人類的視点で日本に人権を求めるには
矢野真木人が平成17年12月6日に刺殺された後で相談したほぼ全ての日本の法律や刑事罰の専門家は、殺人犯人が精神科病院に入院中で、しかも社会復帰に向けた外出訓練中の事件であると説明しても、「だめだ、戦いになり得ない、心神喪失で無罪だ」と簡単に反応しました。「統合失調症の患者はすなわち心神喪失無罪」という図式にこり固まって、思考停止するようでした。私どもから見れば、社会復帰に向けた外出訓練をするほどに、犯人には法的責任能力が備わっています。しかし法律の専門家は誰もそれは検討する必要もないと問答無用でした。病院は記者会見で外出許可を与えたと言っていましたので、当然のこととして、訓練で外出を許可した責任を負うと考えました。ところが相談した医療裁判の専門弁護士は、「病院の患者に殺された矢野真木人は病院の患者ではないので、医療裁判の対象にもならない」と冷たく言いました。「弁護士は現在の法律の範囲内でしか物事を考えない、法律にないことを要求するあなた方が、間違っています。」このようにも言われました。「法律の解釈とか、当てはめ方などの視点があるでしょう・・」と思いましたが、「刑法第39条の運用に何の疑問もない」と冷たい態度でした。
矢野真木人を殺害した野津純一に下された懲役25年の判決は画期的でした。野津純一は裁判で重篤な統合失調症の患者であると認定された上で、犯罪を計画する意志能力と、犯罪後に自分自身の責任を認識する事理弁識能力が認められて、心神耗弱ではあるが責任能力があり懲役25年の判決が確定したのです。野津純一の場合、過去の判決事例であれば、本人の計画性や認識能力などはまるで検討されず、「重篤な統合失調症の患者である」との診断書だけで「心神喪失で責任能力を問えないので、無罪」とされるべき人間でした。日本の精神鑑定書の記録を読むと、医師が長時間かけた精神鑑定を行う場合でも、余りにも安易に、「統合失調症=心神喪失」の公式を乱用しており、医師の診断書でそのまま無罪放免されてきたのです。もっと許せないのは、僅か30分もかけない面接で安易に「統合失調症=心神喪失」の診断書を書く医師や、検察から依嘱された医師自らが診察せずに補助スタッフに問診をさせて「統合失調症=心神喪失」の診断書を書いたとする事例まであります。このような安易な姿勢で、人間の命を奪った殺人者に責任が問えないとして、野に放なってきたのが日本の現実です。これが日本の法律運用の実態です。
日本の精神鑑定がいい加減であるのは、例えば「麻薬の誤用で、混乱状態だったので心神喪失」、「深酒を飲んで、殺害当時酩酊していたので心神喪失」という精神鑑定がまかり通っています。精神鑑定の大家が本に書いてあります。そもそも所持することが犯罪である麻薬を誤用して無罪になることがおかしいのです。罪がより重くなっても、軽くなるはずがないのです。また飲酒で酩酊した場合も、殺人を意図していて深酒をする行為に責任が問われてしかるべきです。麻薬も深酒も自分の意志で使用や飲用します。その結果の犯罪行為に心神喪失を適用すること自体が社会正義に反します。犯罪時に心神喪失だから罪に問われないとするのも、心神喪失である者の多くが目的意識を持った犯罪を行ったと疑えることに疑問を持ちます。このような法律の運用自体が、非常識です。
野津純一に対する刑事裁判の判決の後で、「統合失調症の患者に懲役25年の判決が確定した」と言うと「矢野さん、あなたは間違っています。あなたが統合失調症と言っているだけで、裁判官は病気か寛解しているから、25年の判決を下したのですよ。誤解してはいけません。」と犯罪被害者の救済を専門にしている弁護士からたしなめられました。これには驚きました。「精神障害者による犯罪被害を救済しなければならない」と言う、その専門家が、野津純一に対する判決の事実関係を認めようとしないのです。
