今年の夏、東京が大停電になる可能性が騒がれました。 原子力発電所の事故を隠そうとしていた東京電力の不祥事によって原発が全部使えなくなってしまったからです。 そのニュースが流れたとき、僕は「これはチャンス」と思いました。と同時に、意外な事実を知りました。 なんと、原発無しで冬ならやっていけているのだ、ということです。夏にみんなでクーラーをつけまくらなければ原発は必要がない、ということです。 テレビや新聞などでしきりに「電力の危機です。皆さん、電気は大切に」「クーラーは28度に設定して」「電気はこまめに切って」「待機電力もばかにならない」 と東京電力が訴えていますが、これらの言葉がいまひとつ僕らの心に届いてこないのは何故でしょうか。 ちなみに、僕らがやっている「演劇」というライブエンターテインメントは、なにしろ環境にやさしくありません。 大量の電気と、大量の木材を使い、大量の紙を消費しなければ成立しないことをしています。 ところが、逆に言えば、それらが無くても僕らは演劇を続けることが出来るのです。生身の役者がそこにいるだけで成立してしまうのが演劇で、 音楽だって生で演奏すればいいし、照明だって太陽の下でやればいいわけだし、なんとかなってしまうわけです。 ていうか、実は、そういう芝居をあえていつかやってみたい、と思っているくらいです。つまり、別に、あるから使うんであって、なきゃないでいーっすよ、 っていうのが僕らのスタンスなわけです。 が、電気が本来必要なのは、公共機関、その次に第二次産業だと思うわけです。つまり、病院・交通、そして工場。 生活と安全を守るところと、そのために必要なモノを生み出す場所に、まず優先的に電気を回すことが必要であって、 その次に家庭の電灯が来るのではないでしょうか。 そして、そのうえ第三次産業にまわせばよいのです。 日本中で、「エネルギーリストラ」を進めていこう! つまり何が言いたいのかというと、昼間っからつけっぱなしている繁華街のネオンや、夜間電力なんだからいいだろう、と言われそうですが、 一晩中煌々と点いている看板とか、そういう直接生活や安全に関わりがない電気が垂れ流しで使われていることに関して何も注意せずに、 一般家庭に注意を喚起しようとしたって、危機感なんて生まれるわけが無いじゃないですか。 そして、テレビ。もちろん、TV局だってCMで食ってるわけですから、できるだけ長くオンエアを続けていた方がいいに決まっています。 しかし、放送時間を一気に短縮することで、使用する電力は一気に減るじゃないですか。見ている側もテレビをつけないわけですし。 番組製作のコストも減らせるし、番組全体の数が減ればつまらないのや必要がないのは自然に淘汰されていくでしょうし。 なおかつ、パソコン。昼間は家庭用のパソコンのためのプロバイダは、みんな休めばいいんです。 だいたい、僕のところに1日に2〜300通は届くいろんな人たちからのメールは、お昼時と22時〜2時ぐらいの2箇所の時間帯に集中して届きます。 つまり、会社でお昼時にインターネットを見物して、ついでにメールを打つ、というのと、帰宅して寝る前に、というパターンですね。 だったら、それ以外の時間帯に使えなくなっていたとしても、ほとんど誰も困らないわけです。 とにかく、そんなふうに工夫して、日本中で細かく「日本再建計画」つまり「日本エネルギーリストラ」を練っていかなければ、 原発がいくつあったって足りない状況に常に置かれるようになっていくわけですよ。で、増えれば増えるほど事故の確率は高くなるわけですし、 いざって時に狙われる可能性だって高くなるわけです。 みんなでちょっとずつ我慢して、代替エネルギーの開発を急ぐ、ということを考えてもよいのではないでしょうかね。 中学生になってまで幼児性を持ち続けるなんて というわけで、いきなり電気の話で盛り上がってしまいましたが、なんで急にそんな話を始めたかというと編集長から「ここんところ少年犯罪が続いてますが、 思春期の性衝動についてどう思いますか?」と聞かれたことから、いろんな想像が拡がってしまったのです。 もちろん、少年犯罪というものは昔からあるもので、三島由紀夫の小説にもあぁいうことをしてしまう少年の心理を描いたものがあったような覚えがあります。 なので、特に今の時代がめちゃくちゃ多い、ということでもなさそうです。 そもそも子どもというのはとっても残酷なもので、何が悪いことだかわかっていないのでいろんなことを平気でやってしまうものです。 