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実名か匿名報道か?(精神障害者犯罪の場合)


平成19年8月28日
矢野啓司
矢野千恵

私たちは地元のローカルTV局の記者から、下記の質問を受けました。

  同系列のTV各局が全国共同で行っているプロジェクトで、若い記者が中心で「事件報道」について知識を深めると同時に、様々な事件のケーススタディ集、事例集の作成を行いる課題の一つが「実名・匿名報道」問題です。 ご存知の通り、今の報道は実名を原則としつつも匿名となるケースがあります。精神障害者など責任能力が問われる場合、少年犯罪の場合、性犯罪の被害者、など様々です。真木人さんの事件も犯人の野津純一が精神障害者ということから、当初殺人犯にも関わらず匿名で報道されることになりました。真木人さんの事件をめぐる、実名・匿名報道の経緯と問題。矢野さんはこれまで「刑法39条の壁」、「精神障害者の減刑問題」等について広く訴えてこられました。そんな矢野さんに精神障害者の匿名問題について、以下の諸点で、お考えを伺えないかと思った次第です。
  1. 精神障害者による犯罪の匿名報道について
  2. 真木人さんの事件でのマスコミの実名・匿名判断について
  3. 事件報道(主に実名・匿名をめぐる)に対するマスコミへの要望
  4. (事件発生当初から)実名報道を望んだか
  5. 精神障害者「野津純一」という名前が報道される意味について

これらの質問を受けた私たちの視点を、以下の通り記述します。以下の意見はあくまでも精神障害者の重大犯罪(殺人・放火・婦女暴行など)に関した私見です。精神障害者の犯罪でも軽微な犯罪や、質問書に記載されている「少年犯罪の場合」に言及したものではありません。なお「性犯罪の被害者」の場合は、本人が希望する場合を除き、被害者の実名を報道する理由は無いと考えます。



1、精神障害者による犯罪の匿名報道について

「精神障害者による犯罪の匿名報道」の課題を解く鍵は、「法治国家の中で、精神障害者の人権をどのように守るのが適切であるか」という問題につきると考えます。精神障害者の匿名報道の問題は、精神障害者の人権を尊重するにはどうすることが最も望ましいかという視点で考えるべき事です。実名でないところに、本当の意味での人権尊重の姿勢があるか否かを考えてみる必要があります。日本でルール化された人権尊重という行動様式に果たして国際社会の常識となっている人権尊重の姿勢が活かされているか等についても考え直してみる必要性があるでしょう。

1) 国際法律家委員会レポート

日本の精神障害者が置かれている人権問題は、1980年代初頭の宇都宮病院事件をきっかけとして国連の非政府機関である国際法律家委員会(ICJ)および国際医療職専門委員会(ICHP)が行った合同調査団の報告書の提言に基づいて、国内の法律および制令などが改正されて実現されてきているという経過があります。さて、この国際法律家委員会レポート「精神障害者の人権」(明石書房、1996年)の「第Ⅲ章 現代産業化社会における包括的精神保健サービス」の(一)司法上の問題(P.64)には「ひとりの人間を、非自発的患者として精神病院に収容させるかどうかの決定を下し得るためには、とりわけ鑑定が行われなければならない。つまり、患者保護の必要性、自傷の恐れ、他害のおそれ、患者の自己保護能力の鑑定である」と記述されています。

ここには精神障害者の人権を守りつつ患者を強制的に病院に収容する際に、鑑定するべき必要事項が指摘されているのです。それらは「患者保護の必要性、自傷の恐れ、他害のおそれ、患者の自己保護能力」であり、法律家が精神障害者の人権擁護を議論する際には常に考慮するべき要素です。この国際法律家委員会が指摘する項目は「精神障害者による犯罪の匿名報道」の課題を検討する際にも基本的な要件になると指摘します。

