WEB連載

出版物の案内

会社案内

被害者支援というありがた迷惑


平成20年1月13日
矢野啓司
矢野千恵

被害者自助組織「かがみの会」第6回会合は平成20年1月10日に行われました。この報告書は会合における話題から、私たちが認識しまた解釈したことを元にしています。必ずしも会合の場で話されたことをありのままに記述したものではありません。また被害者の自助グループという会の性格上、出席者や発言者を特定できるような記述は可能な限り避けてあります。このことを踏まえた上で、読んでいただければ嬉しく存じます。


1、参加資格の拡大と闖入者

「かがみの会」は最初は「被害者遺族」に参加者を限定していました。そして参加者を募る方法としては、私たち夫婦が知っている「被害にあわれた遺族」に声をかける、「被害者支援センターの会員として登録している遺族」に声をかける、などを基本としました。その上で、「被害者支援センターが行う広報活動」の中で自助グループへの参加を募集しました。

さて、当初の「遺族に参加者を限定」していたときには、参加者は間違いなく大切な家族を失って悲嘆にあえいでいる方たちの集まりでした。それでも、「公的機関が設立した被害者支援センターに支援された自助グループだから、被害者でない人間でも参加傍聴する権利がある」と主張して、「興味があるので、被害者活動を見に来た」という人物が入ってくることがありました。この場合には、「あなたは遺族ではない、私たちは見せ物ではありません」と言って、退席をお願いすることが容易でした。

ところが参加できる被害者を遺族に限定すると、被害者支援センターの広報を見て参加申し込みをしてきた、後遺障害を受けた被害者本人などの被害者の参加を「お断りする」という状況が発生しました。それで、「自分が被害者であると自覚する人間にまで参加者を広げる」ことにしました。すると「交通事故で死にそうになった」と申告して参加してきた人がおりました。会合の場でその人に事件の概要を聞くと、「交通事故の接触で双方の車が破損した、自分自身はその事故で死にそうな思いをした、しかし病院に行ったら『入院する必要はない』と言われたので入院はしなかった。現在、相手に損害賠償裁判を起こすことを考えている。また相手も私に対して裁判を準備している模様だ。私は被害者だし、この被害者の会にどんな人間が集まっているかにも興味があった・・」と主張しました。この人は私たちが考える被害者ではありません。それでも被害者支援センターの協力者になる可能性はあり、会合の場で退席を願うほどの排除をすべきか否かについて迷い、結局最後まで参加を許すことになりました。

この方の場合、はっきり言って、被害者遺族である人は自分たちの問題をその人に聞かれるのには困惑を感じました。またこの種の人たちには個人的な野次馬根性を持っている可能性の他に、特定の政党や宗教団体等の情報収集活動の可能性も推察される要素があります。ところが被害者支援センターの方では、「センターの広報を見た、また自分は被害者である」という被害者を自称する人間を選別して、被害者の自助グループ活動を守るというところまで徹底することは、公務員的な心があり困難なようです。今後はこのため、被害者支援センターの広報を見たと言って参加を希望する人には、自らは遭遇して被害者になった状況を予め文書で提出してもらい、私たちが仲間として共に活動できる被害者であることを私たちが確認した上で、参加してもらうことにします。

被害者自助グループである「かがみの会」は犯罪被害者や交通事故被害者だけではなくて、自然災害や自殺などの、心に大きな悲嘆を持たらされたような大きな意味での被害者にも参加を求める所存です。しかしこのことは、被害者であると自己主張する人は全て参加資格があるというものではありません。自分を被害者であると言って、他人が苦しんでいる状況を見て聞いて楽しむような人たちの興味の餌食になるのでは、会を開催する意味もありません。またこのことは明らかに被害者が遭遇する二次災害や三次被害そのものでもあり、公的機関である被害者支援センターにも何のために被害者支援活動しているのかをも含めた再考をしていただくべき課題であると思われます。


2、支援傍聴の安易な姿勢

犯罪被害者基本法が制定されて以降、全国に犯罪被害者支援センターが沢山設立されています。これらの支援センターの役員の多くは弁護士や精神科医師や臨床心理士などです。そして職員やボランティアなどのスタッフは心理教室を受講したりして相談技術の習得をしたり、研修活動に励んでいるようです。被害者支援センターの中には「心の支援」を名称にして、活動の中心が「被害者の心の救済」であると理解しているかのような状況も見られるところです。また被害者支援センターの主要活動として、刑事裁判の支援傍聴があげられています。またかがみの会にも臨床心理士を指導者に置いたら良いと助言されたこともありますが、大きなお世話だと感じて、お断りした経緯があります。

