件裁判では、本文献の編集者代表の意見に関わらず、「本文献に記載された推奨をもって訴訟などの法的判断や保険をめぐる紛争解決の基準にすることはできる」のである。

原告矢野夫妻は、以下の通り、いわき病院が提出した『統合失調症治療ガイドライン(医学書院)』(本文献)の記述と、いわき病院の精神科医療の実践との矛盾を中心にして、いわき病院の過失を指摘する。


2)、引用箇所が適切ではない

本文献を、いわき病院は適切に引用していない。原告矢野夫妻はいわき病院が不適切な文献引用を行う実態に接して今更ながら驚いている。

いわき病院は本文献から引用して、「急性ジストニアについてはまず原因薬剤の減量・中止もしくは低力価薬剤や非定型抗精神病薬への変更を考慮すべきとされ、ジアゼパムなどのベンゾジアゼピン系薬剤の静注も推奨されている」と主張した。しかしながら、野津純一が悩まされていたのは「慢性症状」の「遅発性のパーキンソニズムやジスキネジア」であり、「急性症状」の「急性ジストニア」ではない。急性症状への対処法と慢性症状への対処法は異なるのである。また病院入院中、野津純一はジストニア(眼球上転、舌突出等)は発症していない。いわき病院の主張は誤りである。いわき病院が遅発性パーキンソニズム、ジスキネジアに急性ジストニアの治療をしようとしたのは過失である。

いわき病院は、統合失調症患者の野津純一に行った精神科医療の根拠を正当化する理由として「ベンゾジアゾピン系薬剤の静脈注射が推奨されている場合がある」と言いたいために、本文献が記載している記述を事実と取り違えて引用した。いわき病院は誤った精神科医療知識のもとに、自らの主張を証明する意図を示したものである。本文献は、いわき病院長渡邊朋之医師の精神科医療に関する専門的知識に錯誤があることを証明すると共に、いわき病院が精神科医療で過誤を行った過失を確定する。


3、臨床精神医学講座14、精神科薬物療法 (乙B第6号証) 急性期対処療法

いわき病院は抗精神病薬の副作用として錐体外路系副作用(EPS)があげられるとして(臨床精神医学講座14、精神科薬物療法)を参考文献として提出した。しかしながらいわき病院の主張には以下の通り誤りがある。


1)、慢性の錐体外路系副作用(EPS)に急性期対処療法を主張した

乙B第6号証(臨床精神医学講座14、精神科薬物療法)のp.82には、いわき病院は「(急性期の段階では治療が比較的容易であり)、原因物質の減量や抗コリン薬、β遮断薬、ベンゾジアゼピン系抗不安薬、抗ヒスタミン薬が有効性を示す。」と銘記して、主張を展開した。しかし、野津純一の遅発性錐体外路系副作用は「急性期」ではなかったので、急性期対処法を主張することに妥当性はない。


2)、ジストニアは出ていない

いわき病院は乙B第6号証の立証趣旨で「ジストニアについてはまず原因薬剤の減量・中止もしくは低力価薬剤や非定型抗精神病薬への変更を考慮すべきとされていること」と主張した。しかし、「ジストニア(眼球上転、舌突出等特徴的な症状)」は、野津純一はいわき病院入院中は発症していない。ありもしない症状に対する対処法をいわき病院が主張することは不適切である。いわき病院には遅発性パーキンソニズム、ジスキネジアに急性ジストニアの治療をしようとした過失がある。


3)、アカシジアの誤診

いわき病院は乙B第6号証の立証趣旨で「アカシジアについては抗精神病薬の減量」と主張した。ここでは「アカシジアはあった」そして「アカシジアは心気的なものではなかった」と主張したことになる。

