WEB連載

出版物の案内

会社案内

人生被害の刑罰と更生


平成19年12月26日
矢野啓司
矢野千恵

犯罪と刑罰および犯罪者の更生について考えてみました。私たちは息子を精神障害者に通り魔殺人された立場ですので、理念や理論としての刑罰論とはなりません。現実に私たちが自ら経験した息子矢野真木人に対する殺人犯罪と、私たちが被害者遺族となってめぐり会うことになった多数の被害者の心の底から振り絞るようにして出された言葉や無念の気持ちを踏まえた、日本の刑罰のあり方や運営の実態に関する私たちの意見です。


1、重度の統合失調症患者に懲役25年

最初に現実から出発するために、私たちの息子矢野真木人を殺害した犯人の野津純一に対する刑罰について考えて見ます。刑事裁判が終結した後で聞いた、犯罪被害者支援活動をしているある弁護士の言葉によれば、「たった一人しか殺害していない初犯の重度の統合失調症の患者に懲役25年が確定することは『異例中の異例』のことだ」そうです。

1)、懲役25年は長すぎる?

精神医療の専門家や精神障害者の社会復帰活動をしている人たちと話をすると、ほとんどの方は私たちが精神障害者に殺された被害者の両親であると知ると口ごもり何も言いません。しかし、たまに「これまでの常識からして、統合失調症の患者に懲役25年は長すぎる。あなた達はそれをおかしいとは思わないのですか。自分たちが過大な要求をしたとは考えないのですか」とか「そもそも総合失調症の患者は治療のためには、心神喪失でなければならない、判決は間違っている」という声が聞こえてきます。

私たちは民事裁判を提訴するに当たって、「刑事裁判が早期に確定すること」を望みました。刑事裁判と民事裁判が同時並行で進行すれば、必ず民事裁判の場の論議が刑事裁判にも伝わり、更には法廷外でも「野津純一を処罰すべきか否か」の議論がわき上がり、精神科医療界や精神障害者の自立支援の専門家達からの、「従来の常識に反してはいけない」という非難が私たちに寄せられると考えました。民事裁判を遂行するに当たっては、そのような「雑音」を予防することが賢明であると考えたのです。

私たちは野津純一に下った「懲役25年」の判決に満足せず「短い」と考えていました。矢野真木人は野津純一の「誰でも良いから人を殺す」という意思で人生を奪われました。その責任に対応する処罰として、野津純一は「一生開放されることがない無期懲役であるか、諸外国のように高度保安病院に生きている間ずっと入院措置をとること」が望ましいと考えていました。しかし、ひとまずの成果として、野津純一に対する懲役25年の刑罰を法的な確定事項にしておかないと、引き続く民事法廷の場の議論で「旧来の専門家の常識の壁」に翻弄される可能性が高く、望ましくないと考えたのです。私たちは裁判戦術として、外野の意見が直接的に刑事法廷と民事法廷の場に影響して相互干渉をする可能性を予防したのです。

2)、野津純一には意思があった

私たちは通り魔殺人犯野津純一に対する懲役25年の判決は論理的に理不尽な判決であるとは考えません。野津純一は中学校1年の時から統合失調症を発症しており、刑事裁判の鑑定書においても「慢性鑑定不能型統合失調症」と明記されています。具体的には、緊張型や妄想型の症状が混在した上で人格荒廃が顕著な患者です。野津純一は軽微な症状の患者ではありません。現在の精神医療水準をもってしても寛解することがほとんど困難な統合失調症の患者です。

心神喪失とは人間としての理非善悪が無くなっており、法的な責任能力が無いという精神の状態です。ところで野津純一は通り魔殺人を実行する理由として、「タバコを吸うことを邪魔されてイライラして殺人を思い立った」と言いました。確かに「タバコを吸うことを邪魔されたくらいで殺人する」などと考えるとはむちゃくちゃです。しかしそのむちゃくちゃを彼は自分で考えたので、心神喪失ではありません。彼は犯行の数日前から根性焼していました。「何故したのか、その目的は何であったか、またその結果がどのようであったか」を明確に記憶して説明しました。タバコの火を顔にあてて根性焼をするのは尋常ではありませんが、彼は心神喪失ではありませんでした。

野津純一は「病院内で(殺人)事件を引き起こせば病院に迷惑がかかるので、病院の迷惑にならない病院外で事件を引き起こした」と犯行場所を選択した経緯を説明しています。それは他人の視点で見れば、飛躍が多いとんでもない言い分であるというのは心神喪失の証拠にはなりません。そもそも、不特定他者に対する殺人は社会規範を逸脱した無茶苦茶です。しかし一般的に考えても現実の世の中の行動で、全ての人が全ての行動を合理的かつ理性的に考えて行動しているのではありません。誰もが、必ずしも合目的とは言えない意思の下に日々の事象に対応しているのが人間としての普通の行動様式です。野津純一は、通り魔殺人のための凶器である包丁を社会の規則に則ってきちんと代金を支払って購入しました。「人を殺す前に窃盗で捕まってしまうと、目的を達せられない」と考えていたのです。これは社会人としての基本的な規範を認識していたという証明になります。