私どもは、野津純一が入院していた高松市のいわき病院を相手取って民事裁判を行っています。ここでも、明らかになったことがありますが、いわき病院の弁護士は日本精神病院協会の顧問弁護士でもある、精神障害の裁判では高名な方の様です。その弁護士が、判決文を読まなかったのでしょうか、「刑事裁判で懲役25年の判決が確定したことは、野津純一の統合失調症が寛解したことである。その素晴らしい治療効果を上げた病院には責任はない。」と主張しているのです。「統合失調症=無罪」という公式を自明のこととして、また先入観にして、弁護士が裁判所に刑事裁判の判決と矛盾する答弁書を提出しました。専門家であるが故に、刑事裁判の根拠を判決文を読まずに誤解しています。
話は変わりますが、最近DVDビデオで「ロレツォのオイル:Lorenzo’s Oil(ユニバーサルフィルム)」を見ました。話の概要は次の通りです。ロレツォ少年は5歳でALD (X-linked Adrenoleukodystrophy: 副腎白質ジストロフィー症)という遺伝病を発病します。この病気は5歳から10歳ぐらいの男の子だけが発病して2年以内に死亡する難病です。病気の原因は脳の神経細胞を取り巻く絶縁体である外鞘の構成成分であるミエリンがC24—26飽和脂肪酸の蓄積で阻害されて外鞘が剥離して、脳神経細胞がむき出しとなり異常漏電の様な状況になり、脳の機能が冒されて発狂したような状況で死亡します。最近発見された難病ですので、昔は幼児の突然発狂による異常死とされていたのでしょう。
ロレツォの父親は世界銀行に勤める開発経済の専門家ですが、ロレツォに食事療法や免疫療法を勧める医師が、確たる論理的な展望や確信が無くて、ただ闇雲に治療法を試している実体に気付きます。医師はロレツォをめずらしい症状の患者として、教室につれてゆきで学生に見せたりもしました。ところが、どの医師の治療でもロレツォのC24-26飽和脂肪酸の血中濃度は治療前より高くなり、またインターフェロンで髪の毛も抜け落ちてしまい悲惨な状況になります。データが悪化しているのに医師は治療を長期間継続しなければ効果は出てこないと言います。疑問を持った父親は、一念発起して自ら医学専門書を読みあさり、またC24-26飽和脂肪酸の代謝に関する研究論文を研究します。そしてポーランドの研究者がネズミを使って、C24-26飽和脂肪酸の代謝抑制を記述した論文を見いだして、その考え方を人間であるロレツォに応用しようとします。しかし、ロレツォの主治医や、自ら二人の子供がALDであるためALD家族会を設立した生化学者でもある会長夫婦の双方から大反対にあいます。他に研究論文が無いとか、危険であるとか、が理由です。ALD家族会の会長は、仮に患者であるロレツォの命を長らえることができたとしても、ロレツォの苦しみの期間を引き延ばすだけであり非人道的である、治らない病気であるのに安易な考え方でむやみに苦しみの期間を引き延ばすのはロレツォのためにならないとまで言います。
ロレツォの父親は、食品会社をさがして目的とするC24-26飽和脂肪酸を純粋に取り出してくれる研究者に依頼して特別に製造してもらいます。そしてその油をロレツォに食べさせます。この時、近所の八百屋にもALDの息子がいるため、八百屋にも高価な油を分けます。悪役のC24-26飽和脂肪酸をあえて食事で摂取させて、代謝拮抗を誘発してC24-26飽和脂肪酸の体内生産を阻害して血中濃度を下げるアイデアは大成功します。ロレツォのC24-26飽和脂肪酸の血中濃度は劇的に低下して正常値になりました。ロレツォの両親はこのことをALD家族会の会議で発表して、ALDで苦しむ子供達にいち早く普及しようとします。ところが、ALD家族会の会長夫妻と、ロレツォの主治医はともに「たったロレツォの1例で、会として他の会員に有益情報として広報はすることはできない、危険だ」と突っぱねます。これに対して、ロレツォの油を分けてもらって子供に食べさせた八百屋の母親は「1例ではない、自分の息子も食べたので2例で成功した、危険もない」と援護発言をします。その議論を聞いていた、他のALDの子供を抱えた親たちが、「正式の医学的な調査結果が出るまでは待てない、少しでも可能性があるのであれば、自分の子供に試したい、調査結果を待っていたら子供は死んでしまう。」と会場が大騒ぎになります。
