被害者のタイムマシン
英国人作家のH.G.ウェルズが1895年に書いたタイムマシンは、学生時代に読んで雄大な時間の旅行をする主人公のタイムトラベラーにあこがれをいだいたものです。しかし後年私は英国に留学しましたので、タイムトラベラーが到着した80万年後の社会がエロイという地上に住んで仕事をしない人種(白人貴族の末裔)と、地下に住んで労働とエロイの捕食をする人種のモーロック(労働者階級や有色人種の末裔)に分化している様に、深く階級制に彩られた英国社会に対する作者ウェルズの批判があると考えておりました。
最近DVDでH.G.ウェルズの孫であるサイモン・ウエルズ氏が中心となって作成したアメリカ映画の「The Time Machine (2002 Warner Bros.) : 以下『新タイムマシン』とします」を見ました。基本的な構成はH.G.ウェルズのタイムマシンに準じていますが、この作品では起源1895年の「現在」に、2030年の「未来」が付け加えられて、起源80万2701年の「遠未来」および6億年後の「超未来」が描かれています。映画か描かれたのは西暦2002年です。オリジナルの旧タイムマシンと新タイムマシンがどのように違うかについては分析しませんが、新タイムマシンで描かれている情景には犯罪や交通事故の被害者として参考になる視点があると気がつきましたので、それを元にして本文をしたためます。
新タイムマシンの概容
舞台は1895年です。アメリカニューヨーク市のコロンビア大学の、当時スイスで特許庁の下級職員だったアインシュタインとも交友がある、若き物理学と精密機械工学助教授のアレキサンダー・ハーデガン(Alexsander Hartdegen)はセントラル・パークを恋人エマと一緒に散策して、恋をうち明け誕生石である月長石(ムーンストーン)の指輪をエマの指にはめて結婚を誓います。丁度その時、近くの林の影から男が現れて、ハーデガンから金品を強奪します。エマは婚約指輪を取られまいと隠しますが、強盗は指輪を要求して、もみ合いとなり、ピストルでエマを撃ち殺します。
ハーデガンは恋人エマの死に納得できず、自室に引きこもりタイムマシンの研究と製作に没頭します。4年後の1899年にエマをハーデガンに紹介した友人のコロンビア大学教官のフィルビーが「引きこもりを止めるよう」ハーデガンを訪ねて説得しますが、ハーデガンは「もう1週間の猶予をくれ」と依頼して、1週間後の再会を約束します。その後すぐにハーデガンはタイムマシンに乗ってエマが死んだ直前の1895年の世界に還ります。ハーデガンはエマをセントラル・パークで待ち受けて、前回殺害された公園の散策路を避けて、エマを連れて市内中心部に出ます。そこでエマにねだられて、ハーデガンはエマを街頭に立たせて待たせたままで花屋に入り薔薇を購入しようとします。その時エマは馬車にはねられて即死します。ハーデガンは「仮に1000回エマが生きている過去に遡ってエマを助けようとしても、エマは1000回異なる死に方をすることになる、その運命を変えるには、未来に行ってみなければならない」としてタイムマシンに乗り未来に向かいます。
未来に向かうタイムマシンの中でハーデガンは「The Future is Now : 未来は今ここに」という看板を見て、タイムマシンを止めます。それは2030年でした。町中の拡声器でコマーシャルが流れており、月の大地の地下で30メガトンの核爆発をさせて、大空洞を作り、月につくる予定の都市への移住促進キャンペーンを聞きます。ハーデガンは再び未来へとタイムマシンを操作しますが、時空の中で大きな衝撃を受けてタイムマシンを一旦停止します。時は2037年で上空の月は破壊されて、地上は月の破片が落下して大混乱の終末を迎えていました。ハーデガンはタイムマシンに乗って逃れて未来に逃げます。到着したのは80万2701年の未来でした。そこはH.G.ウェルズが描いたエロイとモーロックの世界でした。旧タイムマシンのエロイは白人の子孫のイメージでしたが、新タイムマシンのエロイはアフリカ人やアジア人の血も混交した人種でした。従順でおとなしいエロイは穏和な地上の世界に住んでいますが、モーロックに狩りをされて、老人になるまで生を維持できない存在でした。モーロックは奇怪な地下生活者でエロイを襲っては食人する怪物でした。また上空には破壊されて分裂した月が浮かんでいました。