さらに、野津純一は被害者である矢野真木人の状況を冷静に観察していました。「被害者は、抵抗したり、身構えたりは一切していません。私が包丁を持っていたことは気付いていない」と言っています。その上で、「(最大でも)7年ぐらいの刑期」と、自分は精神障害者なので罰せられない、ましてや死刑になどなるはずもないというような考えを持って殺人行為をしました。また「(通り魔殺人は)、被害者は誰でも良いので、(矢野真木人個人を目的とした殺意があったわけではないので)、罪は軽い」と主張しています。論理を主張できる者はそもそも心神喪失ではありません。中学校1年の時から登校拒否をしていた野津純一が持っている認識の多くは社会常識から逸脱しており、彼の論理は非常識ですが、その事は心神喪失の証明ではありません。

これまで日本ではほとんどの場合、統合失調症であると言うだけで心神喪失が認定されてきました。「統合失調症=心神喪失」という公式があったといっても良いほどです。しかしこれは論理的に考えてもおかしいことです。「統合失調症」は精神医学的概念です。他方「心神喪失」は刑法第39条で規定される法律概念です。時代の変遷で社会構造は変化します。また精神医学も日進月歩の進歩を繰り返しています。そもそも異なる論理に基づく規定の解釈が、時代が変わっても同一であり続けることはおかしいのです。

3)、治療のためには心神喪失でなければならない?

大学医学部の准教授でもある精神科医師は「精神鑑定書には『統合失調症の入院治療が必要である』、と書かれており、治療をするためには心神喪失でなければならない」と野津純一に対する懲役25年の判決を批判して言いました。この意見は本当に正しいのでしょうか。

「統合失調症の治療を目的として心神喪失」とする事は、実は「心のありようの実態とは関係なく、医療機関の都合で心神喪失と鑑定すべき」と発言しているに等しいのです。刑法第39条は「心神喪失者の行為は、罰しない」と定めているのであり、医療機関の都合や患者の都合ではありません。あくまでも犯罪者の精神が「心神喪失であるか否か」が問題なのです。「治療のために心神喪失と鑑定すべき」という主張はそもそも違法です。大学医学部の准教授がこのような発言をするところに、日本の精神鑑定が本来の目的から逸脱して実行と運用がなされている可能性が示唆されます。

現実に、野津純一は「精神科病棟がある医療刑務所に収監されて治療を受けている」と伝え聞きます。日本では病院施設がある刑務所は全国に多数配置されており、「無罪でなければ入院治療の機会が与えられない」とは言えません。

日本では、これまで安易に「統合失調症だから心神喪失で無罪」がまかり通ってきた実態があります。これは法治社会として正常な状態でしょうか。日本の社会はそれで健全な状態と機能を維持できるのでしょうか。

4)、高級保養ホテル並の心神喪失者医療観察法施設

矢野真木人が精神障害者に殺害されて以降、私たちは精神障害者の社会復帰に関した専門家会合を傍聴する機会を何回か得ています。そんな中で心神喪失者医療観察法に基づく入院施設のスライドを見ましたが、少数者収容の高級保養ホテル並の施設で、医師、看護師、作業療法士、精神保健福祉士、臨床心理士が多数配置された至れり尽くせりの施設です。

法務省の保護観察所が平成19年9月30日現在でとりまとめた、心神喪失者医療観察法が制定されてから2年余の期間で法律の対象となった犯罪者の種別は、「放火28.9%」「強制わいせつ・強姦等5.7%」「殺人25.0%」「傷害35.0%」でした。対象となった725人の内で、入院決定が416人(56.6%)、通院決定が153人(21.1%)、そして驚くべき事に入院も通院も強制されない「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った触法者」が156人(21.5%)もいました。また約半数とはいえ、措置入院(いわゆる強制入院)の対象となる重大な他害行為を行った触法者は高級保養ホテル並の個室が与えられて精神障害者治療が全額国費で賄われます。もし、このような個室医療を市中の病院で希望するとしたら、支払うべき特別室料などの経費は個人負担では賄いきれないほど厖大なものになるはずです。本人の実態は他人の生命を奪うもしくは危害を与えたという重大犯罪人であるにもかかわらず、法の下に罪に問われず、触法行為がなければ与えられることがない国家の庇護と素晴らしい施設での治療という特別の恩典が心神喪失等の者には与えられるのです。

心神喪失者医療観察法があるので、「統合失調症の患者は積極的に心神喪失等と認定することが立法場の建前である」と主張されます。これは刑法第39条の「心神喪失」である必要はなくて「心神喪失等」でも「不起訴または無罪」が適用される可能性が高いという「心神耗弱」の者を「心神喪失等」に認定するという、既に刑法第39条で規定されていたはずの用語の運用と解釈を拡大する考え方です。

