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第19回 演劇で街づくり


あけましておめでとうございます。今年も嫌われ者道を究めるべく、邁進してまいりたいと思いますのでよろしくお願いいたします!!

ふとこの連載を読み返してみたら、第7回ぐらいまではちゃんと順番にいろんな話をしていたのにその後脱線し続けていることが判明しました。飽きっぽい性格がここにも出ておりますな……。

1990年頃、いわゆる「バブル崩壊」が起きました。起きた当時は、企業の人たちもあんまり実情を信じられないような感じで、 次々といろんな解決策を取っていらっしゃったように思います。観客動員数が1万人を越えた僕らのところにも、 やはり急激にいろんな話が舞い込んできました。つまり、当時とっても元気だった「広告代理店」の人たちが、テレビ、ラジオ、 新聞などを使ってなんらかのイベントをやって、落ち込んだ消費をなんとかして盛り返そう、というわけで、 スポーツや音楽のイベントを次々と手掛けてスポンサーをつけ、TV局に売り込む、というようなことをしていたわけです。

で、スポーツや音楽のネタを使い尽くしたところで、「そう言えば演劇って……」みたいな感じで、 ようやく最後に思い付いて辿り着いてきたのが僕らの世界「小劇場演劇」だったような気がします。 「新しくできる劇場で、演劇フェスティバルをやるから出て欲しい」とか、「某有名劇場を1ヶ月押さえたから、その中で1週間何かをやってほしい」とか、 「某大劇場で有名人を使って公演をやってほしい」とか、まぁ、あの手この手でいろんな売り込みがやってきました。

でも、基本的に僕らはそういう浮いた話には興味がなくて、なにしろ目の前の自分たちがやりたいことだけをこつこつとやっているのが楽しい、 という感じでしたので、話は聞くけど滅多にまともに受け付けない、という日々を送っておりました。


人が通過していくパッとしない街を「文化の発信基地」に

そんな中、「聖蹟桜ヶ丘の街づくりのお手伝いをしてほしい」という話が来ました。これは、広告代理店ではなく、 某代議士の北方四島の事件で有名になった「コンサルタント会社」から持ち込まれた話でした。正確に言えば、第三舞台に来た話だったのに、 プロデューサー細川氏が「あぁ、そういう話はキャラメルがやるんじゃないっすか」と振ってきた、というもの。いやぁ、この時期、 いろんなものを振ってこられましたな、細川さん。

さて、聖蹟桜ヶ丘、と言われてわかる人は、東京の多摩地区にお住まいの人たちぐらいではないでしょうか。 もしかしたら、京王線沿線の人しか知らないかもしれません。しかし、何を隠そう、僕が住んでいる府中の隣の駅です。

実際、近所に住んでいる僕にとっても聖蹟桜ヶ丘という街はパッとしない街でした。京王帝都電鉄の本社があって、 社長さんも住んでいるという噂はありましたが、なぜこの駅に特急電車が止まるのかわからないほど地味な駅だったんです。 でも、京王のショッピングセンターは巨大で、多摩ニュータウンの北の入り口とも言える駅ではありました。

しかし、当時、やはり新しく作られた街だけに、「人が通過していく駅」という印象があったのは間違いありません。

そこで僕に依頼されたのは、「文化の発信基地としての聖蹟桜ヶ丘」「演劇の街・聖蹟桜ヶ丘」を提案して欲しい、ということでした。

こういうお話は、何十時間もかけて作った企画書が、一瞬にして「あ、あの話ね、流れましたよ」なんて言われるのがあたりまえのことだったのですが、 僕はいちいち全力で企画書を書き上げて依頼先に提出していました。この時も、思いっきり熱のこもった企画書を書き、提案しました。

イラスト現状ではイベントホールになっている「アウラホール」で毎週末、なんらかの小劇団の公演を行い、 時には多摩地区に大量にある大学生の劇団の公演も招聘して「多摩の小劇場演劇のメッカ」にする、というのが大筋でした。

最初は、「演劇?」って感じのリアクションだった「街づくり実行委員会」の皆さんも、 実際に劇場に足を運んでキャラメルボックスの舞台を生で体験してくださるようになり、次第に「これはおもしろい」と前向きになってきました。

そして、まず最初はキャラメルボックスが2週間やってみることから始めよう、ということになりました。 当時、すでに中劇場に進出していたキャラメルボックスとしては久しぶりの小劇場公演。 なにしろ、聖蹟桜ヶ丘アウラホールは300人収容のホールでしたので、セットも大した物は組めません。しかし、そこは小劇場育ちの僕ら。 せっかくやるんなら、本公演とは別な感じのものをやってみよう、ということで「アナザーフェイス」という企画に仕上げました。

これは、他の劇団から主役級の人を含めて数人まるごと連れてきて、劇団対劇団の異文化交流によって新しい作品を創り上げてみようじゃないか、という企画でした。

第一回のゲストは、劇団ショーマ。僕らが大好きだった劇団で、実は1991年に僕が青山円形劇場から「プロデューサー特集の演劇フェスティバルをやらないか」と持ちかけられて生まれて初めて行なった「加藤昌史プロデュース公演」の時に御世話になった演出家・高橋いさをさんの劇団でした。

当時キャラメルボックスは、独立独歩の劇団で、僕が一人で外に出ていっていろんな劇団の人たちと交流していた、という時期でした。

そんな現状を打破するためにも、この公演はとても楽しみなものでありました。最初の段階から、 キャラメルボックスの成井豊とショーマの高橋さんが顔をつきあわせて「脚本会議」を行なってお互いのセンスのすりあわせを行ない、 何度も何度も話し合って作品を創っていくことになりました。

