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討論は民主主義の格闘技1945年の創立以来60年間、会長、第一副会長、第二副会長、書記、会計、理事4名計9名を選ぶプレスクラブの役員選挙はそれぞれのポストに候補者2名を指名し、委員長1名と委員2名による選挙管理委員会の下で合計18名の候補が文書配布、ポスター提示、口コミなどで運動していた。ところが、今回は監事役候補2名が加わった上、「選挙管理委員会は立会演説会を主催する。日時・方法等は委員会に一任」と総会で議決されてしまったのだ。 しかも、選挙管理委員会の委員長も委員も候補者リスト整理のため会場の外に出ていた隙での動議提出と討論である。委員長である筆者の「立会演説会はクラブの歴史初めての試みなので、内規に沿って優先動議として候補者の指名前に討論すべきだ」との発言も「ハルコサン、抗議するのが遅すぎたョ」で採決可決。 「選挙管理委員会イジメだ!立会演説会モデルの設定と候補者の時間調整にどれだけの時間がかかると考えているのか!」委員の一人が怒ったが、”Democracy is a due process of law” (民主政治は手続主義) 議決して即、解散されればどうしようもない。 そこで立会演説会の差配を「丸投げされた」委員長として筆者が考えたモデルは、スポーツ・イベント。サッカーやボクシングのように、制限時間内でオープン且つエキサイティングに開催すること。要するに、立会演説会はDemocracyの「格闘技」ではないか? ゴングとカラー・コードここで委員会が用意したのは、ボクシング用の大型ゴングと、サッカーの審判の振りかざす黄色と赤色のカードと、制限時間を告げる白色のカードである。入場券は投票権を持つ正会員用に緑色、投票権を持たないオブザーバーの準会員用に桃色を用意した。 入場券を色別したのは主宰者が質問者を識別するためで、かの「ホリエモン」記者会見時にPR目当ての準会員に質問をさせたような混乱がプレス・クラブ初の立会演説会で起こるのを防ぐためだった。 プレスクラブの運営と報道の自由問題などを離れて候補者が次期クラブ役員として品位を傷つける個人攻撃など行った時は、委員会はイェロー・カードを示す。二度目はレッド・カードで即退場を求める。
候補者はゴングの一撃「カーン」でスピーチを始め、委員の示すホワイト・カードを見て残りの1分間で話を纏める。「カン カン カン」で終了。会長候補者には各10分のスピーチ、それ以外の候補者は各5分、その後で役職枠ごとに会場から20分間の質疑応答を受ける。 今回の動議が可決されたのは午後9時半、既に役員候補指名者の半数が退席し、委員会が急遽調整した時間に先約などで出席できないことが分った。公平を期するため、候補者全員が参加できる役職間のみの立会演説会とした。つまり会長候補、第一副会長候補、書記候補である。 演説した会長候補のピオ・デミリアさん(イタリア「イル・マニフェスト紙」他特派員)は三期に渡る第2副会長時代の実績を強調し、クラブの報道面の企画と職員の向上について熱弁を奮った。同じくデニス・ノーマイルさん(米国「サイエンス」誌特派員)は若手と女性ジャーナリストのクラブ参加促進策を述べた。外信記者である日本人の奥さん(正会員)とそのお父さん(準会員)の出席もあり、日頃「硬物」科学記者の家庭人としての側面も見せた。 候補者初の演説の内容は文書で配られた方針とほぼ同様であったが、「お互いにライバルをどう観察するか」という会場からの質問には、記者らしいユーモアと皮肉の利いたジャブの応酬などもあり、彼らのプレゼンテーション能力を記者会見のゲスト紹介だけに限っていたのは才能の無視ではなかったかと感想を漏らす出席者が多かった。 “Soldiers can’t fight with empty stomach” 午後7時から始まるプレスクラブ大演説会には、キッチンから特別献立「激辛」「辛」「マイルド」のカレー、カルテル・サンドイッチの軽食が用意された。ビールやワインで寛いだ聴衆は、質疑応答時にはグリーンの入場券を振りかざして次々と発言を求めた。因みに会員の演説会参加数は2005年度総会参加数平均を大きく上回っていた。委員会が心配していた飲み過ぎた会員や準会員の不規則発言も無く、イェロー・カードの出番も無く、午後9時キッカリに無事終了した。 タウン・ミーティングこの一連の啓蒙活動のおかげで、日頃クラブの運営に無関心だった忙しい特派員たちも投票に参加し、最終的には投票率64%。クラブ始まって以来の高投票率になった。 唐突な提案から始まった立会演説会だが、Democracyの原点、タウン・ミーティングはこんなものかもしれない。候補者20人全員による立会演説会は無理でも、クラブを代表する会長、副会長候補による立会演説会は来年も開かれるだろう。 次期会長には米国科学週刊誌「サイエンス」特派員デニス・ノーマイルさんが当選した。 科学記者が特派員協会の会長になるのも、クラブの歴史始まって以来の快挙である。 2006.7.3 掲載
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