第48回 劇団結成20周年
劇団結成20周年を迎えました。
ついに私の所属する演劇集団キャラメルボックスが、劇団結成20周年の年を迎えてしまいました。
早稲田大学の学生劇団をやっていて、その劇団を引退するときに作ったのがキャラメルボックス。
最初の目標は、同じ学生劇団の先輩劇団を観客動員数で抜くこと。これは、向こうが年間1〜2公演だったのに対してこちらが3〜4本やっていたので、割と早めに、3年目で達成することができてしまいました。
次の目標は、一公演で1万人を動員すること。そして、「チケットノルマ」無しで公演を行うこと。これは、当初巨大な目標に感じられていました。が、結成から5年後、気が付いたらほぼ同時に達成していました。
そのあたりから、「目標」をたてて何かをやる、ということが少なくなってきました。つまり、いったん回り始めた渦は、もう誰にも止められないからです。
次から次へと周囲からおもしろそうなことが持ち込まれ、次から次へと新しいことを思い付き、次から次へとそれらをプランニングして実行し、次から次へとお客さんが増えていったのです。ハーフタイムシアター、アコースティックシアター、アナザーフェイス、シアターエクスプレス、プロデュース公演、演劇フェスティバルへの参加、ビデオ製作、などなどなどなど、思い付いたことは全て形にして、成功させていったのです。
そして、そんな10周年の年には、「宮沢賢治の話だから盛岡で」「坂本龍馬の話だから高知で」と、よりにもよって日本で最も人口が少ない方から数えて何番目、という街で公演を行ってみたりもしました。確かに、歓待を受けて、刺激的な経験ではありましたが、公演の収支も「刺激的」な結末となりました。
そんな数え切れないほどのピンチもありましたが、ことごとくチャンスに変えて、キャラメルボックスは今まで続きました。
そこからは、「次に何をするのか」を模索する10年でした。
今にして思えば、JR東日本からの依頼を受けて1994年、96年、と2回上演(?!)した、東北新幹線の車内で芝居をやる、というシアターエクスプレス、これが、なにしろ僕らの限界を大きく拡げ、「これ以上大変なことは世の中に無いのではないか」と心の底で思うようになってしまっていたのです。実際、あまりにも壮大すぎる実験演劇だったため、当時の演劇の人たちからは「奇妙きてれつ」なものとしか思われなかったのではないかと思います。しかし、あれは今思い返してもキャラメルボックスにしかできない、緻密でいて大胆、クールでいてホットな人間関係を構築したプロジェクトによるチームワークとスタッフワークが生み出した、奇跡的な演劇公演だったのです。
その後、子供にも楽しんでもらえるような芝居を創るとか、大きい劇場に行ってみるとか、2本立てにしてみるとか、2本同時に別な劇場でやってみるとか、行ったことがない土地に行ってみるとか、ゲストを呼んでみるとか、原作がある作品を原作の小説通りの言葉で上演してみるとか、思い付くことはたいていしてきてしまいました。
しかし、時には「奇妙きてれつ」にしか思えない感じの活動をしながらも僕が最も「目標」にしてきたことは、「作品内容を充実させる」ということでした。
つまり、結成から10年の間は、どんなにがんばってどんなにお客さんがいっぱい来てくれていても、世の中の人たちは一切キャラメルボックスのことを知らないわけです。つまり、「演劇」の世界では全く評価されない存在だったのです。それは、そうです、なにしろ、芝居はおもしろいし感動できるけど、演技や演出がウマイ、とは言えない集団だったからです。
野田秀樹さんをビートルズにたとえると、キャラメルボックスはローリングストーンズみたいなもの。
「いいんだけど、評価はしようがない」という存在だったのだと思うのです。
そこで、早い時期からオーディションによる劇団員募集を始め、劇団内での演技教育を充実し始めたのです。演技教育、と言っても、なにしろ1年中公演をやっている劇団ですので、実際の新人訓練はほんのわずか。でも、公演の練習に入っても、新人に代役をやらせて本キャスト並みのだめ出しをしてあげたり、公演中も全ステージで裏方に付けて「舞台役者」の基本を身体で感じ取らせたり、ということをやってきました。
