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第70回 大人が本気になることしか、子供の自殺を
なくす方法は無いと思うのです。
「恐い演出家」というと、演劇を知る人のほとんどが「蜷川幸雄さん」と答えるのではないでしょうか。一部の人は、キャラメルボックスの成井豊さん、と答えるのかもしれません。
……ちっちっちっちっ。違うんです。
実は、加藤昌史さんが一番恐いんです……!!
学生劇団時代、僕は成井の下で役者をやっていたのですが、なにしろ成井豊は役者としても優れた人でした。なので、僕のような頭が悪い人間にとっては、とてもじゃないけど付いていけない、というか、それ以前に何を言われているのかさえもわからないままに日々を過ごしていく、という状況だったのでした。
そこで、大学5年の時に劇団の演出を担当せざるを得ない状況になったとき、14人の新人を抱えて、僕がやり始めたことは「できる役者」はどんどん伸ばし、「できない役者」を「できる役者」にしていくためにはどうすればいいか、という練習でした。
基本的に、劇団に入ってきた、ということは、多かれ少なかれ「舞台に立ちたい」という欲求を持っていることは間違いありません。ただし、その「やりたい」度合いが、千差万別なわけです。かくいう僕も、「この劇団のこの作家の芝居をなんとかできるだけたくさんの人たちに見せたい」というプロデューサー的な欲求によって入団したものですから、役者なんてやりたくもないわけです。でも、当時の学生劇団では「制作専任」の劇団員というのはありえないことで、とにかく新人は全員役者をやらなければならなかったのです。
そういった前向きな意味で役者に向いていない人間ならまだしも、やりたいという気持ちだけが先行していて、何年か演劇をやってきた僕から見て、明らかに役者には向いていなさそうなのに意欲だけがあるヤツ、とか、明らかに人前に出ちゃダメだろう、というヤツとか、明らかに声が小さいだろう、というヤツとか、とにかくいろんなヤツがいたんです。でも、やる気だけはあったのです。
しかも、高校演劇上がりでバリバリにやる気も技術もあるヤツも混じってたりして。
そこで僕は、ふるい落としにかかりました。
つまり、僕らが成井豊演出のもとでやってきたことよりもはるかにキツいことを新人達に課して、生き残ったヤツだけが冬の公演に出られる、というもの。
まずは、身体訓練からして地獄でした。
詳しいことはその練習に参加していた、現在キャラメルボックスの主軸となっている真柴あずきや西川浩幸に聞いてもらった方が正確だとは思うのですが、日曜日を除く毎日、午後から夜まで、身体訓練を3〜4時間、その後は感情開放の練習、続いて台詞や即興演技の練習を3〜4時間、と、プロとして活動しているキャラメルボックスよりもキツいことをやっていたのです。
ところが。
誤算がありました。
生まれついてのサービス精神の塊とも言われる僕が計画していた練習なので、キツいけど、楽しくないといかん、と、とにかく一日中ハイテンションで、大爆笑の稽古場だったのです。もちろん、怒鳴り付けたり、ゴミ箱を蹴飛ばしてデカイ音を立ててビビらせてみたり、と、そんなこともしていましたが、それ以前に「楽しい」ことを最優先の練習を続けていたので、結論から言うとふるい落とし作戦は失敗して全員が冬の公演まで残ってしまったのでした……。
でも、即興演技の練習などは最もヒドイもので、「オレを笑わせろ」というのが、唯一の価値観。僕が客観、という、めっちゃ主観な稽古だったわけですね。
もちろん、練習を離れるとしょっちゅうそいつらを僕の家に呼んで朝まで飲んでいたりしたので、仲良しであることも間違いなかったわけですけど、日常から知っていると、稽古場で笑わせることはより一層難しくなっていってしまったりもするわけです。
どれほど仲良しだったかというと、女優陣全員の生理の周期を覚えていて、
「そろそろ来るな」と思うとキツめの稽古をしておいて、本人の申し出が無くても顔を見れば「あ、来た」とわかるので楽めの稽古にしてあげたりしていたくらいでした。やっぱり、男女の性差というのは間違いなくありますから、それは気づいてあげなければいけないだろうなぁ、と思うくらいにキツい稽古だったというわけです。
さて、そんな稽古稽古の日々の中で、今でもあの練習はよかったのか悪かったのか、わからないものがありました。
いえ、効果はあったんです。ものすごく、「感情開放」に役立つ稽古であったことは間違いありません。
それはどんなものか、というと「僕の宝物」という稽古。