被害者が集まると先ず出てくるのは「(被害者支援センターは)私たちを子供扱いしている、被害を受けたからといって、子供になった訳ではない。支えてもらわなくても一人で歩ける。気絶して卒倒している訳でもない」という憤りを含んだ言葉です。そして「あれでは迷惑だ。あの人たちは、何をやっているのか?」という批判の言葉も発せられます。私たちの関心は心の問題だけではありません。

被害者となって最初の関門は刑事裁判です。刑事裁判で、加害者に厳罰が下されることが、被害者のほとんどが望む最初の課題です。ところが刑事裁判に出席してみると、法廷の外の狭い廊下で被害者側と加害者側の双方の関係者が密集して裁判開廷まで待たされます。そして法廷の中に入れば、最前列が記者席に確保されていますが、被害者の席はどこにも指定されていません。基本的に先者がちの席取り合戦ですが、それでも裁判所の事務官が配慮して、被害者の席を左前方にとってくれます。問題は、なだれ込んだ加害者側の関係者が被害者の周りを取り囲んで座る可能性です。深刻な被害を受けた被害者は法廷の中で、「どうして加害者側と被害者側の席が分離されてないのか?」と、我が身が法廷の場でも守られないと言う不安を胸に裁判に臨みます。被害者は殺人されたり、後遺傷害を負ったり、婦女暴行の辱めを受けているのです。法廷内で加害者側に接近されて心に感じる圧迫感は甚大です。

そこで、被害者支援センターの主要な活動が「刑事裁判の支援傍聴」です。ところが、支援傍聴者は他人のプライバシーが絡んだ争い事に野次馬的な興味で参加するという要素もなきにしもあらずです。ある意味では被害者支援センターから日当をもらった「物見遊山」であり、「被害者への声かけ」なのです。多くの場合、善意に基づいた女性ボランティアの参加です。それは「母親の対応」であるとも言えます。このために被害者は裁判所の法廷で支援者に「子供扱いされた」という不愉快なものを感じてしまうことが多いのです。支援傍聴の女性は被害者を加害者側関係者から守る防波堤にもならないことが多く、またそれは支援傍聴者の意識外で、支援傍聴者がいる横で被害者は加害者側からの脅威にさらされ続けることもあります。

ある裁判では、被害者の横に座った支援傍聴者が裁判長が開廷に当たって傍聴者全員に指示した「携帯電話のスイッチ切り」をしてなかったために法廷が進行している間に二回も着信信号が法廷に鳴り響いたことがありました。その支援傍聴者は被害者のすぐ横に座っていました。この時には、裁判長が被害者席を厳しい眼で見ましたので、被害者は「裁判官が心証を悪くしたのではないかと気が気でなかった」と言います。被害者支援センターが派遣した支援傍聴者が被害者に対するひいきの引き倒しをして、自分自身はそれに気がついていないという、「善意であれば何でも許される」という認識の甘さが際立った状況でした。支援傍聴者は裁判の場で被害者の利益にならないことをしてはならないのです。

支援傍聴者の役割は何であるか、何のために支援傍聴をするのかなど、支援センターとして考えるべきところが沢山あります。法廷の場における被害者支援は支援者の自己満足による不確かな「心の救済」や、ありがた迷惑な「声かけ」などではなくて、「被害者の権利回復のための戦いの場における具体的な支援活動であること」を行動の基礎に置いてもらいたいというのが、被害者から見た傍聴支援活動への希望です。

法廷の場では加害者側の脅威から盾となって被害者を守ってください。そして被害者が観察できない方向や直近で観察した犯人の表情とか態度であるとか、加害者側の関係者の観察であるとか、他人の目や多数の眼で観察できることは沢山あります。また、刑事裁判では現在のところ被害者には弁護士はつきません。このため、支援傍聴者が冷静な目で裁判の進行状況や論点の展開などを分析して要点を整理して被害者に助言をすることも可能でしょう。


3、天変地異と個人の運命

私たちの地域は近い将来に南海大地震が発生すると予想されており、その際には最悪の場合には地震災害と津波災害により数万人規模の人命損失が発生する可能性があります。このため、かがみの会は被害者となった原因を犯罪被害や交通事故被害などの人的災害に限定せずに、自然災害被害者も会に参集する重要な仲間であると認識しています。

自然災害被害者の多くは居住地域で多数の地域住民と一緒に災害に遭遇するという性質を持っています。このため避けられなかった定められた運命であるとして、あきらめの気持ちもあるかも知れません。また沢山の同質の被害者が同時に多数発生するために、被害者に共通する緊急の社会的問題として総合的な対応が図られるものと期待されます。

