解離性同一性障害(多重人格)ならば心神喪失か? 反社会性人格障害者に息子を殺された両親の視点
平成20年6月15日
矢野啓司 矢野千恵
平成20年5月27日に東京地方裁判所は、平成18年12月30日に東京渋谷区で発生した妹の短大生(AMさん)を殺害して遺体を切断した兄である元予備校生の「武藤勇貴(以下YMと表記する)」被告に、殺害行為に対してはアスペルガー症候群(ICD-10 F84.5、DSM-IV-TR 299.80)であるが、完全責任能力を認めて懲役7年。そして死体損壊行為については解離性同一性障害(多重人格)(ICD-10 F44.81、DSM-IV-TR 300.14)で、心神喪失の状態にあった可能性が否定できないとして「疑わしきは罰せずの論理」で、無罪の判決を言い渡した。判決には『「解離性同一障害であれば心神喪失であり罪に問えない」という前提がある。果たしてこの判断は現行の刑法第39条に照らし合わせた判決として妥当性を有しているのだろうか。
まえがき
私たちの息子の矢野真木人(享年28才)は、平成17年12月6日に高松市のショッピングセンターの駐車場で、近隣の精神科病院に入院中で許可を得て外出中の重度統合失調症で反社会性人格障害の精神障害者に万能包丁で右胸下を突然一突きされて出血多量で僅か10メートル逃げただけで転倒した。救急車で運び込まれた病院では出血死が宣告されただけで、何の手当も行われず、真木人は救急治療台の上に置かれていた。両目は無念そうに開かれ、血に塗れた真木人の両手はむなしく上を向いて何かを求めていた。
私たちは司法解剖が行われた矢野真木人の遺体を受け取り、自宅に持ち帰った。家族で真木人の遺体を覆っていた包帯を全て取り払い、全裸にして遺体見分を行った。ふさふさしていたはずの頭には髪の毛が付けられていたが、毛ははらはらと落ち、丸坊主が出てきた。そして、額の中央からは頭蓋骨が見事に切断されていた。「ああ、頭は関係ないのに…何故、破壊されなければならないのか?」。真木人が死ぬに至った刺し傷は小さく見えた。私たちは身体を回転させて、包丁が身体の後ろにまで達した傷口を確かめた。それにしても、体側が大きく切り開かれて、命を奪った刺し傷よりも、司法解剖の切り痕が大きく、「ここまで身体を傷つけなければならないのか」と、解剖のメスが私たちの心を切り刻んだ。職権で行われた司法解剖である。社会の決まりで、文句は言えないが…。
私たちは真木人を火葬した。真木人の骨を拾う時に見た真木人の頭蓋骨は見事に切削工具で切断されていた。これまで火葬場で骨を拾ったことは何回もあるが、切断された骨を見るのは初めてだった。それ以来、お椀のようになっていた真木人の頭蓋が目に張り付いている。織田信長が謀反した妹婿の浅井長政を姉川の戦いで成敗した後で、長政の頭蓋で酒椀をつくり酒盛りした故事を思い浮かべ、余りの哀れに、涙が出る。
矢野真木人の遺体は抜け殻だった。葬儀の後で、「脳や心臓などの主要な内臓を標本として残してあるのであれば、返却して欲しい」と問い合わせたが、「そんなものは、残してない」と認めない。しかし司法解剖者が学会報告などで見せるスライドによれば、解剖学教室の倉庫は義務として保存してある内臓標本を収納した沢山の粗末なポリバケツで溢れ、そのことでどこの大学の解剖学教室も悩みを抱えている。矢野真木人の身体標本も司法解剖という職権で遺族の同意無しに取得されたはずである。そして、その存否を遺族に言う必要は無い。このままでは矢野真木人の脳や心臓などの内蔵標本は、裁判などの全ての司法手続きが終わったある日、証拠品としての必要性を失い、両親にさえ知られずに、産業ゴミとして廃棄処分される運命となる前途以外はないのである。
親として我が子のむき出しの脳や内臓を見たくはない。仮に複雑な手続きを経た後で返却されても、ポリバケツの蓋も開けずに火葬するしかない。しかし、それは後に骨も残らない火葬である。それでも、最後には、産業ゴミとされることにも耐え難いものを感じる。司法解剖をした大学は、「そもそも臓器には霊はない、標本を処分する前には死者を敬う行事は行った」と言うだろう。
犯罪行為で殺人された遺体は司法解剖で検分されるのは社会の決まりである。遺体は自分で自分の身を守れないが、単なる物体でもない。遺体には人間として生きた尊厳がある。摘出された臓器は標本という物体となったのではない。脳は生理学的には精神が宿っていたとされる器官であり、心臓は歴史的にも文化的にも人間の心が宿る器官と考えられてきた。その重大な意味を持つ器官の処分である。何が、その死者の立場に立つ個人の尊厳を守るやり方であるのか、それは遺族が死者の意見を代弁する。司法解剖は法制に基づく社会の規則である。しかし、その上で死んだ者も司法解剖される身体の全てについて尊厳を要求する権利がある。死者は臓器を自ら望んで標本として提供したのではなく、ゴミとして最終処分されることにも同意はしていない。
1、短大生殺害事件判決
1)判決の概容
東京地方裁判所の判決では、「被告YMの精神鑑定結果は十分に信用できる」{以下「文中の太字」は高知新聞(共同通信系)で報道された判決(要旨)の表現に従っている}とした上で、「被告YMは、①生来的にアスペルガー障害(DSM-IV-TR 299.80)に罹患していた、②中学生ごろからは、強迫性障害が加わった、および③犯行の1ヶ月以上前から解離性障害にかかっていた」と認定した。
判決は、被告YMの妹(AM)殺害時の精神状態は、「①アスペルガー障害により攻撃性などの衝動を制御する機能が弱い状態にあった、②解離性障害(ICD-10 F44、DSM-IV-TR 300.12-15)が加わって外の世界の刺激が薄れることによってこの(攻撃性などの衝動を制御する)機能が更に弱体化した、そして③被害者から挑発的な言動を受けたことで、抱いた怒りの感情を抑制できず、激しい攻撃性が突出し殺害に及んだ」とした。
判決は、被告YMの殺害時の責任能力に関して、「①殺害前1ヶ月以上にわたり、大学受験の浪人生として家族などと日常生活を送りトラブルを起こしたことはなかった、②犯行後も発覚を防ぐための言動を取り、予備校の冬期合宿に参加していた、それゆえ③犯行当日前後において自己の行為を適切に制御する能力を全体として維持していた、それでも、④殺害時に被告の制御能力はかなり減退していたことは否定できないが、⑤責任能力が限定されるほど著しい程度とはいえない」として、殺害時には完全な責任能力があったと結論づけた。その上で、殺人に対しては、懲役17年の求刑に対して懲役7年を言い渡した。
判決は、被告YMの死体損壊時の状態に関して、「①妹を殺害した衝撃から解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)による解離状態が生じて、②死体損壊に及んだ際には、本来の人格とは異なるどう猛な人格状態になっていた可能性が高い」とした。その理由は、「死体を左右対称に15にも解体するなどしたという手の込んだものであるが、その意図と作業過程は隠しやすくするためとか運びやすくするためとかの理由ではで説明できず、別の人格を仮定しないと説明がつかない」とした。そして、「怒り狂った行為である殺害行為と、非常に冷静で整然とした行為である死体損壊行為とは、意識状態が変わったと見るべきである」と結論づけた。
