第23回 ツェッペリン号は行く
14歳の夏、近所の神社の祭りで、僕は小学校の同級生と偶然に会った。約一年半ぶりの再会だった。小学校時代の彼は、かすかにサッカーが好きな男の子といった印象だった。器用さというものはあまり感じられず、連れ立って何かをするといったというタイプでもなかった。クラスメイトだった頃にはあまり話すことがなかった二人だったが、僕との久しぶりの再会を彼は大変に喜び、自宅へと招いてくれた。そしてこの一年余りの間で覚えたというギターを弾きながら、ビートルズのいくつかの曲を誇らしく歌ってみせた。僕にはそんな彼がとても素敵に映った。不器用なはずの彼が巧みに楽器を操り、目の前で輝いているその姿を見て僕は、自分も楽器を奏でてみたいという強い衝動に駆られた。正直な思いを伝えると彼は言った。『一緒にバンドをやろうぜ!』
しばらくして、彼の呼びかけで集まったメンバー同士で初めての打ち合わせをした。取り敢えず、バンドの方向性については『とにかくロック』ということですぐに決まったのだが、担当する楽器については四人のうちの三人がギターを希望し、互いに譲り合おうという気配を見せなかった為に、なかなか決着しなかった。三人とも『ジョン・レノンになりたい』そう思っていた。このままでは「ジョン・レノンズ」というバンドになってしまいそうだということで、公平なクジ引き抽選で決めることになった。僕より先にクジを引いた二人が手にした割り箸の先には、ギターを担当するという意味の赤い印が付いていた。その為、僕はくじを引かずしてドラムスの担当に決まってしまった。僕はがっかりした。リンゴ・スターにだけはなりたくなかったのだ。せめてジョージ・ハリスンに・・・・。
ドラムスは他の楽器と違い、電気楽器ではなく、音量の調整をすることが容易ではない。まして長屋のようなアパートの僕の家で叩くことは、どんなに工夫をしたところで到底不可能だった。しかしみんなで決めたことなのだから仕方ない。何とか知人から安価でドラムセットを譲ってもらうと、その足で練習場所となる友人宅へ運び込んだ。実際にドラムセットを叩くのは週に一度の練習日だけ。その日以外は自宅の座布団を鉛製のスティックで叩いて練習をした。やがて柔い僕の両手にはマメが出来て、それはすぐに潰れた。塩水に漬けると死ぬ程痛いが、それでも歯を食いしばりながら続けていると次第に手の表面が厚くなり、それ以降はマメが出来にくくなった。僕は早く上達したくて必死だった。両手が同時に腱鞘炎を発症し、何も持てなくなるという時期もあったが、それでも良い演奏が出来た時の気持ち良さを思い出すと、勝手に手が動いた。あの頃はそんな毎日が、生きていることが、楽しくて仕方なかった。
最初のうちバンドの練習は、割と簡単そうに思えたビートルズの演奏を真似ていた。毎週、友人の家に集まり、真夏だというのに雨戸を閉めて防音をし、滝の如き汗を感じながら僕等は一体になれた時の快感を得る為に必死で練習を続けた。しかし上手く音がまとまらないこともある。そんな時はその苛立ちが互いを殴り合わせた。部屋にはとてつもなく重い空気が流れ、気まずさが皆のやる気を失わせた。『気持ちがひとつになれるまでただ演奏をやり続けよう』誰かがそう言い出すと皆は目を紅くしながらも楽器を奏で始めた。
一年が経ち、バンドとしての演奏が安定してできるようになると、エリック・クラプトン、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンなどのナンバーも演奏出来るようになった。僕等はほんの短い間にメキメキと腕を上げていた。
中学生最後の夏、僕等はバンドの演奏で初めての報酬をもらった。長い休みの中の数日、僕等は都電「三ノ輪駅」近くにあったビル屋上のビアガーデンで演奏することになったのだ。『曲目はお客さんが喜んでくれるビートルズ・ナンバーのみを演奏すること』それが唯一の条件だった。本当はその時、お金なんて気にもしていなかったのだけれど、雇い主から『ギャラは一人につき五百円しか出せないよ』と言われた瞬間、「ギャラ」という言葉に僕等は激しく反応した。『これで僕等のバンドはプロだ!』皆の心が潤んでいるようだった。そしてビルの屋上で演奏出来ることも、まるでビートルズの映画「レット・イット・ビー」のワンシーンのようで嬉しかった。実際には、観客はろくに演奏などには興味の無い酔っ払いばかりで、周囲は白とピンクの提灯だらけだったけれども、僕等には何の不満もなかった。
