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芦田宏直『努力する人間になってはいけない─学校と仕事と社会の新人論』書評川谷茂樹(北海学園大学教授)
この本は一言で言えば、「変な fremd」本である。ありとあらゆる意味で「変」。とにかく既成の枠組みにまったく収まらない。たんなるエッセイでも、研究書でも、講義録でも、啓蒙書でも、ノウハウ本でも、自己啓発本でも、ない。文字どおり型破りで規格外。書店のどのコーナーにおかれるのか、まったく想像がつかない。要は、類書のない、唯一無二の「書物」。──「人名索引」に「柄谷行人」や「カント」と並んで「河合奈保子」があるという衝撃。 また、この本の「素材=題材」も、ありとあらゆる事柄から採られている。床屋さんでのひとコマ(167頁〜、泣ける!)から、日本の教育政策から、ハイデガーのエネルゲイア論まで、文字どおりありとあらゆる。まさしく「芦田の毎日」。にもかかわらず、ブログ本やエッセイ本にありがちな散漫な印象はなく、全編に緊張感が漲っている。「次は何が出てくるのだろう」というワクワク感を久々に味わった。 さらに、この本の著者は、聞いたことがないようなこと、誰も言わないようなこと、「変」なことばかり言う。たとえば「人間は殺しうるものだけを愛しうる」(174頁)、「お互いが理解し合うなんて、最低の貧相なコミュニケーションだ」(185頁)、「“関心”や“意欲”を超えていやいや勉強するからこそ、知見が広まり、世界も広がるのです」(317頁)等々、枚挙にいとまがない。そもそも「努力する人間になってはいけない」という本書のタイトルからして、世の「良識派」のみなさんの神経を逆撫ですること必至。文句なしに「いぶかしい fremd」(386頁)。 私がおそらく2002年頃、著者である芦田宏直さんの存在を、ブログ「芦田の毎日」によってたまたま知ったときにまず感じたのも、今考えると「いぶかしさ」であった。「よりによって工科系の専門学校の校長先生をやっている哲学者って? この人は何者なんだろう?」 でもその種の、いわばゴシップ的(述語的)な興味だけでは、到底10年ももたない。芦田さんの言葉は一見「いぶかしい」のだけど、「よーく考える」と、何というか、真っ当すぎるほど真っ当だと分かることがある(分からないことも多いが)。その真っ当さが分からないのは、読んでいるこちらがバカなだけだと思い知らされる瞬間がある。「この人は何者だ?」という最初の問いが、「俺は芦田=ジャイアンだ。お前は誰だ?」という答え=問いとして自分に跳ね返ってくる。まったく油断がならない。 この本は、読む者に「よーく考える」ことを強いる(人によってはかなり「ウザい」と感じられるはず)。そしてこれは、この本の一貫したテーマでもある。「ながーい時間」(386頁)をかけて、「退屈 Langeweile」(390頁)に耐えて、純粋無垢に何かに没頭する=「沈潜」する(94頁)ことによってしか得ることができないものがある。このテーマは、この本の中では〈ストック〉や〈根性〉といったキーワードによって、変奏されつつ反復されている。 この本は若者の、若者による、若者のための本でもある(48頁参照)。芦田さんは還暦前のおじさんだが、本質的には若者である。というか、普通の大人にはこんな「いぶかしい」本は書けない。 その芦田さんから実際の若者に対して執拗なまでに発せられるのは、「生活に追われるようになる前の、若いうちに、これだけは他人に負けないと言える何か=ストックをつくれ」というメッセージ。「孤独」に耐え、「ながーい時間」をかけ、「くすぶり続けて」(386頁)はじめて得られる何か。長い人生を自立して生き抜く力、他の人を幸せにできる力=competency(116頁)になるのは、それしかない。そうしなければ、外的状況の変化によって、一生振り回され引きずり回され続けることになる。自ら変化を引き起こすことは決してできない。「私の言う〈根性〉とは、そんな変化を担ったり、変化に耐える能力のことだ」(115頁)。 若者(特に男子)は、この本を自分の人生の成功のために生かすこともできるだろう。「成功」とは、とりあえずは普通の意味での成功である。受験競争に勝つ、できるだけ大きな会社に就職する、会社で出世する、結婚して家族をつくって養う。今日では一見アナクロニスティックにも見えてしまいがちな、こうした「普通の」成功がいかに得難いものであるか(たとえば第3章)。 だがここで終わらないのが芦田さんの芦田さんたる所以、この本の「いぶかしさ」の所以である。そうした社会的「出世」や「成功」は、究極的にはすべて「偶然」にすぎないと言い放たれる。