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ブルース・ダニング氏は1975年ベトナム戦争時、南ベトナム・ダナン空軍基地からの最終脱出機に群がる避難者たちを迫真に報道して数々の賞を受けた。南ベトナムを擁護すべき兵隊たちが、女性と子どもを救おうと派遣されたジェット機に壮絶な争いで取りついた姿をドラマチックに描写したのである。 「あのブルースが死んだ。まだ73歳だったのに!」 プレス・クラブのメイン・バーではブルースを惜しむ声が湧き上がっていた。というのもスター記者は従来クラブの運営に時間を取られるのを惜しんで役職を引き受けないが、ブルースはスカラシップ、報道、出版など各種の委員会の委員長として手間暇を惜しまず活躍し、1978-1979年には会長となってクラブの発展に貢献したからだ。 年齢も近く同じくコロンビア大学ジャーナリズム大学院で学んだ筆者とは相性がよく、1996年には選挙管理委員会で一緒に仕事をした。考えてみると筆者がその後もずっと、選挙管理委員長を務めたのは彼の影響かもしれない。 ジャーナリストとして公正で冷静だが愛想がよく、自分がジョークの対象になっても一緒に笑っている度量があった。美食家のため中高年では超肥満になった彼が、一念発起でダイエットに励み人並みのシェイプになったことがある。クラブの機関誌に「ブルースの影が出没している」と報じられた記事を読んで爆笑していた。 一方、当時進出してきたビデオ・ニュースやビデオ・ゲームに対しては、「テレビの画面を奪うものはすべて商売敵だ」と油断のない経営者としての姿も見せた。 彼のキャリアには「最初」が多い。1979年には北朝鮮から米国放送記者として最初のレポートを発信し、1981年にはCBSニュース最初の中国特派員となり、同時に北京支局を開局した。1989年にはCBSニュース東京支局長となり2005年に引退するまでアジア報道全体を統括した。 1940年ニュー・ジャージー州で生まれた彼は、父子ともにプリンストン大学の卒業生であることを大きな誇りとしていた。 筆者としてはブルースにも91歳になって杖なしでパレードに参加してほしかった。 特派員協会からは、彼の生涯のパートナーで芸術家のツネモリ・カワナ氏ほか近親者に弔意を送った。 2013.8.31 掲載
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