ロゼッタストーン コミュニケーションをテーマにした総合出版社 サイトマップ ロゼッタストーンとは
ロゼッタストーンWEB連載
出版物の案内
会社案内

第20回 高速道路の橋


image僕は、父親の仕事の都合という理由で、小学校から中学校の時代にかけて計7回の転校を経験した。平均ということで言えば、一年に一校ずつということになるが、中には数週間、数ヶ月という短い期間の内に移らざるを得なくなったこともあったからほとんど印象に残っていない学校もある。また数の上では本当にたくさんの人との出会いもあったのだろうけれど、残念ながら今でも続く「幼馴染み」というような友人はひとりも持っていない。しかし三十年余りの時が流れた今でも忘れることのない思い出が僕にはある。

小学校の最後の年の春、僕は千葉県松戸市から同県内の市川市にある学校に転校した。新天地で父は、新聞販売店の経営を始めることにし、僕もその手伝いをしながら学校へ通うことに決めた。

販売店の朝は、深夜三時前後に到着する大きなトラックの軋む音と、その荷台から地面に向かって落とされる「紙(新聞)」の鈍い音で始まる。眠い目をこすりながら「紙分け場」へと降りて行き、前夜の内にひとつにまとめておいた「ちらし広告」を新聞の間に入れ終わると、それを自転車の荷台と前籠がいっぱいになるまでに乗せ、4、5キロ程も離れた町へと走って行く。新聞配達というものはたまに休刊日というものがあるものの、当時、の僕は正直、とても苦痛に感じることもあった。特に39度からの熱を出しながら台風の中を配らなければならなかった時は、本当に死んでしまうのではないかと思えた。しかしそんな業務を終いまでくじけることなく続けられたのは、それを超える程の楽しみが僕の中にあったからだ。

配達を始める時、夜空に星がたくさん見えていると僕の体に気合いがこもる。ひとつの目標が浮かび、よし、頑張るぞ!と、そんな思いになる。暗闇の中で始まる配達も配り終える頃には空も少しずつ白み始めてゆく。そんな明け始めた空を気にしながら僕は投函するリズムを上げてゆくのが常だった。最後の一軒を配り終えた瞬間、僕は踵を返すと、思い切りペダルの背をすべての体重で踏みつける。必死に踏み続けてゆくうちに、重い新聞の束と配達の責任から開放された自転車と僕は風とひとつになり、あの「場所」へと矢のように一直線に飛んでゆくように感じられた。夜が完全に明けてしまう前までに何とか辿り着きたい!そんな気持ちでいっぱいになりながら漕ぎ続けた。

間に合ったと感じられるうちにその「場所」に着くことが出来ると、僕は安堵とかすかな喜びに包まれる。それからジャンパーのジッパーを下ろし、内にしまい込んでいたプラスティック製の長方形の箱を取り出し、その端についている半円形のギザギザな部分に親指を押し付けながら回転させてゆく。すると大好きなロック・ミュージックと英語で話すDJの声が聴こえてくるのだ。

その「場所」とは当時、開発途中の高速道路の橋のことで、その高く聳え立っている端の部分には、橋桁の内部から荒々しく剥き出た鉄骨がのぞいていた。夜が明ける前までにそこへ辿り着き、その道路の先の方まで近づき、安物のトランジスタラジオから流れるロック・ミュージックを聴きながら朝焼けを眺めることこそが僕の晴れた日の目標であり、何よりも楽しみなことだった。あの頃、そこから観る朝焼けが何よりも美しく感じられた。

「場所」は元々、高速道路にあったわけではなく、最初は草野球のグランドとして利用させてもらっていた空き地のすぐ近くにあった貝塚だった。新聞を配り終えた帰り道に何となく貝塚に立ち寄った時、そこから見上げた空の色が素敵だったので、それからというもの、晴れた日の配達帰りには毎日のように立ち寄るようになっていた。やがて、高速道路の工事が進んでゆくと貝塚から見る景色の中に高速道路の橋の先が掛かるようになった。ある朝、もしかしたらあそこから朝焼けを観たらもっと美しいのかもしれない、と思いついた。実際に行ってみると、それは思っていた以上に美しく、作りかけの高速道路の橋はその時から僕の「場所」になった。

