第17回 「宗教教育について」
皆さんこんにちは。広島県と栃木県で、小学校1年生の児童が他人の手によって殺害される事件が立て続けに発生しました。いずれも下校途中に狙われています。学校から無事に帰すことができなかった教員、そして、無事に子どもを迎えられなかった保護者はなんと無念かと、胸が痛みます。亡くなった児童とご家族に、心からお悔やみ申し上げます。
両方の事件をめぐる報道で気になっているのが、「被害児童と容疑者が顔見知りだったらしい」という話です。最初、自然な態度で接近して、油断させるのでしょうか。「○○小学校PTA」という偽造のプレートをつけ、子どもに声をかけて回る不審者もいる、という話も聞いたことがあります。となると、そういう被害を防ぐためにも、スクールバスでの登下校の送迎や、昼間地域にいる方々が子どもの登下校を見守る、といったことの全国的な整備が急がれます。そして、子どもは必ず成長するのですから、同時に、「自分の目で不審者を見抜く力」を養わなくてはなりません。
第2回連載「学校の安全性の問題」という話で書きましたが、とかく学校関係者は「自分の学校で何か起こらなければ、無関係な話と思って、気にしない」という悪い傾向があるので、保護者や心ある教員が訴えていかねば、お子さんの安全は守ることができない、と思わなければなりません。
今回は、「宗教教育について」について考えます。
公立校では認められていませんが、私立校では、宗教教育をその学校の教育理念の柱にしているところも多いので、改めて今回考えてみます。
そういった学校では、そもそも、学校の教育理念が「宗教観にのっとった」ものになっていることをまず認識しなくてはなりません。校則、生徒指導、総合学習など、学校の全てが宗教理念に基づいて決められている、と言っても言い過ぎではありません。
具体的に言えば、時間割に「宗教」などの名前の科目が設けられ、宗教的指導者(教員、またはシスターや僧侶)の教えのもと、キリスト教の学校なら、主に聖書を読む時間、仏教の学校なら経典を学ぶ時間になっているのです。他に、キリスト教系の学校では、朝の始業時間前の礼拝や、ボランティア活動、仏教系の学校では座禅を組む時間が必修になっていたりします。また、昼食前の祈り、というのは両者に共通することではないでしょうか。
学校で、それらを子どもが馬鹿にしたり、行事を欠席ばかりしたら、学校から保護者が呼び出されることもあるでしょう。また、それらにどうしても違和感を感じるようなら、その学校に通い続けることは困難だと思います。
そのようなことに気づかず、単にうわべだけ見て「お嬢様学校だから」と子どもを通わせると、あとで「こんなに校則が厳しかったのか」と、親子揃って大変な苦しみを味わうことにもなりかねないのです。
キリスト教教育を行なっている大学に通っても、聖書を読んだりする「宗教」という単位が必修になっていたりします。ですので、宗教の時間があるのは、人格形成に重要な時期の、中学・高校までなら当然のことではないでしょうか。
また、インターネットの受験をテーマにした複数の掲示板で、「宗教教育を行なう学校に子どもを通わせれば、必ず子どもは信者にならなくてはならないのか」という、憲法の「信教の自由」を理解していないような質問も見かけます。これも、「私立校に縁がなかった方々が、子どもを通わせるようになった」ことからきていることでしょう。
(もちろん、学校ですので、信者の家庭の子どもに限らず、試験に受かりさえすれば入ることはできます。入学後も信仰を強制されることは、通常、ありません)
なお、カン違いしないでいただきたいのは、「入試前、突然、志望校で信仰している宗教に入信」しても、入試の合否とは関係がない、ということです。これは教員志望者も同じことです。
また、当然、その宗教を信仰する家庭の子どもも通っています。更に、一般の家庭の子どもでも、思春期にそのような環境で過ごすことで、大きな影響を受け、成人してからその宗教に入る子どももいます。
宗教教育とは、「生きて行く上での指針、価値や行動の基準になるもの」を施すことではないか、と私は考えています。もちろん、信じるかどうかは生徒個人の問題ですが、きっかけを与えることで子どもに何らかの良い影響を与えられるのではないでしょうか。
ですので、学校を出てからも信仰を持つ、ということは、その後の人生の価値観の柱となるものを見つけられたのですから、その子どもにとって「大きな幸運の出会い」だったと言えるのではないかと思います。
今、日本の市街地のいたるところはクリスマスのイルミネーションに彩られています。ですが、本来、クリスマスとは、「イエス・キリストの生誕を祝う」ための日であるはずです。ですので、キリスト教を信仰している方々にとっては、クリスマスとは「家族で教会へ行き、お祝いをする」ための日となっているかと思います。
キリスト教を教育の柱にしている学校では、クリスマスの本来の趣旨にのっとって行事を行なっているかと思います。また、仏教が教育の柱となっている学校では、当然クリスマスの行事は無縁で、その代わり、仏教的行事が多く行なわれているはずです。
こういったことは、「その学校の教育の柱」となっているので、何も予備知識がないままで入ると、大変な衝撃を受ける恐れがあります。ですので、幼稚園や小学校は当然でしょうが、中学や高校でも、宗教を教育の特色にしている学校を受験するのなら、学校見学、特に、可能であれば宗教行事の見学をする必要があります。その際、保護者と子どもが揃って行かねばなりません。
私立校で、入学後まもなく退学する者から、「こんな学校だと思わなかった」という声を多く耳にします。校則、勉強の進度の速さ、宗教行事…。いろいろ理由はありますが、結局、「本人任せ、塾任せにしていて、偏差値で決めてしまい、親子とも学校の実態をよく知らないまま受ける」から、このような結果になるのだと私は思っています。きちんとPRしない学校側にも大きな責任があるとは思いますが、偏差値や塾の言いなりになっている、生徒と保護者の学校選びの姿勢にも問題があるのではないでしょうか。
宗教教育を施す学校の中には、「お坊ちゃま・お嬢様学校」として、「ブランド校」と化しているところもあります。でも、「ブランド校」に行ったからと言って、幸せな人生が待っている、という時代はもう終わりました。ですから、そのようなうわべだけで捉えるのではなく、人格形成の貴重な時期を過ごす大事な「学校」の理念を、もっと真剣に見つめて学校選びをするべきだ、と強く私は訴えたいのです。
日本人はとかく、「多くの宗教に寛容だ」ということを指摘されます。日本人の民族性にもつながることですし、それを一概に悪いとは言いませんが、宗教を柱とする学校に行くのであれば、在学中はその理念を重んじ、それに従わねばならない、ということを肝に銘じるべきではないでしょうか。
2005.12.10 掲載
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