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明治維新150年目に当たり徳川時代(江戸時代)を見直そうという動きが盛んだが、FCCJでは5月31日、徳川宗家第19代当主徳川家広氏を夕食講演会に招いた。 家広氏の父、徳川第18代宗家当主徳川恒孝氏(徳川記念財団理事長)は『江戸の遺伝子ーいまこそ見直されるべき日本人の知恵』(2007年PHP出版)を著し、鎖国政策で日本が世界の発展から取り残されたという通説とは逆に、世界でもまれな長期間の平和と繁栄がこの時代に達成されたことを改めて検証するべきだという説を述べている。家広氏はこれを英語に翻訳し、“The Edo Inheritance” (I-House Press 2009)として国際社会に広く啓蒙した。 家広氏は日本生まれの米国育ち、慶応大学卒、ミシガン大学修士、1992年FAO(国連食糧農業機関)のローマ本部に入所。ベトナム等の現地勤務を経て2001年日本帰国。著述業、翻訳家、政治社会評論家として活躍している。現在はベトナム在留中。講演はQ&Aを含めすべて英語で行われた。 日本国の成立と東西文化の違い家広氏によれば、日本が国として形をとりだしたのは660年ごろ。西日本と朝鮮半島の南部が領域だったという。その後中国の法制を取り入れて国つくりをしようとしたが、辺境の遊牧民から中央集権の財産を守ろうとする中国と、外部(海外)から「とりにくるだけの資産があると思われなかった」貧しい日本とでは地理環境が異なり、この時代は中国の法制度を採用することはなかったという。 (※)編集部注:桓武平氏の一族である北条氏は征夷大将軍にはなれない血筋なので、京都から法親王(天皇の直系)をお迎えしてその執権として政権を運営した。 ところがこの構図に変化をもたらしたのが、部落民出身の豊臣秀吉である。 家広氏は宗教的には当時瀬戸内海が取り巻く近畿など西日本は神道で交戦的、東日本は仏教で友好的だったという。1615年豊臣家は崩壊したが、豊臣の影響はその後80年以上も継続したと解説した。
Q&Aよりインド記者:豊臣は部落民か? 部落民で社会の上層部にあがれるなら今日部落民問題があるのは? 彼らは決まった職業にしかつけないのか? 米国記者:知見がユニークで話が面白い。どうしてメディアに出ないのか? 日本人会員:明治150年を期に江戸城天守閣を再建しようという人々の運動ががあるが?
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家広氏は徳川300年の鎖国は金の含有量を減らすことで通貨を安定させるなど、諸外国がなし得なかった業績を報告、「鎖国」を悪とするのは和辻哲郎氏の著書を読売新聞が大きく取り上げた後遺症であると断じた。 家広氏はご家族の病気でベトナム出発が遅れ、夕食が始まってからプレスクラブに到着するなど参加者一同をヤキモキさせていたが、徳川家康似の風貌と歴史への独特の切り口に人気が集まり、講演後も名刺交換のために集まる会員たちが長蛇の列となった。
2018.8.25 掲載
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