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パレンス・パトリエ思想と医師の責任


平成19年4月5日
矢野 啓司

「パレンス・パトリエ」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。「いったい何のこと?、語感からしてフランス語かな・・」という、「何のことかわからない」という感想が一般的でしょう。また「精神障害者に対する強制医療の根拠が『ポリス・パワー』から『パレンス・パトリエ』に求められている」と言葉を並列して書かれると、「ポリス・パワーは警察権力だから、パレンス・パトリエはきっと権力の横暴を制限する民主的な素晴らしい言葉に違いない」と想像を働かせるのではないでしょうか。実際に日本国内でパレンス・パトリエを推奨している方々の中には「ポリス・パワーは公権力による精神障害者を拘束する非人道的な考え方だから、問答無用にダメだ。パレンス・パトリエでなければならない」と主張している人たちがいます。

私たちが矢野真木人の通り魔殺人事件でいわき病院を被告として提訴した裁判でいわき病院は「ポリス・パワーとパレンス・パトリエ」および「リーガル・モデルとメディカル・モデル」という言葉をお互いに対立する概念として言葉の意味を示さないで議論しています。いわき病院は「今日、精神科医療は、過去の患者に対する人権侵害行為を克服して、精神病に対するケアーを中心に治療を実施し、国民衛生の実現のためにあるべき、まさに医療なのであって、社会防衛の手段ではないという国際的コンセンサスが形成されていることは疑いない。精神病患者に対する強制医療の根拠が『ポリス・パワー』から『パレンス・パトリエ』に求められているのである」と主張しました。「それはアメリカ合衆国をはじめとする先進諸国の趨勢である」とまで言っています。いわき病院の主張からも「ポリス・パワーと関連づけて、排除するべき理念の根拠としてポリス・パワーと「過去の患者に対する人権侵害行為」を語られているように思われます。それでは、いわき病院が主張するパレンス・パトリエとはいったい何なのでしょうか。それは、「精神病に対するケアーを中心に治療を実施し、国民衛生の実現のためにあるべき、まさに医療」であり、先進諸国の趨勢と理解して私たちが従わされるべき、理想的な論理でしょうか。


1) パレンス・パトリエ思想とポリス・パワー思想

大谷実氏はポリス・パワーとパレンス・パトリエを以下の通り定義しています。{臨床精神医学講座22、精神医学と法、中山書店刊(1997年11月28日初版)のP.5の2精神障害者の人権、大谷実(以下「大谷論文」とします)}

○ポリス・パワーとパレンス・パトリエの前提条件

精神障害者の処遇は、意思能力ないし社会的適応能力が十分でないため、自らの利益となる医療保護を自主的・主体的に受ける能力がない精神障害者を対象とするものであるから、適切な医療保護および社会復帰の措置を行うためには、精神障害者に対する強制制限の行使が不可欠である。

この強制権限の行使に関して、

○ポリス・パワー(police power 警察権力)思想

強制制限の根拠を持って、精神障害者の社会に与える脅威ないし危険性を除去することに求めるのである。精神障害者は自らの行動を制御する能力を欠くから、社会の保安のために、その将来の危険な行動を予測して強制措置を講ずることが許される。

○パレンス・パトリエ(parens patriae 国親)思想

精神障害者は自己の医療保護的な利益を選択し、それを受けることを自ら決定する能力を欠くから、本人に代わって社会が選択・決定して医療保護を加える必要がある。
パレンス・パトリエは、具体的には医療保護の必要性を基準(treatment standard)として精神医療を実施すべきであるとする考え方であり、第2次世界大戦後における精神医療の国際的な理念となった。この理念に基づいて強制入院を手段とする医療保護が精神科医療の原則となった。

