この話は、かつて、それを目指すために上京し、弾き飛ばされ故郷に戻っていったボクの父親と、同じようにやってきて、帰る場所を失くしてしまったボクと、そして、一度もそんな幻想を抱いたこともなかったのに東京に連れてこられて、戻ることも、帰ることもできず、東京タワーの麓で眠りについた、ボクの母親のちいさな話です。
…という、原作の文が冒頭オダギリのナレーションで紹介されるのだけど、コレは最初から「オカン死にまっせ」と言ってるようなもので、しかも現在の病室から始まるもんだから難病モノのムードまんまんで、原作は冒頭の文章を裏切り単なる難病モノにはならないんだけど、映画は情緒たっぷりで泣かせるだけが目的の「母物」になってます。
脚本の松尾スズキが意図したポップな要素は松岡錠司の弛緩した演出によって殺され、編集によって情緒しか残らなかったのだと思う。病室と回想が行き来する構成は映画的なつもりかもしれないが、単なるダイジェストと同じ効果にしかなってない。
原作の肝はオトンだと思うが、そこをほとんど素通りしてしまっているのは勿体無い。せめて冒頭のナレーションにある「夢破れて故郷に戻ったオトン」をちゃんと描かなければならないと思う。オカンとボクとオトンの三角関係をきっちりやらないと主人公のマザコンぶりが際立たないし、東京で成功した主人公に対する父親の複雑な感情も描けない。単なるオカンの聖人ぶりを描いても何の新しさも感じない。
思春期を演じた子役の声が変声期前なので違和感ばりばり。あきらかなキャスティングミス。中学時代からオダギリで演じれるだろう。「幸福な食卓」で中学生やった経験があるとはいえ勝地涼もやってんだからオダギリもできたはず。樹木希林は達者だ。見返りを求めない母親の愛を感じる。しかし、実の娘である内田也哉子は顔は似てるが顔だけで、筑豊の女になっていない。彼女の人生が見えないのだ。演出が素の彼女に合わせすぎてるのだろう。彼女を映画の世界にひっぱって行く演出力がないのだ。松たかこはさすがだと思った。どの表情をどこですればいいのか把握している。オダギリはもっとリリーに似せることも出来ただろうが、松岡がソレを許していないのがミエミエ。ここでも役者の素に映画のほうが寄り添う演出をしてる。その方法論で「母と息子」という普遍的なものを求めようとしてるかもしれないが、ハナシそのものはよくある「難病モノ」なので普遍がパターンに堕している。テレビシリーズは観てないが、映画独自のモノが見えない。
丁寧な映画だけど、丁寧すぎて退屈。泣かせようと思って作ってるから泣けるのだけど、原作の十分の一ぐらいしか泣けなかった。丁寧な仕事が原作にある清濁あわせ持つ魅力をそいでしまっている。カットされてない松尾脚本と中島哲也演出で見たかった。母物のパターンを踏襲しつつも原作の持ってる普遍的な毒が色濃く出たかもしれない。
ちなみに、リリーとオカンが暮らした笹塚のマンションは一階にスーパーの「ライフ」四階に「笹塚ボール」といったロケーション。元笹塚十年選手としては原作を読んだとき「ああ、俺もオカンに会ってたかも」と親近感が沸いたものだけど、映画は笹塚で撮ったとおぼしきシーンはワンカットだけで少しがっかり。笹塚ボールの巨大ピンぐらい実景で抑えて欲しかった。
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