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被害者遺族から見た犯罪被害者支援活動


平成19年8月4日
矢野啓司
矢野千恵

私たちは犯罪被害者活動に参加しており、私たちが犯罪被害者であることに関して世の中の誰も異論を挟みません。しかし私たちは犯罪被害者ではありません。私たちの場合犯罪被害者は矢野真木人です。両親の私たちはあくまでも犯罪被害者遺族です。私たちは命を失って自らは発言できない矢野真木人の心を代弁しているに過ぎません。私たちは常に「矢野真木人であれば・・」を考えて行動しています。私たちの「被害者の立場」とはあくまでも直接被害者である矢野真木人の願いとその実現です。

犯罪被害者等基本法が制定されて、犯罪被害者支援基本計画に基づいて犯罪被害者の支援に関する各種の施策が導入され、犯罪被害者支援センターが設立されるなど、犯罪被害者の支援活動をする人材も養成されています。犯罪被害者支援活動が活気を帯びてくるのは喜ばしいですが、支援活動に従事する人たちは基本的に犯罪被害を経験した人たちではありません。このため理念および職業意識が優先した活動になるという傾向も否定できません。私どもは「被害者の立場」から見た犯罪被害者支援を論じてみることにします。


1、被害者の声

1) 殺された人間の代弁者

私たちは先祖から継承された浄土真宗です。息子の矢野真木人が殺害されて、お寺の住職が「弟を殺されたけれど犯人を許した心の広い方」の講演パンフレット(弟を殺されて考えたこと、2005年12月、広島市・圓光寺)を届けてくれました。この人は全国で講演し、本を出版しておりました(参考:弟を殺した彼と、僕、2004年8月、ポプラ社)。

幼い時に父親を亡くして母子家庭で育った4人兄弟の長兄は末弟を殺した獄中の主犯死刑囚と文通・面会して法務大臣に死刑執行停止嘆願書を提出しました。長兄は主犯男性に、末弟が保険金目的で周到な計画殺害されただけでなく、自らも240万円を金銭詐欺されていました。被害者遺族が受ける心の打撃は間違いなく深刻です。しかし長兄は殺された末弟ではなく今生きている自分自身の心の救いを求めて、獄中で死刑を逃れたい一心の主犯と面会しました。

この保険金殺人事件では三人が殺害され末弟は第2被害者です。犯人は3人で、実行犯は高等裁判所判決で死刑が確定しましたが、主犯は死刑回避を求めて最高裁まで争いました。長兄は獄中から接触してきた自分を詐欺した主犯に再び心を動かされ、主犯の弁護団や支援宗教関係者などにも影響されて、死刑廃止論者となります。

そもそも長兄は「末弟を殺した犯人に死刑執行を望まない気持ち」と「死刑制度の廃止」を混同しています。また主犯に思いがあれば従犯2名にも関心を示すのが道理ですが、長兄が助命を望んだのは末弟他2名の殺人計画立案者で詐欺犯でもある主犯だけです。そして「被害者遺族(長兄のこと)の反対があるにも関わらず、死刑が確定して執行された」として「法務大臣が被害者遺族の心情を無視した」と主張します。長兄一人の主張を法務大臣が取り上げなかったことを不当としており、思い上がっています。そもそも長兄は家族の代表として末弟の代弁者の役割を果たしておりません。また長兄の動機は自分自身の心の救済です。被害者遺族は他に2家族おり、長兄は事件に関係した被害者遺族全ての代表者ではなく、また末弟との間にいる中二名の兄弟の意向にも言及しません。仕事を疎かにして活動に熱中した長兄は、50代半ばで妻子からも見放されて離婚されて家庭を出ました。

「末弟を殺した主犯を許すこと」でマスコミ寵児となり広告塔として講演活動をする長兄が、特別な発言力を持った被害者遺族の代弁者であるかのように自己主張する舞い上がった姿勢があります。自らの家庭を崩壊させた長兄が、講演や出版で被害者遺族という家族代表を演じる姿に、被害者支援活動という大義名分を掲げているが被害者でも遺族でもない特定の目的を持った他人の意思で踊らされているような、違和感があります。長兄の自己目的は殺された末弟の願いとは別のところにあるように思われます。

私たちは親として息子が理不尽に殺されたことほど悲しいことはありません。矢野真木人の無念な気持ちを考えると心が引き裂かれます。矢野真木人は生きたかったのです。他方で犯罪者は誰も刑の軽減を望んでいます。私たちが矢野真木人の命を奪い取った野津純一に感情移入して「野津君、君にも良いところがある、真木人のためにも早く自由を得て頑張ってください」と言ったら、真木人はどう思うでしょうか。「真木人を失って落ち込んでいる私たちの心の救済を求めて野津君にあう」と行動したら、真木人はどのように悲しむでしょうか。「お父さん、お母さん、僕は野津じゃない。野津は僕を殺した男だよ、止めてよ、間違わないで下さい」と言うでしょう。真木人は私たちの態度に絶望して奈落の底に落とされる気持ちになると思います。

矢野真木人は野津純一に全ての希望と可能性を奪い取られました。私たちの立場は、矢野真木人が失い「死んだのだから」と、社会から無視されている矢野真木人の人権と、矢野真木人が行うべき社会貢献のため、代理人としての行動です。矢野真木人は私たちの心の中で生きています。私たちは他人の生きる権利を奪う行為、およびその行為を許している社会的な仕組みが現在の日本にあることに関して、人倫の問題として、社会制度の問題として、発言するのです。それが命を失った矢野真木人の願いであると信じています。確かに私たちは悲嘆にくれています。しかし生きている私たちの心の救済のために、被害者活動と称して被害者本人をさておいて、遺族である人間の自己実現を目指す行為は、私たちには論外のことです。また家庭崩壊をすれば悲しむのは死んだ真木人です。安心して健全な家庭生活を築くことができる社会、それが不慮の死を遂げた矢野真木人の願いだと考えています。

広い意味で犯罪被害者とは、直接犯罪被害に遭った本人および家族、また殺人事件の場合には殺人された人間の親兄弟などの遺族です。しかし本人以外の家族が犯罪被害者である場合には、被害者本人の生死、また配偶者・子供・両親・兄弟姉妹などの差違で被害者意識が微妙に異なります。被害者が生存している場合には、被害者本人の意思を把握可能ですが、殺人された場合には遺族により被害者の意思は代弁されます。その場合、今は亡き被害者本人が生前の時に持っていた代弁者との関係が被害者の意見に微妙な温度差を造り出します。