「社会的な不遇も、厚遇も、理由をつけようと思えばいくらでもつけることができそうだが、ほとんど嘘だ。人は偶然出世し、偶然落伍する。それが“社会”観の究極の認識だ。つまり社会評価は、評価にならない」(98頁)。痛快極まりないが、性急な若い読者は「じゃあいくらストックを溜めても無駄ではないか」と、本を放り出したくなるかもしれない。が、そうではないのだ。 世界中の誰一人として自分を評価してくれない、そんな孤独で絶望的なときでも(あるいは、世界中からちやほやされている絶頂においても)、踏みとどまれる力を与えてくれるもの、それが〈ストック〉のほんとうの意味なのだ。何がどう転んでも踏みとどまって、いぶかしい存在のまま、長い時間くすぶり続けることができる力、それだけがこの世で唯一、信じるに値する。 書のサブタイトルにもなっている〈新人〉は、すべてこの試練(長いくすぶり)を経て生まれる。新人誕生の瞬間。これはどんな因果関係によっても、どんな理論によっても説明=述語化できない、ほんとうの意味での「出来事」(374頁)である。 この本がいぶかしい=新しい=若いのも、それが今なおくすぶり続けている〈新人〉の〈作品〉だからだろう。年齢を重ねて一定の社会的地位を得ても〈新人〉であり続けることはできるし、若くても老いている者もいくらでもいる。「死んでいる奴は生きていても死んでいる」(306頁)。「大切なことは、一生涯にわたって現役であり得るような何かを見出すことだ。世界のすべてがことごとく変化しても、あるいは世界が死滅しても、これだけはやり続けていられるというような何かを見出すことが決定的なことだ。専門性の真の意味は、生涯研鑽を積んでもなお先がありそうな深みを感じられるものに出会えるかどうかに関わっている」(122頁)。 だが〈新人〉が誕生するためには、発見=目撃する側も一瞬〈新人〉でなければならない。つまり、作者の「属性」や「肩書」、一言で言えば「述語」によってその作品を評価してはならない(「評価」の問題は本書の重要なテーマである)。なぜなら〈新人〉とは未だ「述語」をもたない者だからである。 そして、この世に何か新しいものが登場する瞬間、何かが変わる瞬間には、つねに同じことが起こる。ということは、この世には、諸々の属性や機能などの「述語」に還元=解体できない何かが「ある」のだ。〈主語〉(369頁)、〈実体=ウーシア〉(同)、〈固有名詞〉(409頁)、〈心〉(86頁)、〈像〉(88頁等)、〈ストック〉(376頁等)、〈根性〉(113頁)、〈アルケー〉(269頁)…。それが、世界を「静かに」変える。ツァラトゥストラ(=ニーチェ)は、「新しい価値を発明する者のまわりを、世界は回転する。──目には見えないが、回転する」(岩波文庫上、84頁)と言っていた。 自分や他人や、ありとあらゆる物事(Sache)に、述語化できない何かを「見る」ことができるかどうかが、おそらく決定的なのだ。逆に、誰かや何かを、それの述語によってしか評価できない輩は、終わっている。有名か無名か、高学歴かどうか、どこに勤めているか、年収はいくらか、売れているかどうか…、すべて述語(=形容詞)にすぎない。それらすべてを集めても、それらを担う主語=固有名詞には届かない。〔スポーツにおける「強さ」もそう。事前に競技者のありとあらゆるデータ=述語を分析・集積しても、誰が勝つのか、誰が強いのかは、試合をやってみなければ、「わからない」。〕 したがって、主語を述語に還元=解体する機能主義は、本書で徹底的に解体=批判される(275頁以下)。それは、機能主義の根っこ=〈心〉を捉えた、まさしくラディカルな批判である(ときに著者自身が機能主義者であるかと見紛うほどに)。「(…)「ファンクショナリズム」とは、要するに述語(規定)をいくつも無限に集めれば、主語(実体)に至りつくという幻想を持った思考のことです」(410頁)。思い切って平たく言えば、「述語をあれこれ並べ立てて何かが分かったような気になっている輩、人や作品を述語でしか評価できない輩の言うことは一切信用するな」というメッセージを、私は(自戒しつつ)勝手に読み取った。 人はなぜ、何のために学ぶのか。たくさんの述語を知るためではない。それだけでは何も分かったことにならない。述語を通じてその向こう側にある、あるいは述語において現象している、対象の〈心〉を捉えなければならない(そのためにはおそらく「暴力」が不可欠)。たとえば(たんなる一例ではないが)一つのテキストを「読む」とは、そのテキストの〈像〉を捉えること(第4章「読書」とは何か)。この〈像〉は述語に還元することはできない。むしろ、述語が意味をもつのは、それが〈像〉を何らかの仕方で映しているときだけである。