役者という仕事は、まず、「恥ずかしい」という気持ちがあっては人前に立てません。いや、立てますが、お客さんに好きになってはもらえません。
そして、「演劇」というフィクションの世界の中で「本当の言葉」を口から発するためには、本当の気持ちで舞台に立たなければなりませんから、「演じ
る」という前提で作った自分や役で人前に出てしまっては、「あっ、あの人、嘘付いてる」とすぐにバレてしまうわけです。
そこで、フィクションなのに、限りなく現実、でもフィクション、というのはどういうものなのか、というのを体と心に焼き付けるための究極の練習方法が、この「僕の宝物」だったのです。誰が思いついたものかわかりませんが、僕らもやらされたことがあるので、成井豊か、その先輩達が考えたのでしょう。
そのやり方は、こうです。
(1)感情開放ができていない、またはもうちょっと、という人を稽古場の真ん中に立たせます。
(2)稽古場にいる人たちの中でできるだけベテランの役者達を集めて、対象者のまわりに輪を作ります。
(3)そこらへんにころがっている、たとえば僕のマフラータオルに結び目を作って、対象者に渡します。
(4)そして、その対象者に、前提条件を話します。
「このタオルは、本当は僕のだけど、君の宝物ね。ものすごく大切なモノで、絶対に人に奪われたくないし、触られたくもないほどに大切なもの。なんだけど、周りの人たちが絶対に返してくれない。だから、君は、必死で返してもらえるように頼んでください。ただし、絶対に宝物にも、宝物を持っている人にも、触ってはいけない」と。
そして、こう言い添えることも忘れてはなりません。「あなたの周りにいる人たちは、みんな、ずっといっしょに稽古をしてきた仲間達だよね? みんな、君のことが好きなんだ。それは、信じられるね?」。つまり、周りを囲む連中と、対象者の間に信頼関係が成立していなければ、非常に危険な稽古なのです。
(5)そして、最後にもう一度。「くれぐれも言いますが、この場は、いつもの稽古場。そして、周りの人たちは、仲間。これから、あなたの宝物を絶対に返さない、という人を演じてもらいます。いいですね?」。
そして、演出である僕が「せーの、はいっ!!」と手を叩くと、対象者はみんなに「返してっ!!」「返してくださいっ!!」と、お願いしたり、頼んだり、脅してみたり、いろんな方法で迫ります。でも、みんな、輪の反対側のメンバーに放り投げたり、わざと地面に落としてみたり、いろんなことをして対象者を本気にさせるべく努力します。
これを続けているうちに、たいていの対象者は、次第に殺気立ってきます。
しょせん、タオルなのに。しょせん、演技なのに。
周りが、みんなで「ほーらほーら、返して欲しかったらもっと叫んでみろよー」とか、「欲しかったら本気で頼んでみろよ」とか、よってたかって本気の演技をし始めます。
すると、「返してくださいっ!!」と頼んでいたのが、だんだん本気になり、最後にはついにダムが決壊したかのように号泣して「かえしてぇぇぇぇぇっ!!」と叫んでしまい、男でも泣き崩れてしまう、という結末を迎えることがあったりします。
この、ダムが決壊した瞬間に、演出家は手を叩いて稽古を止めるのです。
そして、言います。
「はい、今、あなたはいるのはどこですか?」
「……稽古場です」
「あなたが返して欲しかったそれは、何ですか?」
「……宝物です」
「え?これ、僕のタオルでしょ?」
「……タオルです」
「誰のタオルですか?」
「……加藤さんのです」
「そうです、あなたは、今、フィクションの世界の中で、本気になりましたね?」
「……で・でも……え……うううううっ!!」
……と、もう、現実とフィクションの区別が付かない領域に一歩踏み込んだ瞬間を、自分で観察できなくなってしまった対象者が、そこにいるわけです。
ただ、これをやった後の反応がおもしろいのです。「……くっそーっ、なんか、騙された気分だぁぁぁっ!!」と爆笑するヤツもいれば、「……ううううっ、もう、みんななんか、だいっきらーーーいっ!!」と、戻ってこられないヤツもいれば。
※この練習は、高校演劇や、アマチュア演劇の皆さんは絶対にやらないでください。
本当に、やり方によってはものすごく後味の悪い結果になってしまう、ものすごく危険な練習なので、絶対にオススメしません。おそらく、あの当時の僕たちの密接な人間関係と信頼関係があったからこそできた稽古だと思うので。
で。
この稽古は、やる側の演技力にかかっている部分が大きいのです。
ダムが決壊した直後に演出が手を叩いて稽古が終わった瞬間に、一瞬で現実に戻って大笑いできるだけの演技力がなければ、「宝物を絶対に渡さない」という強烈な、いじめ以上にヒドイことをし続けたあとのフォローが効かなくなるわけです。