DVD映画によれば、その油は「ロレツォの油:Lorenzo’s Oil」としてALDの治療に効果が認められているそうです。ロレツォはC24-26飽和脂肪酸の血中濃度が低下しただけでなく、徐々に神経機能が快復します。重症の時にはまるで他人とのやり取りは不可能でしたが、現在(2002年、14歳)ではパソコンを使って情報交換ができるようになったそうです。そして、ロレツォの油を見いだした父親には、名誉医学博士号が与えられた由です。またロレツォの両親は、現在は神経の外鞘のミエリンの修復を促進させるための治療方法を研究しているそうです。
引用が長くなりましたが、上記の事例は二つのことを言っています。まず第1は、若年性の脳の病気で、精神障害として死亡するALD症すなわち遺伝性のC24-26飽和脂肪酸分解酵素欠乏症は、病気の進行を止めて、症状の悪化を回避し症状を改善することができる。難病性の精神障害になるALDでも、初期に治療を開始すれば、精神障害の発生を防止することができる、というものです。このことは全ての精神障害に当てはまるのではありませんが、脳の病気に脳内物質が関係している場合には、その物質に関連した治療方法が開発されると、精神障害は劇的に改善する可能性があり、これまでの治療方法は単なる対処療法であって、病気を根本的に治療するためには有効な手段ではなかったということがあり得ることになります。これを普遍化すれば、脳の病気である精神障害を完全に治癒する可能性が見えている、という視点です。精神障害の全てではないかも知れませんが、物質化学的に治療可能な脳の病気はあるのです。
第2の視点は、従来解決が困難であった問題に解決のきっかけを造り出すのは必ずしもその道の専門家でない可能性です。DVD映画ではロレツォの油を開発した父親に対して、ロレツォの病気を治療しているはずの主治医と、ALDの難病対策に一生を捧げていると言っても良いALD家族会の会長夫婦が自らの専門が生化学であるが故にロレツォの父親の行動を素人の暴走という視点で見て、たちはだかります。専門家であるが故に、専門以外の視点が持てなくなり、専門家であることが問題を本質的に改善する最大の障害になり得るのです。
日本の刑法第39条は明治40年代に制定された100年も経過した法律規定です。その間に精神障害に対する治療法は大きく進歩しました。精神障害は治らない病気ではなくて、多くの症状は寛解まで治癒が可能です。確かに現在でも寛解に至らない、統合失調症の病気などもあります。それでも、心神を失った状態がいつまでも継続することはありません。多くの統合失調症の患者も健常者に近い程度まで回復することも可能になっています。将来、明確な原因が突き止められれば、完治する病気も増えてくると思われます。
ところが、刑法第39条の法律問題に携わる人たちのほとんどは、精神障害の犯罪者が犯罪を犯す時の心神の状態や心の動きには無頓着で、自動的に精神障害者だから心神耗弱と心神喪失のいずれかが該当すると思いこんでいるようです。これは、日本の法律家も政治家も同じ状況にあるように思われます。つまらない固定観念の常識にとらわれているのです。法律の本質の問題ではなくて、法律を誤ってまた安易に運用しているだけであるのに、あたかも誤謬のない人権を守る法律行為として、常識化しているのです。重篤な統合失調症であるとしても、心神喪失の状況では無い者を、病気が重いので心神喪失であるとして無罪にしてきた日本の法律運用は間違いなのです。このために、殺人されて人間の命が奪われたことを、社会的に否定されてきた人間は多数おります。法的に殺人罪が否定されてもその人間が生き返るのではありません。死亡は死亡です。それでも、死んだ人間の権利を回復することを省みませんでした。これが日本の現実でした。