その一方で僕は、「街づくり実行委員会」の方々や京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターの方々と頻繁に打ち合わせを行なって、 キャラメルボックスのお客さんだけではなく、地元の方々にいかに観に来ていただくかの企画を考えていきました。

なにしろ京王グループというのはこの沿線では絶大な力を持っていますので、新聞折込み数十万枚、電車の中吊り広告何千枚、京王線全駅に特大ポスター、 などなどなどなど、デザインチームがひぃひぃ悲鳴を上げるほどの宣伝材料を制作しました。

中でもあまり知られていないのに凝っていたのは、チラシ。キャラメルボックスのお客さん向けのものと、 駅などに置くための一般のお客さん向けのものとを別に制作したのです。劇団のお客さん向けであれば、今までの流れ、とか、演劇界の中での流れ、 とか、いろんなものがあるわけですけど、全くキャラメルボックスのことを知らない人たちのために宣伝する、 ということになるとやはりメッセージを変えていかなければならない、ということになったのです。


売れないことを前提に宣伝をしてしまっていた

このような万全の準備を整えて迎えた、一般前売開始。
劇団として言えば、新宿シアターアプルや紀伊國屋ホールで15000人を動員してはいたものの、なにしろ新宿から西へ京王線特急で25分、という土地。 東京の東半分、そして東関東の人たちはほとんど来られないだろう、と考えると、多くて三分の一、へたすると四分の一ぐらいの券売ではないか、 と見込まれました。しかし、なにしろ準備したのは18ステージ。売れなかったら、もう、多摩地区の家庭を一軒一軒足で回ろうか、 などとまで、委員会の方たちと話をしていました。

が、なんとチケットは即日完売。
一同、あっけにとられました。
そもそも、都心を中心に「観たいと言ってくださる方みんなに観ていただく」というのをポリシーにやってきたキャラメルボックスが郊外で公演を 行うこと自体、お客さんに対する裏切り行為に近いものがあるわけですし、 聖蹟桜ヶ丘的に言えば「こんな遠くまで演劇を観に来るお客さんなんかいるわけがない」という諦めムードも実は委員会の中には漂っていたりしたのです。

そこで、急遽追加公演を決定。なにしろ、売れないことを前提に宣伝をしてしまっていましたので、 京王線全駅に貼ってあるポスターがたった1日で無用の長物になってしまったわけです。 公演までの1ヶ月、こつこつと沿線で宣伝をして地元密着でチケットを買ってもらう、ということをしていくつもりだったのが、 その作業が不必要になってしまったという、嬉しい悲鳴でした。

そこで京王さんが持ち出したのが、「全駅のポスターに追加公演決定のステッカーを貼る」というものでした。70近くある駅のポスターにステッカー。 僕は、当然各駅になんらかの方法で配送して貼ってもらうものだとばかり思っていたのですが、 なんと聖蹟桜ヶ丘の担当の方が「配送したらお金がかかる」と、新宿から順番に各駅停車に乗って一駅一駅降りて貼っていってくださったのです!!

そして、即日完売では今後が困る、ということで、セットの設計と同時に客席の設定も考え直すことになりました。幸いアウラホールはフリースペースでしたので、ロビーとホール内は分厚い間仕切りで区切られていたので、それをうまく使うことで客席を拡げることが可能になりました。ところが困ったのが、椅子。ホールの椅子だけでは、拡げた部分の客席が足りないぞ、というわけで、なんとショッピングセンター中を駆け回って、会議室の椅子や、なぜか結婚式場のもののような椅子までもがホールに運び込まれてきました。巨大な台車を押して、次々と京王の方々が運んできてくださる椅子に、唖然とした覚えがあります。

そんなこんなで迎えた初日。
公開リハーサルは、地元の方々と委員会の皆さんと京王の皆さんだけを集めて行なわれました。 多摩市のおじいちゃんおばあちゃんたちもいらっしゃる客席で、キャラメルボックスとショーマのぶつかり合う激しい舞台が繰り広げられ、 大喝采のうちに終幕することが出来ました。

ちなみに、この時の主役はまだテレビに出る前の上川隆也。稽古中は膨大なセリフと微妙な役作りに悩みに悩んでいたのに、 この公開リハーサルで何か憑き物が落ちたようなパワフルな芝居を見せてくれました。

そして、初日が開いてからというもの、連日超満員。終わってみれば、なんと8073人のお客さんが聖蹟桜ヶ丘まで足を運んでくださったという結果でした。

その公演中、ショッピングセンターの中のレストランや喫茶店も協力してくださって、キャラメルボックスを観た人は割引、とか、コーヒーサービス、 とか、いろんなことをしてくださいました。連日ホールには普段の公演では見かけないようなお客さんがたくさんいらっしゃって、 異様な盛り上がりを見せました。

公演期間の途中から、すでに「来年はいつやりましょうか」という話が出てきたりして、 企画立ち上げ当初の「演劇なんぞ」という雰囲気は微塵もなくなっていました。

その後、キャラメルボックスは3回の公演をこのアウラホールで行ない、何度となく「ビデオライブ」を行なわせていただきました。 しかし残念なことにキャラメルボックスに続く聖蹟桜ヶ丘発の公演を行う劇団は生まれず、この企画は尻すぼみに終わってしまったのでした。

「演劇で街づくり」。いろんな演劇の人がそんなふうなことに挑戦してきているのでしょうが、 実際にその街の経済に直接的に働きかけた演劇公演の実験は、劇団四季を除けばこれが最初だったのではないでしょうか。

しかしその後、キャラメルボックスはもっととんでもない企画をとんでもない大会社から受け入れることになるのです。……続くっ!!

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