〈像〉が述語を生み出すのであって、その逆ではない。〈像〉から切り離された述語=言葉は、ただの言葉である。それは上滑りに上滑りを重ねたあげく、何にも届かない。 本書は、一方で〈像〉としての言語論を説きつつ、他方でその言語論の著者自身による実践のドキュメントでもある。身の回りの出来事を記した著者の筆致がかくも印象的なのは、それが読者に〈像〉を否応なく喚起するからである。述語を集めることしかできない輩には決して書けない文章。「書く」とは、小賢しい述語や「中途半端な人工言語」(381頁)を次から次へとひねり出すことではなく、何よりもまず、虚心坦懐に対象を「見る」こと、それに沈潜すること、その声なき声に耳を澄ますこと。著者にとっては世界それ自体が、無限に豊饒な、沈黙しつつ解読を待っている〈テキスト〉なのだ(84頁参照)。──余談だが、ほとんどの学者にとって論文を書くということは、述語を集めることでしかないので、学者が論文以外の「普通の」文章を書こうとすると、ほぼ例外なく悲惨なことになる。受けを狙えば狙うほどそうなる。それが目に見えているから、臆病な私はブログもツイッターもやらない(やれない)。 こういう文章は魅惑的であると同時に、危険である。読む者の人生を知らないうちに、静かに、だが不可逆的に変えてしまう破壊力がある(たぶん私の人生も、芦田さんの言葉によって決定的に何かが変わったのだろう)。 著者の硬質でありつつも柔軟で懐の深い、いわく言い難い「文体」(20頁)を支えているのは、「自分」に対する徹底的に醒めた視線ではないか。そのある種「非人間的」なまでの冷徹さは、「人生は認識のための手段にすぎない」と言ったニーチェのスタンスを彷彿とさせる。「自分」をどこまで突き放せるかという終わりなき実験。 だが、その強烈な知的構えの根底にあるのは、これまた強烈なパッションである。これを〈愛〉と言い換えることもできようが、その〈愛〉は、薄っぺらい(あまりにも人間的な)「ヒューマニズム」を一撃で打ち砕いてしまうほど、深い(たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」(174頁以下)参照)。 〈教育〉に対する著者の底知れない情熱の本体も、この〈愛〉だ。「私は、教育とは〈新人〉の産出・発見だと思っています」(372頁)。本書が唯一無二の教育論、学校論の書物でもある所以である。ちなみに,出版記念パーティでの解題講演会の最初の方、「貧乏な子供を家庭と地域から引きはがすのが学校教育。親から見放された子供を学校が見放したら誰がその子を救うのか」という下りのところで(本書ではたとえば206頁)、私は早くもほとんど泣きそうになっていた(笑)。何なんですか、芦田先生、その暴力的なまでの〈愛〉は。 芦田さんの〈愛〉=「マザーシップ」(404頁、411頁)は人間のみならず、ありとあらゆる〈対象〉に向かう。言うまでもないが、述語は〈愛〉の対象たりえない。何かを愛するということは、その対象の決して述語化しえない何かの〈存在〉を「見る」ことだ。「愛している、というのは、いつでも全体を愛しているということです」(92頁)。〈愛〉なくしては〈存在〉を「見る」ことはできない。何かが「分かる」とは、対象の述語ではなく〈実体=存在〉に触れることなのだとすると、〈愛〉なくしては何も「分からない」。主語を述語に還元=解体する機能主義には、〈愛〉がない。 だから、この「変」な、「いぶかしい」本は、何と言っても〈哲学書〉なのであり、同じく「いぶかしい」芦田さんは、やはり何と言っても〈哲学者〉なのだ(「哲学」も確かに一つの「述語」ではあるのだが)。〈哲学 philosophia 〉とは何よりもまず、〈愛する philein 〉ことなのだから。〈存在〉への〈愛〉としての〈哲学〉? 本書全体を通じて、「芦田宏直」という〈存在〉が、全身全霊で「述語化」を拒否している。この本の唯一無二性は、「芦田宏直」という〈存在〉の唯一無二性に他ならない。だからこの本は、その「いぶかしさ=若さ」を失うことはないだろう。つまり、永遠に〈新人〉の〈作品〉であり続けるのだろう。「思考するということは、成熟することではなくて、若い“とき”を反復することの威力を与えるものなのではないでしょうか」(415頁)。 そしてこの本は、「あんた誰?」と通りすがりに尋ねてくるすべての読者に対して、「俺は芦田=ジャイアンだ。お前は誰だ?」という答え=問いを突きつけていくのだろう。私自身、この10年来ずっとそうであったし、今後もそうであるのと同様に。 ■立ち読み
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