いわき病院は、主治医を交代した直後の平成17年2月25日の診察でCPK(クレアチン・ホスホ・キナーゼ)値の意味を取り違えていた。CPKは筋組織の損傷を示唆する検査所見であってアカシジアの指標となるものではない。野津純一の主治医である渡邊朋之医師は「CPK値が低いのでアカシジアは心気的なもの」と誤診をしていた。そして野津純一が手足振戦を訴えても抗コリン性抗パーキンソン薬(アキネトン)投与を全面中止し、代わりに生理食塩水の注射を続けた。そもそもいわき病院には診断と治療の間違いがあり、アカシジアを心気的なものと誤診して誤った治療を行った過失がある。


4)、遅発性の錐体外路系副作用(EPS)の治療をしていない

(1)、臨床精神医学講座が指摘するEPSの予防と対処方
  いわき病院が提出した乙B第6号証(臨床精神医学講座14、p82〜84)には、遅発性のEPS予防・対処方に関して以下の記載がある。いわき病院長は当然のこととして、自らが証拠として提出した文献に基づいた以下の(1)から(5)の全ての項目に合致する精神科医療を実践していなければならないのである。
(1)、早期の適切な対応
遅発性のEPSは治療抵抗性であるため、早期に適切な対応をしてEPS(錐体外路系副作用)を予防し慢性化させないことが重要である。遅発性のEPSの予防には『きめ細かな症状評価を行い最小有効投与量を設定する』ことが重要である。

(2)、EPSの評価
EPSの評価には異常不随意運動評価尺度(AIMS)や薬原性錐体外路症状評価尺度(DIEPS)などの評価尺度がある。

(3)、非定型抗精神病薬が有効
リスペリドンは抗コリン作用とセロトニン阻害作用を併せ持つことで6mg/day以下の低用量ではEPSが少ない。長期投与が必要な場合や難治性EPSの予防には新しい薬物(リスペリドンなどの非定型抗精神病薬)が有用である。

(4)、薬剤性パーキンソニズム
筋固縮、振戦などの薬剤性パーキンソニズムにはビペリデンやトリヘキシフェニデイールなどの抗コリン薬が有効である。

(5)、遅発性ジスキネジア対策
遅発性ジスキネジア出現時には減薬を試みるか、リスペリドンや他の非定型抗精神病薬を使用する。
(2)、いわき病院は遅発性EPS対策を行っていない
  いわき病院は自らが証拠として提出した、乙B第6号証に記載されている遅発性のEPS対策を行っていない。参考文献を提出しても、その通りの診療実態がなければ、自らの医療が正しいと証明することにはならないのである。いわき病院長は「自らが行った医療の記録を掌握せず、また内容を正しく理解せずに裁判に臨んでるのではないか?」と疑われる。

(a)、遅発性錐体外路系副作用評価
  いわき病院は遅発性錐体外路系副作用評価(AIMS、DIEPS)を行わなかった。またCPK(クレアチン・ホスホ・キナーゼ)値を誤って使用して診断した。

(b)、旧タイプの定型抗精神病薬投与にこだわった
  いわき病院勤務医である前主治医が投薬し、野津純一も「良く効いた」と評価していた非定型抗精神病薬のリスペリドン(リスパダール)を、主治医を交代したいわき病院長の渡邊朋之医師は投与せず旧タイプの定型抗精神病薬投与にこだわった。

(c)、病状評価をせずに抗精神病薬を中断した
  いわき病院長は主治医として、「きめ細かな病状評価を行い最小有効投与量を設定する」作業も行なわず、安易に抗精神病薬投薬を中止した。また、手足の振戦に抗コリン薬を投与せず、生理食塩水筋注で対処し続けた。いわき病院には薬物療法上の過失があった。


4、臨床精神医学講座14、精神科薬物療法 (乙B第7号証) 奇異反応


1)、奇異反応の発生頻度と臨床上の必然性

いわき病院は乙B第7号証(臨床精神医学講座14、精神科薬物療法)の立証趣旨で「ベンゾジアゾピン系薬物の副作用としての奇異反応の発生頻度は02−0.7%とあまり高くないこと」と主張した。原告矢野夫妻は、ベンゾジアゼピン系薬剤の副作用としての奇異反応発生頻度については争わない。そもそも原告矢野夫妻は奇異反応の発生頻度が低いことを前提としてこれまでの論理を展開し、いわき病院の過失責任を追及している。

