第148回 元国連難民高等弁務官 緒方貞子氏 92歳で死去
国連難民高等弁務官 緒方貞子氏(右)筆者(左)(1999年8月20日) |
日本人として初の国連難民高等弁務官を3期10年務めて難民支援に新しい道を拓き、更にその後10年国際協力機構(JICA)理事長として日本の国際貢献に寄与した緒方貞子氏が10月22日、92歳で死去した。
曽祖父は5.15事件で暗殺された犬養毅、父親は大使、外交官の子女として幼少期や留学で長く海外で育ち、日銀理事などを務めた夫君緒方四十郎氏の父親もまた2.26事件で襲撃された朝日新聞の元主筆緒方竹虎という日本のデモクラシー史に残る名家。逆差別になるのでメディアはあえて触れないが、「プラグマティストの平和主義者」といわれる緒方氏の活動には日本社会で稀な「ノブレス・オブリージュ」(高貴な身分には重い責務が伴う)が感じられる。
緒方氏は元々大学教師。1951年聖心女子大学を卒業し、63年米カリフォルニア大学バークリー校で政治学博士号を取得、その後国際基督教大学で外交史、国際関係論を講義するかたわら、「婦人の地位向上のための」政治情報活動の中心であった婦選会館(現 公財 市川房枝記念会女性と政治センター)の理事をしていた。75年国連世界女性年、それに続く女性の十年(76年~)に際して市川房枝氏ら強力な女性リーダーの推薦を受けて76年、日本女性初の国連公使に任命された。
緒方貞子氏と筆者の最初の個人的な出会いだが、彼女が国連公使に任命された時、国連でインタビューした経緯がある。
その後、1981年、緒方氏は国連公使の仕事を終え、元の上智大学に戻っていた。当時、筆者はミズーリ大学大学院で前半を済ませていた博士課程を姉妹校の上智大学で完成することを考えていたが、「新聞学部長のデ・ベラ神父さまともご相談しましたが、貴女は研究者になるより、ワーキング・ジャーナリストとして学生にジャーナリズムを教えた方がデモクラシーとメディアの発展に役立ちます」と、緒方氏ににこやかな表情でいわれると、博士号をとるというのが利己的な小さな選択に思え、その忠告に従って今日まで過ごしてきた。
緒方貞子氏(中央)R.シュレッフラー(右)筆者(左) |
緒方貞子氏は国連難民高等弁務官在任中には150㎝にも満たない小柄な身体に防弾ベストを着て世界の紛争地域を歩き回るなど、国際政治学者としての研究と実務が結びついたプロフェッショナルな働きで国連の人道支援と開発援助を「現実的平和主義者」として指揮した。
緒方氏の死去に関しては海外メディアが相次ぎ速報している。英BBC「難民の保護に情熱を注ぎ、世界のリーダーたちから「リトル・ジャイアント」(小さな巨人)として尊敬された」。ロイター通信、米ワシントンポスト紙などは、弁務官時代にルアンダ旧ユーゴスラビア紛争で荒廃した地域を防弾ヘルメットとベスト姿でしばしば視察したことを詳しく報じた。
(公社)日本外国特派員協会では、緒方氏は国連難民高等弁務官、JICA理事長として何度も記者会見に応じたが、聴衆の一人として夫君の日本銀行理事で当プレス・クラブ会員の緒方四十郎氏がいつも出席されていたのが印象的だった。会見の前後にお二人と懇談できたのは振り返ると筆者の幸運な特権であった。
緒方氏は若い女性に対して親身に留学や海外勤務、なかでも国連関係への就職を勧めていた。その甲斐あってか2018年現在、国連本部事務局でのトップ10国別男女比では米国、ドイツを押さえて日本女性の比率が58.66%のNo.1となっている。因みに、日本人の国連本部職員は男性31人、女性44人。
緒方氏は男女にかかわらず、多くの後進に対し先輩としてのアドバイスを惜しまなかった。
「現実的平和主義」の薫陶を受けたプロフェッショナルたちが今や日本内外の要所要所でしっかり活躍している。(終わり)
熱心に聞き入る参加者たち |
2019.12.11 掲載
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