判決はこれを根拠として、被告YMの妹の遺体損壊時の責任能力を判定する前提として「アスペルガー障害を基盤にして解離性障害を発生した症例に関する研究が十分になされていない状況の下にある」と認識した上で、「死体損壊時に、被告は解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)による別の人格状態に支配され、自己の行為を制御する能力を欠いていた可能性を否定できない」として、「自己の行為を制御する能力を欠き心神喪失の状態にあった可能性も否定できない(疑わしきは罰せず)」と判定し、死体損壊については無罪とした。
2)家族内殺人事件の遺族感情
本件殺人および遺体損壊事件は、平成18年12月30日に自宅風呂場で実の兄が妹を殺害して遺体損壊して、一週間後の1月5日に遺体が発見された。家庭内の事件であり、加害者と被害者は兄妹で、両親は歯科医師である。これは、遺族感情という側面で被害者の遺族が他人である場合とは状況が異なり、加害者に可能な限り軽微な刑罰を希望する方向のバイアスがかかる要素である。この事件の場合、両親は既に亡くなった妹の無念に軸足を置くよりは、生きて現在23才である加害者である息子の更正と将来性により大きな関心を抱くことが自然の成り行きであると思われる。このことが遺族の量刑に対する裁判所への要望に反映された可能性が高いと考えられる。
仮に被害者が被告YMの知人の女性で、殺害後に遺体損壊をされていたら、遺体解体という惨状を考慮すれば、被害者遺族が求める量刑は「死刑もしくは無期懲役」が必然である。遺族感情として遺体損壊行為に理解を示すことはあり得ない。このため、「殺人」だけで判決が下されたとしても、最低でも無期懲役もしくは懲役30年の判決が下されるべき状況であり、これに「遺体損壊」が加えられると死刑の判断もあり得た状況である。
精神障害者による殺人事件の被害者は多くの場合家族関係者であり、他人が殺人される事例は少数であるとされる(実は、精神障害者が関係した家族内事件の多くは不逮捕、不起訴もしくは無罪処分となるために、日本の精神障害者の犯罪に関する統計は正確ではないと考えるのが妥当である)。また、刑事裁判が行われた場合でも、家庭内の問題であることに配慮して、軽い刑罰で決着する方向性にあった。このことは、精神障害者治療の専門家が研究発表などで「精神障害者による殺人事件の被害者のほとんどは家族なので、被害問題は大きな課題にならない」などと発言していることからも推察される。この家族内の問題という視点で、心神喪失無罪を安易に適用してきたと考えられることが、日本で刑法第39条の問題を検討する際に、既に確定した過去の判例として立ちはだかる障害になっている。今回の判決もその例外ではない。
果たして、家族内の問題であるから精神障害者の犯罪の責任は原則として問わないという考え方は正しいのであろうか。本質的に精神障害者本人の人権を守る行為なのか?また精神障害者を支える家族の人権を本当に社会が守っているのか?家族内の行為であるから、法律を厳密に考察して適用しないという慣行が日本の法曹界に存在する事実が認められることは、日本が信頼に足りる法治国家として国民の人権を擁護していると誇れることになるか?それは司法判断の本質を間違えているのではないのか?日本の法曹界は人道に関する今日の日本の法律運用に関して深く反省する必要があるのではないだろうか。
3)AMさんの悲しみ
実の兄に殺された本人のAMさんの気持ちになって考えてみよう。AMさんは悲しいと思う。両親が最後の最後に、兄を大切にして自分を見捨てたと感じると思う。これはとてつもない悲しみである。AMさんの視点に立てば、明らかに両親は自分の命を奪った兄YMの罪を軽減する立場で、娘を見放したように見える。AMさんの菩提を弔うのは両親であり、死んだAMさんの霊は両親を頼るしかない。しかし、「両親は兄であるYMの罪を問わない方向で、解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)を根拠として、遺体損壊行為に無罪を望み、結果的にAMさんの遺体を解体した行為を承認した」とAMさんは理解するだろう。自分の人権が踏みにじられる行為を最愛の両親が見て見ぬ振りをする姿を見ることほど、悲しいことはない。
殺されたAMさんは「黙して語らず」である。それは彼女が自ら望んだことではなく、殺されたから自らの希望を語れないだけである。彼女は果たして、兄に対する処分に満足しているのだろうか。殺人行為に対して懲役7年、そして、遺体損壊に対して罪は問われない。本人であれば「どうして、私の身体を陵辱した行為が無罪なの?絶対におかしい!どうせ死ぬのなら、私は美しい身体のままで死にたかった。バラバラにされた身体を、沢山の人に見られてこんな恥ずかしいことはないよ…」と嘆くはずだ。死んでしまえば魂が抜け出た亡骸なので、何をされても良いというものではない。誰でも、死んだ後の身体も大切にしてもらいたいものだ。殺人は最大の人権侵害である。その犯人が家族や兄弟であっても、命を奪い、尊厳をないがしろにして、身体をもてあそんだ加害者の刑罰を軽減する理由として、遺体損壊に対して責任の不存在を主張することは、人生を奪われた被害者に対する冒涜である。
AMさんは平成18年12月30日に殺害され、翌1月5日に遺体が自宅で発見されたとされている。AMさんが殺害されて年末年始の一週間に渡り自宅内で遺体が発見されなかったとされることに不自然な点はないだろうか。これだけの時間的余裕があれば、遺体を発見した者が、加害者を突き止めて、加害者に及ぶ処罰を最小化するための善後策を検討して、加害者他と周到な打ち合わせをするには十分である。
殺人者YMは解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)であるとしても、AMさんは理不尽に命を絶たれた被害者であり、命を奪われた本人の名誉と尊厳を守るために日本の制度は運用されなければならない。その為には、「解離性同一性障害=心神喪失」であるとして、刑法第39条を被告YMの精神状態の判定で安易に適用することは問題である。被告YMに情状酌量の余地があり、両親が可能な限り軽微な罪を科すように求めたとしても、全く罪を問わないという社会の処分は、被告YMの卑劣な行為を社会として承認することを意味する。AMさんは兄に殺されて遺体を解体されても何も言えない立場である。AMさんの名誉と人権を守るべき両親からAMさんが最後の愛を失ったとしたら、AMさんに哀れみを覚えてしまう。
4)論点は多重人格と無罪の問題
以下では、「解離性同一性障害(多重人格)(DSM-IV-TR 300.14)の可能性が否定できないから心神喪失で無罪と判決した」という問題の論理的背景に論点を限定する。「アスペルガー症候群であるが、完全責任能力を認めて、懲役17年の求刑に対して懲役7年を判決した」という量刑の妥当性については、重要な問題ではあるが、あえて論じない。
2、本件判決の意味
1)多重人格なら心神喪失か?