いわき病院が主張するように、「奇異反応は発生頻度が低いから臨床では無視してよい」とは言えない。「添付文書に注意書きがある事項」については、処方医はいつも念頭に置くべきである。「発生頻度が低いからとして奇異反応に全く関心を払わない」といういわき病院が主張する論理は成り立たず、いわき病院の医療過誤を免責する理由とはならない。そもそも、いわき病院の精神科医療の論理的前提が間違いであり、いわき病院の過失を証明する。


2)、医師の責任による承認用量外の大量連続投与

向精神薬のベンゾジアゼピン系薬剤(レキソタン)をいわき病院は、「医師の『判断』で承認用量外の大量を患者に連続投与した」。これは、「医師の『責任』で承認用量外の大量を連続投与した」と同義である。ベンゾジアゼピン系薬剤の副作用が出やすい精神障害者に承認用量外の大量連続投与した主治医にはそれだけに特別の『責任』が存在する。いわき病院の薬物療法上の過失である。

いわき病院は「医師の『責任』で承認用量外の大量を連続投与した」のであり、「奇異反応の発生頻度が低いとして、奇異反応を可能性を検討もしない精神科臨床医療を実践したこと」は、医師として信頼がおけない極めて無責任な医療過誤である。


5、「レキソタン」インタビューフォーム (乙B第8号証)

原告矢野夫妻はいわき病院対して医薬に関して以下の二点の基本的な認識が欠如していることを指摘する。

  1、向精神薬や劇薬の指定を受けている薬に100%安全な薬は存在しない。
  2、全ての医薬は、誤った使用をすれば、本質的に有害になる可能性がある。

1)、刺激興奮と錯乱は突然の反社会行為とは違うという詭弁

いわき病院は乙B第8号証(「レキソタン」インタビューフォーム)の立証趣旨で『(レキソタンの副作用は)あくまでも「刺激興奮・錯乱」であり、「突然の反社会的行為」とはされていない』と主張した。奇異反応は「刺激興奮・錯乱」であって「『突然の反社会的行為』とはされていない」といういわき病院の主張は、実態があっても言葉の表現を変えることで事実を覆い隠す行為である。

2)、「敵意・攻撃性・急性激怒反応」=「突然の反社会的行為」

いわき病院が提出した乙B第7号証(臨床精神医学講座14、p.234)に、「奇異反応の症状は、(1)抑うつ状態、(2)幻覚・妄想・精神運動興奮を呈する精神病状態、および、(3)敵意・攻撃といった症状にまとめられる。」と記載がある。

また、同じ文中に、「奇異反応は1960年代にすでにchlordiazepoxide投与中の『急性激怒反応acute rage reaction』」として記載されている。また「奇異反応は、高い攻撃性・衝動性を潜在的にもつ個体や抑制機構に何らかの脆弱性をもつ個体が、ベンゾジアゼピン系薬剤による脱抑制作用によって顕在化したとする考え方もある」と述べられている。

奇異反応の特徴とされる「敵意」、「攻撃性」そして「急性激怒反応」は、総合すれば「突然の反社会的行為」と同じ意味である。臨床医師の責務は患者が表出する症状に基づいて適切な診断と治療をすることであり、些細な言葉の違いにこだわるような遊びではない。いわき病院では事実を事実として認識しない精神科医療が行われていることを示している。

いわき病院は野津純一の顔面に表出していた根性焼(タバコの火を左頬に当ててつくった火傷)の瘢痕を見逃していた。いわき病院は患者の顔面すら正確に観察していなかったのである。いわき病院は、患者の症状を観察しないで精神科臨床医療活動を行った、という過失が存在する。


6、統合失調症治療ガイドライン (乙B第9号証) 心理社会的療法

いわき病院の主張には、自ら提出した乙B第9号証『統合失調症治療ガイドライン』(以下の本章でも、「本文献」と称する)の理解に錯誤がある。その上で、いわき病院の精神科医療の実態とはかけ離れた主張を繰り返している。いわき病院の主張には、本文献を判断基準とする以前の論理的な矛盾や、背景となる事実の認識に錯誤が存在する。