このエロイとモーロックの世界には頭脳が背中にまで拡大した、超能力者のコントローラー(支配者)が居ました。ハーデガンはこのコントローラーから人類は2037年の月破壊で文明が破壊されて、モーロックもエロイもその末裔であること、またモーロックもエロイもコントローラーに念力で精神を支配されて、行動を制御され人口を調節されていることなどを話します。その様なコントローラーに支配されるコミュニティーは沢山あると言います。またハーデガンが望んで得られなかった、エマと結婚して二人の子供を得て幸せな家庭を築いている映像をハーデガンに見せて、「いくらタイムマシンで未来に来ても、一度失われた幸せは得られない」と話します。ハーデガンはコントローラーをタイムマシンに乗せて更に未来に向かう途中で、コントローラーをタイムマシン外に突き落として、6億年後の未来に到着します。しかし、6億年後の未来は、他にもいたコントローラーの子孫が人類を完全に支配する末世の世界でした。
ハーデガンは80万2701年の世界に舞い戻り、そこで「未来を変える」と確信して、タイムマシンのエネルギーでモーロックの世界を破壊してしまいます。そして、出会った黒人系人種の末裔のエロイであるマーラと新生活を80万年後の世界で築くことにします。映画の結末の映像は、80万年後の世界で、かつて自分の家があったと同じ場所でマーラに自分の研究室があった場所や庭があった場所などの説明をしている映像と、ハーデガンが失踪して1週間後にハーデガン家の家政婦(Watchet : 時を意味します)と友人のフィルビーが1995年の世界のハーデガンの家で話をしている姿が二重写しになります。ここで、現在も過去も未来も、ともに優位性がない同一の意味を持つ「時」であることが象徴されています。
現実から逃亡しても運命は変えられない
恋人エマを失った、ハーデガンはタイムマシンを使ってエマが生きている世界に舞い戻り、エマの運命を変えようとします。ところが最初はピストルを撃たれて「殺人された」エマは、次には「交通事故」で死亡します。ハーデガンは恋人エマに送ったムーンストーンの指輪を買ってきた「家政婦に死の原因があるだろうか」それとも「ムーンストーンを掘り出した鉱夫か」それとも「エマを引き合わせた友人のフィルビーに根本原因があるのだろうか」などと、エマの死を回避できたかも知れない過去の「原因」をあれやこれやと考えます。しかし、その様なことを一つ一つ操作してエマの人生を変えようとしても1000繰り返しても、「エマは1000回同じ時に何らかの事故に遭遇して死ぬ運命にあり、自分はその1000通りの異なる死に方を目撃する事になるだけだ」と考えます。
実は、この映像が象徴しているのは現在社会で頻繁に発生する事故による人命損失の大きな原因である「殺人」と「交通事故」の死は、共に死んでしまった人間には突発的であるし、その死で大きな心理的な影響を受ける遺族にも「突然」であることを示しています。「殺人」も「交通事故」も同じ事故であり、予め個人が予想できず、また死んだ個人の責任が全くない上に突然であるという意味では共に同じ死なのです。もしハーデガンが更に何回か過去に還りエマを助けようとしたら、自然災害による死亡など、やはりハーデガンもエマも望まない死が発生することになるのです。そのように映画の製作者は、現代社会における「理不尽な死」が多発する必然性を描いているように思われます。
1895年の世界に舞い戻ったハーデガンは恋人エマが最初(ハーデガンの時間では4年前)に死んだ「公園の遊歩道」を避けましたがエマは同じ時に「異なる場所」で「異なる理由で」死んでしまいました。ハーデガンはエマは最初の死では婚約指輪を奪われまいとしてピストルで射殺されましたので「婚約指輪がそもそも存在しなければエマは死ななかったのだろうか」と自問します。この姿は、実は家族を突然の死で失った遺族の誰もが持つ、「あの死んだ場所に行かせなければ良かった」「そもそも死んだ場所に行くことになる原因をつくったのは誰だろうか」などと繰り返し繰り返し、自問して自分自身を責め苛む心や様子を描写しています。肉親を突然の事故や事件で失った遺族は誰も、それぞれがさまざまな理由や要因を考えて、「あの時わたしがこうしておれば、(あの人は)今も生きているのではないか」「死ななくても良かったのではないか」と考えます。これは遺族の誰もが持つ悲嘆です。
ハーデガンは「現在の時間でエマの死の理由を探しても見つからない」と考えを飛躍させて、80万年後の未来に逃げます。ところがその未来は「より良い未来」では無くて、人類が家畜化された悲惨な未来でした。その80万年後の世界で、ハーデガンは「(その先の)未来を変えるために自分自身が現在(80万年後の世界)で働かなければ、未来(6億年後)はより悪くなるだけだ」と悟ります。そして、現実からの逃亡道具であったタイムマシンに残されたエネルギーを使って、「モーロックの世界という社会悪」を破壊して未来を変える決心をしてそれを実行します。