それでも心神喪失者医療観察法に基づいて、心神喪失等と判定された触法者は全て強制的に入院措置をとられて、少なくとも3年の措置入院が行われるのかと考えていました。ところが保護観察所がとりまとめたデータで明らかになった法律運用の実態では約半数(56.6%)の犯罪者しか措置入院処分になっていません。残りの43.4%の者は通院もしくは通院もしなくても良い、いずれにしても市中で自由行動が許される触法者という重大な他害行為を行った犯罪者です。心神喪失等と判定された筈の、人間としての精神を失うほどの状態で他人の生命に重大な侵害行為を犯した人間の約半数は社会の中で行動する自由が即時に与えられるとはどういうことでしょうか。この43.4%の触法者は心神喪失等ではなくて、犯罪者として処罰されるべきです。心神喪失等の人間が市中で行動の自由を許されることはおかしいのです。しかしながら、この日本ではそれでも「心神喪失等であり、不起訴または無罪」です。それが心神喪失者医療観察法に基づく法律運用の実態です。

5)、心神喪失者医療観察法では被害者は救われない

保護観察所の資料によれば、重大な他害行為を行った心神喪失等の者が犯した犯罪の28.9%は放火です。被害者は家屋を失うか大きく損傷されて莫大な損害を被っています。誰にとっても家を一軒新築することは人生でたった一回の大投資です。強制わいせつ・強姦5.7%、そして殺人25.0%ですが、これらは被害者の人生が直接奪われた犯罪です。傷害は35.0%ですが重大な他害行為の傷害ですから、軽微な人的傷害では無く一生継続する後遺障害が残る程の犯罪でしょう。被害者は家の再建であれ、人命の損失であれ、人体の損傷であれ、財産の損失、莫大な医療費の負担、失った職業機会など経済的な損失だけでも莫大です。その上に被害にあった誰もが人生の経路を自らの意思や選択でなくて心神喪失等の人間による犯罪によって大きくねじ曲げられるのです。

それでもこれらの犯罪では犯人が心神喪失等に認定されて刑法第39条第1項の規定が適用されて「不起訴または無罪」なのです。不起訴または無罪の人には責任を問えません。それでも民事裁判を起こして、損害賠償を求めることは可能ですが、裁判費用は自己負担です。更に犯人は犯罪者ですが、「不起訴または無罪」である場合には警察や検察などの公的機関が調査した犯人の情報は「犯した行為は重大犯罪であるにもかかわらず、法的には犯罪者では無い個人情報」となるために、直接関係人である被害者にすら開示されません。被害者は、そもそもどうして自分が被害者や被害者遺族になったのかすら、まるで情報が無い状況のまま放置されます。

その被害者を横目に見て、加害者は高級保養ホテル並の施設で至れり尽くせりの治療を受けるか、そもそも強制入院もさせられずに自由な行動が許されるのです。他方被害者は人生を失い、死んでも生き残ることができても莫大な医療費を自己負担させられます。失職や働き手を失い、生活苦にあえぐ被害者も多いのです。これが心神喪失者医療観察法が実行されている日本の実態です。

6)、心神喪失者等はほとんど寛解しない

心神喪失者医療観察法では3年+2年で最大5年間の強制入院措置が可能です。それでは、この期間に心神喪失等と判断された犯罪者は確実に心神喪失等では無くなるほどに治療効果が期待できるのでしょうか。そもそも放火や、強制わいせつや強姦、殺人及び傷害を犯す心神喪失等の者に対してそれ程容易に治療効果を期待する事ができるのでしょうか。大いに疑問です。

統合失調症やうつなどの気分(感情)障害等の犯罪者の場合には、寛解状態にまでは至らないまでも、症状を軽減することは可能です。その意味では全く効果が期待できないわけではありません。しかし、反社会性人格障害などの人格障害者の場合はどうなるのでしょうか。そもそも人格障害には人間として持っている個性や基本的な考え方の要素があり、精神医療の問題として治療することは極めて困難であるか、またはできないのです。人格障害者は個人としての行動が社会規範から著しく逸脱して他人に迷惑をかける程であるのに、本人が自らそれを修正しない、もしくはできないという状態です。人格障害者を更生させるには、社会的強制が必要です。人格障害者で犯罪(触法行為)を犯した者にはアメの要素だけではなく、ムチという強制の要素が無ければ、更生は期待できないでしょう。

現実問題として、高級保養ホテル並の個室を無料で毎日利用できる環境は、実生活の中でもなかなか困難です。心神喪失等の者の中には快適な環境に戻ることを考えて、再度の犯罪行為の動機になるのではないかと危惧される要素があります。その場合の被害は、放火・婦女暴行・強制わいせつ・殺人と後遺症が残るほどの重大な傷害です。


2、悲嘆 (深すぎる悲しみと絶望)

1)、殺人犯を許しなさい

私たち夫婦は、矢野真木人が殺された1週間後に殺害された現場を確認に行って、その場所で近隣に住んでいて精神障害者の自立支援活動をしていると自称する人に、「あなたたちの息子はもう死んだのです。既に人権はありません。犯人は未だ生きています。犯人には人権があります。生きている者の人権を尊重しなさい。生きて人権を持っている精神障害者の自立のためには、すんでしまったことは忘れなさい・・」と言われました。