2) 精神障害者の肖像権と人権

日本では精神障害者の匿名報道の問題は個人の肖像権の問題として、精神障害者であることが不名誉なことを当然のこととして、実名や写真などの情報を秘匿して匿名としているのではないかと考えます。すなわち、精神障害であることが不名誉であるという大前提があり、その概念に疑問を差し挟むことが間違いであるという認識があるように思われます。そこには、精神障害から寛解するという、人権の回復という可能性に対する視点が乏しいように思われます。精神障害の治癒を促進することこそ、人権回復の大前提です。

患者の名前や情報を秘匿すれば、患者の人権が守られているとする認識であれば、患者の治療が促進しているか否か、また患者が一般社会の常識で人権が守られる状況で取り扱われているか否かについては関心がないことになります。それは社会が個々の患者の人権が守られているか否かについて知る情報も無いことです。これでは精神障害者とは無名性の中に埋没した、ある意味では、家畜小屋の中の家畜のような個性が認められない存在という取り扱いです。そのような環境からは個性ある人間としての人権回復は望むことが困難となります。

ここに、宇都宮病院事件など精神科病院の中で隠された精神障害者への人権侵害に社会の批判の眼が向かないことになった背景があると指摘します。単純に名前を秘匿することは精神障害者に人権の基本である肖像権を認めないことにもつながり、人権侵害を助長する行為です。その上、人権侵害をしている事実に気がつかずに、自分自身は人権擁護者であると誤解したままで安心するという、「おめでたい」状況が発生するという矛盾に気がつかないことにもなると指摘します。

日本で「精神障害者の人権を守ることはすなわち匿名報道」というような安易な対応があるように考えられます。このことは精神障害者の人権を守ることから逸脱して、精神障害者に関係する職能集団のご都合主義を守るために、精神障害者の人権をないがしろにしてきた要因でもあったと指摘できます。

3) 刑法39条の心神喪失

日本で精神障害者の法的問題を検討する際に重要な視点は、その精神障害者が刑法39条に規定された心神喪失および心神耗弱に該当するか否かの問題です。これまで精神障害者であれば、本人に明確な意思や故意がある無しにかかわらず、自動的に心神耗弱ないし心神喪失が認定されてきた経緯があります。はなはだしきは「精神障害者は心神喪失でなければならない」と発言する精神医療専門家も存在します。この心神喪失の状態とは、法的責任が全く問われない精神的な状況です。すなわち人間としての権利が全て否定された状況です。「精神障害者であれば心神喪失でなければならない」とは、医師が安易に患者の人権を無視するという、日本の精神医学会の人権に対する体質が表に出た発言でしょう。

このように、精神障害者であれば、直ちに法的権利が否定されるのであれば、精神障害者の社会復帰や社会参加はそもそもできないことになります。精神障害者であれば自動的に匿名報道という対応を継続することは、精神障害者であれば自動的に肖像権という法的権利すら無いという社会的な約束事項となっている要素があると指摘できます。個人名という肖像権が否定されることは、法的権利が認められないことでもあるのです。これは本質的に人権を守る報道姿勢ではなくて、人権を否定する事に至ることもある、マスコミ界の慣例であるとも指摘できます。

4) 心神耗弱者には法的責任能力がある

患者が心神耗弱である場合には、刑期は短縮されても刑罰という法的責任は課されますので、軽減されるとしても法的責任を持った人間と認定されることになります。法的責任を持つ人間の場合には、責任の所在を明確にするために氏名が公表されることは当然のことです。氏名を公表しないことは精神障害をもった患者の人権を守る行為ではなく、そもそも、人権否定であるとの認識を持つ必要があります。精神障害者の中で、心神喪失の状態である人間はごく一部でしかありません。精神障害者の殆どは法的責任能力があります。そのうちで、法的責任能力が軽減される心神耗弱の状態である者は少数です。