いわき病院は乙B第9号証「統合失調症治療ガイドライン」(本文献)の立証趣旨で『統合失調症の治療法として、「心理社会的療法」が独立した項目としてあげられ…』として、『統合失調症の治療は生物—心理—社会的統合モデルでなされるべきであるとされ、具体的には(1)薬物療法、(2)生活技能訓練、(3)精神療法、(4)家族機能・社会的支持の回復等の条件を合わせ提供することが必要とされる』と主張した。原告矢野夫妻は、本文献に記述された内容については争わない。むしろいわき病院は文献に記載された通りの精神科医療を実践するべきであると推奨する。その上で、以下を指摘する。

いわき病院は自らが主張する「生物—心理—社会的統合モデル」による統合失調症の治療を行っていない。いわき病院の主張のお題目は立派であるが、現実がまるで伴わない。いわき病院の医療記録に基づけば、いわき病院は主張したことをその通り実行していない。そもそもいわき病院は、薬物療法も精神療法もできていないのに平成17年12月6日の午前10時に野津純一の診察を拒否したのは医師法違反であり重大な過失である。


1)、薬物療法の過誤と過失

(1)、患者を観察もしない
  野津純一が左頬と手指付け根に煙草でつけた自傷行為(根性焼)にいわき病院職員は気付かず、殺人事件を起こしたあと、手についた血糊を病院内で洗い落としたことも職員は知らず、翌日も変わりなく外出許可が続けられた。野津純一は事件当日と同じ血の付いた服装で外出し、いわき病院外で容疑者として警察に身柄拘束された。いわき病院は自傷行為はおろか重大な他害行為にさえ全く気付かなかった。

いわき病院は入院患者が殺人事件を起こしたことさえ気付かない、素人目にも怠慢な精神科病院であり、原告矢野夫妻がいわき病院を提訴しなければならないと決断した最大の理由である。精神科専門病院でありながら、また精神保健指定医でありながら、精神障害者の治療で真面目に観察を行わないような医療機関の存続を許すことは、精神障害者の社会復帰と自立促進を本質的なところで阻害することになる。


(2)、主治医の抗精神病薬の中断と服薬指導の関係
  いわき病院長で主治医の渡邊朋之医師は精神保健指定医として一方的に抗精神病薬を中断して野津純一の統合失調症治療を放棄していた。そしてその上で診察拒否をしていた。いわき病院では、医師等の有資格者による薬剤効果判定と処方見直しは行われなかった。野津純一に対する薬物療法は、統合失調症の標準的薬物療法からかけ離れており不適切かつ重大な過失である。この統合失調症患者に抗精神病薬を中断する重大な変更は、いわき病院長で主治医の渡邊朋之医師の「判断=責任」で行われており、いわき病院は過失責任を逃れることはできない。

いわき病院が証拠として提出した本文献のp224の「b)服薬自己管理モジュール」には、抗精神病薬の維持療法を継続する必要性を患者が自己管理を徹底することに関連して以下の通り記述されている。

抗精神病薬の効果にはどのようなものがあるか、なぜ精神病症状がなくなっても維持療法を続ける必要があるのか、そのメリットについて学習する。(中略) 起こりうる問題点については、参加者自身が服薬の継続に疑問があった場合にどうするか、解決法(例えば主治医の診察で相談するなど)を考えて実行の練習をする。

その上で、本文献のp226の「d)評価の進め方の実際」のアセスメントの項目には以下の通り、患者側の問題点が指摘されている。

たびたび服薬を中断してしまうため病状が不安定であり、(中略)、服薬中断に至る過程として、抗精神病薬についての十分な知識がないために、症状が改善するとすぐにやめてしまうという場合もあるし、服薬の効果を自分できちんと把握できてないということもあるし、副作用が煩わしいということもあり、また副作用と認識できる知識が無い、医療関係者に相談する際のコミュニケーション技能に乏しいなど、さまざまな技能が関連している。

