第79回 さよなら中山加奈子さん
勤続41年、穏やかな笑顔と確実な仕事ぶりでジャーナリストや準会員たちの人気と信頼を一身に集めていたライブラリー・マネージャーの中山加奈子さんが、65歳の定年で5月31日、ついに特派員協会を卒業することになった。裏方として勤続40年、レストランのウエイターから始め、総支配人まで上り詰め4月より顧問に異動した中村章さんと共に、4月26日に行われた送別会で150人を超える会員たちからの感謝を受けた。
公共図書館や企業の調査室とは異なり、プレスクラブのライブラリアンの仕事は多岐に渡っている。図書、雑誌、新聞の購入、管理はもとより、会員からの問い合わせ、データベースの取り扱い、コンピューター・サポート、出版記念会、試写会などイベントの企画、なかでも日本語に不自由な外国人記者に代わってインタビューのアポイントメントを確保するのは、職務規定には記されていないものの重要な仕事だ。
「3.11」青森弁で説得
「3.11」東日本大震災の取材で日本の主要メディアが政府・警察の勧告を受けて次々と被災地から撤退したのに反して、海外メディアに働く記者たちは「これこそ記者の仕事場。警官が車から引きずり下ろして逮捕する事はない」「なにを書いてもスクープだ」と勇んで福島に向かった話は、内外のメディア関係者によく知られている。
実は彼らのインタビューを実現させたのは中山さんの青森弁での説得力。「この忙しいのに邪魔をするな!」と怒鳴りつける村役場の責任者たちに同じ東北出身者として同情を示し頑な態度を軟化させ、被害者たちのコンタクトを確保した。
「福島弁と青森弁は同じ東北弁で似ていますから」と中山さん。弘前大学卒業以来40年、標準語で東京生活している身としていささか後ろめたい気持ちを感じながらも「私は常にプレスクラブの記者側に立つ」との精神を貫いた。
中山さんが“FCCJ Where News Is Made”というプレスクラブのモットーを実現させたのは、和歌山県太地町でのイルカ漁のドキュメンタリー映画“The Cove”(入江)の2009年上映企画。
イルカの保護を訴えるため来日した60年代の人気ドラマ「わんぱくフリッパー」の調教師・リック・オバリーの撮影隊が隠し撮りした血まみれのイルカ漁、浜で嘆き悲しむ女性、笑いながら眺めている町民たちの断片的なカットをドラマチックに編集した技法は「フェイク・ドキュメンタリーだ」「絵と音声を作り込んでもドキュメントだ」と内容はもとより編集技術についても内外の論争を巻き起こす契機となった。
図書室には会員から寄贈された1871年発行の“Book of Ser Maroco Polo, the Venetian,
Concerning the Kingdoms and Marvels of the East”(ヴェネチア人マルコ・ポーロの東方見聞録)という稀刊本などや、1945年8月厚木飛行場に征服者として降り立った占領軍最高指揮官のダグラス・マッカーサー元帥がその翌月鎌倉八幡宮に詣でたとの新聞記事切り抜きなどもある。
「FCCJ図書室としての伝統を守りながら積極的にコンピューターやデジタル技術をとりいれ、現在の会員ばかりではなく将来の会員にも役立つスペースになってほしい」
半生を特派員協会のライブラリアンとして過ごした中山加奈子さんの最後のメッセージだ。
送別会では中山さんのお人柄を称賛する声が高かった。
「風邪のシーズンにはカウンターにマスクを用意してくれた」(オランダからの特派員)
「ワークルームで記事に行き詰まった時、ライブラリーで中山さんからお茶を入れてもらうとホッとした」(フリーランス記者)
「日本を離れて数年後、クラブに戻ったら中山さんが笑顔で迎えてくれた」(ドイツ人記者)
ライブラリーを臨機応変にジャーナリストの「オアシス」化させた中山さんの功績は、余人をもって代えがたいものがある。
引退後は生活を二分し、地元江東区のプールでの水泳やエクササイズ・ウォーキング活動と、青森で妹夫妻と同居しているお母さんと過ごす時間を両立させたいと話している。
中山加奈子さんいつまでもお元気で。
2013.4.29 掲載
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