第4回 「キャラメルボックス中劇場進出作戦」大成功!
前回は、神戸でのポスター貼りのお話まででした。
なにしろ初めての中劇場での公演、なおかつ初めての関西での公演、ということで僕らは気合いが入りまくっていました。
「1000人入ったら道頓堀をハダカで逆立ちして歩いてやる」とまで言われては、「じゃぁやっていただこうじゃないの」と思ってしまいますよね、普通。
←思わないってば
東京では一切やっていない雑誌社や新聞社をまわる「プロモーション」活動も行ないました(なんで東京では一切やっていないのか、
という件についてはラジオ短波から発売された僕の本「いいこと思いついたっ!」に詳しく書いたので、ここでは触れません)。
そして、関西圏の中学と高校の演劇部のリストを入手して全ての学校に「招待券」を送りました。
ただし、そのときに「ハイスクール・不思議屋新聞」と称して、中高生のためにキャラメルボックスという劇団を紹介するお手紙を別に作って、
東京公演での高校生たちの感想や、キャラメルボックスのお芝居を上演してくれた人たちの感想なんかを掲載しました。ちなみに「不思議屋」というのは、
当時脚本の成井豊が「僕らの仕事は演劇を見せることじゃない、不思議を楽しんでもらうことだ」と語っていたことから付けたタイトルでした。
初日にいきなりスタンディング・オベーション!
しかし、演劇界の人たちからは、「なんで高校生にタダで見せるためにそこまでする必要があるのか」という「呆れ」にも似た忠告もいただきました。
当時、某スポーツ新聞に「女子高生に大人気!演劇集団キャラメルボックス」なんて記事が載ったこともあるくらい、
うちの劇団は高校生に大人気…………でもなんでもなかったにもかかわらず、です。その記事は、たまたまその記者が観に来た日に数人の高校生のグループが観に来ていたのを見て、
僕に「高校生に人気があるんですね」とインタビューしてきたので「中高生は全体の15%に過ぎません。
お客さんの年齢層は、20代前半の人が中心で、下は小学生から上は60代の方まで幅広く観に来ていただいています。
が、ウチはハーフタイムシアターという上演時間が45分のお芝居をやっていることもあって、高校の演劇部ではよくウチの作品が採り上げられているようです」
という内容をお答えしたのです。そうしたら、「女子高生に大人気!」になってしまったのです。
いやもう、新聞記者のうちかなりな割合の人が、こういうふうに「自分が出してきた結論」や「先入観から導き出された結果」
などを元にインタビューしてきて、こっちの話なんか自分の良いようにしか受け取らないですね。ていうか、自分の都合のいい部分しか耳に入ってない、という。
ちなみに、政治の世界といっしょですが、演劇の世界にも「記者会」というのがあります。ていうか、あるらしいです。で、大きな商業演劇や新劇などの公演では
「記者総見」というのがあるらしく、そこにみんなタダで見に行って、新聞などに「いやぁ、だれそれがよかった。でもあそこはこうしたほうが」って書くんだそうです。
……なんか、そういうのって、「報道」って言えるのかしら。おかしいと思うのよね、あたし。←なんで女言葉になってるのっ?!