5) 殺しのライセンスという誤解

故宅間守死刑囚は、大坂池田小学校事件を起こした直後に「自分は、精神障害者なので、人を殺しても処罰されない」というような発言をしておりました。このような「精神障害者=心神喪失=殺しのライセンス」という単純で安易な誤解を精神科治療施設に通院や入院をした経験がある人間に持たせるのは、社会として精神障害者を十全に保護していることにはなりません。宅間守は結果として多数の小学生児童などを殺傷し、死刑となりました。このことは社会が宅間守をいたずらに殺人犯人になるまで放置して守りきれなかったとも言えます。その宅間守を守れなかった最大の原因は、本人に「殺しのライセンスがあるという誤解」を与えたところにあります。そこには日本社会が安易に「精神障害者に心神喪失」を認定していたという事実的背景があると指摘できます。精神障害者と言えども、意思が破壊されることは殆どありません。このため社会人としての責任を求めることが、法的にも精神障害者を守ることでもあるのです。

6) 患者の保護

精神障害者の人権を守るには、国際法律家委員会が指摘する「患者保護の必要性、自傷の恐れ、他害のおそれ、患者の自己保護能力」を厳密に調査した上で、その患者が真に心神喪失状態にあるか否かを鑑定する必要があります。患者に個人としての尊厳を持たせることは、患者の自己保護能力を高めることでもあります。そのことは匿名性の中で責任を問われないことではなく、氏名を公表して、責任の自覚を求める事でもあります。患者にとって、自傷のおそれは自分自身の生存権を自ら失う事になります。更に、他害のおそれは、他人の生命という生存権を侵害する行為を助長することになり、結果として患者の保護が行われずに名誉も守られないことになります。精神障害の患者に広く匿名性を認定することは、本質的に、患者の人権を守ることにはならないことであると指摘します。


2、真木人さんの事件でのマスコミの実名・匿名判断について

1) 匿名報道は被害者遺族の危険度を増す

矢野真木人が殺害されて犯人が逮捕された直後に私たちに与えられた情報は「36才の男性が逮捕された」以外何もありませんでした。犯人が精神障害者であることは、逮捕翌日に申し込まれた合同記者会見で手渡された質問状に記載されていた情報でした。

私たち被害者遺族から見れば殺人事件直後の記者会見は皮肉な状況です。質問している記者は、犯人の氏名や写真などの情報を見て、犯行の状況についての知識を持っています。ところが聞かれている被害者遺族は犯人の個人情報と犯行の状況についてまるで知識がありません。その上で、被害者遺族は姿と氏名と所在という情報を明らかにさせられています。また犯人に対する憎しみを話すように求められます。客観的な状況は殺人行為をする犯人は匿名性の中に隠れて守られています。しかし肉親を殺された被害者は自分を守る術を解除されているのです。

精神障害者の犯人は、容易に不起訴処分となり、20日以内に解放される事があるのです。被害者遺族には犯人がいつどこで開放されるかは通知されません。また解放後に犯人が病院にいるのか、それとも行動の自由が与えられているのかはまるで情報が与えられません。事件直後に解放された犯人は、数日前に発行された新聞ストックを読めば、被害者遺族の所在や写真を容易に知ることができます。しかし被害者遺族はその事実を知ることもできません。社会的な状況としてこれほど危険なことはありません。そこでは新聞などのマスコミが手を貸しています。被害者の情報を一方的に暴露し続けるのです。犯人は通り魔殺人した男です。その男の前に、無防備な状態で被害者側の情報だけが開示される状況が発生していると、私たちは認識しました。

2) マスコミは教えない

私たちを取材していたマスコミの記者は犯人を目撃していましたし、写真など詳細な事実関係の情報や証拠を持っていました。私たちが「知っているのでしょう?」と聞くと「はい」と答えました。しかし、「教えてください」とお願いしても「守秘義務がありますので、ごめんなさい」としか言いませんでした。匿名報道とは、被害者が是非とも知りたい情報が取材するマスコミの方にあるのに、その情報を最も必要としている人間には教えないことです。それが生命の保全に関する重大な情報であっても、死んだ者が死ぬに至った情報であれ、後に残された遺族が犯人から自分の身を守るために必要な情報であっても、守秘義務を盾にとって教えないと言う、残酷な行為なのです。その根拠は匿名報道という取材ルールなのです。片方で、取材を通して被害者の危険度を増す情報を発掘しながら、片方では、被害者遺族が身を守るために必須である筈の情報すら、冷酷に渡さないのです。取材される方は個人です。取材する方は、社命という機関事務です。ここに現代社会の非常に残酷な一面が現れています。