本判決の重要なポイントは「死体損壊時、被告は解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)による別の人格状態に支配され、自己の行為を制御する能力を欠き心神喪失の状態にあった可能性も否定できず、心神喪失状態にあったと認定した」という部分である。言い換えれば判決は「解離性同一性障害による別の人格状態に支配された時は、心神喪失の状態である」と結論づけた。果たして「同一人物が、別の人格の状態にある時は心神喪失」と簡単に結論づけて良いものだろうか。
精神医学的には、解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)者は「人格が交代した時のことは一切記憶を持たない、無意識の心性」の状態にあると定義される。この定義に基づけば、被告YMが「妹を殺害した時の人格」と「遺体を解体した時の人格」が異なっておれば、詐病さへなければ、「意識に連続性はあり得ず」、また通常の人格の状態に交代した後では「他の人格であった解体しているときの記憶が一切無い(無意識)」という論理が成立することになる。この詐病の問題と、真性の解離性同一性障害(多重人格)(DSM-IV-TR 300.14)であるか否かの鑑定は鑑定者の技量に負うことが大きいが、今回の判決では「鑑定結果は信用できる」としている。
解離性人格障害者は『人格が交代した時の「記憶」を一切もたない』というのが精神医学の診断基準である。精神分析学によればヒステリーの中核症状の原因は「心的外傷(トラウマ)」を含めて「無意識の心性」であり、無意識という概念は「いくら思い出しても思い出せない状態」で被告YMが「遺体を整然と解体した事実」について「思い出せないので知らない」という論理は成立することになる。このため精神医学的な教科書的理論に従う限り、記憶を含めて連続性はないという裁判官の判断に矛盾はない。
ところで、「妹解体中の記憶は一切ない」と証言するのは被告YMであり、それを精神医学的に鑑定したのは鑑定者である。判決は前提として、「鑑定結果は信用できる」としているが、このことは、論理的には「鑑定は信用できない場合もある」と判決が認めた事になる。そして信用できない場合とは、被告YMが確信して詐病していた状況である。またICD-10やDSM-IV-TR等の国際精神障害診断基準書にも必ずしも全ての解離状態で記憶が完全に失われるとまでは書かれていない。解離性人格障害者(DSM-IV-TR 300.14)は交代した人格の記憶を一切持たないと言うのはあくまでも限定された条件下において発現可能な事象に関した仮説である。
仮に、被告YMに詐病はなく、解離性同一性障害者(多重人格)(DSM-IV-TR 300.14)である場合には、教科書的な診断の建前上は、被告YMは精神鑑定を受けた時点では、妹を解体した記憶を一切持っていなかったことになる。さて、この記憶を持っていなかった時の行動とは、心神喪失の状態の行動であろうか。被告YMに多数の人格が存在するのであれば、人格として独立して存在する以上、個々の人格には独自の意識の世界が存在する道理である。最初から完全に心神が失われた人格は独立しては存在しない。判決がいうとおり、「多重人格のそれぞれの人格状態では明確な意思で行われた行動であったとしも、人格が交代した裁判時の人格には記憶が残されていないとして、法的責任を問えない」ものなのであろうか。この論理に従えば、客観的な証拠が揃っても、犯罪者本人に事後に残された記憶さえなければ、いついかなる場合にも無責任抗弁できることになる。記憶だけに関しては本人が「ない」と言う限り、他人が「ある」と証明することは非常に困難である。このような信頼性が乏しい手続きで人権に関連した社会の約束事が決定されて果たして良いものであろうか。
2)遺体損壊以外の目的意識
話を図解的に理解するために、被告YMの通常の主人格の時をA人格、そして妹の遺体損壊をした時をB人格と仮定する (なお、この表現を持って被告YMにその他の多重の人格、例えば、B1、B2人格やC人格などが存在する可能性を否定するものではない。被告YMは解離性同一性障害者(DSM-IV-TR 300.14)であり多数の人格が存在すると鑑定されている。あくまでも、本件殺人および遺体損壊事件に関連した人格を仮の呼称で表象したに過ぎない)。
裁判官の判定によれば、被告YMは主人格のA人格で妹を殺害し、殺した時点で被告YMがB人格に交代していた。B人格の被告YMは、妹(AMさん)の遺体を左右対称に非常に冷静で整然とした行為で15に解体した。その結果できあがった15分割された妹の遺体各部位の大きさは、「隠しやすくするためとか運びやすくするためということで説明ができない」状態であった。すなわち、AMさんの分割された遺体各部位の大きさは不揃いであったと目される。
被告YMは体液や汚物がほとばしり出る妹の遺体を、長時間にわたる作業をして左右対称に冷静かつ整然として解体した。頚の骨や、肩の関節、足腰の関節などの切り離しには「包丁やメスなど刃物を使用する意思」および、長時間に渡る「解体を継続する意思」が介在したことは明白である。判決は「死体を左右対称に15にも解体」と言っているが、胴体から四肢と頭部を分離するだけでは通常は左右対称とは表現されないはずである。これが胴体の細部器官に及ぶ解体をも意味しているとするならば、長時間継続した意思に基づく凄惨かつ猟奇的な行為があったと想定される。この猟奇性や異常性も、それがどれ程の尋常性から逸脱した行為であったとしても、被告YMの人格の特性に基づく意思に支配された行為である。
年末年始の一週間の長期に渡り妹の姿が突然見えなくなった異常事態の中で、家庭内におかれた、AYさんの分割された遺体は発見されなかった。遺体の損壊は浴室で行われたのである。殺害して遺体を損壊する際には大量の体液や汚物が浴室内に飛散するはずである。通常は、いくら清掃を完璧にしても生臭さが鼻を突く状況である。犯行後一週間の間、浴室を利用する家族が浴室内の異常に全く気が付かなかったとしたら、被告YMは遺体を解体して、隠すために収納した後で、浴室をよほど完璧に清掃したことになる。しかし、被告YMが浴室で行った犯行が一週間も露見しなかった事実には「本当だろうか?」を疑うべき理由がある。被告YMの犯行時の年齢と何浪も繰り返していた予備校生であるという社会生活を考えると、浴室内の全ての血糊などの犯罪の証拠を徹底的に洗い拭った行動を完遂したとするには疑問が残る。その上、血で汚れたタオルや、AMさんの衣類などの処分も必要だったはずである。血がついたタオルや衣類はビニール袋に入れても臭うし、目立つ。本当に、一週間も露見しないほど、徹底した証拠隠蔽作業が行われたのであろうか。被告YMの基本的な行動パターンの上からは大きな矛盾があり、不可能に近い事であると思われる。