被害者の肉親と言えども、全てが同じ意見であるとは限りません。仮に被害者とその代弁者と称する人間が生前に争いや憎しみを抱くような関係があったとしても、外見的には家族内性善説に基づいた発言が代弁者にあるものとされるために、状況が不明瞭になる場合もあります。被害者に遺産が残されたり、保険金や賠償金が支払われる場合にはその分配をめぐる争いも遺族の間に起こります。また悩ましい状況として被害者になることにより一時的であってもマスコミの取材攻勢にあって、社会の注目を浴びる立場に酔ってしまう被害者の代弁者もあり得ます。このため発言できない殺された本人よりは、遺族である「被害者」の意見や価値観が大きく表に出る場合が無いとは言えません。

犯罪被害者で身体傷害を負った者および被害者遺族は生きてゆかなければなりません。その時間の変化は被害者の心とその発言に大きな圧力を与えます。このため被害者と言えども一律また一定の意見があるのではなく、状況に基づいた変化は当然の事として起こります。ある被害者は刑事裁判の結果に満足しているでしょう、またある者は懲役刑が短すぎると不満を覚えたり、また他の者は刑事裁判すら犯人が不起訴となり行われなかったりで状況が異なります。ある人は家計収入の稼ぎ頭を失って生活の目処が立たなくなっている可能性があります。被害者が犯罪後に置かれた状況で意見も変動します。そのような状況の変化を考慮した上で、以下の視点をとりまとめます。また本文では基本的な事象は私たちの経験に基づきますが、多数の被害者や遺族の方々から聞いた事を組み込んで、可能な限り、一般論に近づけるように論理構成をしました。

2) 殺した者の贖罪

警察で事情聴取を受けた時に、警察官が下書きした調書には予め「犯人が憎いので、死刑を求めます」という文言がありましたが、私どもは「死刑を求めます」の言葉を抹消しました。私たちは刑事裁判でも犯人の野津純一に死刑を要求しませんでしたが、死刑廃止論者ではありません。また野津純一に情けをかけたからではなく、死刑よりも終身刑で「生き続ける限り罪を償せたかった」のです。犯人が罪の軽減を求めるのは当然です。だからこそ「刑務所で修練を積みなさい、それがあなたの贖罪です、昨日や今日の釈明や口先の弁明ではなく、十分に時間をかけた継続した反省を求めます」と考えました。私たちは精神障害者の野津純一に死刑を要求すれば判決では反対に刑罰が軽くなる可能性が高いと考えました。野津純一に可能な限り重い刑罰の判決が下るためには、法廷の場で憎しみを露わにして死刑を要求することは得策でないと判断しました。野津純一の両親と家族が私たちの立場を理解できる要素を提示することも長期刑を確定するための必要条件であると想定しました。私たちは終身刑に相当する無期懲役を望んでいましたが、懲役25年の判決は現段階で野津純一に期待できる最も重い刑罰として納得しました。野津純一に可能な限り長期刑が下されることを目的とした、私たちの現実的判断と裁判戦術でした。

私たちに「統合失調症の患者に懲役25年は、前例がない重すぎる刑罰です。あなた達は過大な要求をした」と指摘する人がいます。しかし考えてください、私たちは「重い統合失調症の野津純一に、前例がない長期刑を日本で最初に確定するため」に最大限の努力をして、その成果を得たのです。そもそも「前例がない」と言って私たちをたしなめることがおかしいのです。「懲役25年」は私たちが憎しみをこらえて獲得した成果です。私たちは野津純一を許していません。現在の日本で最大限の長期刑を確定させることが刑事裁判における私たちの目的でした。「被害者遺族が殺人犯に対して寛容であることは、命を失った者が望んでいるはずの、自分が命を失うに至った原因を基本から是正することにならない」と私たちは考えます。

犯人の野津純一は中学1年の3学期から勉強するという自己研鑽の努力を放棄しました。矢野真木人は繰り返して遭遇した異文化等の試練に対して諦めることなく、殺される28才まで絶え間ない努力を継続していました。彼は生きている限り努力し続けたでしょう。野津純一は故意を持って通り魔殺人をしました。矢野真木人の努力を考えれば、野津純一は精神障害の治療を受けながら、生きている限り贖罪をし続けることが彼に科された義務です。矢野真木人は生き返りません。懲役25年でも短いのです。しかしこの判決を私たちは受認しました。

矢野真木人が殺された直後に私たちは「あなたの息子は死んだのです。忘れなさい。犯人は生きているのです。生きている犯人の更正と治療が大切です」と言われました。これに対して私たちは殺された被害者の両親として反論します。「矢野真木人の人生は犯人野津純一の付属物ではありません。野津純一こそ、一生かけて矢野真木人に贖罪しなければなりません。矢野真木人が失った人生の意味を少しでも深く理解できるようにならなければなりません。そのためにも野津純一は精神障害の治療に専念しなければなりません」

野津純一は日本人の平均寿命を全うして死ぬ時に、半世紀も前に通り魔殺人した矢野真木人のことを思い出すでしょうか。そしてあの日に自ら呟いた「ああ、やってもた、俺の人生終わってもた」と言った言葉の意味をどのように噛みしめるのでしょうか。現在の日本の精神医療の水準では、野津純一は自分が寛解することにそれ程大きな期待を持てません。既に20年以上の長期に渡り統合失調症であった彼は、自らの精神が健常者に近づくことは殆ど期待できません。しかしこれからの精神科学の進歩で、彼は人間として生きる道を見つけ出して意義を問うことができるまでに改善する可能性を否定することはできません。野津純一には未来があります。それが彼の社会貢献です。しかし矢野真木人の人生は彼により奪われたのです。


2、犯罪被害者支援活動のモティベーション

私たちは驚愕して恐怖にかられました。目の前に矢野真木人は無惨な死体となって横たわっています。私たちの長男矢野真木人は精神障害者に刺殺されたのですが、最初当局は殺人者が「男性で入院中の精神障害者」以外の情報は与えてくれませんでした。犯人を逮捕した現場でテレビ取材した記者も守秘義務があり、困ったような表情ですが具体的な話をしてくれません。私たちが知っているのは、犯人が矢野真木人を包丁の一刺しで一瞬のうちに刺し殺したという恐ろしさです。

犯人は精神障害者として不起訴になれば20日以内に解放されます。警察から釈放された犯人が精神科病院で長期拘束されるという保障は何もありません。すぐにでも外出して往来を歩き始めるかも知れません。私たちは犯人について何も知りません。知っているのはプロの殺人者のような優れた殺人技です。矢野真木人はショッピングセンターの駐車場でレストランから出てきたところを刺殺されました。私たちも殺人犯人と同じ地域で活動しています。可能な限り全ての可能性を考えて自分で安全を守らなければなりません。犯人には私たちの住所と氏名が明らかになっていますが、私たちは犯人の顔さえ知りません。もし犯人が私たちをつけねらうとしても、私たちは矢野真木人と同じように、犯人に包丁を突き刺されるまで相手を知りようがありません。犯人には私たちが見えています。私たちには犯人は見えません。真木人が何故殺されたのか動機すらわかりません。私たちが狙われるとしても、犯人の心が読めません。数日後には、真木人に起こったことが私たちにも起こる可能性があります。