それから数ヶ月の間に高速道路の橋の工事は着々と進み、その分だけ僕の日々の目標も先へ先へと伸びていくようになった。それにつられるようにして自分自身も少しずつ逞しくなってゆくような気がした。

季節が変わり、朝焼けの様子も変わってゆく。やがて僕はランドセルを背から降ろし、学ランに身を包み中学生になり、得意だった野球を思い切りやる為に野球部へ入った。大人になってからも僕は野球の選手になりたいと思ったからだ。その野球部は県内の中学では屈指の強豪として有名で早朝の練習も厳しかった。中学に上がった後も僕は新聞配達を続けたが、朝練を理由にあの「場所」へ立ち寄ることはしなくなった。

ある朝、僕はちょっとしたトラブルがあり、配達を終える時間が遅くなった。慌てて帰宅し、学校へと向かった。その朝の練習で僕は監督から、入部以来初めてセンターのポジションに入るようにと命ぜられた。その理由はよく解っていた。一年生の中においては僕の肩が一番良いと監督が考えていたからだ。一番良い、とは一番早く遠くまで投げることが出来、しかもコントロールも非常に良い、ということだ。センターは外野の要。だがそのセンターには俊足巧打の先輩がレギュラーとして不動の座を占めていた。

遅れた時間を取り戻す為に僕は準備運動もそこそこに指示されたポジションについた。すぐにノックが始まった。何球かを無難な守備でこなした後で、監督が強めに打ったかのように感じた白球は僕の遥か後方へと飛んで行った。反射的にホームベースに背を向け、僕は白球の飛ぶ方向へ全力で走った。最後はスライディングだった。思い切って飛び込み、伸ばしたグラブの先に白球は何とか引っかかっていた。さぁここからが自分の本領を発揮するところだ。不動の座を揺るがすにはここで魅せるしかないのだ。チャンスだった。

僕は倒れた体制をすばやく立て直し、ホームベースを目掛け、右手に握られたボールを渾身の力で投げ込んだ。次の瞬間、僕の肩が声もなく叫んだ。今まで聞いたことのない不気味な悲鳴だった。一瞬、目の前を暗い雲が覆ったように感じて僕はうずくまった。

それからというものしばらくの間、右手では箸さえ持てない日々が続いた。僕は野球部の練習に参加しなくなった。僕はひたすら痛みが引くのを待っていた。やがてボールを握れるようにはなったのだが、痛みを感じることなく投げられるまでに回復することはもうなかった。野球が出来なくなって時間を持て余すようになっても僕はあの「場所」へ行く気がしなかった。もう二度と美しい朝焼けは観られないと思っていたからだ。やがて三学期が終わる頃になり、僕はまた次の町へと引っ越して行った。

あれから33年が経った。今ではもうあの高速道路の橋がどこなのかも分からないだろう。けれど、美しい朝焼けはまた観ることが出来るようになった。それは今の僕が失うことのない「場所」を得たということなのかもしれない。もしそうだとしたならば僕はとても幸運だ。そして僕はこう思う。

朝焼けが無くなることはない。しかし観ようとしなければ美しい朝焼けはいつまでも観ることが出来ないかもしれない。そして「場所」も消えてなくなることはない。何故なら「場所」は特定のところにあるものではないからだ。美しい朝焼けが観えたならそこが「場所」。朝焼けを求め続けていれば、いつしか、ふと気づいた時にその人の「場所」に辿り着く。

2006.2.10 掲載

著者プロフィールバックナンバー
上に戻る▲
Copyright(c) ROSETTASTONE.All Rights Reserved.