ところで、大谷論文では、「(既に)1963年に故ケネディー・アメリカ大統領が(パレンス・パトリエ思想を元にした精神医療でアメリカで強制入院が横行した反省として)『アメリカの精神医療は国としての良心をなやます』としてポリス・パワー思想を基礎として、精神障害者の精神病院からの解放を促進した」と記述されています。なんとアメリカではパレンス・パトリエ思想に依存しすぎた反省として、ポリス・パワー思想に基づいた市民的自由権の強化が行われて、精神障害者を精神科病院から解放して脱施設化(=精神科病院からの患者の退院促進)が図られた歴史的な経緯がありました。「(当時は)世界的な流れとしてパレンス・パトリエからポリス・パワーへのパラダイムの転換が図られた」とも記述しています。このように、国際的なコンセンサスの発展と形成過程の経緯や歴史が、いわき病院が主張する通りパレンス・パトリエ思想に全面的に準拠しているとは必ずしも単純には論じられません。

大谷論文は結論として「メディカル・モデルないしパレンス・パトリエを基礎としながら、リーガル・モデルないしポリス・パワーによって修正する形での両者の調和を目指す法制度の設計を図ることが適切なのである」と結論づけています。日本でも各種モデルに基づく思想の対立があるのは当然のことです。しかし論理を単純化して特定の思想に基づいた専断や思い込みを、あたかも誰もが従うべき既成の国際的な約束であるかのような論理展開をして押しつける行為は慎まなければなりません。大谷論文が指摘するパレンス・パトリエ思想の行き過ぎによる弊害が、最も多く発生しているのが日本の現実です。

ポリス・パワーと言うと警察力と聞こえます。しかしポリス・パワーを単純に国家権力や警察権力による統制や精神障害者の拘束というように理解して用いると今日の実体を踏まえないと考えます。「警察権力だからだめだ」という論理は単純に過ぎるのです。ポリス・パワーの概念もアメリカの経験によれば人権をどのように実現するかという考え方の一つです。私はむしろ「法律の基本原則である、公序良俗の維持というような概念に近い」と考えます。またパレンス・パトリエは国親思想と訳されていますが、「国や社会は自己決定能力が減退している人のために、親代わりになってその人の利益を考えて、社会的かつ公的な手続きで合意された基準に従って、その人のために自由の剥奪を含めた措置を取ることができる」と考えるのが最も適切でしょう。また、大切なことはポリス・パワーもパレンス・パトリエもどちらもそれだけでは、社会科学的な原理であり、直接的に医療の指針となる言葉ではありません。

現実の精神科の医療では、パレンス・パトリエを実行する主体が問題となります。いわき病院は「国や社会」を代表する意思決定は医師の裁量の問題だと主張しているのです。しかし、アメリカでは医師の裁量に依存しすぎた結果として入院を強いられた精神障害者の数が増大してケネディー大統領が「国の良心を悩ませる」と発言するような精神障害者の人権が阻害されるような事態が発生していたのです。パレンス・パトリエを実行する考え方には、「医療保護の必要性に関する公的な基準」という社会理念が組み込まれています。これは、医師の過失や誤りおよび不作為などを訂正させる機能もあわせた考え方です。医師が間違いや、過剰な精神障害者の収容を行った時の、フェイルセーフがパレンス・パトリエを実行するときには課題となります。


2) パレンス・パトリエの論理では医師の責任が重い

いわき病院は、「精神障害者に対する医療保護はひとえにパレンス・パトリエの観点に立ちメディカル・モデルで判断すべきで、医療的立場からのみ精神障害者に保護の判断を行い得る」とする考え方を強く主張しています。いわき病院が主張するとおり、パレンス・パトリエ思想に基づいて、医師の診断(メディカル・モデル)で精神科医療が行われるべきであると仮に仮定した場合には、いわき病院が主張するパレンス・パトリエ思想の妥当性が問題です。医療の実体が人権規範に基づいて行われていたのか、それともいわき病院がよりどころとするパレンス・パトリエ思想を乱用して自らの不正義や不作為を弁護するための道具にしていたのかが問題です。