少なくとも、浴室内の証拠を徹底的に隠蔽したことが事実であれば、そこには人格Bの状況であった時の被告YMの仕事を完全に完遂するという明確な意思が表れていることになる。その上で、遺体の解体開始から、身体の各部分の分割、漏れ出た体液や汚物の処理、遺体ブロックの収納と隠蔽までの一連の作業に、人格Bの状態にあった被告YMは心神喪失の状態であって周到な意思が介在しなかったと考えるには無理がある。遺体の発見が遅れたことはどう考えても異様である。
判決は、「解体された妹の遺体の個々のブロックを隠しやすくするためとか運びやすくするためとかにまで被告YMの意識が回っていなかった」として、解体された遺体ブロックの大きさが不揃いであった事を示唆して、その事をもって目的意識を否定している。そもそも人間の身体の関節と関節の間の大きさは、身体の部分、部分で大きく不揃いである。手足と胴体では最初から大きさが全く異なっている。更には解体が身体の細部にまで行き渡っていたとするならば、各種の個別の肉体器官はそれ程大きなものではない。これらを同一の大きさに分割解体するならば、その事が異常であり、そこには解体以外の別途の目的意識があるはずである。百歩譲って、B人格の被告YMに「解体以外の目的意識が求められないとしても」それでもって「解体を遂行する意思」を否定することはできない。また行為の猟奇性と異常性とは、行為の目的と質の問題であり、心神が失われていたとする理由にはならない。
3)記憶は失われていたか?
被告YMは妹(AYさん)の遺体解体を終了した後で、主人格である人格Aに交代した。そして「犯行後も発覚を防ぐための言動を取り、予備校の冬期合宿に参加していて、犯行当日前後において自己の行為を適切に制御する能力を全体として維持していた」と判決は認定した。この「発覚を防ぐための言動」とは人格Aの状態にある被告YMは「強い意思で事実を隠蔽して語らない」行動を取ったという証拠である。人格Aの被告YMは「(少なくともAYさんを殺したことを、そして多分遺体損壊をしたことも)知っていたからこそ、発覚を防ぐという合目的的な行動を取った」のである。
被告YMが妹の遺体解体をした人格Bから主人格Aにいつの時点で交代したのであろうか。妹の遺体の解体と隠蔽作業を終了した時点(例えば、達成感を持って、一安心したとき)であれば、人格Aの被告YMは無惨に分割された遺体を見たことになる。すると人格Aの被告YMは既に殺人で完全責任能力が認められているので、妹の遺体が解体されていた状況を目撃したがそれを放置したことにより、妹の遺体損壊に対しても無罪ではあり得ない。
その後に、被告YMは自宅から予備校に出かけているので、遅くとも自宅を出た時には主人格Aに交代していた。このため、人格Bの被告YMは妹の遺体解体現場を離れ、自室に戻った時点(例えば、休息するか、一眠りしたなど)で人格Aに交代した可能性がある。この場合には、人格Aの被告YMは「妹の遺体損壊は知らなかった」、また「妹の遺体損壊に対しては責任はない」と言えるのであろうか。殺人と遺体解体は人格Aの状態の被告YMが自宅浴室で行ったのである。その上で、人格Bから人格Aに交代した被告YMに妹を殺人した事に関して完全責任能力という心神があったのである。人格Aの被告YMは、当然のこととして「妹の遺体を確認」をするか「妹の遺体を見ずに外出する」かである。その後、人格Aの被告YMは予備校では「発覚を防ぐための言動」を取っていた。この「発覚を防ぐための言動」とは、妹を殺人したという認識があってこその行動である。
それでも、人格Aの被告YMは「妹が解体されたことは知らなかった」と固執することは精神医学的な理論で裏付けられた行動となり得る。その前提として、解離状態の記憶は全く継続されないと言う教科書的な理論があり、人格Aの被告YMには「発覚を防ぐという強い意思」が存在するのである。この心神にもとづく意思は「詐病」や虚偽証言を行う行為の原動力となる。この理論と意思は、被告YMが自己弁護を目的として「妹の遺体が解体されていたことは知らない」と否定する確固たる自己弁護を目的とした故意となる。裁判が認定した「発覚を防ぐための言動」とは人格Aの被告YMが人格Bの存在を好都合として、その上で、人格Bの時の記憶は全くないと否定する確信的な意思である。
4)記憶と行動の連続性
被告YMは人格Aの状態であれ、人格Bの状態であれ、それぞれの人格の時には意思に基づく行動をしており心神喪失ではない。これは人格Bが、精神障害が原因で発症した病的なものであるなしの問題ではない。あくまでもその人格である時に意思(心神)が存在するか否かの問題である。更には、人格Aが、人格Bを認識しているか否か、もしくは人格Bの状態の時の記憶を保持しているか否か、などの問題でもない。
裁判によれば、妹(AMさん)の遺体損壊は人格Bの状態の時に行われた。人格Bに交代した被告YMは人格Aの時に殺害した妹の遺体を、殺人に引き続いた連続的な作業として「非常に冷静で整然とした行為」で解体した。殺人した人格Aの行動と交代した死体損壊をした人格Bの行動は異質な行動ではなく、本質的に妹の身体に破壊的な攻撃を加えるという意味で行動に同質性がある。すなわち、人格Aから人格Bに交代する時には行動の連続性と継続性は認められるのであり、そこには「意識=心神」の連続性と継続性が存在する。
それでは被告YMが人格Bから人格Aに交代した時には、「記憶と意識の継続性および連続性は全て失われていた」というのであろうか。これは被告YMが依存する精神医学上の理論的な背景でもある。判決も「裁判を受けている通常の人格の状態である人格Aの被告YMは、妹の遺体を解体した時の人格Bの状態からは不連続であるので、人格Aの被告YMから見れば人格Bは心神喪失である」と結論づけている。判決の背景には、人格Aから人格Bへの交代は連続的であるとしても、人格Bから人格Aへの交代は非連続的である「べき」という認識がある。しかしながら人格Aから人格Bへの交代には行動の同質性と連続性が認められるのに、人格Bから人格Aへの交代は何故非連続でなければならないのであろうか。そこに解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)を当てはめる鑑定者の論理に内在された脆弱性が認められるように思われる。