で、そういう記者さんたちが決める●●演劇賞って、どうなんでしょうね。
おっと、話が逸れまくりました。
というわけで、「タダ」とは言え、せっかく観に来ていただくのだったら、せっかくだからワクワクドキドキしながら観に来て欲しいし、
気に入ってもらえたら彼らにもこの作品を上演してほしい。「やって楽しい、観て楽しい」のが僕らの芝居なんだから。そんな思いを込めて、
10代の彼らに対して出来うる限りの誠意を尽くしたご招待状をお送りしました。
そんなこともあったのですが、普段はターゲットを絞った宣伝活動を行なってきたキャラメルボックスが、
この初神戸公演では、できることの全てを注ぎ込んで立ち向かっていったのです。
結果は、1,690人動員。アンケートとチケットの半券の集計結果を見ると、なんとマスコミの記事を見て、という方々はほとんどいなくて、
ポスターを貼っていただいたお店の方々や、高校生の皆さん、そして東京のお客さんたちのお友達たちがとんどんお友達を誘って足を運んでくださったのです。
しかも、初日のカーテンコールでいきなりスタンディング・オベーションが起きてしまうという、まさに「大成功」でした。
それから10年経った今では、関西の公演で1万人以上のお客さんに来ていただくことが出来るようになりました。
そして、全国の高校演劇の皆さんたちの間で、なんと年間300校以上の方々にキャラメルボックスの作品を上演していただけるようになり
(これは間違いなく日本の劇作家の中で最も高校生に上演されているということ)、なおかつこの時上演した『不思議なクリスマスのつくりかた』は、
中でも人気作品となってしまいました。
そして、「キャラメルボックス中劇場進出大作戦」は東京に舞台を移します。
中劇場だからこそ、少人数の出演者で徹底的に稽古
この『不思議なクリスマスのつくりかた』。新神戸オリエンタル劇場に続いて、新宿のシアターアプルでも上演しました。
その1990年当時、「小劇場ブーム」が真っ盛りで、いろんな小劇団がどんどん観客動員数を伸ばしてプロ化していっていた時代です。
「小劇場→下北沢ザ・スズナリ(200人収容)→本多劇場(300人)or紀伊國屋ホール(400人)」という「サクセスストーリー」をみんなが狙っていた時代です。
が、実は「その次」を成功させたところは野田秀樹さんの「夢の遊眠社」と、鴻上尚史さんの「第三舞台」しかありませんでした。
シアターアプル(700人)、サンシャイン劇場(800人)、などの「中劇場」に進出しては動員が伸びずに撤退していった人気劇団がいくつあったことか。
しかし、僕らの恵まれていた点は、そういう、先輩方の成功や失敗を目の当たりにすることができた「遅れてきた劇団」だった、ということでした。
劇作的にも製作的にも、先輩方がなんで成功したのか、なんで失敗してしまったのか、それらを演出と話し合い、「中劇場仕様」の作品を創ることに集中したのです。
僕らはそれまで、なんと200人の新宿シアターモリエールと300人の青山円形劇場ぐらいでしかやったことがありませんでしたから、
いきなり700人ではとてつもない飛躍のしすぎ、でした。
誰がみても、どう考えても、「無謀」という言葉しか出てこない状況でした。
音楽の世界で言えば、ライブハウスでしか演奏したことがなかったアーティストがいきなり日本武道館に出るようなものですから。
が、なんと、僕らの気合いが伝わったのか、東京公演は前売即日完売。追加公演をすることになってしまうという、予想だにしない事態になってしまいました。
もう、お客さんの期待は膨れあがっています。これで作品が失敗したら、もうきっと誰も観に来てくれなくなるでしょう。
しかし、僕らには勝算がありました。
「中劇場仕様」を考えた結果、劇場が大きくなるからと言って登場人物を増やして演出を派手にするのではなく逆に少人数しか出ない
「自信作」を再演することにしたのです。
そして、その少人数で徹底的に稽古をしました。
「もっと大きく動いて」。「もっと遠くを意識して」。「声を一番うしろの席に飛ばして」。
当時、まさかその5年後にテレビで主役をやるようになるとは想像してもいない上川隆也などは、「そこまでやらんでも」というほどの勢いで走りまくり、
飛びまくり、叫びまくりました。
そして迎えた初日は神戸。そこで、スタンディング・オベーション。
これでもう、僕らは救われました。もう大丈夫だ。東京のお客さんも、きっと楽しんでくれる。そう自信を持って、700人の劇場で弾け飛ぶことが出来ました。
そして、連日当日券のお客さんがガンガン増えて、結局、観客動員は9,651人。
その数ヶ月前の夏の公演が7,274人でしたから、なんと2400人も一気に増えてしまったのです。なおかつ、神戸と合わせたら11,341人……!!
念願、というか、当時の小劇場演劇をやっている者達の「夢」とも言える「1万人突破」を、いきなり、期せずして、迎えてしまったのです!!
というわけで、次回は小劇場出身劇団である僕らの「その次」がどうなっていったのか、
どんなふうに嫌われながら迷いながらバブルだの不況だのの中で泳いできたのか、をお話してみたいと思います。
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