五十嵐禎人によれば、パレンス・パトリエ思想に基づく精神医療の強制には、以下が前提条件となります。(司法精神医学2、刑事事件と精神鑑定、中山書店刊(2006年1月10日初版)のP.21、Ⅰ刑事精神鑑定の方法、精神鑑定と再犯予測)
  (1)医療の必要性があること
  (2)本人が同意能力を欠いていること

いわき病院は野津純一の治療に関して、
  ア)本人には矢野真木人を通り魔殺人した平成17年12月6日現在で入院を継続させるだけの必要性があったこと
  イ)本人は任意入院であり、同意能力を十分に保持していたこと
を前提として認めています。その上で「本人に同意能力があり、また野津純一は自由意思を持っている。このため野津純一に対して外出規制は行えない。従っていわき病院には責任はない。」と論理展開をしています。また一方では、「尊重すべき自由意思を持つ野津純一に外出許可を与えていた(=外出制限を行っていた)」ことも認めました。そもそも論理が矛盾しています。

ところで、上の(1)と(2)の条件は、両方とも認められると精神医療の強制が行えるのでしょうか、それとも片方だけでも精神医療の現場では強制措置を行うのでしょうか。いわき病院が野津純一に現実に行った医療では、平成16年10月に職員に対する暴力行為があったことに関連して強制的に閉鎖病室拘束処分が行われていました。いわき病院は「(1)の医療の必要性があれば強制措置を行っていた」のです。いわき病院は「(2)の本人の同意能力欠如(すなわち、自由意思の不存在)」を強制措置を行使する絶対条件とはしていませんでした。いわき病院は「医療の必要性」だけを根拠として野津純一に対して強制措置を実施していたのです。

実際日本の精神科の病院では「任意入院」した患者を安易に閉鎖病棟に拘束する処置が多発しています。そのことに関して第三者機関に十分な情報が伝えられて、患者の人権が擁護されているか否かについて、国際的には不信感を持たれているのが実状です。日本ではパレンス・パトリエに基づいて「医療の必要性」を声高に主張する医師は多いのですが、「社会的かつ公的な手続きで合意された基準に従って、患者の人権を守る」という視点を実行することが疎かになる傾向があります。

矢野真木人は平成17年12月6日に殺害されましたが、同年11月22日に主治医であるいわき病院長渡邊朋之医師は「プラセボテスト」の指示を出していました。そもそもプラセボテストというのは新薬の開発を目的とした薬の施用試験方法です。臨床の現場における治療効果を促進するための投薬方法ではありません。もし主治医が施用している薬の効果に疑問を持ったのであれば薬を変えてみれば良いだけのことです。そもそもプラセボテストを指示したことが医療行為として問題があり、不適切であった可能性が極めて高いのです。パレンス・パトリエという言葉の裏には、「医師の判断は不可侵」と主張する心が隠れています。

プラセボテストを指示した後では患者の病状が急変することが予想されます。このため主治医は野津純一の症状の変化に特に注目してその動向を慎重に見守る義務があったのです。しかし主治医であるいわき病院長渡邊朋之医師は11月22日(火)にプラセボテストを指示した後で野津純一を診察したのは11月30日(水)および12月3日(土)のみでした。ほったらかしだったのです。その間にも野津純一は絶え間なく、イライラ、手足の振るえ、歯痛、ムズムズ、喉の痛み、頭痛などの症状に悩まされ続けていました。

野津純一は可哀相に、12月2日(金)には「内服薬が変わってから調子が悪いなあ、院長先生が『(薬を)整理しましょう』と言って一方的に決めたんや」等と訴えていました。この言葉には、いわき病院長が自由意思を認めている野津純一に対して治療の説明責任を果たしてない実体が見て取れます。きちんと説明してこそ、精神障害の治療効果は上がるのです。また野津純一は12月5日には風邪気味であったにも関わらず主治医のいわき病院長渡邊朋之医師は診察を行っておりません。更に12月6日(火)の朝10時には野津純一は「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるんやけど、喉の痛みと頭痛が続いとんや」と言って異常な興奮状態でした。それにも関わらず、いわき病院長であり主治医でもある渡邊朋之医師はその日院内にいましたが診察をしませんでした。また切迫した野津純一の心理的な異常に病院として必要な対応を行いませんでした。その上で、野津純一はいわき病院が「許可外出」を行っている中で2時間後の12時頃に外出して通り魔殺人しました。