私どもは、殺人事件の報道に接すると、弁護士が出てきて「精神科病院に通院した経歴があるので、心神喪失で無罪である」と安易に発言している現状を情けなく思います。精神科に通院しているだけで、また精神科に入院した経歴があるだけで心神喪失とは余りにも安易です。どうして心神喪失の人間が、予備校で講義したり、事前に特定の被害者をつけねらうことができるのでしょうか。殺人行為を詳細にまた具体的に分析すれば、意志を確認できて、明確な目的意識と行為を証明できるはずです。日本では弁護士の仕事として余りにも安易に、刑法第39条に頼りすぎています。そして、犯罪者を無罪にすることが人権擁護だと誤解をしています。
私どもは、矢野真木人を殺害した野津純一に懲役25年の刑罰が確定したことで、日本における刑法第39条の解釈と運用に新しい道を切り開いたと考えていました。ところが、その後の専門家諸氏の意見に接していると、「野津純一に懲役25年の刑罰がついたことがおかしい」「理解できない」という視点で疑問が発せられます。この状況に私どもは大いに落胆しました。なぜ法律適用の新しい視点を、積極的に取り入れようとしないのか。このことを疑います。人権とは、普遍的なものであり、決して一部の人たちの利権ではありません。他人に人権が侵害されること、その極端な事例は殺人される場合です。片方に最大人権被害である殺人された者がいるのに、それを省みないことが常態化している刑法第39条を根拠とした日本の現実は異常です。これでは日本は信頼される国にはなりません。
刑法第39条で「心神喪失者の行為は罰しない」と書いてあるとして、心神喪失を積極的に認定して、無罪や不起訴を乱発しているのは日本の恥です。諸外国にも「心神喪失者は無罪」と同じような法律規定は沢山あります。しかし、この心神喪失が認定されるには厳しい精神鑑定の後に、裁判で慎重な審理が行われて初めて裁判で確定する規定です。法律は、法律を運用する時点の医学水準に即して現実的に運用されるものです。日本のように、法文規定があるからと言って、警察官が逮捕しない、検察官が心神喪失で不起訴とした、また裁判でも「重い統合失調症」と書かれているので無罪とした、そして病院に送ったら精神病が寛解したとして短期の入院で退院させて、そしてその人間が何回も殺人事件をおこしている、というようなむちゃくちゃな国はありません。これは、法治国家の姿ではなくて、無法状態です。日本の法律運用の現実は、国際的に信頼されるレベルではありません。このような実体を弁護して、看過する、日本の法律専門家は恥ずべきです。
私どもは現在高松市のいわき病院を相手取って民事裁判を行っています。殺人者の野津純一に刑罰が確定したために、刑事裁判資料を見ることができています。それによれば、いわき病院長はプラセボ試験(薬剤の無投与試験)と称して、統合失調症の野津純一に統合失調症の薬を停止していました。試験を指示したにもかかわらず、主治医である病院長はきめ細かな診察や診療をしませんでした。野津純一はプラセボテストを開始されてから、顔面の左の頬にタバコの火を押しつけて焼けこげを作りましたが、いわき病院内ではこの焼けこげをだれも観察していません。一週間以上の間、顔にできた異常が観察されることはなかったのです。顔をきちんと見ないで、正常な診断が可能でしょうか。それでもいわき病院長は裁判の答弁書では「患者に異常があれば、そのたびにきめ細かく診察している」と言っています。しかし野津純一は矢野真木人を殺した日の朝10時には「喉の痛みがつづいているんやけど、もう前から先生に診てもらいたいといってるんやけど、先生は見てくれないのや・・」と叫びました。このことがいわき病院の看護記録に書かれています。その2時間後にいわき病院は外出訓練許可を与えて、野津純一を外出させました。野津純一は「誰かを殺人する」目的で一直線にショッピングセンターに向かい、包丁を購入しました。野津純一は包丁を購入後に無差別に人間を攻撃してはいません。レジ係りの女性も、ショッピングセンター内の他の買い物客も攻撃していません。駐車場内を100メートルも歩いて獲物を探して移動しました、その間にすれ違った人もいました。彼にとって獲物とは、20代後半で精神障害が無くて社会で生き生きとして生活している男性でした。彼は自分より若くて溌剌として男性で自分より弱そうな人間にねらいを定めて刺殺しました。
