第10回 マッカーサー元帥記念執務室訪問
モーニング服に身を包み直立不動の姿勢でカメラに向かう天皇陛下の隣に、平服丸腰でお尻に手を廻しリラックスしたマッカーサー元帥の姿。大本営発表を報じる新聞、ラジオに惑わされ未だに日本の勝利を夢見ていた多くの日本人に、このたった一枚の写真が強烈なショックを与え、神国日本が大東亜戦争に敗れたことを知らせたものである。
特派員協会では太平洋戦争戦後60年回顧記念最後のプログラムとして、このほど第一生命保険相互会社に保存されているマッカーサー記念室見学ツアーを実施した。
“I like Ike” のキャッチ・コピーで人気を博し、戦後は軍人から米国大統領に見事に転身した後輩のドワイト・アイゼンハワー元帥に比べると、連合国日本占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーの米国での評価は賛否半ばする、というより否定する声の方が多いようだ。「尊大で国務省の外交方針に協調しなかった」「オーストラリア軍の協力がなければ太平洋戦線で敗退したのではないか」「副大統領上がりのハリー・トルーマン大統領は好きではないが、朝鮮戦争最中にも拘わらず、マッカーサー元帥を首にして政治が軍事を支配するデモクラシーを世界に示したのがよい」という声もある。
戦史上もヨーロッパ戦線で戦果を上げたアイクに比べて「老兵は死なず、ただ消えてゆくのみ」とアジア戦線を去った元帥に対する学界やメディアの反応は鈍い。
しかし、日本ではマッカーサー元帥に対する興味は未だに衰えていない。岡目八目なのか怖いもの見たさなのか、企画委員会がこの計画を発表するやベテラン特派員に加えて日頃は見学には参加しない会社役員、教授などで定員30名は即座に埋まり、第一生命に頼み込んで第二陣30名を送り込んだほどだ。
お堀端から皇居を見下ろす
協会から徒歩3分、お堀に面した第一生命ビルは当時六階建て、ドイツ・ナチス様式として賞賛されていた。一階と最上階の六階には鉄板を入れ無駄のないたっぷりした空間と皇居を見下す位置が、占領軍総司令部本部として彼の好みに合ったらしい。会社側は接収命令を受けて五日間で全館を明け渡した。
接収解除後、第一生命は本館を改修したが、マッカーサー元帥執務室は記念室として残されている。広さ16坪(約54㎡)で周囲の壁はすべて米国産のくるみ材。机、椅子は第一生命第三代社長石坂泰三が使用したものをそのまま使用。広い机には引き出しがなく元帥は戦場にいるときと同じく何事も即断即決し、机の上に書類を溜めなかったという。「膨大な書類が上がってきた筈なのに即決したとはカッコいい」。いつもデスクを膨大な資料や新聞の切抜きで満杯にしているスリランカからの女性記者が感心していた。
壁には英国人画家オルドリッジによるヨットの絵が二枚。これも石坂氏時代からのもの。新しいものとしては元帥の胸像と二番目の妻ジーン・マリー・フェアクロスと息子アーサーのレリーフが飾ってある。普段は見学先にカメラを持ち込まない中高年の準会員たちも、列を作って順番に机や胸像と記念撮影をしていた。
高校中退の憲兵
この見学に協力したのが会員のジャック・ラッセルで、彼の占領軍での肩書きは「憲兵」。
占領軍の憲兵といえば、特殊な訓練を受けた下士官、と当時の日本人は考えていたかもしれないが、実は彼は高校中退で志願兵となった。憲兵にされたのは「読み書きが出来る兵隊は少なかったから」。元帥のアメリカ大使館内の公邸から、朝夕とランチタイムの往復時にビルの正面に立って護衛に当たっていた。
ジャックは敵の姿を一目でも見ようと、毎日数百人もの日本人が黙々とビルの前で待っていたのが不思議だったという。
話はちょっと飛ぶが、ジャックは兵役を済ませた後、軍の奨学資金で高校を修了し、大学も卒業。その後、ニュース通信社の記者として日本に戻ってきた。湾岸戦争でもイラク戦争でも、奨学資金やアメリカの国籍が欲しくて志願する若者がいるのが今も米国の実情だ。
マッカーサーの椅子
職業軍人というものは「ええカッコしい」だが、マッカーサーの自己顕示欲は相当のものだ。日本占領時にはコーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立ち、フィリピンのレイテ湾上陸の際は、わざわざ腰まで海水に使って上陸するなど常にカメラを意識している。
齢65歳を超えるマッカーサーの椅子に許可を得てソーッと座ってみた。緑色の皮は磨り減ってすっかり白くなっている。元帥は家具を新調しろとは在任中一度もいっていない。
ここからどんな顔で命令を毎日部下に出していたのだろうか?
マッカーサーが質実剛健の軍人イメージを創ったのは、ひょっとして最初の妻、社交界の裕福な離婚者ハリエッタ・ルイーズ・クロムウエル・ブルックス二世夫人との華麗な生活に対する反動なのかもしれない。離婚裁判所への提出書類にハリエッタは夫の名前を「ダグラス・マッカーサーでなく、「ドナルド・マッカーサー」と無造作に記入している。
椅子に座ると、マッカーサー元帥の公私のエピソードがとりとめもなく浮かんできた。
2006.2.2 掲載
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