果たして、被告YMの記憶や認識の中で、主人格Aは人格Bの状態を本当に認識できないのであろうか、また連続性は完全に否定されるのであろうか。そして人格Aの被告YMは人格Bの行為に対しては全く責任がないと言えるのか。人格Bの行為は、それ自体では心神喪失の状態の行為ではない。人格Bと人格Aは本質的に同質の人格であり異質の人格ではないが、裁判を受けている被告YMは人格Bから人格Aに交代したと鑑定されたからこそ、教科書的な精神医学理論に基づいて記憶の不存在を主張できて、人格Aの被告YMは心神喪失で無責任であると抗弁をすることが可能になっている。
そもそも、被告YMが「現在の自分自身は人格Aであり、人格Bの状態の時の行動に関しては全く記憶がない」と証言することは「正しいのか」それとも「間違いであるのか」を証明する社会的手段とは精神鑑定である。人間の記憶の存在不存在の問題は、証言者である被告YMの「発覚を防ぐための言動」を維持している人格Aの状態にある心神の下における証言という恣意にまかされている。精神鑑定では解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)と診断することは可能であるし、解離性同一性人格障害では人格交代が起こるときには記憶の非連続性が前提である。従って、社会的約束事としては人格Aの被告YMには人格Bの時の「遺体損壊をした記憶はあり得ない」。しかし、「それは本当に信用できるのか?」という疑問は残るのである。
本質的な問題として、記憶があるにもかかわらず、「記憶がない」という偽証や作為があったとしてもそれを証明することは不可能である。被告YMは、非常に冷静で整然とした行為で遺体損壊を行い、その上で、犯行後も発覚を防ぐための言動を取っていたのである。被告YMは「記憶がない」という立場を堅持すれば、「心神喪失で罪に問われない可能性がある」のである。これは被告YM個人にとって非常に有利な立場である。果たして、被告YMにこの論理を伝授する人間はいなかったと言えるのか。被害者YMの遺体が発見されるまでに一週間の余裕があった。それは計画的な作為を遂行するには十分な時間的な猶予である。
5)被告YMとは誰か?
根元的な問題として、被告YMは主人格Aの状態でのみ代表されるのか、それとも人格Bも被告YMであるのかを明確にしなければならない。被告YMは主人格Aと人格Bなどの状態を状況に応じて相互に交代するのであれば、被告YMとは主人格Aと人格Bなどの状態の総体である。要するに、主人格Aと人格Bなどの状態は被告YMとは不可分な、被告YMを形成する心神の一部と考えられる。それが病的であるなしの問題に関わらず、また主人格の支配が及ぶと及ばないに関わらず、人格Bの出現頻度や状態の持続時間の長短に関わらず、被告YMの心神は、少なくとも主人格Aと人格Bなどの状態の間で交代して存在し、被告YMの人格が形成されているのである。
そもそも被告YMに解離性同一性障害(多重人格)(DSM-IV-TR 300.14)が存在することを理由にして、被告YMは人格Bなどの状態にある時は全て心神喪失の状態であるとする論理は納得しがたい。なお、人格Bの状態に限定した時に意思を持てず心神が失われた状態であると確認できるのであれば、人格Bに限っては心神喪失と認められるように思われる。しかしそれでは人格Bの状態は、人格Aから独立した人格の状態ではなく人格Aの心神喪失状態である。そもそも現実の被告YMは人格Bの状態の時にはAMさんの遺体損壊作業と証拠隠滅作業を行ったのであり心神喪失者の行為ではない。
判決によれば、「被告YMの解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)は犯行の1ヶ月以上前からかかっていたものであり、その期間被告YMは、大学受験の浪人生として家族などと日常生活を送りトラブルを起こしたことはなかった」と認定された。被告YMが解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)で人格Bの状態を過去に発症したのは犯行の1ヶ月以上前という極めて直近のことであり、その上で、その期間の被告YMは日常生活で家族とトラブルを起こしたことはなかった。被告YMは直前の1ヶ月半前に解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)を発症した時には、人格Bの状態に交代していたはずである。それにしては、人格Bの状態とは「本来の人格とは異なるどう猛な人格状態」であり、被告YMが「家族との日常生活のトラブルを起こさなかった」という状況と矛盾している。
「刑事裁判を受けている被告YMは人格Aであり、人格Bの行動に対しては一切の責任を負わない、また問われることが無い」と言えるのか。短大生殺害事件の条件下では、本質的に被告YMは主人格Aであり、かつ人格Bでもある。もし、主人格Aの時だけでは人格Bの条件にある被告人に責任を問えないのであれば、精神鑑定は人格Bの状態の出現を待って人格Bを鑑定してこそ完全となる。また被告YMは人格Aでは人格Bに対して責任を負わないのであれば、人格Bの状態でも被告YMが犯した行為に対して裁判が行われることが必然である。人格Aの被告YMには人格Bの状態の時の責任が問えないのであれば、被告YMに将来に渡って人格Bの出現が無いと証明されなければならない。被告YMとは人格Aの状態と人格Bの状態の総体であり、どちらかの一方だけで代表される被告YMはあり得ない。仮に主人格Aの状態がほとんどの時間を占めており、人格Bその他の人格状態の事件が短時間に限られていたとしてもである。
そもそも人格Bの状態とは、「発覚を防ぐための言動」をとる人格Aの被告YMにとって最も好都合な条件である。人格Bが公衆の面前で出現しないのであれば、人格Bを客観的な存在として認識することは第三者には不可能である。そもそも客観化できない事象を仮定して、被告YMの恣意の下に精神鑑定を行い、その報告を客観的事実として認定しようとするところに、論理的な矛盾がある。
3、解離性同一性障害(多重人格)=心神喪失?