3、事件報道(主に実名・匿名をめぐる)に対するマスコミへの要望

1) 匿名報道では、事実を報道しないことにつながる(知る権利の否定)

日本全国の統計では年間に精神障害者によって発生する殺人数は年により変動はありますがおおむね約120人程度です。これは3日に一人精神障害者の行為で死者が出ていることになります。しかし現実問題として、精神障害者による殺人事件が報道されることはほとんどありません。世の中の誰もが、精神障害者による殺人事件がそれ程の頻度で発生しているとは知らないし、それ程多いとは考えもしないのです。

矢野真木人が殺害された事件が報道された経緯は、最初は犯人が分からない通り魔殺人事件だったからです。もし犯人の野津純一がその場で取り押さえられて、いわき病院の患者であると判明していたら、精神障害者の事件として報道がされなかったはずです。この意味では、不幸中の幸いと言った状況でした。

日本で、精神障害者の犯罪を匿名で報道することは、実は、殆どの場合精神障害者が原因者である犯罪を、例え殺人や放火や婦女暴行などの重大犯罪であっても報道しないことでもあるのです。すなわち、精神障害者の犯罪は事件として社会に知らされることがほとんど無く、専門家の間で処理されて、情報が抹殺されてしまうことが多いのです。匿名報道とは、実は、情報を伝えないことでもあるのです。これは知る権利の否定です。また日本の報道機関の存在意義も問われます。すなわち、マスコミが社会の木鐸としても機能を果たしているか否かが問われます。日本のマスコミが国際的水準に照らし合わせて、信頼される報道機関として、人権擁護の機能を発揮しているか否かが問われる課題です。

精神障害者の問題では宇都宮病院事件がありました。これは日本の精神病院協会や精神行政のあり方までも人権に照らし合わせて問われました。同じ事です。日本の報道機関が伝えるべき事を伝えているか見逃しているかと言う視点で、国際水準を尺度にして考えるべきところがあると指摘します。日本では人権擁護に関係する機関が、真に国際的に誇り得る人権擁護の活動を実践しているか否かについて、信頼性が乏しいのが現実です。

2) 学会の無責任論

日本の精神医学会などを傍聴すると、発表者の専門家から、いとも容易に「精神障害者の殺人事件の被害者は殆どが、家族なので、殺人の問題は重要な課題ではない。一般市民への殺人犯罪は無視して良いほどに少数です」という驚くべき発言に接することがあります。これは、精神障害者の犯罪が匿名であれ、実名であれ、報道されないことが専門家の安易な姿勢を許しているとも考えられるところです。精神障害者による殺人被害の大多数が家族であり問題ないとするならば、精神障害者の家族は生存権を否定されても仕方がないと、専門家に断定されていることになります。これこそ、深刻な人権問題です。

実名報道をする事、また全ての重大犯罪(殺人、放火、婦女暴行など)を必ず詳細に報道することは、実は精神障害者の家族を含む、全ての人間の人権を擁護することでもあります。情報を公開することこそ、マスコミの使命であると考えます。情報を非公開にすれば、そこから発生する既得権に安住する集団が発生する可能性が高いと考えるべきでしょう。