1) 犯人が正当に処罰されること

殺人事件の被害者遺族の圧倒的多数は「加害者を死刑に」と発言します。中には「裁判で死刑と判決されないなら、犯人を目の前で釈放してもらいたい、自分が殺す」とまで発言する人もいます。大切な家族を奪われた被害者遺族は加害者に対して憎しみを持ちます。大切な肉親の無惨な死体を見ていますから「加害者を憎まないわけない」のです。肉親の命を奪われた憎しみは被害にあったこともない人の理想主義に導かれて簡単に解消するものではありません。被害者遺族の発言は憎しみの情緒に占有され激しくなりがちです。

しかし上記の状況に基づいて「被害者は過激に過ぎるので、社会に通用する意見を聴くに価しない」と専門家が判断するのは現実を見ない行為です。被害者と被害者遺族の真意は「犯人が法律に基づいて正当に処罰されること」です。被害者は、犯人の刑罰が本人が行った行為の報いとしては軽すぎる結果になることを恐れています。殺人者が殺意と計画性を持っていたにもかかわらず、傷害致死などが認定されて、また通り一遍の反省文で改悛の情ありとされて、情状酌量が認定されて、極めて軽い刑罰で罪を償ったとされることに納得がゆかないのです。死人に口なしで、加害者の安易な弁明が許されて、殺された被害者の人権が無視されたり軽視されるような裁判が行われることに納得できません。安易に発せられる弁明の言葉こそ罪を重くするべき理由です。

犯人が精神障害者である場合には病気を理由にして容易に心神喪失が適用されて、故意による重大犯罪者であるにもかかわらず不起訴や無罪になることに納得できません。その犯人が精神障害者であるのであたかも免罪符を持っているかのような発言をしたり、繰り返して重大犯罪を引き起こしている数々の事実にも理不尽を覚えます。これらのことは、犯罪被害者に「犯人は法律に基づいて正当に処罰されていない」という不満の心を蓄積します。

何を持って正当な量刑の程度の根拠とするかは議論の余地を残します。しかし犯人が正当に処罰されずに刑罰を逃れているという不満や意識が被害者の心に残るのは、法律運用の問題として課題があります。特に殺人犯や婦女暴行犯が刑罰を軽減する事を期待して虚偽の発言をして、それを根拠にして軽微な判決が下されることは、被害者の心を逆なでします。被害者遺族は理不尽に命を失ったあの人の嘆きや悲しみの声を心の中で聞いています。犯人が正当に処罰されることは命を奪われた人間の声です。殺された人間は生き返りたいが、生き返れません。そうであるならば、同じような原因で理不尽に殺される被害者の発生を、自分の事件を契機にして防止策を社会ルール化して抑制してもらいたいのです。それがせめてもの願いです。真実に基づかない犯人の弁明が承認されて罪が軽減されることは耐えられないのです。またそれにより犯罪が野放しになり、次の被害者が発生することも悲しいのです。被害者は犯人が正当に処罰されるような制度が日本で整備され、自分が経験した悲劇が繰り返されることが無くなることを望んでいます。

2) 犯人が正しく矯正されること

被害者と遺族は犯人の動機とその行動様式を恐れます。犯人が軽すぎる刑罰で解放されたときに「お礼参り」をされる可能性が恐ろしいのです。沢山の被害者と遺族は「お礼参り」の恐怖におびえています。殺人犯や傷害犯が出所後に被害者および被害者遺族をつけねらうことは悪夢です。被害者は犯人の懲役刑の年限を知っていますが、刑期が短縮されて早期に釈放される場合には知ることもかないません。釈放後の犯人の生活場所も知らされません。被害者と遺族にとって、犯人の行動は見えません。ところが解放された犯人は被害者と遺族の所在を容易に捕捉することが可能です。傷害を他人に与えまた人命を奪うことを躊躇しない過去を持った人間にいつ襲われるかも知れないことが恐ろしいのです。

被害者と遺族は犯人が正しく矯正されることを願っています。刑務所の中の矯正教育で二度と犯罪を起こさない人間にしてもらいたいのです。ところが、刑務所の矯正に信頼がおけないことは広く知られた認識です。特に殺人や婦女暴行を犯した重大犯罪人に矯正効果が期待できないことも大きな不安要因です。刑期満了で犯人が被害者および遺族の周辺で行動を許されることは脅威以外の何物でもありません。犯人が出獄時に「正しく矯正されていないと判断される場合」には生活場所の制限など、行動制限を含む事後に継続する矯正教育も必要です。

重大犯罪を犯した経歴を有するものが、刑務所で刑罰を満了すれば、全ての行動の自由を有するべきであるとするような、犯罪者履歴保有者の人権擁護を優先して、普通人の生命の安全と人命損失を容認することは間違いです。失われた人命は二度と再び戻ってきません。安易な再犯を防ぐべく、重大犯罪履歴者は一般社会の中でも慎重な保護観察が必要です。長期に及ぶ社会生活の中で市民としての安全性が確認されてはじめて、保護観察処分は解かれるべきでしょう。重大犯罪履歴者が釈放後の短期間で他人の生命の安全に関わる違法行為を行う場合には、例え軽微な犯罪であっても、加重的な刑罰に処される制度が必要です。市民の安全を犠牲にした重大犯罪履歴者の自由権はあり得ません。市民全ての安全と生存権の擁護こそが人権擁護の最大課題です。過去に生命の安全を害する重大犯罪を犯した者は、それ故に行動の自由が制限されてしかるべきです。他人の生命に危険を及ぼした過去を持つ人間の自由度が、普通の市民に保障されるべき自由権と同等ではあり得ません。そのことが普遍的な人権擁護の要件とはなりません。

3) 殺された者の社会貢献

殺人被害者は故人ですので、本人が発言することはできません。このため遺族は「死んだ人のことは忘れなさい。殺人者は生きています。殺人者の更正のために障害となる要求をしてはいけません。生きている人の人権を大切にしなければなりません」と言う説得を聞かされる羽目になる場合があります。しかし殺された本人は人生を強制的に閉じられたのです。生きていれば持っていたであろう無限の可能性を全て奪われました。殺人者の人権擁護のために、殺された被害者の人権を否定するのは、二重の殺人行為です。

残された遺族は「殺された人間は死んだ後は殺人者の付属物にならなければならないのか?」と自問します。殺人者の人権擁護のために、究極の人権を奪われた者が再び犠牲にされるような論理が通用して、それに遠慮しなければならないとしたら残酷です。まるで理不尽に殺された人は、永遠に殺人者の奴隷にされてしまうような人生の結末です。殺された者にも独自の人生と可能性がありましたが、殺人されたことにより切断されました。しかし殺人されたことにより始まる、死んだ本人でしかできない社会的な活動もあるはずです。それは理不尽にも死ぬに至った理由に潜み、また殺人された結果が派生的にもたらす社会的な課題を是正することです。それは殺人された者にしかできない社会貢献の道です。それを実現するのは遺族に残された課題です。