いわき病院がパレンス・パトリエ思想を治療の基本理念とするのでしたら「医師の権限がそれだけ重い」と宣言しているのと同じで、医師として果たすべき責任は大きいのです。いわき病院はパレンス・パトリエ思想を主張することで、「医師の裁量で精神障害者の処分はなんとでもなる」と医師の責任を意図的に軽く見る、言い逃れの論理にしています。このようにパレンス・パトリエ思想を、社会的な合理的な基準というフィードバックの視点を無視して、医師の裁量の問題と医師個人の医療行為を擁護する論理として使うのは不真面目です。いわき病院長渡邊朋之医師はパレンス・パトリエ思想を論拠にするのであれば、公的な資格を持った医師として十全な医療を行う責任が伴います。いわき病院では野津純一に対する精神障害医療に不作為がありました。


3) 社会的正義にもとるいわき病院

いわき病院は刑事裁判の判決を根拠にして「(刑法第39条によって)野津純一の罪が重くなればなるほど、外出許可を行ったいわき病院の責任は軽い」という人倫と社会正義の視点から見れば、極めて非常識な主張をしています。「野津純一の罪状が重ければ重いほど、野津純一の精神障害を治療していて、その上で外出許可を与えていたいわき病院の責任が軽い」と主張しているのです。この主張は「日本では入院中の精神障害者が外出中に殺人事件を起こしても、その罪が重いほど、治療していた病院の責任は軽くなる」という主張です。本質的なところで人倫を無視して、社会正義の実現を否定しています。なぜなら、精神科病院から許可を得て外出中の殺人行為が野放しになります。また「そのことを社会悪と認識することそのものが反社会的論理である」となります。現実に日本では、繰り返し殺人または人身傷害行為を行うけれど、罰せられないか軽微な罪しか問われないで、実質的に野放しになっている精神障害者が数多く存在しています。いわき病院の社会的不正義の論理には、日本でこれまで見逃されてきた重大な社会問題が背景にあります。

日本では犯人が精神障害者であると判明すれば、殺人などの重大犯罪を犯しても警察が逮捕しないことがあります。また逮捕されても、検察官が「精神障害者だから」という理由で不起訴にして罪を問わない場合が8割以上もあります。精神障害者であるという理由だけで、裁判も行われないことが日本では一般的なのです。その様な国は日本だけです。重大犯罪者を裁判にもかけない事例が横行する日本は特異な国なのです。

その上で、その重大犯罪を犯して不起訴や無罪となった精神障害者が精神科の病院で診察されると、(事件を起こしたあの時は、重大な症状だったかも知れないけれど、逮捕から解放までの間に時間を経ているので)既に精神障害は軽減したとか寛解したとして、入院すら行われずに通院ですますか、もしくは通院の必要もないとされる状況が多発しています。いわき病院が主張する「罪が重ければ病院に責任がない」は「無罪であれば、そもそも罪ではないので、病院に責任はない」と同じ論理です。どちらにしても、パレンス・パトリエとメディカル・モデルにこだわって、法治国家というリーガル・モデルや公序良俗というポリス・パワーの概念を排除する結果がこのような現実を生み出しています。

いわき病院はパレンス・パトリエ思想に基づいて野津純一に外出許可を与えていたと主張しています。このパレンス・パトリエとは社会科学的理念です。それを精神医学と主張するためにいわき病院はメディカル・モデルと言う言葉を組み合わせて、野津純一に対する外出許可は医師の裁量の範囲にある精神医学的判断であると主張しました。精神障害者の外出許可は医師の責任で行われると明確に主張したことになります。「医師の責任で行われた判断で、殺人行為が行われても問題ではない、犯人の罪が重ければ重いほど、医師には責任が存在しない」と主張しているのです。

