第16回 「礼儀作法・マナー教育の意義」
皆さんこんにちは。静岡県での女子高生の毒物騒ぎが収まらないうちに、東京都内で、女子高生が同学年の男子生徒に殺害される、なんとも痛ましい事件が発生しました。こういう事件が起きるたびに考えさせられるのは、事件を起こした子どもはコミュニケーション能力が欠けている、という話が出ることです。その生徒を指導している教員なら、そのようなことには日常接している中で気づくはずですから、何か改善する手立てはなかったものか、と想像せずにはいられません。亡くなった女子生徒さんに心からお悔やみ申し上げます。
今回は、「礼儀作法・マナー教育の意義」について考えます。
マナー教育は、学校によって内容に大きな違いがあります。伝統ある女子校では、礼儀作法を中1から教えている場合も多いです。一方、女子校でも、「受験実績で学校の勢力を伸ばす」ことに力を入れている学校では、「礼儀作法なんてやっている暇があったら勉強をさせる」ということなのか、特に時間を設けていない場合もあるようです。また、共学校や男子校では、一般的に礼儀作法・マナー教育はさほど重要視されていないようです。
そもそも、こういったことは「家庭や地域でやるべきこと、学校では関与しない」という姿勢が今までの主流だったのかもしれません。ですが、(この連載でも今まで繰り返し述べているように)、家庭・地域の教育力に格差が生じている現在、きちんと教育できている家庭もあると思うのですが、そうではない場合もあると思います。
マナーや礼儀は、社会生活をスムースに送るために重要な手段だと私は考えています。マナーや礼儀に欠けていれば、他人と円滑なコミュニケーションはできません。また、マナーを通じて他人への思いやりが生まれれば、他人を簡単に傷つけたり殺してしまったりすることは少なくなるのではないか、と私は考えています。もちろん、マナーや礼儀以外にも、さまざまな面で「命の重さ」を教えていく必要もあるとは思いますが。
ですので、私は、日常のあいさつや接し方はもちろん、職員室に入る際のあいさつや態度、また、提出物を出す時に遅れた際など、「その場面にふさわしい話し方や態度」そして、「なぜその話し方や態度が必要なのか」を生徒に分からせるよう、意識して指導しています。もちろん、私も身をもって示せるよう、常に心がけているつもりです。
こんな取り組みを強く意識するのには理由があります。今年になって、「給食の際に、我が家は給食費を払っているから、子どもに“いただきます”と言わせないでほしい」という申し入れがある、という話を複数目にしました。お金を払ってさえいれば、どんなことでも許される、給食の作り手や、お金を払っている保護者への感謝の念は不要、ということなのでしょうか。間違った個人主義も、ついにここまできたか、という感があります。
さらに、「こんにちは、さようなら、などのあいさつを言う必要はない」と言った中学生に対し、教員が「その通り」と同意した、という記事も読みました。こんな教員に習う生徒は気の毒でなりません。
(この話は、朝日新聞のwebで、民間から公立小学校の校長に転じた方の4月の連載記事に載っていました。以下アドレスをご参照下さい。また、これとは別に、11月の、朝日新聞への一般の方の、投稿記事の写真も掲載します)
http://mytown.asahi.com/tokyo/news02.asp?c=11&kiji=222
また、子どもが少ない関係で、みな「家庭での主役」であるためでしょうか、集団生活でも「自分が中心」でいるのが当たり前、同級生との交友関係や対話能力に問題がある状況を目にすることがあります。例えば、クリスマス会などで、「クラスの人数分しか用意していないお菓子」を見ても、「自分がほしいだけ、山盛り持っていってしまう」中学生がいるのです。そういう子は、他の生徒の分が足りなくなっても当然素知らぬ顔です。
家庭ではその子がかわいがられるのは問題ないと思います。でも、一歩外に出れば、他の方々がいて、その方たちと円滑なコミュニケーションをしないと生活できないということを、子どもにはわからせる必要があります。ですので、「集団生活でのマナー」を中心に、学校で指導することは重要ではないかと思います。
ですが、それを全て「教員が教える」となると、問題がある、と感じます。というのは、そもそも、教員には「マナーが欠落している」人が多くいるように思えてならないからです。私自身にも、ほかの業界の方から見れば、そういう部分があるのかもしれません。常に自戒の念を持ちつつ仕事をするようにしています。