で、ここまでは、実は本稿の前置きです。
いじめ問題の解決に、この練習方法を採り入れたらどうでしょうか。
いえ、生徒同士ではありません。
教員同士に、です。
フィクションという前提でこの「宝物」をやられただけでも、いじめられた人の気持ちが本当にわかります。本当に傷つくことがあるかもしれません。しかし、傷ついたとしても、あくまでもフィクションです。その傷をすぐに癒すことができなければ、プロの教師とは言えないのではないでしょうか。
優等生で、もしくは普通の中学・高校生活を送って教員養成の大学に行って、通り一遍の教育学や教育方法学を学んで、職業としての教員を選んで教師になった人たちは、「人の心を動かす術」は学んでいないと思うのです。 かたや、僕ら演劇の人たちは、学生演劇でさえここまでの訓練を積んで、人前に立っているのです。
そして、21年間やってきて思うのは、子供をフィクションの世界に引きずり込むことは、大人をそうすることの何倍も難しい、ということなのです。
小学校中学年まではまだしも、高学年、そして中学生、高校生、となると、世の中のことを斜めから見るのがあたりまえで、大人はみんな汚いことをしているようにしか見えなくて、大人になんかなりたくない、と思って生きているんですから、大人が適当に子供(中高生)を騙そうとしていることなんて、もう、すぐにわかってしまいます。
本気で騙してくれる東京ディズニーランドの観客動員数に翳りが見えないことからも、それはわかると思います。
そしてまた、売ろうとして大金をかけて宣伝したものが、発売してみたら全く鳴かず飛ばずだった、なんて例もゴロゴロしています。
子供たちは、酸いも甘いもかみ分けた大人達なんかよりも、はるかに傷つきやすいから「嘘」に敏感なのです。だからこそ、僕らは全力で彼らに立ち向かっていかなければならない。だからこそ、自分たちの中からいかに「嘘」をなくしていくのかに精力を注入していかなければならないのです。
自殺しようとする子供たちをなんとかするためには、大人も本気にならなければいけません。
本気の大人が、本気の生きざまを子供たちに見せ続け、もしどうしようもなく自分の居場所がなくなった子供がいたら、すぐに駆け付けてあげて話を聞いてあげるんです。
傷ついたことがある人なら、傷ついている人の出すサインに気づくのも早いはずです。
サインに気づかなくて、自殺という方法で人を殺してしまってからでは手遅れです。
そうなる前に、まず、自分が傷つくこと。自分の心を自分で傷つけて踏みにじって、10代のガラスの心をもう一度思い出してみませんか?
ちなみに僕は、小学校時代から「大人になったら自分はこんなことはしないぞ」と心に誓ったことが、たくさんありました。
今、自分に子供が出来てどんどん大きくなってきて、彼らの問いに対して答えているときに、そんな自分の「誓い」を突然思い出します。
大人に「テキトー」に扱われることが、子供にとって最も傷つくことなのです。
「宝物」の練習を導入して、「本気」を思い出してください。そして、一人でも、子供の命を救いましょうよ。もう、あんなニュースを見るのはこりごりです。あんなニュースを見るたびに、その日、会社や劇場に向かう足が重くなってしまうのです。
どんなに辛かったんだろう、この子は。何を言われたんだろう、この子は。何をされたんだろう、この子は。自分の命を絶った瞬間、何を思ったんだろう、この子は。
頑張ろう、大人っ!!
本気で!!
本気で!!
本気で!!
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この原稿を書こうと思い立ったきっかけは、『風光る』というマンガの作者・渡辺多恵子先生とたまたま居合わせた飲み会の場でした。
渡辺先生は、僕以上に過激で正統な発言をされまくっている方なので大好きなのですが、なんと別れる間際、「加藤さん、なんとかして、子供の自殺を止める方法を考えましょうよっ!!」とおっしゃったのです。
その瞬間に、僕の身体に、電気が走りました。
「人が人を想う気持ち」を伝え続けてきた演劇集団キャラメルボックスの製作総指揮として、早稲田大学教育学部教育学科教育学専修出身の人間の一人として、僕は「いじめを無くす方法」は人間が人間である限りゼロにするのは不可能に近いと思います。が、しかし、「子供の自殺を無くす方法」はあるはずなので、一生考え続けていこうと思います。
2006.12.28 掲載
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