いわき病院が証拠提出した本文献は「抗精神病薬服薬継続の大切さ」を治療者として患者に分からせることが重要であることを述べている。しかるに、いわき病院の精神科医療の実態はこれに反していた。いわき病院長が抗精神病薬を中断した上に処方変更の効果判定を行わなかった行為は、服薬指導を守らない患者並であると指摘できる。


(3)、いい加減ないわき病院の薬物療法
  いわき病院長渡邊朋之医師は第5準備書面で「前主治医の治療では野津純一の統合失調症特有の症状が顕著でなかったから、統合失調症ではないと診断しても医師として当然のこと」と弁解して、殺人事件の2週間前から統合失調症の薬である抗精神病薬を中断した。CPK(クレアチン・ホスホ・キナーゼ)値の意味を取り違え、手足振戦に有効な抗コリン薬を投与せず「心気的なもの」として生理食塩水注射で対応し続けた。さらに、「依存性があり、精神障害者には奇異反応の副作用が出ることがあるので慎重投与すること」と添付文書に注意書きのある向精神薬のベンゾジアゼピン系薬剤を、患者観察もほとんど行わず漫然と承認用量外の大量を連続投与した過失がある。


2)、生活技能訓練の効果はなかった

(1)、「退院準備の段階」の生活技能訓練か
  いわき病院は乙B号証の立証趣旨で「社会生活技能訓練の具体的な適用の段階について、急性症状が改善し、疲労感が軽減し、周囲への関心や余裕が現れてくる時期が適当とされること。退院準備の段階にある人は適当といえること」と主張した。立証趣旨に基づけば、いわき病院は「野津純一は、退院準備の段階にあった」と主張したことになる。

この退院準備の段階に関してはいわき病院は平成19年4月4日付の第2準備書面のIIIの2で「野津には退院日を相談しておらず、中間施設へのトライアルがうまくいかず、退院の予定日のことは話題にもしていない。」と記述してあったが、「退院の準備段階にはなかった」という主張である。これに対して、原告はこの弁明はいわき病院の診療録の12月3日の記載「退院して1人の生活には」と矛盾することを指摘した経緯がある。いわき病院は本件裁判の答弁の中で、野津純一の退院時期に関して、裁判期日が異なれば異なる答弁をしており定見がない。


(2)、場当たり的な主張
  これまでいわき病院は野津純一の外出に関して「外出訓練ではない野津純一が勝手に外出したものである」という答弁をした経緯がある。今回いわき病院が乙B第9号証を本法廷に提出して、立証趣旨で「レクレーション療法」、「社会生活技能訓練」および「生活技能訓練」と「家族機能・社会的支持の回復」に言及した。このことは、いわき病院が矢野真木人殺人事件の発生はいわき病院の精神科医療活動の中で発生したことを改めて確認したことになる。

原告矢野夫妻は「野津純一の統合失調症の症状はいわき病院の主治医が病院長の渡邊朋之医師に交代した後で悪化した」と指摘した経緯がある。またそもそもいわき病院は奇異反応の可能性を検討もしておらず、急性症状の可能性を考えた精神科臨床医療を行っていない。

野津純一は社会生活技能訓練の一環として外出訓練中に殺人事件を引き起こした。そもそもいわき病院長は野津純一をきめ細かく診察しておらず、「急性症状が改善し、疲労感が軽減し、周囲への関心や余裕が現れてくる時期」という判断もしていないのである。そのような記録はいわき病院の医療記録には存在しない。いわき病院の回答は場当たり的な責任逃れである。


(3)、「効果はなかった」と認めていた
  いわき病院長で主治医の渡邊朋之医師自らが事件直後の平成17年12月8日にいわき病院内で行った警察供述書で「(作業療法、SST、金銭管理トレーニングは)しかし正直なところトレーニングの記録を確認しても目立った改善はありません」と述べている。野津純一も「心理教室とかSSTとか座っていたら、頭がしばられる、眠くていかん。」との発言が平成17年9月27日の診療録に記載されている。いわき病院における野津純一に対する生活技能訓練は効果を上げていなかったことは明白である。