理不尽な死の原因に取り組んでこそ
ハーデガンが創ったタイムマシンは現実から逃亡するための道具でした。映画の世界にいない現実の私たちはタイムマシンに乗って異なる時代に行くことはできません。しかし、事件が起きた場所から逃げることはできます。また宗教その他で自分自身の関心を変えることによって、現実から逃避することもあります。このように悲劇の場所を見なくする事や、悲劇から遠くの場所に移動すること、また心を閉ざすことなどで、苦しみから逃れることも可能でしょう。
ハーデガンは最後に現実から逃避するための道具であった、タイムマシンを破壊して、タイムマシンが放射するエネルギーを使って、80万年後の世界の最大の障害であったモーロックの支配を打倒しました。これは何を象徴しているかというと、「現実から逃避せずに、自分自身が突き当たった最大の障害を取り除くことが、社会に貢献してより良い未来を作り上げる事である」という、比喩だと考えます。
理不尽な事件や事故の背景には、「何故その事件や事故が起こるに至ったか」という社会の問題が潜んでいる可能性があります。その問題から逃げずに、その問題の解決を促進することで、未来の社会は良くなるのです。またそうしなければ、モーロックが支配する社会のように社会悪に取り込まれた未来が待っているのです。
被害者の視点を社会に活かそう
現代社会では、人命の存亡に関係する被害者は「犯罪被害者」「交通事故被害者」「自然災害被害者」「戦争や社会的混乱による被害者」など被害の原因は枚挙に限りがありません。しかし現実に死を目撃するような被害を受けてみると、肉親を失うという心の苦しみは共通します。身近な人間を失った苦しみは、残された私たち自身を責める心になり、私たち自身を限りなく苛なみます。
しかし、被害者にされた、私たちに悲しみをもたらした事件や事故や災害などには、社会として考えるべき要素や是正されるべき課題などが必ずあります。社会として有効に対処すれば防ぐことができたか、もしくは危険度を軽減することができた可能性がある要因は必ずあります。被害者にはそれがより鮮明に見えるのです。
被害者といっても一様ではありません。被害を受けた原因や被害の様子は、被害者一人一人で異なります。しかし、被害を受けて心に大きな衝撃を受けた様相には共通した心の苦悩があります。それを共通事項として、再びあのような悲劇が起こらないようにするために、また、悲劇が少しでも少なくなるように、手を取り合ってゆきたいと希望します。
被害者には現実から逃れるタイムマシンは不要です。現実と向かい合って、被害の経験を通して、少しでも被害を軽減するか少なくするように、社会を改善する道を指し示すことが、命を失ったあの人への供養であると考えます。それが理不尽な死で終わったあの人に最後に残された、唯一の社会に貢献できる道なのです。
被害者のタイムマシンへの読者の意見
私は一旦上述の「被害者のタイムマシン」を書き終えて、友人に配布しました。すると数人から以下のような感想が寄せられましたので、「Aさん、・・・」というように、書いた人のイニシアルでもない記号として紹介します。これらご意見には矢野が加筆して編集した部分がありますので、Aさん以下の文章の文責は全て矢野にあることをお断りします。
Aさん
いつもと趣きが違って、
また別の角度から考えさせられる、
いい文章だと思います。
Bさん
「タイムマシーン」は、
これまでの矢野さんの思いや考え方、
そしてこの事件と一連の精神科医療について、
知っている人が読むことを私は希望します。
Cさん
「被害者のタイムマシン」興味深く読みました。
人の死をどう考えるか、被爆者の話など犯罪に限らず理不尽な死を身近に経験したときに感じる自分を責める感情は素直なものだと思います。その感情に沿って人それぞれが納得できるような解決策を求めることも、理解できます。
映画で示唆されたように過去は変えられないという限界はあるでしょうが、矢野さんが書かれた「被害者の視点を社会に生かす」という方向は、大切な視点だと思います。恨みの感情を超えて社会的に意義のあるものにしていくこと、全く同感です。
Dさん
原作を知りませんが、「新タイムマシン」でハーデガンが破壊した”モーロック”は、個性と社会を含みますね。矢野さんの引用法と意欲に期待せざるを得ません。また矢野さんのメールは、職場その他で配布をしております。