殺された者が行える社会貢献は、本人が生きていたときの人生目標とやり残したことではありません。悲しいことですが、自分が殺人されるに至った直接・間接的な理由に内在する社会的に共通する問題に、生存権という人権や人倫の問題として取り組むことです。同じような悲劇は少しでも少なくしたい。自分の悲劇がその題材になって欲しい。それが理不尽な殺され方をした人間の願いであると考えます。

4) 経済的損失の回復

矢野真木人は悲しいと思います。旧家の世代継承者であり、父親の会社の後継者でした。彼は子供の時からそれを意識して成長しました。自分ではやりたいことが沢山あったにも関わらず我慢して、それが自分の人生であると見極めて研鑽しておりました。全ての努力がたった一撃で失われたのです。

死者は家計の担い手であったのかも知れませんし、事業の後継者である場合もあります。殺された時点では扶養家族である場合にも、本人の死亡による経済的損失はあります。このような経済的損失には殺人者本人やその関係者に賠償を請求可能なものもあります。他方では個人は社会を背負う一員であるという要素を考慮すれば、社会として負担すべき経済的な損失もあるはずです。殺された本人の経済的な損失以外にも、その家族が被る経済的な損失もあります。個別の被害の様相を分析すれば、私的な被害と考えられる要素は大きいでしょう。しかし犯罪被害が社会的現象であるという実態から普遍すれば、マクロ的な観点から社会として担うべき被害者への経済的支援を行うのが当然のことです。この問題は健全な社会を維持するために、社会が全体として担うべき社会費用の側面からも検討が促進される必要があると考えます。

忘れてはならないのは、殺された本人が行うことが可能であり失われた社会貢献です。人間には誰も多彩な可能性を持っています。個人個人にどのような未来、どのような発展があるかは予想不可能なほど、多様性があります。社会はそれにより前向きに発展をして、より良く健全な社会が築かれます。不慮の死のほとんどは偶然の結果です。しかしそれにより私たちの社会は大きな機会を失った可能性もあります。無意味な人的損失を削減することが、経済社会的にも大きな意味があります。

5) 心のケアと仲間の形成

私たちは矢野真木人が殺された1—2ヶ月後に、人に紹介されて臨床心理士を訪問しました。最近では心のケアが一世を風靡しており、心理専門家が被害者支援の有力な人材とされています。私たちはこの大家とされる専門家と話をして「この人は、犯罪被害者の事を考えたこともない、まるで該当しない方法論を無理矢理私たちに対して持ち込もうとしている」とがっかりしました。おそらく心理学の分野でも被害者の心の問題はあまり研究が進んでおらず、また経験の蓄積がない分野なのでしょう。私たちは心理士と面接していて「今回は、無駄だった」と諦めました。

犯罪被害者は心に衝撃を受けて、多くの場合傷を負っています。この心の傷を癒すのは必ずしも精神科の医師や臨床心理士の仕事ではありません。被害者どうしが語り合い、共に活動することで癒され、前向きな力に転換される要素があります。犯罪被害者は専門家に治療されたり研究されたりする対象の地位に甘んじるのではありません。被害者が仲間として集うことで、お互いの心を理解し合い、苦悩が自分だけではないことを知ることができます。被害者は自らの心を共有しあう仲間をも欲しているのです。犯罪被害者は同じ立場の人間と出会い、苦しみから逃れる術を探し出したいと考えています。


3、犯罪被害者と二次被害

犯罪被害者が経験する二次被害の問題は悩ましい課題です。犯罪被害者と遺族が集えば「いかに二次被害がひどかったか、耐えられなかったか」また苦しめられた経験などで話題が沸騰します。二次被害が全く発生しないことに越したことはありません。しかし全ての社会現象は、例え被害が一方的な殺人事件であっても社会的価値の視点から見れば多面的な様相を持ちます。矢野真木人の事例では、矢野真木人は殺人事件の完全被害者です。個人的には彼には殺されるべき理由は全くありません。しかし社会的に見れば、精神障害者の治療制度の問題や、刑法39条の運用など、既にできあがった社会の仕組みをどのように適用するかという視点があります。このため社会正義や人倫の問題であるとしても、何が正しくて何が誤っているかの判断には異なるところが生じます。ある種の論理からすれば、矢野真木人の死のような人命存亡の現象は、統計的な頻度で発生し、精神障害者の社会参加を促進するためには社会が受容するべき必要な社会費用であるという視点もあります。事実、いわき病院は民事裁判でそのように主張して「いわき病院の治療には間違いは無かった」と主張しています。日本ではこの主張がこれまで正々堂々と「社会常識」として通用していました。その事に誰も「おかしい」と異論を挟めなかったのです。

犯罪被害者の多くは一方的で、間違った行為としての二次被害を主張します。しかし、私たちの経験では、二次被害を経験した時が、自分たちの視点を見直したり点検したりする最も重要な契機でした。私たちに二次被害を与えた本人はそれが二次被害であるとは考えていません。むしろ正しいと信じているからこそ、私たちに対して踏み込んで来ます。ある意味では二次被害の経験は社会との接点です。以下に二次被害について論じていますが、二次被害にも二面性があると承知した上で書いていることをご理解下さい。

1) マスコミとおつきあい

矢野真木人が殺害されて、香川大学病院で検死された遺体を引き取って自宅に帰りついたのは既に深夜24時過ぎでした。真木人の死体を室内に安置していると、新聞記者が訪問してきて、真木人の経歴や写真など基本情報を提供してくれと言いました。犯人は犯行の翌日に逮捕されましたが、警察から犯人逮捕の通報は深夜の24時前でした。「これから報道機関が高松から高知まで移動してお宅を訪問する」と言うので「今夜は眠らせてもらいたい、翌日にきちんと対応します」とお願いしました。翌日の朝10時から、私たちの理解としては報道機関の要請で、バラバラの個別対応ではなくて一度に終わるように時間を調整して、記者会見に応じました。するとある記者から「あなた方は、記者会見を招集しましたね、その理由は何ですか」と質問されました。続いて「あなた方の答え方は、被害直後の被害者遺族にしては冷静にすぎる、(泣きわめかないのは)おかしい」と突っ込んできました。記者会見の後味は私たちには苦いものでした。葬儀の日の深夜にも新聞記者が尋ねて来て去ったのは24時を過ぎていました。その記者に後日連絡すると「あなたの事件は(精神障害関係なので)当社では今後は取り扱いません」と言われて、取り合ってもらえませんでした。ある記者は事前に取材予約をして、長時間のインタビューをした後で「今日は自分自身の私的な問題の参考とするために来ました、社命ではありません、報道する予定もありません。教えていただいてありがとうございます」と言いました。