3)、いわき病院の精神療法には実態がない

(1)、主治医と患者の治療同盟の破綻
  いわき病院が証拠として提出した本文献のp192には「統合失調症の精神療法では(中略) (患者と)治療者との間で安心と信頼感をつくりだすことがさしあたっての目標になる」と記述されている。そしてp194の「b. 精神療法の原則」には「治療者と患者との間で治療(同盟)関係をつくることがすべての前提になる」とした上で、「精神科医の患者への接近の仕方によって統合失調症の改善度に著しい差がある」と記述されている。

野津純一は12月2日には「処方が変わって調子が悪いな。薬を整理しましょうといって先生が一方的に決めたんや」と言う不満が、また12月6日にはいわき病院長は診察拒否をしたが「先生にあえんのやけど、もう前から言っているんやけど…」と看護記録に記載されている。治療者である主治医の渡邊朋之医師と患者である野津純一の間で信頼関係が破綻していた。いわき病院では文献に記述されている内容の精神科医療は実現されていない。


(2)、野津純一に対する精神療法
  いわき病院の処方は間違いである上に、患者の経過観察をせず、野津純一の異常な状況を把握せず「処方見直し」などは全く行わなかった。野津純一といわき病院長である主治医との間の治療同盟は崩壊していた。さらには、野津純一が、左頬と手指に作っていた煙草の火傷は、いわき病院の医師も看護師も誰も関心を持たず、気もつかなかった。野津純一が顔と手に根性焼をつくる自傷行為をしているのに、付添もつけず一人で外出させたのは過失である。

このような状況で「精神療法が行われていた」とは言えない。そもそも、いわき病院における、野津純一に対する「精神療法とは何だったのだろうか?」。いわき病院はお題目は立派であるが、具体的な事実が伴っていない。

なお、蛇足であるが、12月7日には昼間に警察に拘束され留置されたにも関わらず、その日の夜間看護料を保険請求して公金を受領した不正があった。


4)、家族機能・社会的支持の回復に協力してない

野津純一は「両親は年取ってきている」と認識して、「ひとりでは料理も洗濯もできなくてたちまち困る」と独立した生活を始めなければならないことを怖れていた。それで「老人ホームのような面倒を見てくれるところへ入りたい」と希望していた。しかし「いわき病院が勧める福祉ホームは自炊ができなければならない」と判明して、これが野津純一の不安の種だった。犯行直前の野津純一は、家族機能が衰え、病院は退院を迫り、誰にも相談できない孤独で八方ふさがりの状況に置かれていたのである。

いわき病院は自らが主張する「家族機能・社会的支持の回復等の条件を合わせ提供する」という精神科医療を野津純一に対し行わなかった。いわき病院内で放置された状況にあった野津純一は、そのような状況であったとしても精神科病院に入院し続けて居たかったのである。



III、結 論

いわき病院は平成21年3月19日付で『証拠説明資料(乙B号証)』を本法廷に提出した。この証拠説明資料は、原告矢野夫妻が指摘した「いわき病院が犯した各種の医療過誤に基づく過失」に対する、いわき病院の反論の根拠を示すことを目的としている。

いわき病院の意図に反していわき病院が提出した副本の立証趣旨と乙B号証の各文献には矛盾と齟齬がある。またいわき病院が野津純一に対して行っていた精神科医療の事実内容とは異なっている。このため、いわき病院が提出した文献はいわき病院の立場と主張を弁明するものとはならない。いわき病院は原告矢野夫妻が指摘するいわき病院の精神科医療の過誤および過失責任に関して、有効な反論を成し得ないことは明確になった。

いわき病院は自ら提出した資料および文献に書かれている精神科医療を実現していない。今回の証拠資料の提出により、いわき病院が犯した医療過誤による過失責任は鮮明に裏付けられた。いわき病院は平成17年12月6日に発生した矢野真木人殺人事件に関連して過失責任がある。


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