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第25回 六年二組


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11歳の時、僕は小学校に入ってから五回目の転校をした。転校先は以前と同じ千葉県内の小学校だったけれども学習に対する姿勢やそのレベルには雲泥の差があった。特に僕が入ったクラスは異様と思える程、学習意欲が旺盛で、最も分厚い大学ノートを学習帳として統一させ、書き尽くす毎に教室の壁面に貼り出された個人名別の大きな積み上げグラフの上に星印を並べていた。それはそのまま月毎の成果として認め合い、表彰を行うなどして互いの学習量を競い合っていた。それまでの学校生活で野球とドッジボールと友達にすべてを捧げていた僕などは、その大きなギャップをなかなか埋めることが出来ずに苦しんでしまった。

僕は転入して間もなく明らかに周囲とは違った雰囲気を持つ女の子が一人いることに気付いた。彼女は常にどこか落ち着きがなく、時には人に悪意を感じさせてしまうほどの悪戯をすることでしばしばクラスメイトを困惑させた。学校生活において何よりも学力の向上を優先させていた生徒たちにとって彼女は「問題児」以外の何者でもなく、同じクラスだというだけで何かと関わらなければならないことをとても煩わしく感じていたようだった。『他のクラスに行ってしまえばいい』という声も時々僕の耳には入ってきたし、また一方では『彼女は心の病気だから可哀相なんだよ』という話を聞いたこともあった。

学級担任はというと「男らしい」という表現がピタリと当てはまる体育大学出の男性で、その風貌から生徒たちには「ゴリラ」という呼称で親しまれていた。彼は何事も生徒たちの自主性に任せ、滅多なことでは口出しをせず、見守り続けることを教育理念としているかのような先生だった。そんな彼がたったひとつだけ生徒たちに約束させていたことがあった。それはクラス内で何かしらの問題が生じた時、必ず生徒全員で解決するまで話し合うということ。彼はその為にしばしば授業を取り止めて、生徒たちに学級会を開かせた。

学級会では「問題児」と呼ばれた女の子がやらかした悪戯がちょくちょく議題として扱われた。その度にクラスメイトは「どうしたら彼女に悪戯を止めさせられるのか」という視点で話し合った。生徒たちの心の中には「クラスの中では人に迷惑をかけないで過ごす」という共通の意識が存在していた。しかしどれだけ話し合ったとしても当の本人は、まるで意に介さない様子。どう感じているのか、と問い詰められても薄笑いを浮かべながら、わかりません、という言葉を繰り返すだけだった。そのうちに誰かの罵声が飛び交い始めても彼女の薄笑いが消えることはない。まさに「糠に釘」。

夏休みを終え、二学期を迎えた頃、このクラスにとって二人目の転入生が来た。その日の朝礼で担任と共に黒板の前に立った転入生は透き通るほどに白い肌と茶色の瞳を持った端整な顔立ちの男の子だった。すぐに女子たちの囁く声があちこちから聞こえてきた。彼は大きな声で自分の名前と挨拶を言った。しかしその不思議な発音は一瞬にして教室内に唖然とした空気を漂わせた。誰も彼の挨拶に対して言葉を返すことが出来ず、しばしの沈黙が流れた。そのうち誰かが気付いたように拍手をすると、皆が一斉に思い出したかのように拍手の波が起こった。「ゴリラ」は黒板に彼の名前を書き、彼について説明し始めた。

彼は幼い時分に聴力のほとんどを失い、それ以来、耳に補聴器を装着しながら生活していた。器具を着けていれば大きな音に対して気付くことも出来るが、人との通常会話を聴き取るまでには至らない。彼は人の唇の動きを見て言葉を理解する「読唇術」を身に付けている。成績がとても優秀だったこともあり、東京教育大学(現在の筑波大学)に付属している聾学校から健常者の公立の学校に転入することが出来た。そうしたことは通常あまり無いことなのだという話だった。

話に聞いていた通り、彼はすべてにおいて「優等生」だった。勉強も運動も非常に良く出来、思いやりや優しさも持っていたのですぐにクラスの人気者になった。男子、女子を問わず、いつも彼の周りには人の輪と笑い声があった。彼の転入以来、ガリ勉ばかりのクラスの雰囲気は明らかに変わっていた。しかし彼が転入して来たことで成績が目立たなくなり彼の存在自体を疎ましく思っている子もいたのは確かなことだった。

ある日の朝、ひとつの事件が起きた。彼が机の中にしまっていったはずの教科書や文具などが翌朝の教室内にバラ蒔かれ、一部はひどく破損し、一部は無くなっていたのだ。

学級会が始まった時、彼は唇を噛み締めながら辛さを堪えているようだった。いつもは冷静な学級委員長が、自分が議長であることを忘れ、興奮した口調で言い放った。『こんなひどいことをやった人はすぐに名乗り出て!そしてすぐに謝ってください!』。クラスの全員が互いの様子を目で追いながら犯人探しを始めた。ざわついた険悪な空気の中で、速やかに誰かが「自首」することを願っていた。しかし誰も名乗り出ることはなかった。