いわき病院はパレンス・パトリエを「アメリカ合衆国をはじめとする先進諸国における趨勢」として根拠を説明しました。ところで、アメリカやイギリス等の先進諸国では、一旦形成された人格を医療では治療することが困難であるため、今では精神科医療の適用範囲から人格障害を除外しています。日本では大阪の池田小学校児童殺傷事件では犯人には反社会性人格障害がありましたが、同時に統合失調症を併発していたために、精神障害による罪の軽減(insanity defence)が懸念されました。結果的には本人が「私は精神障害者ではないと言った」として死刑が確定して執行されました。このように日本では法律執行の整合性を保つために、病気の認識を個人の理解の問題として、医療的判断を回避してつじつまを合わせていました。法治国家の整合性がいい加減なのです。

反社会性人格障害者による犯罪行為の問題に関しては、平成18年10月28日付け本HPの「CAC医療技術専門学校特別講義:英国とスペインにおける精神衛生に関する法律と精神障害者の法的責任」では英国ブリストル大学サイモン・デービース臨床精神学准教授は「反社会性人格障害者は一般的には精神病患者であると認定されず、反社会性人格障害を持ち正常な心で殺人を犯した者(mens rea)は殺人罪で有罪である。その者が仮に過去に統合失調症患者(insanity defence)であったとしてもである」と英国の考え方を述べています。そもそも人格障害者も精神障害者である(insanity defence)として刑罰を軽減するか、罪に問わない日本は、いわき病院が主張している「先進国の趨勢」からはとんでも無く逸脱しているのです。

アメリカ等の諸国では、精神障害者が犯した犯罪行為についても、精神障害者であること(insanity defence)を免責の理由にするのではなく、犯した犯罪行為に故意があるか否か(mens rea)を有罪無罪を決める法的責任有無の判断基準としています。いわき病院がアメリカに論拠を求めるのであれば、「野津純一は精神障害(insanity defence)が寛解していた、それは理非善悪の判断が可能ということであり、つまり入院による効果があったからだ、従っていわき病院には責任がない」と主張することは、自分の都合で理屈をごちゃ混ぜにして使っており、都合主義のそしりを免れないのです。なお、犯行当時いわき病院は野津純一を入院させていました、また近日中に退院させる予定でも無かった、と主張していますので、寛解していた(=治っていた)とは主張できないはずです。

いわき病院は刑事裁判の判決を受けて、結果論として「野津純一が殺人の故意を持っていた」(mens rea)としています。そのいわき病院は「精神障害が寛解していた野津純一の、自由意思に基づく殺人行為に関する故意(mens rea)を事前に医師が確認することはできない」と主張しました。その時点ではいわき病院は「野津純一に故意がある(mens rea)と病院側が有利である」と考えていたのです。そのため作為を持って、「野津純一の統合失調症は寛解していた(insanity defence)、野津純一には反社会性人格障害はなかった」と主張したのです。いわき病院は平成17年12月6日には野津純一を統合失調症で入院させていました。野津純一が寛解していたのであれば野津純一はその日には退院していなければならなかったのです。病気でもない者に、外出許可を必要とするような入院を継続させる理由がありません。いわき病院の主張は自分勝手で明らかに虚偽の主張をしているのです。またいわき病院が野津純一に数々の反社会行為を示す根拠があったにも関わらず、野津純一の反社会性人格障害を診断していなかったことは明確な精神医療上の過失です。このようないわき病院の主張と論理に本質的な社会的不正義があります。

いわき病院はパレンス・パトリエ思想に基づいて治療を行えば(メディカル・モデル)社会的不正義も許されると主張しており、極めて悪質です。このような論理がまかり通れば、日本で健全な精神障害者治療制度を運営して精神障害者が市居の市民として普通の生活をする社会を実現する障害となります。いわき病院がアメリカに論拠を求めるのであれば、なおさら野津純一の反社会性人格障害の診断を見逃すべきではないのです。いわき病院が、「野津純一は自由意思を持っていた」と主張するのであれば、野津純一に殺人の故意がある可能性に無関心であることを自らを自己弁護する理由としてはならないのです。いわき病院は社会に貢献する精神医療機関としては著しく不正義です。