事件直後にはマスコミはテレビ・新聞および週刊誌などの各社が競って集中的な取材活動をします。このため事件が世の中の話題を集めれば集めるほど、また大事件であるほど、犯罪被害者はマスコミの取材に晒されて、マスコミ被害を受けたという認識を持つことになります。また事件がそれ程の大事件でなくても、多数の記者の中には被害者の心を逆なでするような質問をする者もあり、その質問で被害者が大きく傷つけられることもあります。このためマスコミ被害が無いとは言えません。犯罪被害者の多くは被害に遭う前に既にマスコミの二次被害と言う言葉を知っています。それでマスコミの取材攻勢を実体験して「これがマスコミの二次被害か」と安心して、自らも「二次被害にあった」と発言する傾向があるようにも思われます。また被害者が集うと、ひどいマスコミ被害にあった人の方がそれだけ犯罪被害も大きかったという、被害者の存在意義の再確認のような心のねじれが無いとも言えないような状況があり得るかも知れません。

マスコミ被害を恐れて取材に応じないのは被害者には得策であるとは必ずしも言えません。事件直後は被害者は大けがをしていたり死亡していますので、本人や遺族が事件の事実関係を自ら調査して解明することはほとんど不可能です。殺人事件の被害者遺族は、事件直後は新聞やテレビを見る気力もなく、事件後一週間以上を経過して初めて新聞報道を見ることになります。新聞の場合は自宅に配布された貯め置きを後からでも読めます。しかしテレビは既に放送されていて見ることができません。ここで助かるのは各社の事件報道をまとめてスクラップを届けてくれる新聞記者と、ニュース報道ビデオを届けてくれるテレビ記者です。マスコミによる事件記録の提示は被害者が事件の実態と原因を知るために重要な情報となります。事件直後の集中取材は被害者には苦痛で「マスコミから二次被害を受けた」と主張したくなる要素はあります。しかしそれにも勝る情報提供という効果もあります。被害者の立場は、前触れは一切なく、ある日突然やってきます。その時にはマスコミを嫌ってはいけません。マスコミも社会の重要な仲間であると割り切って対応したいと考えます。

事件直後には被害者と被害者遺族は混乱しています。またマスコミも情報を求めて熱中します。また被害者は事件とは関係がないプライバシーが暴かれるのではないかという恐怖も持ちます。しかし一度被害者になってみれば、大切な問題は自分自身がどのように厭だったか困ったかではありません。事件後の被害者と殺害された者の権利回復のために何が重要かです。報道は止められません。時間も止められません。このため被害者個人の情報が正確に報道されることが大切です。過度にマスコミを毛嫌いすると無意味な誤報道を引き起こすことにもなり、回復への第一歩を踏み出せなくなる可能性も出てきます。

矢野真木人は精神障害者に突然殺人されました。最初は通り魔殺人事件としてマスコミにより大々的に報道されました。このため犯人が精神障害者と判明しても、続報の必要があり、マスコミの報道が急速に沈静化することはありませんでした。マスコミが事件を報道し続けたことで、犯人には2ヶ月の拘留期限延期が行われ、慎重に行われた精神鑑定の結果を元にして野津純一は起訴されました。もし最初から精神障害者の事件としてマスコミが報道してなかったら、犯人は重症の統合失調症の患者でしたので、簡単な精神鑑定で心神喪失が認められて、不起訴になっていた可能性が高い事例でした。統計上は日本全国では平均して3日に一件の割合で、精神障害者による殺人事件が発生している筈ですが、ほとんど報道されません。またほとんどの事例で、不起訴処分になるか起訴されても無罪として裁定されて、心神喪失者等医療観察法の処分に回されています。マスコミで報道され世間の話題になると、罪を正当に裁くという視点では、有効に機能します。

矢野真木人が殺害された事件では、刑事裁判で犯人に懲役25年が確定した後、私たちは病院を相手取った民事裁判を提訴しました。私たちは刑事裁判も民事裁判も全く同質の問題であると考えます。しかし報道機関の多くは、民事裁判は私的紛争であり公共の問題ではないとして報道を取りやめ、取材までも取りやめてしまいました。私たちは精神障害者の治療と犯罪の問題は公共性が高いと考えますが、報道機関は精神障害者に関する報道の自主規制という鎖に阻まれて、事実を探究する努力を放棄しているように思われます。精神障害者問題で報道の自主規制が行われることも、報道の二次被害と考えられる要素です。日本では、精神障害者の犯罪の問題がきちんと報道されないために、社会問題として認識されません。社会が問題の解決に取り組まないと言う二次被害が発生しています。

2) 町の人の眼と社会の無視

被害者が自分の周辺の人や町の人の眼を意識するのは、二次被害と言うよりは、自意識過剰であるのかも知れません。しかし多くの被害者が「町の誰もが私の事件を知っている」そして「町の人が私を見ている」、これではとても「自分が住んでいる町ではスーパーマーケットに行って買い物ができない」と言います。これは事件直後に新聞やテレビで写真や姿を報道されたために付随して発生することでもあり、マスコミによる二次被害に類する要素があります。

私たちの場合には、ある弁護士に「あなた達の息子さんが殺された事件が社会の話題にならなければ、犯人は不起訴になるでしょう。犯人の罪を問いたければ、社会の話題になり続けるように努力しなければなりません」と助言されていました。このため、私たちは新聞やテレビや雑誌の取材には全て応じました。私たちは覚悟を決めておりましたので、スーパーマーケットに買い物に行けないという心の障害はありませんでした。それでも初対面の人に「テレビで拝見しました」と言われることがたまにありました。また見ず知らずの人に「どこかでお会いしましたね」と言われたり、明らかに「私たちが誰であるか」に気付いて視線を固定する人もいました。父親はあまり他人の視線は意識しませんが、母親の場合にはこれはかなり気になることでした。

私たちが他の被害者と話をして気付いたことは、事件後の回復に無力であった人や破滅的であった人が、その事件当時に本人のマスコミ露出度が高い低いに関わらず「町の人がみんな私を見ている」と強く意識するようです。裁判で殺人犯人の責任を全く問えなかったり、犯人の弁明が通用して軽微な判決に終わったりする場合や、自然災害で人命が失われたけれど責任を誰にも取ってもらえないような場合に、自分自身の露出度が大きすぎると強く意識するようです。このような被害者は周りの冷たさや社会の中で自分自身が無力であることに絶望しています。そして自分自身の不幸を世間の人に知られるのが嫌なのです。さらに自分の不幸が世間の話題になると、新たな不幸の種になるのではないかとも恐れる心が生じています。また一方では自分自身の不運感と不幸感に悩まされるものの、自分たちが遭遇した不幸を世間の人に知ってもらって社会が改善して欲しい、しかし自分が最大の不幸に出あった人と他人から言われたくないと思い悩みます。このため社会の理解を得て不幸の原因を是正して欲しいという切なる願いの心が反転してねじれ現象が起こり「町の人に見られている」という心が現れているのかも知れません。