「死んでしまった矢野真木人の人権は消滅したが、殺人者は生きているので、人権がある。生きている殺人者と、その人間に殺された矢野真木人では、人権の重さは比較にならない」とはどういうことでしょうか。おかしいではありませんか。我が子が殺された直後で悲しんでいる両親に、そのような言葉をなげかけることが当然とされる論理がこの日本にあります。この言葉を投げかけた人は「自分は人道主義者である」と自信を持って話しかけていました。このため相手が持つ余りの自信に圧倒されて、私たちはその場では何も反論できませんでした。このような論理が通用する世界があるとは、私たちには考えも及ばないことでした。理不尽な通り魔殺人で殺されて、被害者の親がどうして殺人者に遠慮しなければならないのでしょうか。どうして「あなたたちの息子が殺されたことはしょうがないことです。すんだことです。早く忘れなさい」と言われなければならないのでしょうか。

生きている人間には人権があります。それの人権を無理矢理取り上げる行為は人権侵害です。殺人こそ、最大の人権侵害です。そして殺人されるとは、人生被害を受けたのです。

平成19年3月に精神障害者の自立支援に関する専門家会合を傍聴しました。一人の専門家が研究発表の中で「精神障害者による殺人は大きな問題ではありません。その理由は殺害される人のほとんどは精神障害者の家族であり、他人に対する危害の発生件数はごく少数なので無視して良いほどです」と発言しました。このことは「精神障害者の家族は殺されても仕方がない、文句を言えない。誰が殺されても問題ではない」とこの専門家が公式の場で発表したに等しいのです。もっと一般化すれば「殺人者の家族には人権がない、殺されても仕方がない」、また「犯罪者の家族には人権がない、殺されても文句は言えない」と言っているに等しいのです。これを人権擁護を職としている一人の専門家が多くの聴衆の前で堂々と発言しました。そして会場に集っていた専門家の誰からも異論が出ませんでした。日本では人権擁護の専門家を自称し、それを職業とする人たちが持つ常識、またその専門集団の都合などが人権理念と絡み合って、問題を複雑にしている要素があると指摘できるでしょう。

最大の人権侵害である殺人は、「被害者の人権問題であり、また加害者の家族が生きる権利の問題」です。被害者は殺されてしまうと「もうあなたには人権は無い。すんだことです」と言われ、加害者の家族は「あなたが殺されても社会問題にはならない」と言われています。これはどちらもおかしいのです。私たちは被害者として問題提起しますが、単純明快に「加害者は全て悪い」とも言えません。もっと根本に立ち返って、全ての人が享受する人権を考えてみる必要があります。

2)、精神障害者の既得権侵害?

刑法第39条には 第1項 心神喪失者の行為は罰しない
第2項 心神耗弱者の行為は罪を減刑する
と、規定されています。そしてこの日本では、これまで精神障害者は自動的に「心神喪失者」であるか、もしくは「心神耗弱者」のいずれかである、という誤解がまかり通ってきました。

私たちが「精神障害者の社会復帰訓練中の殺人犯罪における病院の責任を裁判で争っている」と説明すると、多くの専門家は「精神障害者の社会復帰を妨害している」と理解するようです。また精神障害者の中には自分たちが持っている「不逮捕特権」が侵害されていると理解する人もいるようです。

私たちは「精神障害者は危険だから病院に一生涯閉じこめなさい」と発言したことはありません。また「精神障害者の社会復帰訓練はやってはいけない」と発言したこともありません。むしろ、私たちは「精神障害者の殆どは、適切な治療を享受することができれば、現段階の医療技術でも健常者と等しい社会生活を回復することができる」と信じています。

私たちの息子を殺した犯人の野津純一の場合は中学1年の3学期から発症して、その後の治療経過が適切でなくて、殺人事件を引き起こすまでに20年以上の長期間にわたる精神障害で、精神障害が回復して寛解の状態まで達することは殆ど期待できません。このように寛解することが極めて困難なごく少数の重症患者と、軽度の精神障害で適切な治療と投薬で健常な精神状態を維持できる大多数の患者は同一ではありません。野津純一のような重度の精神障害者には「本人に安心して長期入院させることが可能になる医療制度」が必要です。また他方では、「軽度な精神障害者の社会復帰を促進する各種の医療や福祉サービスを充実させる改善など」が必要になります。

犯人の野津純一は重度の統合失調症の患者です。20年以上の長きに亘り、妄想型の症状と緊張型の症状を併せ持つ統合失調症でした。そして現在では病気のために人格崩壊が進んで、破瓜型の症状も示し、慢性鑑定不能型統合失調症です。その上に、反社会性人格障害を持っています。反社会性人格障害というのは、他人が困ったり苦しんでいる姿を見て、楽しみや喜びや快感を覚えて、他人に対して意図的な悪さを繰り返す心を持つような、人格の障害です。彼は十代の後半で自宅と両隣の三軒の火災の原因者です。二十代の半ばには大学病院に包丁を持ち込んで大騒ぎをしています。三十代になって繁華街で他人に殴りかかり、父親が賠償金を支払うだけの事をしました。しかし、これまで一回も罰せられませんでした。また「自宅では家庭内暴力がある」とこれまでに通院や入院した医療機関のカルテには長年にわたり頻繁に記載されています。隣近所の家に些細なことで怒鳴り込んだりしていました。その彼は、「精神障害者の自分は罪を問われない」と誤解して、最後には殺人事件を引き起こしました。