ところで、天変地異のような巨大な災害に旅先の土地で遭遇して、しかもその旅行グループの中で災害により命を失った者が限られた人であったような場合には、被害者遺族にもたらされる悲嘆という深刻な心の傷は耐え難いものになるようです。犯罪被害や交通事故のような人災の場合は、原因者の処罰や損害賠償の請求などの事後対策を通じて、被害者の心を救済する手段も存在します。また相手がどのように極悪非道な人間であっても、対抗不可能なほど巨大な存在でもありません。ところが天変地異の自然災害被害の場合には相手は地球の自然であり、個人である人間存在をはるかに超える巨大なものです。訴える相手も見あたりません。ある意味では神の意図を感じさせる大きすぎる相手です。

天変地異で命を失った人間が、命を失った場所に立つ理由が、その人間の過失や定められた人生の一部であると理解される場合には諦めもつくかも知れません。しかし、観光旅行などでたまたまの訪問先で、本人に何の過失もなく天変地異に遭遇する場合には、「なぜ、どうして、あの人は、あの時、あの場所に、立つことになったのか?」という自問が堂々巡りして解決の糸口が見つかりません。天変地異が発生した土地を訪問したことは偶然性が高い数多くある選択の一部なのです。同じ時に他の土地を訪問することにしていたら、あの人は命を失うことはありませんでした。残された遺族は、「その土地を訪問することに賛成せず、他の土地を訪問するように強く勧めていたら、あの人は助かったはずだ」と考えます。他人から見れば、埒もない、また逃げ道がない、そして論理性が乏しい堂々巡りの悩みに見えます。しかし、悩む本人は更に深刻な心の悲嘆の落とし穴に沈んで行くばかりです。

天変地異の自然災害はその災害が巨大であればあるほど、神の摂理にも見える、見えざる神の御心を感じさせる要素があります。どのような自然災害でも、地球環境物理学的な視点で巨視的に観察すれば、地球表面の一部の地域における一時的な攪乱要因であり、神様を想定する必然性も無いとも考えられるでしょう。しかし、その現場に立った者の視点で見れば、まさに天と地の巨大変動で、人智を超えた運命の裁きにも似ています。このことが被害者遺族の心を更に責めさいなむようです。それまで持っていた人生観や宗教観が根底から揺さぶられます。ところが、その心の動揺を周囲の他人はまるで気がつくことがありません。被害者遺族は神や仏にも見放された、究極の孤独の状態で、誰からも助けられない自分の惨めな姿を発見して、おののくのです。それでも、被害者支援センターが言っている心の支援という心理療法を、遠い世界のような、冷めた目で見るのです。


4、透視と予言の世迷い言

被害者は被害を受けたと知った瞬間に時間が停止してしまいます。私たちの場合にはそれは息子が殺害されて1時間後に警察官が訪問してきて「ご子息は心肺停止の状態です」と言った時でした。それ以降は犯人が逮捕されるまでは「重要参考人の立場」でした。息子が殺された両親は、警察の立場で見れば「まず最初に身柄を確保して、行動の制限をして、詳細な事情聴取すべき重要参考人」です。私たちは警察署の防音処理が行われた小さな取調室に別々に招じ入れられて、長時間にわたり外部との接触を遮断されました。

私たちが周囲から遮断されている間に、世の中では息子の殺人事件がテレビや新聞で大きく報道されていました。しかし私たちはその事実を知ることはできません。事件は高松で発生しましたが、異変を知って、インターネットで情報収集した東京にいる娘から、年調べ室まで携帯電話が入りましたが、私たちは状況を息子が殺された以外には何も知らず、娘の方がはるかに多くの情報を持っていました。私たちは壁一つを隔ててますが、何の会話をすることも許されません。私たちが取調室にいる間に、娘は東京から飛行機に乗って高知の自宅まで帰り、異変を聞いて自宅に参集した親戚一同と合流したという連絡が携帯電話に入りました。自宅の周りでは報道陣が取り巻いていると言われました。私たちは狭い部屋の中で、ただただ過ぎ去る「空白の時間」を別々に待ち続けました。

コーヒーをたっぷり飲まされて長時間過ごした警察の取調室から開放されると、殺された息子の遺体引き取り、そして引き続く葬儀が待ち受けています。私たちは何日も夜も寝られず、親として行わなければならない事後処理に追われました。連日テレビと新聞は大報道していますが、私たちはそれを見る心の余裕がありません。私たちは自分自身が報道されるという情報のまっただ中にいましたが、その私たち自身は情報から隔絶されていたのです。私たちは記者から取材を受けて、その質問から息子に何が起こっていたのかを知るという状態でした。事件の被害者になると、自分自身はそれ以前と同じつもりですが、被害者は誰もが自分でも思いもよらない厖大な個人情報を自らの外の世界で持ち出され続けることになります。私たちの息子が殺されて丁度2年を過ぎた現在ですが、今でも検索エンジンで名前を検索すれば父親の名前で506件、母親の名前で227件、殺された息子の名前で216件ヒットします。被害者は被害にあったというだけで、厖大な個人情報の流出が始まるのです。それは、止められません。