ついでに、「被害者のタイムマシン」への他の読者の感想文も私たちにもメールして配布していただいて、読ませていただければと思います。
H.G.ウェルズと聞いて、少年期に読んだ宇宙人と装甲船の喧嘩の場面ぐらいしか記憶にありません。その頃、読み物に社会批判的要素を感じる能力は無かったようです。私の青春時代は、育った混乱の多い家庭から何時か独立できるのだろうという希望で耐えていた時代でした。
Eさん
タイムマシンのエッセーを読みました。参考になるかどうかわかりませんが、読み終わってS.C.Royという看護学者の理論「適応理論」と一致すると感じた次第です。例えば、クリントン大統領(当時)は、「酷い胸の痛み」を訴えていましたが、ある日の午後に「自伝の出版記念サイン会」が開かれました。記者会見やらサインに夢中になっている間は例の痛みは感じなかったのです。つまり、焦点刺激としての「胸の痛み」は,サイン会というイベントによって残存刺激となっていて、「現時点で感じない」という状況を引き起こしたという事です。上記の例のように、(焦点刺激)→(関連刺激)→(残存刺激)という図式で、刺激自体は決して消えることはないのです。
Fさん
タイムマシンのお話は、最初の方は私も読んだことがあります。階級社会に対する一種の社会風刺だとうけとめたと思います。
あとのお話は初めてです。何回も違った死に方をしなければならないとしたら、エマにとっては死は避けられないことだったという、一種の運命論になっているみたいですが、それでもコントロ−ラを破壊することによって、「より良き未来が人類に訪れる」ということを、ハ−デガンは信じることができたのですよね。
私たちが何のためにこの世に生きているのか、ということについては、私も確信があるわけではないのです。しかし、従来言われてきた「『私たちは幸せを求めて生きている』というのとは、何か違うのではないだろうか」と考えています。メ−テルリンクの「青い鳥」というお話も、日本では「幸せの青い鳥は実は身近なところにいた。高望みをして苦労するよりも、平凡な日常の中にこそ幸せはある。」という結末のお話として流布しています。本当の「青い鳥」は、「家で見つけた青い鳥もどこかに飛んでいってしまい、『本当の青い鳥はどこにいるのだろう。私達はそれを見つけることができるのだろうか。』」という結末であると何かで読みました。
その方が示唆的であるかもしれない、と私は思います。そもそも「私達は幸せを求めて生きている」のだとしたら、もうとっくに私たちは幸せになっていなければおかしいでしょう。でも、現実には殺人、交通事故など、増えてくる一方のような気もします。これも何かで読んだのですが、「実は求めているものはすでに得られて居て、私たちはそのことに気づいていないだけなのだ。」という考え方もあるようです。「人生は私たちにすべてを与えてくれる。ただ私たちはそのことに気づいていないだけなのだ。」と。
私は「私たちがこの世にある理由は、いろいろな苦難の中から、魂を向上させるためである。」という考え方に惹かれます。あるいはきれいごとかもしれません。でも、そう考えないと「私たちがこの世でこれほどの苦難を引き受けなければならない理由が理解できない」と思うのです。「私たちはこの世であらゆる辛酸をなめて、そこから自身の向上に役立つ何かを得て、自身の魂を向上させんがためにこの世を生きている。」そう考えて、残りの人生を生きて行きたいと考えているところです。
聖書に「○○でない者は幸せである。その者には与えられるであろう。」的な言い回しがあったと思います。このような文言も、あるいは上述のように考えたときに理解できるものなのかもしれません。その意味では、偉大な宗教は、あの世とこの世を結ぶ架け橋であるとともに、私たちがよりよく生きるための生き方をも示してくれているように思えます。
タイムマシンは私たちの頭の中に
私が書いた「被害者のタイムマシン」は犯罪被害者として見たH.Gウエルズ原著のタイムマシーンを元にして作成されたワーナー社のタイムマシン映画(The Time Machine, Warner Bros. 2002)を見た、息子を通り魔殺人された殺人事件の被害者家族としての感想です。タイムマシンは本質的に19世紀末に考え出されたSFです。そこには、現実の科学技術ではあり得ないこと、また理論的に未来の科学でも到達できないと考えられる場面や条件などが設定されています。映画の前提はタイムマシンという時間移動の装置が製作可能という仮定の上に成り立っています。このような、時間を自由に前後に移動することを可能にするタイムマシンという機械は「どのように未来の科学技術が進歩してもこの世には存在する事はない」と私自身は考えています。