演奏会場まで楽器を運ぶ為に、僕等は近所の工場でお払い箱同然のボロいリヤカーを借りていた。それぞれがバイトをして買い揃えた楽器をそれに載せ、何キロもの距離をみんなで力を合わせて運んで行った。そのオンボロなリヤカーが、まるで僕等の果てしない夢をいっぱいに吸い込み、大空に浮かんでいる一隻の飛行船「ツェッペリン号」のように思えた。みんなで一緒にいれば、世界中の何処へでも自由に飛んでゆけるような気がした。
ビアガーデンの最終日の演奏が終わった後の帰り道に、僕はバンドの最初のミーティングで行ったクジ引きがイカサマであったことを知らされた。でも僕にはもうそんなことはどうでも良いことだったし、既にリンゴ・スターでいることを心地よく感じてしまっている自分にも気付いていたから、それがまるで楽しいマジックの後の意外な種明かしのように思えて、どうにも可笑しさが堪えられなかった。初めて見たみんなのすまなそうな顔もたまらなく可笑しかった。僕が噴出すとみんなも大笑いをした。大きな川に架けられた橋の上で立ち停まり、僕等はコーラの一気飲みの後、誰が一番大きなゲップが出来るかを競った。その時、世界はとても素敵だと思った。
秋になると、学園祭で活気づく大学のキャンパスの一角で、僕等は胸を張って堂々と演奏をしていた。その後、バンドの集大成として、僕等は区の公会堂を借り切ってのライブを計画した。ライブ当日、テレビの天気予報は東京地方に台風が接近していることを告げていた。いつものように僕等はリヤカーに楽器を載せると、分厚いビニール・シートを幾重にも被せてライブ会場へと運び始めた。しかし数百メートルも行かないうちに僕等は立ち往生してしまった。それでも何とかしなければと四苦八苦していると、後方から大きな水しぶきを上げながら一台の車が近づいて来た。それは僕等のことを心配した、メンバーの家族が運転する車だった。折からの雨は既に暴風雨と化しており、このままの状態では、楽器を守りながら無事に会場まで辿り着くということはとても困難だった。会場入りの時間が迫っていた僕等は、ありがたくその行為を受け入れ、楽器を車に載せ換えて会場へと向かった。
幕が上がった客席を見渡すと、そこには暴風雨にも関わらず数多くの友人たちが集まってくれていた。感謝の中で僕等は精一杯の演奏をした。これが最後のライブになると、口には出さずともメンバー全員が分かっていた。無事にライブを終えた僕等は、お互いの肩を叩き合いながら称え合った。そして燃え尽きてしまった体を癒すべく、各々の家へと早々に引き揚げていった。
翌朝、目覚めた僕は、不意に雨の中に置き去りにしたあのリヤカーのことを思い出した。急いで服に着替え、僕が家を出ようとするとベルが鳴り出した。それはバンドのメンバーであり、小学校の同級生だった彼からの電話だった。『昨日、置いてきちゃったね・・・・』。
リヤカーを牽きながら僕等は再会した頃のこと、進路のこと、バンドのメンバーたちとのこと、そして応援してくれた人たちのことについて話しながら歩いた。互いに対する感謝の言葉など交わさなかったけれど、気持ちだけはちゃんと伝わっているように感じた。工場に着き、長いこと貸してくれたことへの礼を伝えると、工場の人は僕等に尋ねた。『もういらなくなったのかい?』。僕等は互いの顔を見つめた。今は新しい出発の時なんだ・・・そう思いながら、僕等はもう一度、今度は深々とお辞儀をした。
卒業後、それぞれが違う高校へと進学すると、ほとんど連絡も取らなくなった。あれから僕はいくつかのバンドを組んだけれども、何も無いところから自分たちの力で漕ぎ始めたあの日々のことは忘れない。数十年が経った今、音信は途絶え、あの時のメンバーが今何処でどんなことをしているかなど僕には皆目見当さえつかなくなってしまった。けれどきっと、それぞれが今傍にある大切な存在と共に懸命に生きているのだろうと僕は感じている。そしてこの果てしなく大きな空に、目には見えない四隻の「ツェッペリン号」が悠々と浮かんでいると・・・。
2006.3.26 掲載
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