事件とその被害に対する社会の無視は被害者には二次被害です。しかしこれを二次被害と声高に主張する論理と手段を多くの被害者はもちません。「自分の不幸が社会の話題になるのは厭」しかし犯した罪に対しては「きちんと責任を取ってもらいたい」そして「きちんと処罰をしてもらいたい」と強い願いを持ちます。それで「このような不条理があることを世間に知ってもらいたい」と思うのですが「二度と再び自分自身が世間に露出することはこりごり」です。被害者から「町の人が私を見ている」という言葉を聞くと「実態がない自意識過剰」と判断しがちです。しかしその言葉の後ろには「事件が社会に見放された絶望感」と「被害に打ちひしがれた心」があると理解してもらいたいと希望します。

私たちの場合には刑事裁判で犯人に長期刑を確定して、矢野真木人の不慮の死は無念ですが、無力感と敗北感は幾分緩和しました。しかし多くの被害者は裁判でも成果を得られず、無力感と敗北感で苛まれています。それに気がつかない冷たい世間の眼や社会の認識も被害者の視点で見れば二次被害です。

3) 弱り目に祟り目

「隣の不幸は密の味」という格言があります。上記の「町の人の眼」は不特定多数の人々と被害者の関係ですが、被害者が隣人や友人などの知り合いから受ける二次被害も沢山あります。そもそも知人の殆どは殺人や傷害事件には興味がありません。また不幸な事件を聞かされるのも嬉しくはないのです。このため多くの隣人や友人からは事件直後には親切な言葉を沢山もらいますが、その実は助けにも害にもなりません。しかし傷害事件や殺人事件に遭遇すると、その被害者や遺族は少なくとも一時的には社会的に弱い立場に置かれます。治療のために長期入院したり、身体障害者になったり、また殺害されて社会から消えると本人が存在しなくなることが弱点になります。また本人や遺族が精神的に落ち込んでいる姿も、悪意を持った他人からは弱点と観察される要素です。このような弱点が認識されると一部の人間には攻撃性の牙をむくチャンスと理解される場合があります。特に周りの人間の中に被害者に対して不満や憤り等をもっているような事があれば、事件直後の最も弱体化している時が狙われます。また被害者が対応困難であるもしくは対応能力が劣っていることを見越して、計画的な攻撃が加えられることもあります。周辺に攻撃性が無い場合でも、被害者が落ち込んでいる間に、状況が変化して対応に遅れを取ったりまた機会を逃したりして、立場を悪化させる状況が発生する可能性があります。被害者が被雇用者である場合には、社内での昇進競争に遅れを取る状況もあります。また事件後の過度な落ち込みにより仕事を継続することが困難になったとして辞職を迫られる状況に追いつめられたり、業務怠慢などを理由として解雇される場合もあり得ます。

この種の状況を事件の二次被害と主張することは困難であるかも知れませんが、被害者が事件後に経済上もしくは権利上で最も大きな打撃を受ける可能性がある要素です。被害者は社会的にも個人的にも弱った状況であることが明白になりますので、反応力や対抗力が十分にありません。このため、攻撃に対する抑止力が低下していると見なされます。このような状況下では「隣の不幸は密の味」を賞味しようとする悪意を持った人間の出現を止めることは現実問題としては困難です。

4) 犯罪被害支援者の中立性

犯罪被害者支援活動をしたいという希望を持った方が私たちに接触してきました。人道主義的な視点で、善良な人間として素朴に社会の中で自分でも行える善行の目玉を探している雰囲気でした。「精神障害者に殺害されたこと」については「かわいそうに」という共感を持ちました。ところが「犯人には懲役25年が確定しました」と言うと「重すぎる刑罰です。あなたはおかしいと思いませんでしたか」という反応です。また私たちが「問題の本質は病院の精神医療にあるので、病院と民事訴訟で現在争っている」と言うと「その問題には中立的な立場です」という反応でした。

この「懲役25年は重すぎる」および「中立的」という発言に私たちは大きく傷つきました。相手は犯罪被害者支援活動と言って接近してきていながら「矢野真木人を殺害した行為の社会的制裁としての懲役25年はむちゃくちゃだ」また「犯人が入院していた病院に責任を問うことには、納得できない部分がある、あなたの主張には間違いがあります」と言っているに等しいのです。本人は中立的立場のつもりですが、矢野真木人が殺されて、矢野真木人の人命の復活を期待できない私たちから見れば「犯人野津純一の刑期短縮要求と、民事訴訟でいわき病院の弁護をする目的で、私たちに接近してきた」と疑える状況です。

犯罪被害者支援者の中立的立場の問題は、被害者支援の現場では重要な課題です。犯罪被害者基本法が成立して、日本国内では犯罪被害者対策の制度や人材が急速に養成されまた整備されています。特に人材面の特徴としては、犯罪被害者活動を専門職として就職する人々や新たに辞令を得て業務とする人々は「基本的には犯罪被害者ではない」のです。従ってそれら犯罪被害者問題の専門家たちの視点では、犯罪被害者に対して中立的であることが、業務上の理念や保身につながる要素が大きいと考えられます。ある意味では専門家は犯罪被害者にのめり込むのではなくて、距離を置いた対応が求められる要素があります。これは制度が整備される過程で発生する必要不可欠な問題の変化です。皮肉なことですが、犯罪被害支援活動で安定した仕事を得て、収入を得る専門職になる人々のほとんどは犯罪被害者ではありません。それが社会です。

この犯罪被害支援活動家の中立性は、犯罪被害者および遺族にとっては二次被害の原因ともなります。犯罪は全て加害者と被害者の関係で成り立ちます。犯罪被害支援者が「中立的」という立場を持てば、実は犯罪被害者や遺族には「加害者と被害者の間で中立の立場」そして「加害者と被害者の責任問題で中立的」と理解されます。この場合被害者が殺害されている場合には「被害者には殺されるだけの理由があった」また「加害者にも殺すだけの理由があった」と、全てではないとしても一部の理由を認めることです。被害者は殺されていますので生き返りません。結局、この場合の中立的な立場とは被害者が死亡した原因を容認することになります。中立的な立場を表明して被害者遺族に接することは「生きている加害者の立場を容認するように」と被害者遺族を説得する立場になる可能性があります。この態度を犯罪被害者支援活動家が取れば、被害者遺族は二次被害を受けたと理解します。他方犯罪被害者支援活動家は自分の立場は正しいと考えますので、事態の深刻さを理解できず、更に被害者遺族を追いつめるという悪循環に陥る可能性があります。