たとえば、学校に所用があって電話をされるとお気づきになるかもしれませんが、学校の関係者は、「はい、ロゼッタストーン学園です」などとだけ言い、「電話を取った者が誰か、名乗らない」のが当たり前になっています。「ロゼッタストーン学園事務室です」などと言う場合はあるかもしれませんが、その場合でも、通常、名字までは名乗らないのではないでしょうか。でも、名乗るほうが、話がスムースに進むのではないか、と私は感じています。自宅の電話ならともかく、オフィシャルな場での電話なのですから、名乗るべきではないでしょうか。
これは内線電話でも同じことで、私がたとえば、「つきのです、ヒロナカ先生はそちらの部屋にいらっしゃいますか」と、電話をかけても、相手は「今はいらっしゃいませんよ」などと言って、名乗ってくれないのが普通です。ほとんど口をきいたことのない同僚ならまだしも、日ごろ、話をする同僚の声だな、と私が勘付いても、名乗ってもらえません。一般企業でもこれが普通なのでしょうか。
また、同僚から「つきの先生へ」というメモが残されていることもありますが、ひどい場合、そのメモも、日時はおろか、「誰が書いたか」署名がないことだってあるのです!これではお礼も、また、伝えたいことがあったとしても、連絡しようがありません。字を見ても、どなたの字かさえ判断できない時など、どうしたら良いのか頭を抱えてしまいます。
こういうケースは、学校という仕事の場にとどまりません。プライベートでも、「お話がしたいので、会ってもらえませんか」と言ってきた後輩が、会った後にも、お礼のメールも電話もまったくよこさず、また、私が「前回会った時にもらった物の、お礼よ」と言って渡した、お土産へのお礼の言葉のかけらもない、ということだってありました。この後輩は、他校に勤務する教員です。それでも数ヵ月後に「また会いたいです」と平然と言ってくるので、私にはこの後輩の「人付き合いのマナー観」が、はかりかねるのです。
教員という閉鎖的社会にいると、「物をもらって当たり前」、「何かをしてもらって当たり前」になるのでしょうか。また、そういったことを指摘しても、「私に注意するのか」と、逆にキレてしまう場合だってあるのです。生徒たちに囲まれている、たったひとりの大人で、誰かに指導されることも少ないからでしょうか。
こういったことを考えると、「私も、他の業界の方から見れば、何かのマナー違反などを知らず知らずのうちにしているのではないか」という不安が頭をよぎります。もしかすると、教員社会とは「マナー知らずのほうが“常識”」なのかもしれません。
もちろん、きちんと指導できている教員も多くいらっしゃると思います。ですが、こんな状況では、「教員が、社会に出て恥ずかしくない礼儀を教える」というのに限界があるのではないかと思います。
そこで、マナー教育を実践しているNPOなどの力を借りる、といった手段も考えても良いのではないでしょうか。無関係の地域の方には申し訳ないのですが、先日、東京電力の無料配布のPR誌「グラフTEPCO」で、マナー教育を実践するNPOを紹介しつつ、「大人のマナー」という特集が組まれていました。会社に問い合わせればもらえるかもしれませんので、興味のある方はご確認なさってみて下さい。なお、関東地方ですと、通常、このPR誌はコンビニエンスストアの店頭に置いてあります。
家庭での教育力に格差がある以上、これからは、「マナーや礼儀作法を教えている」という点が、子どもにとって良い学校のひとつの条件になるのではないか、と思います。そのようなことに重きをおかない学校は、「あの学校の生徒は態度が悪い」と言って敬遠されることも出てくるでしょう。事実、「あまりにも、生徒の学校でのマナーや登下校時のマナーが悪いので、こんな学校に子どもは行かせられない」と言って、入学を辞退した人の話も、他校で聞いたことがあります。
一般の方も、学校見学に行った際に、生徒さんたちの態度を見れば、あいさつができるか、というのは一目瞭然で判断できるはずです。不安を覚えたら、学校に確認し、また、入学後もPTAの勉強会などで保護者と教員への啓発をはかることだってできるのではないでしょうか。
それでも、学校が「礼儀作法なんてやっている暇があったら勉強をさせる」という態度でいるのなら、「この学校に礼儀作法は期待してはいけない、この学校は成績が価値観の全てなのだ」と割り切り、家でしつけることが大事でしょう。
礼儀作法やマナーなども含め、もっと生徒の「考える力」、「生きる力」を引き出したい、そんな教育を、私は今も、そして、これからも続けていこうと考えています。
2005.11.25 掲載
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