刑法39条が制定された100年前には、医療技術が今ほど進歩しておりませんでしたので、一度精神障害になれば、人間としての健全な精神生活を再び復活して維持することは殆ど期待できませんでした。そのような状況下では「心神喪失」と判断された人間は、ほぼ永遠に心神喪失の状態にあり続けた、と考えられます。ところが現在では優れた向精神病薬などが開発されており、重度の精神障害者でも心神喪失の状態であり続けることはほとんどありません。薬を投与したり、処方を工夫すれば、精神障害は寛解しないまでも、人間的な精神活動は維持回復が可能です。刑法39条は精神医学の進歩に合った運用の変更や修正が行われてないと指摘できるところです。

刑法39条が罪を犯した全ての精神障害者に適用されるとなると、それは例え軽微な精神障害でも精神障害の症状があれば法的な権利を喪失することにつながります。精神障害の症状を理由にして法的責任を逃れたり、軽減することが許される人間とは安心して契約行為を行えません。それでは自立しようとする前向きな精神を持った精神障害履歴を持つ人間が、本来持つべき社会的な権利が否定され、社会の中で自立することを制限されていると同じ事です。

精神障害犯罪者の中には「罪を逃れられることで特別優遇された権利を持っているかのような誤解」を持つ方がいます。しかし、法的義務が免除もしくは軽減されることは、大多数の罪を犯さない善良な精神障害履歴を持つ人間にとっては、大きな権利の喪失です。また精神障害を治療される立場から考えても、法的権利が十分に保障されていないことは実は、精神医療で患者の側に立った治療を要求できない事になります。論理的には、患者としても権利が十分に保障されません。日本では早期に社会復帰可能な患者を不必要に長期間入院させるという弊害も指摘されます。このように、患者が適切な治療を受けて早期に社会復帰する権利が阻害されているとも言えるのです。

精神障害者が健常者として社会復帰すると、当然のこととして刑法39条による刑罰の免責規定の対象外となるはずです。そうでなければ、精神障害が寛解して社会復帰したとは言えません。このように、精神障害者の社会復帰が促進されるならば、刑法39条による免責規定は不要となります。「刑法39条によって無罪となる方が得だ」という間違った認識を精神障害者が持ち、それにすがる心が生じるとしたら、それは望ましいことではありません。

矢野真木人を殺した犯人野津純一は自分が精神障害者であることを認識していました。また精神障害者の場合、ほとんどが罪に問われないことも知っていました。このため殺人したけれど、「自分は仮に罪に問われても最大でも7年ぐらいの懲役刑で、ちょっと別荘に行くぐらい」に考えていました。また矢野真木人を殺したのは偶々の巡り合わせで、本人に対する殺意があったわけではないので、傷害致死で罪は軽いと考えていました。自分自身が死刑になる可能性はまるで予想せず、仮に罪に問われても軽い刑だと考えて、殺人を犯しました。この論理では、通り魔殺人の方が罪が軽いことになりますが、犯人には明確な殺意が認定されて、懲役25年の判決が下されました。非常に残念なことですが、刑法第39条は精神障害者に犯罪行為を誘発している要素があります。これは法治国家として見逃すことができない、法律秩序の欠陥です。

3)、殺人されるとは人生被害を受けること

殺人と他の人権侵害行為を同列に論じないで下さい。殺人を他の人権侵害より程度の軽い人権侵害であるかのように議論をしないで下さい。生きて人権侵害を受けた人間は、大声を出して、被害がどれだけ悲惨であるかを主張できます。生きる者の権利として正当な行為です。しかし、だからといって、発言できない死んだ者の人権侵害が小さくなるのではありません。殺人は最大の人権侵害です。殺人にまさる人権侵害はありません。

「殺人は最大の人権侵害です」、また「死んだ者にも人権がある」、更に「殺されることは人生被害である」と認識する事は、新たな殺人被害を予防することです。矢野真木人は死ぬ1秒前でも「自分がこれから死ぬ」とは想像もつきませんでした。誰でもそうです。自分が死ぬことなど想像もつかないのが生きているという事です。誰も「自分は、死にたくはない」のです。「新たな殺人被害を予防すること」は人権侵害ではありません。殺人という最大の人権侵害を防ぐには、予防しかありません。「それは、人権に対する不信と予断に基づく不必要な制限だ、人間の善を信用していない」と主張するのは、殺人という最大の人権侵害の発生を容認する行為です。死んでしまえば生きかえることはできません。これは厳しい現実です。死人に口なし、死人に権利無しでは人権は守れません。

矢野真木人は28才で殺害されました。日本人の平均余命を考えれば、50年余の時間を奪われたのです。彼は生きて結婚して、子供をもうけて楽しい家庭を築く夢を奪われました。彼は仕事を思う存分したかった。彼は世界に羽ばたきたかった。その全てを奪われました。これは人生被害のです。あまりにも残念で、また無惨です。


3、犯罪と処罰

家系と事業の大切な後継者であり、28年をかけてやっと育て上げ、これから社会で羽ばたく姿を見ることを期待していた息子が通り魔殺人されて、私たちは400年以上続いた家系の存続を既に諦めています。私たちは犯罪者の処罰の問題に眼を向けざるを得なくなりました。気にしない訳にはいかないのです。

1)、厳罰であれば良いのか?

