いわき病院に対する裁判 (弁護士の反応)
今年から始まった犯罪被害者週間という行事があります。これは、犯罪被害者等基本法が制定されて、それに基づく犯罪被害者等基本計画が昨年12月に閣議決定されて、それに基づいて行われる行事です。平成18年が最初の年に当たり、期間は11月25日から12月1日までです。私はその開催初日に当たる11月25日に、東京に出向いて全国犯罪被害者の会(あすの会)の記念行事と懇親会に参加しました。私は、書き上げたばかりの11月22日に行われた、いわき病院を被告とした私どもの民事裁判の報告書(いわき病院に対する第3回公判の報告)を大量に増し刷りして、懇親会の場で配布しました。これはその時に聞いた、主として弁護士さん達の反応です。以下に書いてあるのは単一人物の意見ではありませんので、予め、確認しておきます。
私が「たった一人を殺した精神障害者に懲役25年の刑罰が確定した」と説明しましたら、会場に集っていたのは犯罪被害者と犯罪被害者の支援者達ですが、ほとんど全員が私どもの事件に関する情報を何も持ち合わせておりませんでした。誰もが「え?、そんなことがあったのですか」という反応でした。ところが被害者達とお互いに遭遇した事件の情報を交換すると、多くの人たちからは「相手は精神障害者だった」「罪につけられなかった」「不起訴だった」「殺人をしておきながら短期刑だった」という嘆き節を聞かされたのです。そして「どうして、そんな長期刑が可能だったのか」と一様に不思議がっていました。
それから余談ですが「いわき病院」と言うと、「四国のあなたがどうして福島県のいわき病院ですか」と質問されました。私たちの事件の被告病院の命名の由来は、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の「以和貴:いわき」です。「いわき違いです」と説明しました。この場を以て福島県にある「国立病院機構いわき病院」ではないことを、改めて明言しておきます。
会場に居た犯罪被害者支援に理解がある弁護士さん達の第一反応は「懲役25年が確定したのであれば、被害者の父親であるあなたが犯人を精神障害者と言っているだけで、実際は健常者だったのでしょう」と言うものでした。「懲役25年が課された殺人犯は、精神障害者ではあり得ない、正常な人間であるはずだ」「精神科の病院に入院していたとしても、精神診断で心神が正常であると鑑定されたから、25年の刑罰の判決が出た筈だ」と言うのです。私が「精神鑑定でも、20年以上継続した重篤な統合失調症である」と確認されました。「また判決でも、治らない、重症の精神障害者だと言ってます」と説明すると、相手の弁護士の反応は「おかしい」です。それで「重い統合失調症でも、殺意が確認され、理事弁識能力と計画性が共に確認されたので、懲役25年の判決がありました。加害者側と被害者側が共に上告しなかったので判決が確定した。」と言っても、それでも納得し難いようでした。
「この判決は刑法第39条で心神喪失と心神耗弱の規定がある中では、画期的な判決です」と言っても、法律には素人の私の説明では「納得できない」という雰囲気です。私は弁護士さん達の反応を見ていて、「犯罪被害に理解があり、多分、自分でも精神障害者に関連した被害者の弁護を実際に請け負ったことがあるであろう、専門家であるだけに、過去の観念にとらわれすぎているのではないか」という感想を持ちました。どうやら、刑法第39条に対する思考は、弁護士さんたちの頭脳を「動かし難い、(発想や論理の転換や改善もあり得ない)、基本原則」として縛り付けているように見えました。
私が持って行った「いわき病院に対する第3回公判の報告」の記述は、第3回公判までの経過として「原告である私たちは被告であるいわき病院に対して押せ押せムードになりかけている」という、少しどころか大いに思い上がった内容です。これに対しても釘を刺されました。
「相手側いわき病院の顧問弁護士は大変優秀な方です。簡単に法廷で負けるような人ではありません。あなたは相手側の主張にあるとする論理矛盾を突いたと喜んでいるが、相手の手の内に落とされただけかも知れませんよ。本当にあなたが言っているように、これまでの法廷で相手弁護士に緩みや油断があったとするのでしたら、それは遠い四国のことであり、これまでは軽く見ていただけでしょう。今後、弁護士が本気になれば、そう簡単には物事は進まないでしょう。判決までには寝技裏技もあります。相手を見くびっては行けません。彼の優秀性は折り紙付きです。」と忠告を受けました。
(矢野さん)あなたはどうやら理科系の人間のようです。しかし相手の弁護士は法律家養成では実績がある私立の有名大学を出ています。彼はそもそも高校時代から自然科学はほとんど勉強せずに、社会系および法律一筋で育った人間です。誤解してはいけないのは、裁判官も相手側の弁護士と同じく法律一筋です。そもそも被告側弁護士も裁判官も共に自然科学など知らないし興味もないのです。従って、医学など自然科学的な事実関係や論理や理屈よりも、法的な認識や論理構成の方が優先されます。あなたが言っている、病院側治療の不作為という論理は、裁判官から見ればどうでも良い些細な問題であるとして、判決を左右する考慮材料にならないかも知れませんよ。裁判官は、あなたが理解している、あなたが言うこれまでの経緯とは、まるで違う論理を構築しているかもしれませんよ。この国の法律家は自然科学など問題にしてない人が多い、そのことをあなたは知らないのではありませんか。
上記の意見は、社会の中で最高の資格を持っていると自負する法曹界にある人間のプライドを見せつけたのかも知れません。私が応えたことは次の通りです。「なるほど、そうかも知れない。裁判で私が負けることもあり得るでしょう。可能性としては全ての可能性があり、結論は未だ見えていません。それで、私が裁判で負けるとします。私はこの裁判で勝っても、負けても、本を書くつもりです。本のタイトルは既に決まっています。刑事裁判までに書いた本のタイトルは「凶刃」でした。次に書く本のタイトルは「法刃」です。すなわち「刑法第39条の刃」です。私はこの内容は「人類の普遍的な人間性の価値に照らし合わせた、日本における人権と法律運用の問題」として書く所存です。この裁判で私が勝っても、負けても、「法刃」は意義深い内容になると考えています。むしろ負けた方が、内容としてはパンチが出るかもしれませんね…」
私は現在いわき病院を被告として民事裁判を行っています。これはこの日本では、「民事裁判をして、命の代償金を要求するしか、精神科病院が果たすべき社会的責任を明確にする議論を一個人としては社会に問題提起できない」からです。私たちは日本の社会の問題として、日本における基本的人権を実現する問題として、人類として普遍性の視点から問題提起しているのです。法律も医学も、実はそれを直接的に実現するための社会科学であり自然科学であり、社会の中の技術であると私は考えています。医師も弁護士も共にその技術者であり執行者です。私が掲げているのは大きな命題です。しかし矢野真木人の命が奪われたという、個人としては最大の人権侵害が実際にあったという事例を通して、私たちはこの問題を日本社会に問うているのです。それが私たちの立場です。
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