第19回 「麻雀〜一期一会」(19世紀〜)
―世界で一番面白いゲーム― それが麻雀です。しかしその麻雀は世界で一番厄介なゲームでもあります。ルールが非常に複雑な上、それを熟知している人間が四人集わなければ、ゲームの始まりを告げる賽は永遠に振られることはないのです。けれどひとたびその賽が振られたならば、そこに集う四人の運命は麻雀というゲームの中で大きくうねり始めるのです。
麻雀は34種類各4個ずつの、合計136個の牌の組み合わせにより勝敗を決するゲームで、中国で行われていた馬弔(マーチャオ)、馬将(マーチャン)と呼ばれたカードゲームが他のカードゲームや天九牌などの骨製の牌ゲームと融合し、1850年代の上海近辺で誕生したものだと云われています。他の伝統遊戯に比べると非常に歴史の浅いゲームだとも思われていますが、その前史としては千年にも及ぶ歴史があるのです。これまで幾度か爆発的なブームが起こり、現在では中国は元より日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国においても盛んに楽しまれています。何故、これほどまでに麻雀は世界中で愛されるゲームに発展していったのでしょう。その理由には様々なことがあると思われますが、ひとつには二度と巡り来ることのない一期一会のゲームであるという性質が関係しているのではないでしょうか。
麻雀で最初に各自に配られる牌(配牌)がまったく同じ組み合わせになる確率は、一生麻雀を続けても有り得ないと云えるほどに低いものです。そんな稀有な状況の上に四人の人間の様々な思惑と創造が加わり、ことさらに予期することが困難な世界を展開させてゆきます。その一瞬一瞬の出来事は、まるで奇跡的体験の連続とも云えます。プレイヤーたちの意識は研ぎ澄まされ、脳内活動は常に活発に働き続けています。互いの一挙一動に絶えず目を配り、それらの動向の中で各々が目的としているであろうことに対する推理は変動を繰り返し、これから起こり得る様々なことを想像しながら、不測の事態への準備をも怠らないように心掛けます。一進一退を繰り返しながらも自分の願いを成就させるべく進んでゆくのです。そこには四人の人間が織り成す、そこにしか存在できない時間と空間があります。それは云わば「四人だけの宇宙」とでも呼ぶべき世界です。
中国においての賭け麻雀は、日本においての状況と同様にそれを固く禁止しています。しかし金品を賭け競い、奪い合おうとする麻雀は、物質社会に生きる人々の射幸心を激しく煽り、熱狂の渦の中で我を忘れさせ、麻雀が本来的に持っている遊戯としての面白さを歪めてしまいます。そして人を思いやる心や労働意欲さえも奪ってしまうという悪しき状況を産み出してしまうのです。故に中国ではこれまでに幾度となく国家による厳しい規制や取締りが行われてきました。しかし1990年代に入ってからは、偶発的な点数増加材料を可能な限り減らすことにより賭博性を排除し、競技性とその楽しさを広めることに主眼を置いてきた日本麻雀界との交流が基になり、賭けずとも楽しめる麻雀を推し進める動きが活発になりました。近年では国家公認とも云える公式ルール集が出版されたということもあって、今や、本家中国においてもようやくその転換期を迎えようとしているようです。
ふた昔くらい前までの日本では正月や連休などに家族や友人が集い、朝まで麻雀に興じるということがごく当たり前の風景でした。そうした風潮が薄れていったことの理由については、コンピューターゲームやインターネットなどの娯楽の発達と共に、一人でも楽しめる遊戯が増殖し、多様化していることが関係していると云われます。しかしそれらデジタルなものたちの歴史というものは非常に浅く、今はまだ人々がその目新しさに翻弄され続けているだけなのだと云う人もあります。巷ではよく論じられるデジタルなものとアナログなものとの比較という点で云えば、それらは本来、優劣を決めるべきものではなく、それぞれが持っている良さを活かせる状況を、各々が生活の中で考えながら作ってゆくというものなのではないかと思います。人にしても物にしても、どのように活かしてゆくかということが、社会にとって一番大切な発想であり、何より自分を幸せにする発想なのだと僕は信じています。ではもっともアナログ的とも云える麻雀の良さとそれを活かす状況とはどういったところにあるのでしょう。
「麻雀にはその人の性格が強く出てしまう」と云われます。ゲーム中、過ぎてしまった対局者の打ち方について感想が述べられている際に、対局者の性格そのものが非難されたように感じる空気が流れることがあり、それが元で口論になったり、重苦しい場面に遭遇したりすることがあります。しかしそれでも四人揃わなければ出来ない麻雀においては、互いの必要性が強く意識され、自我を抑制し、互いに譲歩しながらトラブルを解決してゆくという考えが自然と育ってゆくものなのです。そうした人間関係における一時的な捻れを、麻雀を通して幾度となく乗り越えてきた人間には、他人に対しても自分に対しても非常に我慢強く、物事に対しては柔軟に受け止められるという性質を備えていることが多いように感じられます。
若かりし頃、僕はサービス業に従事していたことがあり、求人募集についての採用と人員配備を一任されたことがありました。ある時、面接で集まった人が皆、麻雀を出来ることに気づいた僕は、彼等に麻雀をさせてみることを思いつきました。ほんの短い時間であったものの、そこには勝負の緊張感で息づく各々の性格というものがはっきりと滲み出ていました。麻雀を終えた後、彼らの職場におけるポジショニングは驚くほど速やかに決定してゆき、その後の実際の仕事においても円滑な業務遂行がなされ、穏やかな人間関係の職場が自然と出来上がってゆきました。その要因は初対面だった彼らが互いの性質を早々に掴んでくれたことにあり、また、そうしたきっかけとしての麻雀の存在は非常に大きな役割を果たしていたのです。麻雀はその人自身を伝えてくれるゲーム。僕自身のことを振り返ってみても、麻雀を通じて自分を知ることもとても多かったように感じます。
人と人とのコミュニケーション不足による悲劇が、社会の至る所に様々な形で現れていると見て取れるこの時代、四人が一堂に会する故の面白さを持つ麻雀というゲームを通じて、多くの人が人間同士の繋がりというものを楽しいものだと感じられることは何て素敵なことでしょう。時に自らの心を砕きながら誰かと共に世界を築いてゆくことは、人生でも麻雀でも同じこと。それはとても困難で面倒なことではありますが、だからこそこの世においての一番の醍醐味であるのだと僕は感じるのかもしれません。もしもそんな困難の中にある楽しみに、あなたがふと触れてみたいと感じることがあったならば、その時は勇気を出して麻雀の世界に一歩踏み出してみて下さい。麻雀というゲームの奥深さを充分に味わえるようになるまでにはもしかすると少しだけ時間を要するかもしれませんが、あなたが麻雀卓に着いたその瞬間から、あなたは四人の中に在りながら唯一の存在となり、あなたにしか出来ない、あなたの心の賽を振るという楽しさを存分に味わえることでしょう。
2006.1.12 掲載
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