被害者の自助グループに参加すると「罪が軽すぎる」という話題に集中します。特に家族が殺人された遺族は「犯人は過去の事件で厳罰に処せられていたら、私の家族は殺されることはなかったはずだ」という論点に終結します。多くの被害者遺族は「なぜ、厳罰が不可能なのか?」また「どうしてあのような危険な人物を放置するのか」と言って悔し涙を流しています。

それでは処罰は厳しければ厳しい程良いのでしょうか。日本の刑務所では制度上刑期の3分の1を経過すれば仮釈放が許されるそうです。それでも、多くの場合には仮釈放されるのは3分の2の期間が過ぎてからのようです。受刑者の多くは一日でも早く仮釈放されることを願って、刑務所で良い評価を得られるように日々の努力をすると言われます。刑務所としても、刑期を短縮した保釈制度がある方が、受刑者の統制をとりやすいと言われています。保釈制度とは、刑務所の都合のための制度なのでしょうか。またせっかく裁判で決まっている刑期を不必要に短くする、刑罰を台無しにする悪しき慣例なのでしょうか。

日本の刑務所には受刑者の収容分類級があるとされます。A級は、犯罪傾向が進んでいない者。B級は、犯罪傾向が進んでいる者。そして刑期8年を境にして、これより長い者はL級に区分されるようです。それでは、A級の短期刑受刑者でしかも初犯である者の全てが厳罰の対象でなければならないのでしょうか。この中には再犯を犯して、再度受刑者になる者が必ずいるはずです。しかし、その多くは、一回の受刑に懲りて、二度と再び犯罪行為をしないように行動を慎む者であるはずです。そうすると、このような将来に期待できる受刑者まで、ともかく犯罪を犯したという過去のために刑務所の中では人権が否定されて、苦役を厳しく科されて、早期の仮釈放をさせてはならないのでしょうか。どうもそうではないように思われます。

あるA級者を収容している刑務所では、刑務作業の主な製品は「縁台、すのこ、安全靴、農機具部品加工、タオル、鯉のぼり」等です。また受刑中の職業訓練の科目は「理容科、情報処理科、数値制御機械科、ボイラー運転科、電気溶接科、クレーン運転科、フォークリフト運転科、玉掛技能科、ガス溶接科」等で公的資格を取得させており、外部委託作業として造船所でも刑務所構外泊まり込み作業が行われているそうです。一見して分かるとおり、刑務作業内容は1980年代までの日本の主要産業である第二次産業の工場労働科目が中心です。産業構造が第三次産業が中心となっている現在の雇用環境で、受刑者が出所後に就職促進するための技量を得るとするには適しているとは言えません。また周辺アジア諸国で廉価な労働が供給されている今日では、経歴に前科がつく受刑者が国際競争に晒されている機械工業等で正規の雇用の機会を得ることには困難が伴うため、もう少し、サービス業の要素や、社会福祉厚生活動やリハビリテーション関連の人材養成等のアイデアや個人で働く要素等を取り入れても良いのではないかとも思われます。

それでも、刑務所内で受刑中に公的資格を取得できるという制度は大いに活用されるべきでしょう。刑務所における教育や訓練にも市中の各種の専門学校や技能訓練校のノウハウや科目を取り入れて、多様な人材育成の機会を与えることが望まれるでしょう。A級刑務所を人材再養成のための職業訓練の場として運営するのは望ましいのではないでしょうか。現在の日本は人口が減少傾向ですが、刑務所の収監期間を刑罰を課すための懲罰期間と考えるよりは、未来の社会づくりのための有意な人材養成の場ととらえることも必要であると考えられるでしょう。

刑務所内の労働を強制労働と捉えるのは、前世紀の遺物であるのかも知れません。また刑務所内の教育を、悪いことをした人の、矯正と更生だけの視点で捉えるのも人間性の育成の視点で見れば再検討の必要があるようにも思われます。確かに、刑務所に収容されるのは犯罪を犯した人たちです。しかしその中にも、人物や犯した犯罪のプロファイリングを慎重に行うことによって、再起のチャンスが与えられて良い人たちを沢山発見することも可能でしょう。その人達を社会に貢献する人材という視点で能力開発を促進する事も考えられて良いと思われます。社会復帰訓練で優良な成績をのこし、その上で公的資格を取得する者には刑期の3分の1以上で保釈できるという制度を積極的に活用して良いのではないでしょうか。初犯で悪質でなく、人格障害を持たない軽微な罪の者には再起のチャンスを積極的に与えて良いのではないでしょうか。刑務所の機能が自由剥奪と強制労働だけでは、これからの社会に貢献する刑務所にはならないように思われます。

2)、悪の封じ込め

ところでA級受刑者の中にも、再犯して再度収監される悪質者は必ず存在するはずです。現実問題として統計的事実として初犯者の約2割程度は再び犯罪者として刑務所に収容されているようです。初犯の短期受刑者であるとしても、刑法第39条が適用されて「心神耗弱」を理由として、殺人や放火や婦女暴行犯であるにもかかわらず刑期が大幅に短縮されたという短期刑の重大犯罪者が収容されている可能性も極めて高い確率で存在している筈です。これらの中には、再犯の可能性が極めて高い人格に問題を抱えた人間がいることは確かです。