4) 病床数が多すぎる日本の精神医療

大谷論文では1963年におけるケネディー・アメリカ大統領の反省として「パレンス・パトリエ思想に基づいて、医師の判断に依存しすぎた結果として精神科入院患者数が増大したことがアメリカにおいては人権侵害の可能性を拡大した」、として指摘されています。日本では、人口当たりの精神科病床数が諸外国に比較して著しく多く、その削減が困難であることは、かねて国際的な批判の対象となっています。1998年に公表されたWHOレポートによれば1990年現在で比較した人口1万人当たりの精神科病床数は日本29、アメリカ6.4、英国13.2、旧西ドイツ16.5です。日本の精神科病床数は削減困難で現在でも28程度です。

日本の精神病院はいわき病院の様な中小規模の民間病院が中核を形成しており、精神症状の急性期から慢性期まで、また思春期から老人まで、限られた人材と施設でミニ・デパートのようにあらゆるケースに対応しようとして病院の機能分化が行われていないことが特徴です。このため高度な水準を維持した精神医療サービスを提供する専門店の視点が希薄であると言われます。日本の精神障害者医療には以下の課題が指摘されます。
ア)強制的な入院を必要としない患者を重症と判断して入院治療を受けさせる可能性があり、人権という面から見て問題とされる場合がある。
イ)社会的入院者を含めて、必ずしも必要ではない長期入院を生み出す土壌ともなっており、平均入院滞在日数をのばす傾向がある。
ウ)経営を優先するために、入院治療に偏して、精神障害者の治療を促進して積極的な社会復帰を行うなど、経営的に不利益を被る活動には積極的になれない傾向がある。

日本では、精神障害の患者が一旦退院しても症状が改善されていることは少ないと言われています。何のことはない、同じ患者が退院直後から再び同じような症状で外の精神病院に転院してすぐに入院治療を受けるという、患者の回転ドア現象も指摘されています。アメリカでは1960年代に既に、パレンス・パトリエ思想で病院に入院させる患者数が増えすぎたと反省されていました。精神障害者の病院収容が肥大している日本の実体を踏まえれば、パレンス・パトリエ思想を振り回して、医師が行う精神医療を不可侵であるべき医師の裁量の問題とすることは、精神障害者の社会進出が遅れる原因です。日本で精神障害者の人権問題の改善に障害となる要素なのです。いわき病院が主張するパレンス・パトリエとメディカル・モデルは国際社会に対して誇るべき全能の論理ではありません。だからこそ、日本は国際社会から人権問題で批判され続けるのです。


5) 日本の精神科医療改善の方向性

いわき病院は「患者の保護という側面から特にその遅れを国際的に指摘されている日本の精神科医療の前進度がどの程度であるかを、国際社会から注目される重大な案件となり得る」と主張しました。私たちも日本の精神医療を積極的に前進させて、国際評価の高いものに改善する必要性を強く感じています。もし日本の精神科医療をいわき病院が主張する国際的な批判の対象にならないレベルにまで改善するとしたら、その明確な指標は病床数の削減です。仮に欧米水準の精神科病床数と同レベルを目標とすれば、日本全体では精神科の病床数を少なくとも現在から半減することです。理想的には3分の1程度まで削減する必要があります。

精神科病床数の削減は、日本国内の精神科医療機関の体質転換や専門化および統廃合などの変換を伴います。これには既存の病院の大きな抵抗が予想されます。しかしながら精神科病床数の削減を通して、上記3)で指摘したア)、イ)、およびウ)の課題にメスが入れられて、精神障害者の積極的な社会進出が促進されて、ひいては日本の精神障害者の人権回復の成果を世界に誇ることができるようになると考えます。このためには日本で積極的に精神科リハビリテーションが促進されて、地域精神医療が改善されなければなりません。私たちは日本の精神科医療が国際水準に到達することを心から願います。裁判の目的は、その改革の必然性と方向性を明確にすることです。

