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元プレスクラブ会長、元AP東京支局長ジェームズ・C・ラジエ氏を偲ぶ会が1月22日の夕べ、プレスクラブで行われた。1962年APホノルル支局に入社、2001年東京支局長の職を最後に引退するまで40年間にわたる記者生活で太平洋での核実験、ロバート・ケネディー暗殺、神戸震災など米国、日本での主要ニュース報道に責任者として関わってきた。 カルフォルニア州ウオルナット・クリークで2015年11月21日、癌のため死亡。享年80歳だった。 国際メディア機関であるプレスクラブでは偲ぶ会を主催した後は“business as usual”(通常業務続行)だが、プレスクラブ最高の仲間の死に対して筆者は心の中でずっと喪に服していた。
(社)日本外国特派員協会ジェームズ・C・ラジエ会長と渡辺晴子副会長というより「ジム-ハルコ」の関係でチームを組んで仕事しやすかったが、メディア組織経営者としてジムの姿勢から学んだことがある。第一にプレス・クラブ組織内の誰をも歓迎し、疎外感を与えないこと、第二には過剰な叱責は行わないこと、第三には権限を私用する人間を許さないこと。 ジムが会長に当選した1995年当時、プレスクラブでは円高と日本経済の不況で会員数が1700人に急激に減少。ところがプレスクラブはプライベート・クラブでもあるため、新入会員を新参者扱いし、特に外部からの訪問者に対して冷たく「友人の前で無視された」と怒る人もいた。正会員の特派員だけでなく、準会員も入会したい職能兼社交クラブにするためにはどうするのか?
そこでジムと筆者が約束したことは、有楽町電気ビル北館1階ロビーから始めてクラブに上がってくる内外の人々に笑顔で挨拶を返すこと。「モーニング、ジム! ハイ、ハルコ! ロング・タイム・ノーシー!etc.etc」。エレベーターの中の会話は本来のプライベート・クラブに相応しい親睦的なものになった。 特派員は「強面の種族」と自他ともに認められているので、ジムの慈父のような笑顔のPR効果は抜群。「プレスクラブの役員とファースト・ネームの付き合いだ」と周囲に知られることは入会希望者へのインセンティブになったに違いない。会員数は1700人から2000人に戻った。 第二点はAP内部の話だが、お酒で大失敗したスタッフが方々に謝りにまわり、最後の段階で東京支局長のもとに謝りに来たところ、ジムからは「次から気を付けて」のたった一言だったという。「奥さんに叱られ、直属のボスに叱られたらそれでもう十分」というのがジムの人事管理法。 このエピソードを私に話してくれたのは「罪を憎んで人を憎まず」の方針ではあるが、責任の追及を曖昧にしないジャーナリスト気質の筆者への「大人としての助言」として今も人事委員会での判断の基準としている。 第三点は自分の職務上の権限を私用させないこと。「虎の威を借る狐」的な行動をとる取り巻きは、一見親しく付き合うように見せても最後にはキッパリと排除する。ステデイのガールフレンドと結婚に至らなかったのも、こうした潔癖さが影響したのかもしれない。
ジムのクラブでの功績は偉大だった。自分の人脈を生かして会員数を増加させ、記者会見に政界、財界の超VIPを招き、華やかなパーティーではホストを務めた。著名人ばかりではなく気軽に日本の村人とも交流し、更には(これが一番難しいが)一騎当千の記者仲間を相手にとにかくクラブ内での“Peace & Harmony”を保ったことだ。 筆者は未だにエレベーター内での挨拶を続けている。 2016.3.3 掲載
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