受刑者のほとんどは、刑務所内で自由を剥奪された経験だけでも「再度犯罪は犯さない」と心を引き締めるだけの理由になります。このような受刑者は社会復帰に重点を置いた人材開発が望まれます。しかし、再犯の可能性が高い人物に関しては、心理や犯行の態様などに関してプロファイリングなどの技術を使って、犯罪に手を染めることは本人の為にならないと、強く教える必要があることは確かでしょう。犯罪傾向の高い素質が見られる受刑者にも再犯をさせないことも重要な課題です。

3)、残念無念

家族が殺害された犯罪被害者になって、同じ立場の被害者と話し合うと、多くの遺族は「犯人が、前回の犯罪できちんと処罰されていたら、あの人は殺されることは無かった」という思いで歯ぎしりをしながら深く悲しんでいる事実に接します。

私たちの息子矢野真木人の場合は、犯人野津純一は三軒が焼失する火災を引き起こし、大学病院に刃物を持ち込んで大騒ぎを起こし、繁華街で通行人に殴りかかり、家庭内暴力などを引き起こしていましたが、これまで一度も処罰されませんでした。矢野真木人を殺した後でも、「殺人して処罰されても軽いものだ」と予想していました。私たちは「この殺人者は過去にきちんと犯した犯罪に見合う処罰を受けるべきであった。違法行為を行うたびに加重的な懲罰を与えておくべきであった」と考えます。過去の悪行をきちんと処罰されていたら、矢野真木人を殺害するまで行動が拡大する事は無かったでしょう。犯した犯罪に見合う処罰が励行されることが無意味な殺人事件の再発を防ぐことになると確信します。

多くの粗暴殺人犯には過去の前歴があります。中には過去に非情な殺人を犯していたにもかかわらず、一人殺しただけでは死刑にはならないとして、仮に無期懲役の判決であったとしても20年余程度の服役で釈放されて、再度の殺人事件を引き起こす例もあります。なぜ、粗暴な殺人犯を犯した者が体力と精力が旺盛な30代から60代の年代で再び殺人する自由が与えられるのでしょうか。殺人者が刑期を全うしたり、保釈で刑期が短縮されて釈放されると、被害者遺族は殺人者に再び命を狙われるのではないかと恐れおののきます。これほど残酷なことはありません。

被害者遺族になってみると、「ああ、あの事件もこの事件も抑制可能であった、残念無念」と落胆します。その上で、犯人が無期懲役になっても、早ければ10年過ぎればまた多くの者が20年もすれば、仮釈放されるという事実に打ちのめされます。有期刑の場合にはもっと短い期間で釈放されます。そして犯人が釈放されて、被害者遺族はお礼参りをされる可能性に今度はおびえ続けます。このような残酷なことが許されて良いのでしょうか。殺された者は人生被害者であるのに「殺された後では、人権はありません。犯人は生きており、人権があります」と言われます。そして遺族は若くして釈放される犯人に命をつけねらわれる可能性におびえて生きてゆかなければなりません。被害者が再び生命の危機に怯え続けるという人権侵害は、重大犯罪を引き起こした経歴がある人間の人権を擁護する代償なのです。どうして、殺人者の人権擁護を理由として、被害者が生命の危険に怯え続けなければならないのでしょうか。

4)、懲役100年の実現を

被害者遺族になると、常に死刑の問題に直面します。刑事裁判で「犯人に死刑を要求するか否か」が、最初の乗り越えなければならない課題になります。これは「仮に自分が死刑を要求した結果、犯人に死刑が執行されたとして、その時に自分自身の精神が正常でいられるのか否か?」、という自問でもあるのです。自分は死刑執行現場を直接見ないとしても、「死刑が執行された」と聞けば、犯人の死体がロープにぶら下がっている姿が瞼の裏で見えるでしょう。それでは死刑を要求しなければどうなるか。犯人はほんの10年もすれば、いつでも釈放される可能性があります。今度は自分の命がつけねらわれる可能性があります。そんな恐怖はごめんであれば、終身刑の制度が無い日本では、「犯人に死刑を!」と言い続けなければなりません。それでも、犯人には無期懲役以下の判決が下され、実際の拘束期間は10年程度の「短期」に終わる可能性があります。日本では深酒を飲んでいても、覚醒剤を使用していても、はたまた逮捕後に意図的に変な発言という詐病をしても、刑法第39条が適用されて、犯人の刑罰が大幅に減刑される可能性が高いのです。釈放された犯人に「お前が、死刑を要求したから、俺は刑務所に何年も入れられた」と逆恨みをされる可能性も高いのです。

日本で終身刑が無い理由として、刑務所内における終身刑受刑者の処遇の難しさが上げられます。「終身刑の者は、釈放される可能性が全くない為に、刑務官の指示に従わず刑務所内の秩序が乱れる」と言うのです。「無期懲役以下であれば保釈の可能性があるために、保釈評価をする刑務官に容易に従うようになる」と言われています。それでは日本国の市民である被害者は国家機関である刑務所の都合のために、人生被害を余儀なくされなければならないのでしょうか。これは論理がおかしいのです。一般市民の生命を最大限守ることを視点にして、制度は作られなければなりません。