だから、「たった12歳の少年があんな残酷なことを」なんてテレビのコメンテーターの人が言っているのを聞くと変な気がします。 それは逆で、「12歳にもなってなんでまだそんな残酷なこと?」ってことなんではないでしょうか。 で、そういう中学生になってまで幼児性を持ち続ける子ども、というのを作り出した原因が現在の社会や教育にある、という論調もどうかと思います。 僕らは劇団を始めて19年になりますが、不思議なことに一公演の観客動員数が1万人を越えてから、急に「へんなお客さん」が混じるようになってきました。 つまり、観客として、というよりも人間としての「マナー」が存在していない人、というのが1万人に一人は存在しているのです。 上演中におしゃべりをするぐらいならまだしも、楽屋口での入り待ち出待ちはしないでほしい、と劇団側が訴えているにも関わらず、 自分だけは特別、と信じ込んでいるのかどうかわかりませんが、待ち伏せをしていて写真を撮ろうとする人。 それだけならまだしも、一番びっくりしたのは楽屋口で警備員さんのチェックも堂々とクリアして(どうやったんだろう……)、 楽屋まで入ってきて「上川さんの高校時代の同級生のお母さんの知り合いなんですけど」(←要するに完全に他人でしょ)とニコニコしている人、なんてのもいました。 なおかつ、2万人を越えてからもっと不思議なことが出てきました。 「マナー」以前の「犯罪」にあたるようなことを平気でやれてしまう人が存在するようになってきたのです。 僕ら劇団員でさえ知らない(あえて聞いていない)上川隆也の自宅に突然FAXが届いたり、 別な劇団に客演した西川浩幸がツアーに出たら行く先々で同じ人に待ち伏せされたり、 インターネットの掲示板に僕の子どもたちを殺すという脅迫を執拗に書き続けたり、まぁ、 いずれにしても「普通じゃない」ことをやれてしまう人たちが現れたのです。 ここに書いたようなストーカーじみたことをした人たちは全部突き止めて謝罪していただきましたが、直接会ってみると気の弱そうな普通の人たちなんです。 それこそ、「30歳過ぎて、なんでまだそんなくだらないこと?」っていう印象でした。 ですが、こういう人たちというのは、いつの世にも、どこの世界にもある一定の割合で存在しているのは間違いないことです。 インターネットには「倫理的制約」がなさすぎる で、じゃぁ、そういう人たちがはびこっているかのように見えるこの世の中をよりよくするにはどうすればいいのか、ということを考えてみます。 まず、なにしろ、メディアと情報伝達方法の異常なまでの発達、というのが挙げられるのではないでしょうか。 政治家や役人の、20年前なら表に出てこなかったどころか「あたりまえ」のように行なわれていた腐敗の事実が、次々と出てくるようになりました。 汚職だけならまだしも、セクハラや痴漢などの行為も、ちゃんとニュースとして報道されて社会的な制裁が加えられるようになりました。 これは、いいことだと思います。 ただ、「少年犯罪」がセンセーショナルなニュースとして採り上げられ、14歳までは処罰されない、ということが広く知らされることによってそれまで 「悪いことをしたら罰せられる」と思っていた子ども達に「悪いことをしても罰せられない」ことをおしえてしまうことになってしまうと思うのです。 そのことを、潜在していた「犯罪予備軍」が認識して、あえて罪を犯す方に走る、ということだって考えられるわけです。 つまり、悪いことを悪いこととして報道するのはよいとして、あえて騒ぎ立てるべきではないことを表に出すことによる弊害、というものもあると思うのです。 が、それと並行して電話の発達とインターネットの普及によって「一個人」の情報発信が容易になったせいで、 それまではごく少数の同好者が口コミで集まっていたようなサークルが、大きな力を持っているかのように見えるようになってしまいました。 これは、僕らのような「演劇」というメディアを持たない芸術なりエンターテインメントをやっている「社会的な少数派」にとってはとても助かることではあります。 が、少年犯罪予備軍だけではなく、ロリコンや自殺マニアや援助交際希望者といった人たちが「ちゃんとこの世にはたくさん(?)いる」ということが、 「ちょっとだけ興味を持った」という人たちにも知られるようになってしまったのです。 