4、(事件発生当初から)実名報道を望んだか

1) 野津純一と言わせてもらえなかった

私たちは野津純一に懲役刑が確定するまで、テレビ局の取材では「犯人」としか言わせてもらえませんでした。無理に発言してもその部分を「カット」されるだけですので、私たちは敢えてテレビ局の注文に異を唱えませんでした。しかしいわき病院を単に「病院」と言い、野津純一を「犯人」と言い続けたことは、私たちは矢野真木人には申し訳なかったと今でも考えています。矢野真木人は彼らが原因で命を失ったのです。矢野真木人の立場からすれば、堂々と相手を名指しして良い筈です。殺人事件報道の本質は、殺された人間の生存権が否定されたところにあります。他人の生存権を奪った人間の、ご都合主義に振り回されることではありません。死んだ人間の人権を擁護する姿勢は、実は、いつの日にか被害者になるかも知れない、現在生きている市民の生存権という人権を守ることでもあるのです。

2) 故意犯です

野津純一は「誰かを殺そう」という意図を持っていわき病院から許可外出をして、凶器を購入して犯行に及びました。このような故意犯の場合には、精神障害者であることは匿名にすべき理由にはなりません。日本では安易に匿名とすることで、精神障害者に人間としての意識があることに眼を向けてこなかったと考えます。匿名として情報を非公開とすることは、社会が精神障害者の実態を知ることができないために、精神障害者を危険なものとして誤解して不必要な迫害をする要素にもなります。精神障害者の実態を社会が社会の知識として共有することが、精神障害者の社会復帰を促進する道です。


5、精神障害者「野津純一」という名前が報道される意味について

1)野津純一の前歴

野津純一は17歳の時に自宅を放火して自宅および両隣の3軒を消失させた事件を起こしています。当日は大火事であったにも関わらず、報道されず、野津純一も逮捕されていません。野津純一の責任が問われないことに危機感を持った近隣の居住者は、野津家が同じ場所で住宅を再建することに反対したために、野津家は転居を余儀なくされたと聞いています。これは視点を変えれば、野津家に対する村八分という人権侵害が発生していたことです。行った重大犯罪に対して責任を取らなくても良いとされることは、このような人権侵害の発生を抑止することも困難となると指摘できます。

野津純一は転居先で、近隣のニワトリの鳴き声がうるさいと言って、怒鳴り込むなどの騒ぎを起こして、両親は再度の転居を重ねていました。殺人行為を犯す約10年前には、包丁を手に持って当時通院治療中であった香川医大病院に行き、主治医を襲おうとして大騒ぎを起こしています。また2-3年前には香川県庁前の繁華街で、通行人の若い男性に襲いかかり、親が示談金を支払って謝るほどの事をしていました。

上記の事件では火災は少なくとも少年Aの犯罪として報道されるべきだったでしょう。また香川医大と香川県庁前の事件は報道されても良かった程度の事件であった可能性があります。野津純一はこれら全ての前兆であるべき事件でもみ消しが行われたのを目撃していました。自分の責任が問われることが無かったのが、本人のためにも不幸であったと考えるべきでしょう。ある意味では、本人の名前が報道されない、また本人の責任が問われないために、本人に対する社会的保護が検討されなかった可能性があります。その結果として、最大の他害行為である殺人に至ったと考えるべきでしょう。

2)名前を公表することは本人を守ること

精神障害者の名前を公表することは、本人の人権を守ることです。本人が軽度な精神障害で、精神科治療プログラムで社会復帰が行われる場合には、責任の自覚を持たせることができます。また、個人が明確になることによって、精神科病院がいたずらに長期間の入院を強制して、長すぎる入院によって社会復帰を阻害するような状況も防止できます。実名性を維持することで、大多数の精神障害者の社会復帰を促進することが可能となります。

野津純一のように長期の間、統合失調症が継続して既に普通人としての社会生活が困難な場合でも、意思は明瞭に持っています。実名性を維持して本人に自覚を促すことによって、他害の可能性に対する心のブレーキを期待できたはずです。慢性の状態に陥った精神障害の患者を、安易に他害行為をさせないことも、患者の人権擁護であるのです。また精神障害者の無意味な他害行為を防止することが、精神障害者の社会進出を促進して、一般社会での共生を容易にします。

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