私たちは日本の精神科病院では「症状が比較的軽く、良好で効果的な精神科リハビリテーションが行われるならば容易に社会に復帰して、普通人として社会生活を送ることが可能な沢山の患者を、不必要に長く精神科病棟に入院させる傾向がある」と指摘されている問題を憂慮しています。またこの反対に、「反社会性人格障害を持つような病院内における処遇困難者を、その病状の重さに関係なく優先的に退院させて社会に解放する傾向があり、本当に入院治療が必要な患者に対して十分な医療やリハビリテーションが施されない傾向がある」とも指摘されていることを憂慮します。このように日本では精神障害者の人権回復の視点から見ても、改善すべき課題は大きいのです。


6) いわき病院における実体解明の必要性

いわき病院がパレンス・パトリエ思想を推奨していると言っています。そうであれば、それだけに「医療の必要性」の要素を重く受け止めて、野津純一に対する医療では積極的に行動しなければならなかったのです。ましてや、いわき病院長渡邊朋之医師は野津純一の治療に関連して当時はプラセボテストを指示していました。それにも関わらず、いわき病院長は必要な診察を行わず、状況悪化をいたずらに放置しました。その責任は極めて大きく重いのです。

今後は野津純一に対するいわき病院の精神科医療の内容が検討される裁判の展開を私たちは求めています。私たちはこれまで本件裁判の証拠として提出されたいわき病院のカルテや看護記録などを現在検討しているところです。いわき病院のカルテ記述は極めて杜撰で、汚らしい文字で書き連ねられています。読めない、判読不可能な記述も沢山あります。これでは、いわき病院内で職員間で正確な情報を共有することも困難ではないかと疑える程です。

カルテが余りにも汚く、内容が不備であるために、いわき病院では医師の指導性を有効に発揮して、医療情報を共有した有効なチーム医療を実施することが困難だと考えます。患者毎に作成する必要がある医療計画も、野津純一の入院の時、及び平成17年2月に主治医がいわき病院長渡邊朋之医師に代わった時の診断や医療計画の作成が杜撰でした。また、野津純一に対して行われた精神科リハビリテーションも極めてお粗末な内容でした。

矢野真木人が殺害された時、いわき病院長渡邊朋之医師は野津純一の主治医でした。主治医として平成17年12月6日のその時間に対応できない理由があったのであれば、病院管理者である病院長としては病院の機能を使って、有効な対処を行う義務がありました。裁判は野津純一が犯した通り魔殺人事件に関係したいわき病院の精神障害者医療の不備と過失を問うものです。しかしその本質は日本の精神医療が抱える問題点を解明して改善を迫るものであることを希望しています。このため、いわき病院内で発生していた野津純一の治療に関連した事実に基づいた議論を行うことが必要です。しかしいわき病院は「国際的な説得力を持つ判断がなされるため、安易に事実認定や法律評価をすることは回避されなければならない」と、現実を覆い被せようとしています。

終わりに

パレンス・パトリエは辞書を探しても見つけられません。医学大事典にも、医学英和辞典にも、精神保健用語辞典にも、どこにも書かれてありませんでした。このようなごく少数の専門家しか知らない言葉を使って、その意味を解説もせずに、「パレンス・パトリエは国際的な趨勢である」と言われても何のことかわかりません。

毎度のことですが、いわき病院からの文書に最初に眼を通したときには、外来語と見慣れない用語がちりばめられており幻惑されてしまいます。しかし、じっと文章や言葉を読み砕いていくと、論理の矛盾が沢山見えてきます。どうやら、いわき病院は自分でも良くわかっていないか、良く理解していない言葉を使って、自己満足に陥っているようにも見えます。この矛盾した論理を自ら気がつかないで、現実の医療を行っているところに、いわき病院の本質的な問題があると考えます。

このようなことでは国際的な評価を高める精神医療にはなりません。語るに落ちます。



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