すると誰かが『こんなことするヤツなんてこのクラスには一人しかいねぇよ。また「問題児」がやらかしたってことじゃねぇの?』と言った。全員の視線が彼女に注がれた。いつものように彼女はニヤニヤと笑っていた。するとその表情を見ていたひとりの女子が立ち上がり怒鳴った。『あなた!こんな時に笑っていられるってどういうことなの?笑ってられるっていうのはこんなことが起きて嬉しいってこと?自分がやったから笑ってるの?もしそうだったならひどい!』そう言った直後、座り込んで泣き出してしまった。

クラスの中が重苦しい空気に包まれた。多くの生徒たちがうな垂れていた。少しだけ落ち着きを取り戻した学級委員長が「問題児」に『本当にやったの?』と尋ねた。彼女はいつものように、わかりません、という言葉を繰り返すだけだった。するとそれまで教室の一番後ろで腕組みをしたまま目を閉じて黙って聴いていた「ゴリラ」が初めて口を開いた。『もうやめろ!ここまでだ。これは話し合いなんかじゃない・・・・』。

その日以来、「優等生」の表情から笑みが消えた。最初のうちはクラスメイトたちが彼を慰めようと声をかけてはいたが、やがて彼がそうした同情に対して無視をするようになると、周囲の中から彼に対しての批判を言う者が現れるようになった。それでもほとんどの生徒は彼に同情していた。一方、犯人扱いをされた「問題児」はそれまでも学校を休むことが多かったのだが、その事件以降は以前にも増して学校へ来なくなった。

数週間後のある日、学級会では珍しく「ゴリラ」が自分から話し始めた。『以前起きた、教科書や文具がバラ巻かれた事件は今でも誰がやったのかは分かっていない。しかしもうこの件では犯人探しをすることも彼に関わり過ぎることも終わりにしてくれ』。それは彼との間で話し合った結果のことだと言う。

「ゴリラ」の話が終わると今度は彼が椅子から立ち上がった。皆の目と耳が彼に注目した。ひとつ深い呼吸をした後、彼はゆっくりとした口調で話し始めた。『僕はこの学校に来る前、普通の子と同じ学校に通って、普通の子と同じように過ごしたいと思いました。だからこの学校に来ました。みんなはとても優しかったけど、やっぱり僕はみんなと同じようには過ごせませんでした。仕方ないと分かっているけど、もうつらくなってしまいました。ごめんなさい・・・・』。彼の目からは見たこともない程、大きな涙が止めども無く溢れ続けた。クラスの全員が泣いていた。彼を疎ましく思っていたはずの子も唇を噛み締めながら必死に堪えているように僕には見えた。

すると『どうしたの?』という女の子の声が教室の後ろの方から聞こえてきた。その声のする方向を見やると、その女の子の隣の席には顔を歪めて泣いているもう一人の女の子がいた。それは「問題児」だった。みんなは初めて見た「問題児」の心に驚いていた。しばらくの間、彼女はしゃくり上げるように泣いていた。やがて彼女は泣くのを止め、おもむろに立ち上がり歩き出した。そして俯いたまま立ち尽くしている彼の所まで来ると、自分の持っていたハンカチをゆっくりと彼の目の前に差し出した。それに気付いた彼の表情は一瞬驚きに満ちた。が、すぐに彼は彼女の両手を握って『ありがとう』と言った。彼女は恥ずかしそうに俯いていた。その彼女の顔には微かな笑みが差していたように見えた。

その時を境にクラスにはそれまで以上に温かい空気が流れるようになった。ガリ勉たちは相変わらず実績表の星印を増やすことに一生懸命だったし、「問題児」は相変わらず悪戯を繰り返していたけれど、それらに対してあからさまに嫌悪する者もほとんどいなくなった。その頃から「ありがとう」という言葉がクラスの中で流行りだした。

ある日の朝、彼が今日限りで転校することを「ゴリラ」から告げられた。父親の仕事の関係なのだという。その日の授業が終わると彼はこの学校に初めて来た時と同じように爽やかに去って行った。その後も時折、転校の本当の理由は別にあったと噂する子もいたが、実際のところ真実が何だったのかは三十五年を経た今、もう誰にもそれを知る術はない。けれど彼がくれた「ありがとう」の言葉は、あの六年二組の仲間たちの心に「かけがえのない真実」として今も生き続けているような気がする。

2006.6.27 掲載

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