解離性同一性障害(多重人格)(DSM-IV-TR 300.14)の患者であれば、刑法第39条が期待する論理の上からも自動的に心神喪失となるのだろうか。刑法第39条は「第一項 心神喪失者の行為は、罰しない。」と規定している。判決では「解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)の可能性が否定できないから、心神喪失状態にあった」と認定したのである。すなわち、判決は「解離性同一障害=心神喪失」という前提の上に立っていることになる。
1)日本語の心神喪失
まず「心神喪失」の言葉をこれまでの判例の積み重ねを歴史的背景とした法律用語としてではなく、純粋に日本語として捉えてみる。「心神」とは「心」「魂」「精神」である。そして「喪失」とは「失うこと」である。すなわち日本語としては、心神喪失は本来の意味は「心や魂や精神を失うこと」である。また心神喪失の状態であるか否かは、その人間が心や魂や精神を保持しているか失っているかの違いが本質的な課題である。
ところで、広辞苑によれば「心神喪失」は「精神機能の障害のため意思能力を欠く状態にある」とされ、刑法第39条の存在ありきの解釈を前提において定義されている。しかしながら本来的に法律より言葉が先にあり、心神喪失とは状態である。本質的には精神機能の障害という原因とは関連を持たない言葉である。「精神機能の障害」という理由は、刑法第39条が成立した後で辞書が編纂された経緯に基づく後付の解釈のための理由付けと考えるべきである。これは言葉本来の意味とは別個の定義理由である。心神喪失とは本質的には「心や魂や精神を失うこと」であり、これを法律的責任能力と関連づけるのは社会的な解釈論である。
日本語には最初から心神喪失の概念があったのではない。法律としての刑法を作成するに当たって、原語(欧米語)の「insane」の日本語訳として「心神喪失」が当てられた経緯がある。このため、「心神喪失」の意味を考えるに当たって、精神医療専門家の中には日本語本来の意味からではなくて、原語の意味をそのまま持ち込むこともあり得る。日本語で「心神喪失」と読んでも、頭の中では自動的に「insane」と考えてしまうのである。原語では「sane」とは「精神が正常である」ことであり、「insane」とは「病的な原因を含み、精神が正常でない状態」を示す。日本語の「心神喪失」は本来「病的であるか否か」とは関連しない言葉であるが、原語の「insane」は最初から「病的概念」を含んでおり、精神医学者が用語使用で混乱する原因でもある。
刑法第39条が制定されたときに、当時の日本政府は「insane」を「心神喪失」と翻訳した。できあがった法律は日本の国内法であり、法律の定義としては、言葉の上からは英米法に内在していた「病的概念」を排除して、「精神の状態に限定」した立法を行ったと考えるべきである。日本国内法の解釈としては、「心神喪失には病的概念が前提となる」と考えることは、解釈の揺らぎであり、後付の解釈論である。
本来病的概念を持った「insane」を使用する欧米諸国では「insaneの状態」に関してマクノートン規則などその法的適用に関連して限定的な条件を詳細に規定する事が行われてきた。日本では法律作成が本来的に病的概念とは独立していたはずであるが、法律制定以後詳細な条件が規定されることなく、安易に病的概念に基づく精神医学的な解釈が持ち込まれて、病的概念に基づく精神鑑定で「精神障害であるから心神喪失」という精神鑑定が行われて、それが引き続く裁判では判決の根拠とされてきた経緯がある。これは日本の判例主義の大きな欠点である。
本来的な日本語が意味している刑法第39条の立法趣旨に基づけば、日本の刑事裁判を前提とした精神鑑定は、鑑定の対象者が「精神障害者であるか否か」という前提から独立して行われることが正しいと考える。
2)「精神障害者=心神喪失」の弊害
これまで精神鑑定を行ってきた多くの精神科医師は「精神障害者であるから心神喪失である」もしくは「精神障害を治療するためには心神喪失でなければならない」、また「疑わしきは罰せずだから、積極的に心神喪失と鑑定しなければならない」などとして、そもそも「本当に心神喪失の状態であるか否か?」の本質からかけ離れたところで、多くの触法精神障害者の精神鑑定を行ってきた。
ところで、精神障害者であるか否かの問題は極めて医師の恣意的判断に基づく医療診断行為である。またこれまで精神障害であるなしの概念は合理的に整理されていたとは言えず、多くの精神障害に関する過去の著作を読むと、各種の症状や患者の行動を原因解析や論理的な分析をせず平板な記述を羅列しただけの症例が記述されていることが多い。このため正常者と精神障害を患っている者との差違も判然としない場合が多い。すなわち、「医師が精神障害者だと診断したから精神障害者なのである」と推察されるような実態である。
近年アメリカ精神医学会の診断基準(DSM-IV-TR)や世界保健機構「精神および行動の障害、臨床記述と診断ガイドライン」(ICD-10)などが整備されてきた。これら国際精神障害診断基準書が整備されてきたことは、精神障害の状況の理解を促進することに大いに役立ったことは否めない。しかしながら、これら国際精神障害診断基準書に記述された症状に該当することは、すなわち、「国際精神障害診断基準書で認められた精神障害者」となり、精神障害者の範囲を拡大したことは否めない。従来の解釈であれば、心神喪失に関連した精神障害は「てんかん」もしくは「統悟医失調症(精神分裂)」に限られていたが、国際精神障害診断基準書に記述された精神障害は全て心神喪失の理由になると主張される根拠となっている。
反社会性人格障害を事例とすれば、この障害はDSYM-IV-TRおよびICD-10の双方の国際精神障害診断基準書に記載された精神障害であることは間違いない。反社会性人格障害とは「他人が困る姿や、苦しむ状況を見て、満足感や達成感を持つといった行動の障害」であり、そこには意図して他人に害を与えるという明確な意思が介在している。ところが矢野真木人殺人事件の刑事裁判では被告弁護人から「反社会性人格障害者であると精神鑑定されたことを持って、心神喪失もしくは心神耗弱による減刑の理由」として主張された経緯がある。すなわち、国際精神障害診断基準書に記載がある全ての精神障害は、日本の法廷では「精神障害を理由に心神喪失で刑の軽減か無罪」を被告弁護人が主張する理由となるのである。