インターネットが無い時代だったら、もしそういう願望を持ったとしても周囲にそういう人がいなければ、また、そういう本が発売されていなければ、 そういう欲求は封じ込められたり、忘れ去られたりしていたことでしょう。 しかし、ネットによって少数派同士の連携が生まれてしまったのです。 テクノロジーの進歩というのは、常に陰の部分を背負っている、というのもまた真実なのですけどね。 ダイナマイト以来、最新技術は常に兵器の開発から生まれてきていますし、ビデオ、FAX、DVD、といったここ20年の技術は、 たいていがアダルトコンテンツが先行して牽引役になってきた、というのも事実だそうですし。 ただ、それらとインターネットの大きな違いは、そこに「倫理的制約」が無い、ということだと思います。 エロ本を本屋に買いに行くとか、えっちビデオをレンタルショップに借りに行くというのには、大変な勇気が要ります。そこに、第三者が介在するからです。 しかし、ネットの場合は誰の目にも触れずに自分の部屋で、違法なものさえも見ることが出来てしまうわけです。 つまり、「それはいけないことだ」「それはダメだ」という、親や社会から決められてきていた「制約」が、まず自分の世界では取り払われてしまう。 次に、そこに広がるネットの世界では、誰も「悪いこと」をしている人を止めようとする人がいない。 そして、次第にそれが「悪いこと」であるかどうかさえ、見えなくなっていってしまう。そんな、「悪の循環」が、ネットには潜んでいると思われるのです。 しかし、何度も言っているとおり、ネットの全てが悪いわけではありません。むしろ、社会への貢献度は計り知れないものがあります。 僕らの劇団で言えば、おそらくスタッフ20人分ぐらいのはたらきを、コンピュータとインターネットがやってくれていると思われます。 では、どうすればいいのか。 世の中をよくするための「ちょっと不便」な7項目 冒頭の電気の話題でも書いたとおり、「ちょっと不便」な状態に戻す、というのはいかがでしょうか。 簡単に言えば、免許制。匿名では一切ネットに接続できない状況を作ればいいのです。 つまり、レンタルビデオ屋に行ってえっちビデオを借りようとしたら運転免許証か保険証を見せなければならない、 という、とっても恥ずかしい「ちょっと不便」な状況が、適度な制約になっていたと思います。 凶悪犯罪の検挙率が下がってきている、というニュースをテレビでやっていますが、 これは外国人犯罪が増えて検挙する側が人手が足りない状態になっていることが原因のようです。 つまり、日本人の犯罪であれば、たとえばひき逃げ事件や誘拐事件の検挙率は99%と言われているとおり、 犯人にとって最もメリットがあるような犯罪は逆に「足」がつきやすいわけです。が、日本に戸籍が無い不法滞在の人たちや、 そもそも偽造のパスポートを持って入国してくる「専門家」の犯罪は、さすがの最新テクノロジーを駆使した日本の警察の捜査でも追いかけようがない、 というわけです。 しかし、ネット社会の現状は、「戸籍」を消して意見を言うことを黙認しています。だから、自分の顔を見せずに、 社会的な個人としての責任を背負うことなく勝手な意見を発表することが出来てしまうわけです。 それによって鬱憤を晴らしたりストレスを解消したりしている人たちもいるでしょう。 しかし、それがここ10年の「歪んだ荒んだ雰囲気」を作り出している要因になっていることは間違いないのではないかと思うのです。 もちろん、規制ばかりでは何も先に進みません。しかし、子どもとオトナ、やっていいことと悪いこと、 という人間として基本的なけじめが「自由」とか「平等」という言葉の都合のいい曲解によって崩れていくことを野放しにしてしまっていたら、 電車の中でメイクをしたりジュースを飲んでいたり携帯で話をしていたりする現状から、もっとひどいことになっていくわけです。 てなわけで、「ちょっと不便」のススメのまとめっ!! (1)ネオンサインは夜11時まで!! (2)家庭用インターネット回線は13時〜17時と3時〜6時はお休み!! (3)テレビは6時から24時まで!! (4)インターネットには、国家試験と免許制!! (5)携帯電話の所持には、ペーパーテストと誓約書!! (6)コンビニやファミレスも含め、全てのお店の営業は7時から24時まで!! (7)少年犯罪の報道は、ニュースのみ!!ワイドショーでは採り上げない!! ……んーーむ、辛いけど、これだけやったらかなり治安は良くなると思いますけどねっ!!