また、「主役持ち回り制」も早くから導入し、「まだ早いかも、でもこの役をやることで育って欲しい」という願いを込めて、公演失敗の可能性をはらみながらも意欲的な若手の主役起用をし続けてきたのです。もちろん、お客さんの評価は厳しいものがありました。でも、それが劇団が劇団である理由。「みんなで作る」「全員演劇」を志向してきたキャラメルボックスだからこそ、失敗の確率が7割あっても若手の起用を次々と行ってきたのです。
しかし、それでもまだ何かが足りない、と、2003年からは「キャラメルボックス俳優教室」というものを始めました。これは、演劇を志す若い人たちにキャラメルボックスの演技レッスン方法を伝えていこう、それに納得して最後までがんばれた人は、劇団員としても素敵な存在になるだろうし、オーディションに合格できなかったとしても素敵な社会人になれるだろう、と思うのです。
その成井の成果を思い知ったのが、2003年クリスマス公演の『彗星はいつも一人』初日。カーテンコールで並んだ役者達を見たとき。鳥肌が立ちました。主役の西川浩幸を中心にして、センターから両サイドに向けて合計8人が、なんと数万人を動員した芝居のカーテンコールでセンターに立ってきた、主役を経験した役者達だったのです。
なんて豪華な芝居なんだろう……。でも、そう思っているのはきっと僕だけ。脇役を演じた主役経験者は、脇役を演じることを十二分に楽しんでこのカーテンコールを迎えているし、主役を演じた西川だって、スター気取りなど微塵もない。お客さんだって、「この芝居」を楽しんだだけで、そんな「劇団としてのドラマ」なんてあんまり気づいていないだろう……。
そんな僕が、20周年を迎えて決意したのが、「売り込み」です。
1982年の春、学生時代の成井豊の作品『キャラメルばらーど』の初日を見て「この芝居を100万人に見せるまでがんばる」と決意した僕。気が付いたらキャラメルボックスの延べ観客動員数は150万人を超えていました。
そんな20周年の今年、なぜか今さら出てきた目標が「こんな劇団がある、ということをもっとみんなに知ってもらいたい」ということです。
2004年の10月25日で、僕は43歳になってしまいました。
きっと、目が黒いのはあと20年。その間に、きっとキャラメルボックスはもっと進化していくと思うのです。とすると、今、このままの規模でやっていてもきっと自己満足の域を超えないのです。劇団四季のようになりたいとまでは思いませんが、サザンオールスターズのような劇団になっていたいと思うのです。
そんな20周年。まずやるのは、芝居以外でお客さんと接する機会を膨大に増やすこと。次にインターネットに特化しすぎたキャラメルボックスの情報伝達手段を見直してもっと手軽にすること。そして、広い世界の人たちと知り合っていくこと。最後に、やっぱり身体を張ってがんばること。
なにしろ、春の公演『TRUTH』なんて、「記者会見」をやってしまいました。そんなの、僕的には何の意味もない、って感じだったんですが、実はこれをやらないと伝わらない人たちもいるんです。誰しもが情報を自分から得たいと思っているわけではない。与えられた情報だけをよりどころにしている人もいるわけです。
でも、「そんな連中相手にする必要がない」というのも、どうかと思うのです。実際、自分だって事件や事故や世間で起きている様々なことは新聞や雑誌の報道からしか知り得ていないわけですから。
マスコミュニケーションによる情報で知ったことの中で、興味があることを自分で調べていく、というのが「普通の姿」かな、と。
もちろん、今まで通り「口コミ」が命であることは間違い有りません。そうなのですが、「マスコミ」さんが興味をもってくださる対象に僕らがなっているのに僕らがちゃんとその方たちへの対応をしていないことで、出会えるはずだった人と出会えないまま一生が終わっていくのは、どうも納得いかないのです。
これからは、出会える限りの人と出会っていくこと、これを第一の目標としてがんばっていきたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。
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