犯罪被害者支援活動家は犯罪被害者や遺族である必要はありません。しかしその活動の目的が犯罪被害者と遺族の支援である以上は、活動論理の基軸を犯罪被害者側の立場に置く必要があります。しかしながら、犯罪被害者の意見や主張が100パーセント正しいと言うこともありません。被害者は主観的に自らの利害関係を中心にして発言するでしょう。犯罪被害者支援活動家はこれに対して、客観的な視点とより広い視野で事象を見ることが可能であるという意味では適正で説得力があるでしょう。他方では犯罪被害者は被害を受けたことで心に深刻な傷を負っています。その人に対して、犯罪に対しては中立的な立場で「業務として冷静に被害者の個別課題に対応します」とするのは専門家による二次被害の発生を許容する態度でしょう。犯罪被害者支援活動家の姿勢の問題や、機微に触れる心のあり方、また話し方の上手下手などが微妙に関係する問題です。しかし犯罪被害者支援活動は近年拡大している活動です。このため前向きな姿勢で、旧弊を改善する方向性を持った対応が期待されると考えます。

5) 弁護士の意識

矢野真木人は精神障害者に通り魔殺人されました。矢野真木人と犯人の野津純一の間には事前の交流は全く無く、矢野真木人と野津純一が人生で初めて出会ったその時が犯行の時であり、矢野真木人には終末の時でした。矢野真木人は明確で完全な被害者であるにもかかわらず、相談した弁護士は誰も「統合失調症の患者は心神喪失で無罪であり、問題にならない。裁判で訴えようとしている、あなたがた遺族の考え方がそもそも間違い」と批判しました。また医療問題を専門としている弁護士は誰もかれも「矢野真木人は病院の患者ではありません。いわき病院の患者が許可外出中に殺害したとしても、病院を訴えるのはお門違い」と言って門前払いをしました。これは私たち遺族にとっては、弁護士による二次被害そのものでした。

私たちは日本全国を股に掛けて弁護士を探して断られ続けました。私たちは相手弁護士の断り口調を聞いて、弁護士の多くは「既存の判例」と「末端の法令解釈」にとらわれて「木を見て森を見ない人」がほとんどであると気付きました。このため最初は「大先生を見つければ戦いになる」と考えていましたが、考えを変えました。「弁護士はだれでも良い、肝心なのは原告である私たちの戦い方である、そうでなければ、そもそも勝ちの前例がないこの戦いでは勝負にならない」と考えを改めました。刑事裁判では懲役25年が確定しましたが、民事裁判は未だに継続審議中ですので、この問題には未だに結果が出ていません。しかし見えてきたところはあります。いわき病院は大先生を代理人に立てていますが、この大先生が展開する論理を詳細に検討して、私たちは「前例にとらわれた粗雑な論理であり、恐れるに足りない」と感じています。弁護士に断られ続けたことで、私たちの論理の足腰が強くなった側面があります。

6) 精神科医師の領分

矢野真木人は精神障害者に通り魔殺人されました。私たちは急いで法律書を開いて刑法39条を初めて読みました。また精神障害がどのような病気であるかについても全く無知でした。沢山の精神障害者の治療や犯罪に関係する本を買い込んで読み始めました。しかし本を読んでも精神障害者の実態を知らないために雲をつかむような状況です。ともかくいわき病院の精神障治療や、犯人の野津純一に関して情報を持っているらしい精神科医師に連絡を付けて面会を申し込みました。これに対してかなりの医師が「いわき病院は間違っていません」、それに「いわき病院の責任は問えません」、しかも「あなた方は間違っています」、従って「あなた方に説明する必要はありません」とにべもない対応をしました。それでもごく一部の医師が私たちに面会して状況の説明をしてくれました。

犯罪被害者の医師は同じ被害者でもあり専門分野に精通しており、良い相談相手になってもらえると最初は考えました。しかし私たちが精神科病院と主治医の法的責任を追及する立場であると知ると、その後はその医師の執拗な批判に晒されました。私たちが事件の詳しい情報をその医師に伝えていたために「(素人のぶんさいで)精神科医学会全体を敵に回す行為である」と激しく非難されました。

他方私たちに協力してくれる医師や精神障害者治療専門家も現れました。そうなると、私たちの障害となった精神科医師たちが私たちに言った論理は、反面教師として私たちには有用な検証材料となりました。このように困難な裁判であればあるほど、専門家の拒絶は相手側の視点や論理を間接的に教えてくれる有益な情報源でもあるのです。

7) 犯罪被害専門家の弱気

犯罪被害を専門とする学者や研究者にも往々にして課題が残ります。私どもが直面した問題は「精神障害者の犯罪を罰する事ができるか」と「精神科病院が患者を社会再適応訓練で外出させる事で、病院に責任が問えるか」という命題です。これまでは「精神病患者は病気であることで自動的に無罪である」また「病院外の患者の行動は、医療問題ではない、すなわち病院には責任は問えない」として、重大犯罪者でも「精神障害者の治療に専念させること」が人道的な配慮であり、倫理的に正しいとされていました。そもそも私たちの法廷闘争はこのような既存の学会常識に改変を迫る事無しには成り立ちません。

私たち夫婦は長男の矢野真木人を通り魔殺人されました。矢野真木人は死んだのです。どのような手段を用いても彼は生き返りません。このため私たちは限界まで思考を突き詰めます。命を失ったという結果から出発していますので、「まあまあ」で済ませることができませんし、また「もう少し時間を置いてから」と言う対処もありません。そのような言葉を吐く助言者は「役立たず」なのです。私たちは「精神障害者の人権と健常者の人権の共存の問題である」と考えます。そして下位の法律である刑法の運用で上位法である憲法の生存権が侵害されていると考えます。このような論理を犯罪被害支援活動研究者や学者に述べると、残念ながら真正面からの返事は帰ってきません。言われたことは「非常に微妙な問題です」また「自分たち研究者には、日本国内の学会における論理があり、(あなたに同調して)既存の学会秩序を混乱させる意見を主張するのは難しい」それに「それはこれからの問題です」また「私たちにも学者としての生命と評価があります」だから「その問題は、ちょっと・・」という逃げ腰です。

私たちは「重い統合失調症の患者に懲役25年が確定しました」という既に確定した事実を提示します。これに対しては殆どの方は「そんな事実があることを初めて知ったので、今この場では対応不能です、もっとよく確かめてからでなければ」と言う反応です。また「精神科病院の責任を追及して裁判が進展している、病院の責任は逃れがたいと判断される」と言っても、それが画期的で意味のあることとその場で理解する研究者はほとんどおりません。「つまらない私闘の話をして」という迷惑顔です。そして解るのは、被害者が直接的に対面しなければならない事件に関連した裁判などに対する犯罪被害を専門とする学者や研究者の「洞ヶ峠」的な逃げ腰です。犯罪被害者になれば、刑事裁判と民事裁判は必須の問題です。裁判に関心を持たない被害者支援研究家は肝心な問題を避けています。