この被害直後の、時間の停止状態と情報からの隔絶の状況は、ほぼ全ての被害者に共通する状況です。誰もが「そうだった」と言います。事件が大きければ大きいほど、世の中で騒がれれば騒がれるほど、ほぼ全ての被害者はその肝心の事件の情報から遮断されてその上で、自分自身の情報が止めどもなく流出するという状況が発生します。これはある種の意図を持った人間から見れば、非常に利用価値が高い有利な状況が発生している事になります。特に被害者は事件直後には心が動揺しています。また最愛の人間を失ったことで、心の喪失感が日毎に増して行き、悲嘆の螺旋階段をどんどん転げ落ちてゆきます。そこに「心の透視や予言」と言った情報を吹き込まれると、そこから逃げられなくなる状況も発生します。問題なのは、親しい友人や直近の親族が、遠慮のない言葉で、「信心が大切」とか「あの占いの大先生がテレビで言っていた」などと言う情報を持ち込むことです。被害者の情報はインターネットで検索すれば、誰でも容易にまた驚くほど詳細に知ることができます。透視や予言等ではなくて、公開されてしまった被害者の個人情報を読んだ後で言われても、被害者は「どうして自分のことをこの先生はそんなに詳しいのだろう。すごい透視能力だ」と感心させられてしまう要素があるかも知れません。占い者は相談に来た被害者が申込用紙に書いた記載から、多くの個人情報を短時間で簡単にインターネットなどから収集して、その上で面接することが可能な時代です。被害者は友人や親族を頼りにしているだけに、それだけに、心に忍び込む「世迷い言」の情報に縛られる事になる可能性が高くなります。

被害者はほとんどの人が被害者自身が乗り越えることを困難に覚える深刻な悲嘆の状態にあります。その上で、個人情報をどこにいるかも分からない見ず知らずの他人に知られているのです。またそれをいつでも検索されて知られる立場になっています。相手は見ず知らずでも、言葉巧みに接触されると、被害者の心は更に大きく動揺します。それを、被害者支援という善良な立場で、普通の人の日常の経験則を元にした助言をされても、「あなたは、まるで分かってない」という拒否反応を引き起こすことにもつながります。


5、交通事故加害者の処罰が軽すぎる

交通事故被害者と犯罪被害者は、ややもすると一緒に活動するには利害が一致しないという、不協和音を自らの手で奏でる事があります。犯罪被害者は「交通事故被害者は、保険金で賠償金が支払われるために、お金のとりはぐれがない。それに対して、犯罪被害者の場合は仮に民事裁判で賠償金が確定しても、その金額を現実に取得することは不可能な場合が多い。多くの犯罪加害者は資産を持っておらず、賠償金の支払い能力がない。交通事故被害者がうらやましい」と言います。他方では交通事故被害者は「保険金で支払ったら、相手はもう責任は無いという、加害者の個人資産はそのまま保全されて、また加害者は人を殺したにもかかわらず、執行猶予で服役もしないですまされる。とてもではないが許し難い。犯罪被害者の場合は死刑まで要求できるのに、余りにも刑罰が軽すぎる、理不尽に死んだ命が救われない」と不満をためています。

交通事故被害者は「被害者は死んだが、加害者は鉄の箱の中に居て何の負傷もせず、被害者の証言が無いことを良いことにして、事故の状況そのものを加害者に有利なように歪曲して証言をして、罪を逃れている」と強い不信感を持っています。ある人は「信号が青で横断歩道を通過していて、左折ダンプに巻き込まれて圧死したが、それでも運転手は執行猶予で、普通に生活を楽しんでいる」と不満を持っています。

私たちの活動としては、人命が失われた場合の交通事故加害者の処罰の程度について、有期刑の徹底化を求める可能性を検討することも課題になると思われます。交通事故の場合、危険運転致死と判定されると懲役25年までの有期刑が科せられます。しかし、明確に危険運転が証明されない場合でも、信号無視などのような交通ルールの根幹に抵触して、しかも人命を奪った場合には、その運転手の人生を担保にする、罰則の強化が図られるべきではないかと考えられるところでしょう。交通事故で死んだ人は、人生を失ったのです。その対価として、加害者は人生を持って償うことです。それは現実に刑務所に服役させる事であると考えられます。


終わりに

本報告は特定の被害者支援センターの活動を非難するものではありません。また特定のスタッフをあげつらうものでもありません。文中に書かれている事柄に具体的事実関係の確認を求められても、一切お答えすることはできません。あくまでも、全体的な問題の一つとして、日本の被害者支援センターの活動をよりよく改善して具体的な支援方法を考案するために考慮していただければ有用と思われる被害者の声を編集したものであるとして読んでいただければ幸甚に存じる次第です。



上に戻る