1895年にH.G.ウエルズが書いた旧タイムマシンも孫のサイモン・ウエルズが中心となって2002年に作成した新タイムマシンの双方には共通したタイムマシンの性能があります。双方のタイムマシンは主人公(旧著ではタイム・トラベラー、新作ではアレキサンダー・ハーデガン)が自分自身の書斎の中で作成した時間移動装置に乗り込んで、地球表面の軽度と緯度と高度などの座標位置を変えずに、4年前の過去と6億年までの未来までの間を時間移動します。このタイムマシンは空間移動をしません。これが新旧タイムマシンの基本的な性能です。
この、地球上の定点を固定した時間移動の概念は、漫画ドラエモンの「タイム風呂敷」でも同じです。ドラエモンが手にした風呂敷の中だけで時間が前後に移動します。さて、このような、地球上で定点が固定された時間移動はそもそも可能でしょうか。地球は自転していますので地球上の定点は高速で回転運動をしています。地球は24時間で一回転しますので赤道近くの地球表面は毎秒400-500メートルの高速で移動していることになります。その地球は太陽の回りを年に一周しますが、これも秒速になおせばものすごい速度です。更に太陽は銀河系宇宙の比較的外側を数億年で周回する恒星です。また銀河系宇宙も大宇宙の中で他の銀河集団との間で相互に運動しおり、その上大宇宙そのものが膨張しています。このように考えれば、地球上の定点が置かれている座標系も不確定ですし、仮に座標系を仮定してもその上で地球がどのような運動をしているかも算定できないでしょう。1年前に私たちがいた場所と現在と1年後では、宇宙空間の中では莫大な距離を離れているのです。そもそも絶対に移動しない定点などありませんし、その位置を決める座標系もあり得ません。「明確に言えることは時間移動は壮大な宇宙空間の移動」なのです。ウエルズが描く新旧どちらのタイムマシンにも空間移動装置は組み込まれておりません。そもそもその様な機械で時間移動をすることは不可能なのです。仮に時間移動が可能であるとしても、時間移動をしたとたん、宇宙空間のどこかに放置される結果になります。
ウエルズが考えるようなタイムマシンはあり得ませんので、ハーデガンが何回も過去に帰って恋人のエマを救おうとすることもあり得ません。新タイムマシンではそれが可能であると仮定した上で、「1000回過去に引き返して、生きているエマの1895年に死すべき運命を変えようとしても、変えられない」と言う宿命論で筋書きが作成されています。この宿命論に「私は合意する」または「それはおかしい」という議論はしないことにします。この物語の中では本来宿命論の妥当性を議論することに意味はありません。ここで象徴されていることは「『既に発生した事実は変えられない』『死んでしまった人間は生き返らない』という事実の認識が大切である」という事実認識です。
現実には私が指摘したように、悲劇が目の前にあると「事実を認めたくない」という行動様式を選択する人も沢山おります。新タイムマシンが宿命論を持ち出してまでして言っているのは、「過去は変えられない」という事実です。被害者になって大切な家族を失った人は、必ず、過去に遡って「あの時あのことを変えていたら、あの人は死なないですんだのではないだろうか」という自責の心を持ちます。その様な過去を変えられたかも知れないと言う、自責の念を持つことが無意味であるという、象徴として理解するべきであると考えます。身近な者の命を失った人は皆、過去のあの人が生きていた時間にもう一度帰りたいという思いで、心の底でタイムマシンが実現することを願っているのです。
新タイムマシンで描かれた描写にはそもそも「おかしい」という疑問を出せば限りがありません。ハーデガンはタイムマシンに乗って時間移動している間、外界の世界が変化する状況を眼で映像として見ています。ハーデガンが周囲の状況を見ているのでしたら、実はハーデガンの研究室に入れば、現代から6億年の未来まで継続して、ハーデガンが時間移動している姿が見えるはずです。ハーデガンが時間移動を始めたとたんハーデガンの姿が消えるはずもありません。時間移動している間ずっと移動者には周囲の状況が見えて、周囲の人々からは時間移動しているハーデガンの姿が見えないというのは大きな矛盾です。