これだけの証拠があっても、いわき病院に勝てるという保証はありません。日本では精神障害者が関係した事件では、相手側に責任を認めさせることは困難なのです。また社会の中にも「病院を理不尽にいじめている」という視点があることも私どもは感じています。私たちが病院を訴えていることが、悪いことのような、そのような雰囲気の冷たい視線を感じることがあります。私どもはいわき病院に責任を認めさせないと、日本の精神障害者医療は改善しないと考えて、裁判を戦っています。病院の責任を明確にさせ、その内容を世の中に公表することが、この裁判の本来の目的です。戦いに勝ち、そして結果を公表しないと、日本の精神障害者医療は改善しません。
私たちは精神障害者およびなかんずく統合失調症の患者のほとんどは善良な市民であり、危険性がない患者であると考えます。危険な精神障害者はごくごく一部の人間なのです。普通の健常者の中にも、殺人を犯す人はいます。精神障害者の中にも、殺人を犯す人もいるのです。圧倒的多数の健常者が善良な市民であるように、精神障害者も善良な市民なのです。ところが、精神障害者の犯罪が「心神喪失」で安易に無罪や不起訴とされてきたために、社会の眼が精神障害者を異質な眼で見るのです。また精神障害者を理不尽に精神科病棟に拘束することも、心神喪失無罪が乱発されることで返って、社会的に容認されている要素があります。精神障害者の人権を回復することは、実は誰でも精神疾患によらず罪を犯せば罰せられる、と同義だと考えます。
本当に心神喪失の状態で、無罪であることが望ましいと判断される人はゼロにはなりません。しかし英国と日本の事例を比較すれば、日本では精神喪失で無罪や不起訴もしくは逮捕されない人間の数は数字で3桁多いのです。なぜ、このような差が生じるのでしょうか。それは日本では心神喪失で無罪や不起訴となって、送致された病院で入院の必要がないと判断されてその日の内に退院したり、数日で退院したり、極端に長い場合でも数年と言うような、安易な事例が多すぎるのです。殺人行為を犯しても、判決は無罪で、強制的に入院させられても短期間で退院できるのでしたら、「心神喪失」と裁判で認定されることが得策なのです。英国その他の国では「裁判で認定された心神喪失」とは「一生精神病院の隔離室で過ごすこと」と同義です。心神喪失無罪とは刑務所に行かないだけで、実質的には「精神病院の隔離室で終身刑」の処分を受けることなのです。心神喪失の状態とは、短期間で改善したり治癒したりする程度の軽い精神障害ではあり得ないのです。心神喪失を主張するには「長期刑と同等以上の覚悟」が必要です。そのため犯罪者は「心神喪失無罪」の主張をしないのです。有期刑であれば、いつの日にか自由を得られる希望を持てます。心神喪失者にはその希望が無いのです。裁判で確定される心神喪失とは本来その様な状態です。日本は心神喪失無罪の運用を間違えています。また心神耗弱で罪が軽減されるのであれば、軽減された期間は少なくとも、精神科病院の隔離室で治療を受けることと同義であるのが正当ではないでしょうか。治療に専念することが本人のためでもあります。
矢野真木人が殺された直後に「あなたがたの息子は死んだのですから忘れなさい。加害者は生きています。精神障害があり無罪となるべき人間です。生きている人間の権利を守りなさい。」と言われました。しかし私どもは野津純一には懲役25年を付けました。今後、いわき病院に勝たなければなりません。勝つことで、日本の精神障害者治療制度に変更を迫ることができます。また日本の刑法第39条のいびつな状況にも、改善を迫ることができると考えます。私どもは、そのことは日本の人権問題を国際的に通用する格調を高めることであると確信します。
|