学者の立場と被害者の立場は異なります。学者は安全な世界から観察して空理空論の世界に留まって論文を書くことが可能です。被害者は失われた権利回復のために、時期を失わずに裁判の場で戦わざるを得ないのです。訴訟問題の中には、日本の人権問題や社会問題の重要な判例となる可能性を持った事例が数多く含まれているはずです。時間は有限です。判決という結果は直ぐにも出ます。そのような現実の課題を対応して方向性を示すことで、日本の被害者支援研究活動の足腰が強くなると期待します。被害者の立場とは、否応なく裁判という争い毎に参加させられる立場です。単純に情けや恵みを与えてもらう援助対象の弱者の立場だけではありません。先ず第一に大切なのは法廷の場です。被害者は必ずしも学者に対してはブレーンになって欲しいと希望しているのではありません。自分自身が抱える問題に深い洞察力や示唆が与えられる可能性に期待するのです。

8) 犯罪被害者の世界

犯罪被害の二次被害の問題は、二次被害を受けたと認識する人がいる限り犯罪被害の二次被害は発生します。犯罪被害者の中には同じような事件でも犯人に科せられた罪には軽重の差違があります。また被害者と言えども、被害を受けた後の行動は一様ではありません。ある人が取った行動は必ずしも他の人にも通用するとは限りません。人にはそれぞれ行動に個性があり、受けた被害の種類や原因も異なります。ところが誰でも被害者は受けた犯罪被害の経験は強烈です。このために自分が取った行動を他人に強要する場合もあります。犯罪被害者どうしが集うと、お互いの心の傷を緩和するという側面もありますが、場合によっては思い込みと強要により傷口を広げる可能性が無いとは言えません。

また犯罪被害者も学歴や職業や専門性および社会的地位は千差万別です。私たちは精神障害者に息子が殺害されましたが、犯罪被害者のグループに医師や弁護士も会員として参加しています。犯罪被害者の間では、犯罪被害者である医師や弁護士は「先生」として高い地位が与えられており、その人たちの見識に「異」を挟む犯罪被害者は異端となりやすいのです。私たちの場合には「精神障害者による殺人被害」でしたのでそもそも犯罪被害経験者の「医師や弁護士など」の専門家としての見識でも見放されていました。同じ被害者ですが、他方では専門家であり「それは無理だ」と断定されると衝撃は大きいのです。

その私たちは刑事裁判で犯人に懲役25年を確定しました。すると弁護士は「あなた間違いを言わないでください。裁判官は精神障害者ではないと判断したから、長期刑をつけたのですよ」と私たちに対して「素人のたわごと」という態度で接して、私たちの努力の結果で「重症の統合失調症の患者に懲役25年の判決が出たのですよ」と言っても信用してくれません。また民事裁判で精神科病院を追いつめている状況を説明すると、他の被害者は画期的な参考事例として聞くよりは、私たちに冷ややかな態度をとる医師に遠慮してか「個人の特殊事例を発言するのは良くない」と制止されました。

ある意味では、犯罪被害者の中でも「犯人が詭弁と弁明で罪を逃れ軽微な刑罰に終わったことに不満を持ち、また犯人から賠償金を取れずに困窮している被害者」は可愛い被害者です。私たちのように「専門家をそれほど頼りにせず、また専門家が頼る前例をものともせずに、頑張る(強い?)被害者」は異端です。被害者の中にも事件の古さと経験とつちかった被害者活動歴という年功序列意識があります。このため、新参者が裁判の場で古参者の経験以上の成果を上げることに対するやっかみやねたみもあります。しかし私たちは言います。「犯罪被害は個別の被害者には深刻な人命と経済的な不利益を伴います。これを社会現象としてマクロな視点で見れば、個々事情の違いは乗り越えることが可能であり、それにより犯罪被害者救済の道は拡大すると考えるべきです。新しい被害者が成果を出してゆかなければ、進歩しません。状況は改善しません」

9) 協力者に及ぶ影響

私たちが犯人の野津純一と刑事裁判で、またいわき病院と民事裁判で戦う中で、沢山の協力者から証言や事実関係の提供、また専門分野からの助言などを得ています。このような協力者がいなければ、私たちは懲役25年の成果を得ることも難しかったでしょう。またいわき病院との精神医学的な議論で対抗することは困難だったと考えます。他方では、懲役25年の判決が確定して画期的であった背景には、「精神障害患者に長すぎる懲役刑は困る」という専門家や、「その判決は間違いだ」と主張する職能集団が沢山います。このため、被告病院の直接的な影響力が及ばない範囲からも、私たちの協力者の活動が困難になる「影響力」を受けている側面もあります。この「影響力」は既にいろいろな形で現れていますが、これも広い意味で二次被害です。


4、普遍性のある人権回復を求めて

全ての犯罪被害は個別事例です。個々の犯罪は個別事象の起承転結を元にして、法律の下で裁定されます。しかし犯罪を社会現象として見れば、個別の事象から普遍的な共通化される現象や要素が抽出できます。命を失った被害者は、個別事象の結果として死に至ったことは確かです。しかし社会の中で生きていた存在としては、社会の中に普遍化される現象や要素のために死に至ったとも言えます。このため自分が死ぬに至った原因に対して後に残された遺族が関心を持って、社会の中にある問題や障害を是正するために活動することが不慮の死に至った犯罪被害者本人の意思であると考えます。

死んだ人間に対して「あなたは死にました。だからあなたを殺した生きている犯人の人権や都合を尊重します」と言うのはあまりにも残酷です。殺人者は殺した行為により、社会の規則に従って、社会的責任を取り、社会的な制裁を受けなければなりません。

命を失った人は言うでしょう。

私たちの人権を回復してください。私たちの人権を回復することは、社会の中で普通の市民が安全に生活して、誰もの人権が守られることです。特定の人たちの人権擁護のために、普通の人が社会の中で生きて幸せを築く権利を奪わないでください。人権をあなたの職業の既得権にしないで下さい。私たちは生き続けられなかったことが、残念でなりません。私たちは生きて社会に貢献し続けたかったのです。命を失った私たちにも発言させてください。私たちは生きている人たちにより良い社会を残したいのです。

生きている、お父さん、お母さん、家族の皆さん、私に代わって頑張ってください
お願いします
残念ながら、私にはお願いするしかありません
本当は、あなたの代わりに、私がやりたかったのですが・・・
ああ・・・・残念です・・・・・
私は命を失ってしまった・・・・


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