さらに、ハーデガンが80万年後の未来に移動する間、ハーデガンはグランドキャニオンが形成されるほどの地形の変化を目撃しました。グランドキャニオンは数千万年の時間をかけて形成された地形であると考えられますので、80万年では変化を観察するには短すぎる時間です。また6億年後の未来はモーロックが支配する末世になっていましたが、人類の子孫であるモーロックが6億年もの未来まで本質的に同じ動物として継承されるとするには時間が雄大に過ぎます。生命が海から陸上に上がったのが3億年程度前のことで、3億年もあれば、両生類のような生物から人類に達する程度の途方もない進化の時間があるのです。その2倍の時間の6億年の未来まで、現代の人間に近似した体型のモーロックの支配が固定すると仮定することは、SFとしての単なるお話です。6億年も時間が経過すれば、大陸移動説に従えば、現在の地球上の陸地の様相は全く影を留めなくなるほどに変化するでしょう。ニューヨークがあるマンハッタン島はヒマラヤのような大山脈の上にあるか、それとも深海に沈んで地殻に飲み込まれるか定かではありません。
H.G.ウエルズがタイムマシンを書いた1895年の科学知識は、時間軸を前後に移動可能と仮定できるニュートン力学の世界でした。2002年のタイムマシンはアインシュタインの相対性理論やプレートテクトニクス理論で大陸移動を知った上で作成されています。その上で、純粋にダイナミックな映像を提供していると考えて楽しみたいと思います。
旧タイムマシンの主役はタイム・トラベラー「時間旅行者」でした。新タイムマシンの主人公はアレキサンダー・ハーデガン(Alexander Hartdegen)です。語感から来る私の類推で明確な確証はありませんが、アレキサンダーの名前にはアレキサンダー大王という、古代ギリシャ文明の使徒としてインドにまで遠征した大王という、文明の超越者を想定しているように思われます。またハーデガンの名前は、「Heart de Gene」すなわち「遺伝子の心」というような比喩があり、恋人のエマ(Emma)には「再生」という比喩があるように思われます。更にハーデガン家の家政婦のウオチェット(Watchet)とは「時計」ですので、時の象徴です。又重要な脇役のハーデガンの友人のフィルビー(Filbee)は頑固な保守的な考え方の持ち主として描かれております。言葉の解釈としては大胆に過ぎるかも知れませんが、ミツバチのような社会をつくるけれど「固定方式化した情報のやり取り=固定した文化にしばられた」存在を象徴しているように思われます。映画の最後はこのフィルビーが、古い権威主義的な文化の象徴である山高帽を投げ捨てるところで終わっています。すなわち、新しい文明の時代が始まると予告しているのです。「未来に期待しよう」と呼びかけていると思われます。
H.G.ウエルズ著の原著のタイムマシンを学生時代に読んで、私が「社会風刺」を読み取ったかと問われれば、まるで社会風刺性が無いSFとしか読んでなかったと思います。80万年後の未来の世界でエロイが「労働しない代わりに食人される」と言うところに風刺を感じるべきところでしょうが、単なる怪奇物として読んでいたと考えます。今原著が手元にありませんので記憶をたどれば、タイムトラベラーの80万年後の恋人はウイーナだったと記憶します。新作のサイモン・ウエルズのタイムマシンではマーラでした。私自身は作曲家のグスタフ・マーラー(1860-1911)についてあまり知識はありませんが、歌曲集が「さすらう若人の歌」「嘆きの歌」「大地の歌」などとなっておりますので、ハーデガンの心のさすらいと到達点を象徴しているようにも感じます。
最後に、タイムマシンは私たちの頭の中にあるのです。私たち人間の頭脳は歴史を遡り過去をあたかも眼の前に見える話として再現することができます。また未来も、高度に科学技術が進歩してバラ色になるか、それとも地球温暖化で破局を迎えるかは議論の余地がありますが、想像することができます。私たち自身は過去の出来事を経験として未来を見ています。ハーデガンも経験した、家族や身近な人を失うという被害者の立場は嘆きで覆われています。そこから、私たちは「あの時、あのことが違っていたら、あの人は生きていた」という悲しみを持って、それをバネにして「未来の人間がより良い社会に生きる礎にできたら」と希望することも私たちの頭脳の活動です。「それが私たちのタイムマシンではないか?」と考えます。新タイムマシンの最終場面で、フィルビーが古いしがらみの象徴である山高帽を脱ぎ捨てたように、現在に生きる私たちも「未来に向かって前向きに生きてゆきたい」と希望します。
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