近年日本では国際精神障害診断基準書に記載された精神障害があるという理由だけで、精神障害者として無罪の主張が行われている。このことは本来の刑法第39条の法律規定が持っている「心神喪失」の意味から逸脱した、法律の運用が乱用のレベルにまで拡大していることを示している。「精神障害者=心神喪失者」という前提を持つことがそもそも間違いである。
3)ローゼンハムの実験
アメリカのスタンフォード大学心理学兼法学教授D.L.ローゼンハムは、精神的に健康な8名の人間を選び、アメリカ中の大きな州立病院や小さな私立病院を含むいろいろな精神病院に入院させてみた。
ニセ患者達は入院の検査のさいに分裂病の症状を少しだけ模倣した。訴えた内容は、幻聴という形式をまねているが、その主題や内容は日常のごくありふれたもので、人生の不条理さといったものに思い悩む時に意識するに違いない程度のものである。被験者は入院後はいっさい普通にふるまい、未知の声が聞こえるという訴えも止め、精神病の徴候と見られる行動は、まったく取らなかった。
ニセ患者達の生活史には何ら病理的なものはなく、自分自身の生活史を偽らず正直に語るように注意した。ところが、ニセ患者達は一人を除いて全員が「精神分裂病」と診断されて、なかなか退院が許されず、彼らの入院は一週間から二ヶ月の間続いた。
ニセ患者達はしばしば隠さずにノートを取ったが、この行動は他の患者達の好奇心をそそったが、スタッフの人々は興味を示さなかった。むしろ監視人の日務報告で病理的行動の一部として、分裂病の症状として強迫行動の一種と見なされて、記録されたのである。
出典: 新装版 精神病を知る本、別冊宝島社編集部編、宝島社文庫、2007年5月30日、
P346、赤坂憲雄、精神病にとって「治る」とはどういうことか? ISBN978-4-7966-5818-8
上記は、アメリカの研究報告の事例であるが、精神科医療機関における診断はいかに信頼性が低いものであるかについて示唆している。精神障害者と診断されるか否かの問題は本質的に医師が当該患者を精神障害者と診断するか否かの恣意的な問題である。その患者が本当に精神障害者であるか否かを証明する客観的なデータは存在しない。このため、精神科医師が「精神障害者であるから心神喪失」と精神鑑定を行うという、精神障害の診断そのものにも疑うべき要素が介在するのである。
心神喪失者であるか否かの問題は、刑法第39条に基づく法的な価値判断の問題である。他方精神障害者であるなしの診断は精神医学的な価値判断である。ここに「精神障害者=心神喪失者」という論理の本質的な矛盾がある。また本来精神障害者であるなしの診断は信頼性が乏しいのである。その上で、精神障害者=心神喪失者と安易に運用することは、人権に関連する法律運用としても本質的な問題である。
4)解離性障害を評価する困難性
ICD-10によれば、「解離性障害(Dissociative disorders)が共有する共通の主題は、過去の記憶、同一性と直接的感覚、および身体運動のコントロール間の正常な統合が部分的にあるいは完全に失われることである。直接的注意の対象としてどのような記憶と感覚が選択されるか、そしてどのような運動が遂行されるかについて正常ではかなりの程度の意識的コントロールが行われる。解離性障害においては、意識的で選択的コントロールを行う能力が、日ごとにあるいは時間ごとにすら変化するほど損なわれていると推定できる。ある機能の喪失がどの程度随意的コントロールのもとにあるかを評価するのは、通常非常に困難である。」(ICD-10、F44、P162)と記述されている。
上述によれば、解離性障害者は記憶や行為の意識的コントロールが一部もしくは完全に失われている可能性があることになる。またその出現は短時間の場合もある。しかしながら、外部観察者が解離性障害による機能の喪失を客観的に観察評価する事は非常に困難である。すなわち、解離性障害の発言は、「証言者が解離性障害である」と主張する場合には、それを鑑定者が否定することは極めて困難であるという限界がある。これは「疑わしきは罰せず」という論理で、被告人の利益擁護の理由として許されるのであろうか。
ICD-10の別項目(F44.0 解離性健忘、P165)には「最も鑑別が困難なのは健忘の意識的な模倣(詐病)であり、病前の人格と動機の評価を繰り返し詳細に行うことが要求される。健忘の意識的な模倣は、金銭、戦死の危険、あるいは禁固刑や死刑の宣言の可能性といった明確な問題と通常関連している」と記述されている。
刑事裁判で死刑を宣告される可能性がある犯罪者は、確固たる意思で「健忘を意識的に模倣(詐病)する」可能性が極めて高いのであり、その詐病の可能性を精神鑑定者が見極めることは不可能に近いのである。それが現代の精神医学の現実である。
このことは、被告YMが、「妹(AMさん)の遺体を解体したときには、心神が解離状態だったので記憶がない」と安心して主張できる論理的な根拠である。AMさんの解体された遺体が一週間後に発見されるまでには十分な時間的な余裕がある。この間に、被告YMには「心神が解離状態にあったとする論理を構築するだけの時間」があり得たのである。被告YMは歯科医師になるために浪人生活を繰り返していた。被告YMの周りには、精神医学に関して高い知識を持った人間環境があったと推察されるのである。その上で、被告YMの犯罪を知った上で罪を逃れるための助言する者がいた可能性もあり得る。被告YMが確信して、解離性障害を模倣(詐病)する場合には、精神鑑定でそれを見破ることは不可能に等しい。
5)遺体損壊は有罪
被告YMの責任能力を判定する際に、人格が幾つあるかは問題ではない。それぞれの人格の状態が心神(心・魂・精神)を有しているか失った状態であるのかが問題である。また主人格の他に複数の人格が存在すると認められる場合でも、その原因が精神の病気に起因するのか、それとも飲酒や麻薬の使用それとも向精神病薬の服用によるのかは問題ではない。本人の法的責任を問えるのは、行為を行った時の本人に持続的な意識が維持され故意(mens rea)が確認されるのであれば、法的責任は問われるのである。