私たちは、日本でどうして懲役何百年がないのかと思います。日本は制度上、懲役刑に上限を設けなければならないのでしたら、それでは、なぜ懲役刑の最長が30年なのでしょうか。制度上では刑期の3分の1の期間を服役すれば刑務所長の権限で釈放を許されますので、懲役30年とは10年以上30年までの不定期刑と同じです。凶悪犯に対しては短すぎます。粗暴な殺人犯にも刑期を短縮して保釈される機会と便益が許されるとしても、再度殺人を犯すだけの体力がある間は釈放してはなりません。20代から30代で殺人を犯した者を、30代から50代で釈放すれば、次の生命犯罪の実行者になる可能性が極めて高いのです。殺人犯罪者は人生犯罪者です。たとえ被害者が一人であっても奪った者の人生に見合う、加害者の人生を犠牲にさせるのは当然の責任のとらせ方です。

私たちは、「懲役刑は最長100年まで延長される必要がある」と考えます。懲役100年が判決されるということは、制度の運営上は実質33年以上100年までの不定期刑です。これであれば、例え粗暴殺人犯人であっても、老後に保釈されて自由を得て刑務所の外で悠々自適の生涯を終えることも可能でしょう。犯人が釈放されても、被害者遺族を逆恨みして襲うことがない条件、また年齢的にも不特定多数の者を被害者とする可能性がなくなる年齢までは拘束できる制度を日本が持つことが望まれます。

私たちは死刑廃止論者ではありません。犯罪者の中には死刑に該当する人間もいると考えています。しかし他方では、殺害された人間が2人以上であれば死刑、そうでなければ実質的に短期刑であるという現実は、無作為のままで次の殺人被害の発生を待っているようなものです。このような悲しい現実に変革を求めたいのです。

5)、累犯者と重大犯罪者は加重的な厳罰を

その者が繰り返して犯罪を犯す場合には、軽微な犯罪でも加重的に刑罰を重くして釈放される機会が制限されることが望ましいでしょう。更には、他人の生命を安易に奪うような犯罪者や婦女暴行犯のような場合には、死刑や終身刑に至らないまでも、他人に危害を与える可能性が高い年齢や体力を持っている間は自由が剥奪されることが、犯した罪に相当する最低限の刑罰です。他人に人生被害を与えた者は、死刑という選択以外にも、自らの人生の全てを持って、生きながら償うという刑罰があっても良いのではないでしょうか。他人の人生を奪う行為の代償はそれだけ重いのです。

矢野真木人の人生を奪った野津純一は、重度の統合失調症の患者です。その上、反社会性人格障害を持っています。ところで、統合失調症には脳科学の進歩により近年抗精神病薬が開発されており、ある日抜本的な薬が開発されてほぼ完全に寛解する医療水準が達成される可能性があります。現在彼は精神科病棟がある医療刑務所で治療を受けています。野津純一は現在の精神医療水準では統合失調症が寛解して治癒することはほとんど期待できません。しかし、服役期間中に彼の病状に適合する薬が開発されて統合失調症が完全に治癒してしまう可能性はあるのです。仮にその時があったとして、野津純一が刑期の3分の1を経過した時点で保釈されることがあるとしたら、それは私たちのとっては悪夢です。彼の反社会性人格障害という人格障害は医療の問題としては治癒できないのです。それは誰にでもある人間としての人格と個性であるからです。野津純一に「精神障害だった時の自分に、厳罰を求めたのはけしからん」と言って逆恨みされたら、私たちは逃げまどわなければならなくなります。野津純一は私たちを殺すことができると見込まれます。なぜなら、矢野真木人を殺した前歴があるからです。私たちは自己防衛のためであれ、野津純一を傷つけることはできません。そんな悪夢はごめんです。

私たちは犯罪者には誰でも闇雲に厳罰を課すのは反対です。時代の流れで、厳罰化の方向にあると言って、犯罪者は誰でも長期刑で人生を棒に振らせても良いのではありません。多くの犯罪者には、場合によっては、積極的に再起のチャンスが与えられても良い筈です。そのような機会を積極的に与える刑務所運営が望まれます。例え相手は犯罪者であるとしても、簡単に人生を棒に振らせて良いものではありません。

しかし、他方では累犯者や悪質な犯罪者の場合には、極めて長期の有期刑を導入するなどして、犯人に自らの人生を持って償わせることも、殺人で他人の人生を奪ったり、放火や婦女暴行で他人の人生を混乱させた犯罪に見合う処遇です。現在の日本に無作為のままで次の犯罪被害者の発生を待つかの如き現実があることが、残念でなりません。そんなことで健全に社会生活を送っている人間の生命や人生を代償としてはいけません。犯罪被害者の多くは、「過去の犯罪で犯人がきちんと処罰されていたら、あの人は命を失うことがなかった」と悔し涙を流しています。

このような悲劇は繰り返されてはなりません。

このような悲劇は放置されてはなりません。


上に戻る