なお、被告YMが解離性同一性障害(DSM-IV-TR 300.14)を持つに至る過程や原因に情状酌量の余地がある場合が考えられる。しかし、そのことは、精神鑑定を左右する要素ではなく、刑事裁判における法的責任を決定するさいの酌量与件である。本件裁判で、妹の遺体を損壊したことに何して、解離性人格障害を理由にして心神喪失を認めて罪を全く問わない裁決には納得できない。
解離性とは「忘れる」ことである。本質的な問題は客観的な証拠が揃っている場合でも、「忘れたら無罪」を社会の共通認識として持つのか、それとも「それは間違っている」と社会的判断をするのかの問題である。「忘れた」「記憶にありません」と主張されると、いえ「覚えているでしょう」また「記憶を持っていますね」と確認することは本質的に不可能である。「証拠があっても、忘れたから無罪」という主張が大手を振れば、それに対抗する事はできなくなる。これは犯罪者に刑法第39条を悪用して、いつでも犯罪者の都合に従って「解離性同一性障害(多重人格) (DSM-IV-TR 300.14)だから無罪」と主張できる、免罪符を与えるようなものである。
被告YMの場合には、妹であるAMさんを解体していたときには、明確に「遺体を損壊して左右対称に15分割する」という長時間継続した意思があった。その上で、「遺体を損壊した現場である浴室を清掃した上で、血塗れたタオルや衣類などの証拠を隠滅する」という行為を遂行した意思があった。更には、分割されたAMさんの遺体を収納して、家人の眼から隠す意思があり、それを行っていたのである。被告YMはAMさんを殺害して、遺体を損壊するという故意(mens rea)が認められる。被告YMは心神喪失で無罪ではあり得ない。
さいごに
矢野真木人が殺人された刑事裁判で犯人側弁護人は「犯人Nは統合失調症である上に反社会性人格障害と精神鑑定で診断されているのだから、精神障害者として大幅な減刑されることが当然である」と主張した。この弁護士の主張では、統合失調症はもとより、反社会性人格障害も殺人行為に対する罪を軽減する理由に挙げられる。この反社会性人格障害を刑法第39条第2項の「心神耗弱」の理由とすることは、現在の日本では法曹界関係者に広く行き渡っている主張である。
私たちは平成18年9月に、矢野真木人の幼なじみであった英国ブリストル大学臨床精神医学准教授サイモン・デイビース医師およびスペイン人で英国ブリストル王立病院精神科ブランカ・アルマナク医師と共に広島県福山市のCAC医療技術専門学校で講義をした{参考: いわき病院事件に関する特別講義(CAC医療技術専門学校特別講義)英国とスペインにおける精神衛生に関する法律と精神障害者の法的責任}。この時に、両精神科医師は「英国でもスペインでも反社会性人格障害者が殺人行為を犯した場合には、反社会性人格障害であることは、重い刑罰を科す理由になっても、罪が軽減される理由とはならない。日本で、反社会性人格障害を理由にして、罪の軽減をしているとしたら、それは基本的な間違いである」と明言した。
両医師は、「反社会性人格障害者には、犯罪行為の被害者が困る姿を見て楽しんだり喜びを覚える、という明確な故意があり、それは心神喪失や心神耗弱の理由にはならない。また反社会性人格障害は精神科治療の対象ではない。これは社会的に強制的な更正を科す問題である。英国やスペインなどヨーロッパ諸国では殺人歴があり、矯正されてない反社会性人格障害者は、刑期を満了した後では、高度保安施設に強制的に入院させることになっている。反社会性人格障害者である限り、一生開放されることはあり得ない」と発言した。
日本では「刑法第39条がある。精神障害者だから当然無罪だ、少なくとも罪が軽減されなければならない」という主張が法曹界と精神医学会では安易に容認されている。これはおかしいことである。精神障害者であっても、犯罪行為を行い遂行した明確な故意が確認される場合がほとんどである。それでも「精神障害者であれば、少なくとも心神耗弱であり、治療のためには心神喪失でなければならない」などという主張が通用している。
日本では、「多重人格者だから心神喪失。発達障害だから心神耗弱」などという物事の本質を顧みない主張がまかり通っていると懸念される。仮に多重人格者(解離性同一性障害者)であったとしても、またその人間の心が完全な発達をしていないとしても、成人年齢に達しておれば、それはその人間の個性であり、その人間はその個性に責任を持ち、意思(故意)に基づく犯罪行為に対しては法の下に責任を取らなければならない。そもそも、精神は多様である。また発達障害を理由に挙げるのであれば、誰でも何らかの発育不全の要素を持っている。完全な水準に達している人間など存在しない。また完全な心神とは何か、そのようなことは仮定でしかない。
国際精神障害診断基準書に基づけば、日本語の人格障害の「人格」は英語では「personality」で、解離性同一性障害の「同一性」とは「identity」である。日本語では「人格」と「同一性」はかなり異なる言葉の概念であるが、英語の「personality」と「identity」は共に「他人とは異なる独立したひとりの人間の性質の持ち方やあり方」を表す言葉であり、定義の方向性は異なるが言葉としては極めて似通った概念である。これらは個人として自分自身に責任を伴う言葉であり、法的責任を免除する理由にはならない。ひとりの人間が「personality」もしくは「identity」の障害(disorder)が理由で、犯罪行為を犯す場合には、精神科の治療で治すことは極めて困難であり、現実的な対応としては、社会的強制による矯正や更正が行われる必要がある。それが犯罪行為に対する国際的に認められた、犯罪者本人と一般市民の人権を擁護するための、正当な責任のとらせ方である。
殺人されて命を失った人間には人権が消滅したのではない。生きていたのに無理矢理命を奪われたこと、その過程が最大の人権侵害である。殺人者は生きていても、自ら犯した最大の人権侵害行為に対しては責任がある。殺人者は生きて人権を請求できるとしても、他人の命を奪った行為を免責する理由になり得ない。命を理不尽に奪われないこと、生きる権利が尊重されること。これこそ人権擁護である。AMさんは家族に人権を奪われた上で否定された。これはAMさんのやり場のない永遠の悲しみである。
家族の愛を失った薄幸の女性AMさんのご冥福を祈ります。
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