第17回 「クリスマス」(4世紀〜)
電飾で飾られた華やかなツリーが街のあちらこちらに現れるこの時期。クリスマスは日本人の多くにとって、大晦日から新年へと続くパーティー・イベント的な色合いが濃いようですが、本来は、Christ
+ masで「キリストのミサ」という意味。この日はイエス・キリストの降誕を祝うキリスト教の祝日であって、実際に誕生した日ということではありません。キリストの誕生がいつであるかに関しては、現在においても尚、聖書の記述を基にして言語学者や天文学者、そして宗教家などによって様々な研究が重ねてられていますが、「キリストの死と復活」にこそ大きな意味があると説くキリスト教会の設立初期の段階においては、誕生日がいつであるかということは大して重要なこととして捉えられていませんでした。
そもそもキリストの誕生を祝うことが習慣化されたのは、パウロの布教から広がっていった東方教会が、洗礼によって神として初めてこの世にキリストが現れた日を1月6日と制定し、イエス・キリストの栄光が異邦人に顕現したことを祝う「顕現祭」をこの日に執り行うようになってからのこと。そして現在のように12月25日に祝うようになったのは、4世紀半ばのことでした。当時のローマでは太陽神を崇拝するミトラ教が人々の信仰の中心になっており、彼らは一年の中で最も日の短くなる冬至に真理の神ミトラが生まれると信じていました。時のローマの王コンスタンティヌスと西方教会は、この日を神の子であるキリストの誕生日とすることによってキリスト教のスムーズな浸透を図ったのです。
サンタ・クロースのモデルは、4世紀の当時、小アジアにあったローマ帝国の属州リキア(現在のトルコ)のミラで生まれ、のちにイタリアのバリで司教を努め、「奇跡者」と呼ばれた聖ニコラウス=Sinterklass(英語音訳でサンタ・クロース)と云われています。裕福であった彼は、貧しい人々に金貨を分け与えるという行いをした人でもありました。ある時、三人の娘たちの嫁入りの持参金を用意出来ない父親が娘たちを奴隷として売ってしまおうと考えていることを知り、ニコラウスは金貨の入った袋を煙突から投げ入れます。投げ入れられたその金貨は暖炉の下に下げられていた靴下の中に収まったという話です。またクリスマスの祝いが最初に始まったと云われるドイツに伝わるゲルマン神話や北欧神話には、魔法の馬やトナカイに乗って、家の煙突から入り、プレゼントを運ぶ神が出てくるそうです。そんなお話が混ざり合い、今日の楽しいクリスマスの風習は出来上がっているようです。
ではクリスマスの主役であるイエス・キリストについて少しお話しましょう。イエスは西暦元年前後に家具職人の家に長男として生まれ、約三年という短い布教活動の末、十字架にかけられ、三十歳半ばでその短い生涯を閉じたと云われています。その名はヘブライ語のヨシュア・クリストス(救世主・香油を注がれた者)のギリシャ語音訳からきています。現在、私たちは新約聖書という書物を通じて彼の言葉や考えや行いを知ることが出来ます。
膨大な量の文書の中より、多くの聖職者の魂のフィルターを通し二千年という長き年月の間、編纂され続けてきたそれらの言葉や物語の正確性、また信憑性については、それぞれ個人の感じ方に委ねたいと思いますが、そこに世界中の人々の心を掴み、生きる糧とされた優れた言葉と深い思いというものが存在しているということだけは確かだと僕は思っています。またそうしたことはキリスト教と並び称される世界三大宗教の、仏教における仏陀やイスラム教のムハンマドにも言われることで、彼等の行いや叡智の大本に流れる愛という名のメッセージは長い年月を超越して人々の心に響き渡ってきました。そうした人類共通の「魂のゆらぎ」とでも呼ぶべき現象こそが、人の中に神性が宿っていると云われる所以なのかもしれませんし、そうした経験を通して人は、生きるが故の大きな不安を乗り越える勇気を得て、凛と背を伸ばした気高さというものを育んでゆけるのかもしれません。
また、そうした経験をした魂から発せられる美しいメッセージたちというものは芸術や学問の中で深く息づいています。古代へと遡ってゆくにしても現代にあるものを見つめるにしても、その中には必ず普遍的な美というものが存在しています。それらこの世界に数多存在する美に感応し、豊かな人生を続けてゆく為の術を一言で例えてしまえば、それぞれに持っている「心のアンテナ」というものをいかに磨いてゆくかということに尽きるのでしょう。人は皆その「心のアンテナ」の性質によって、人生の中で受け取れるメッセージが決まってしまうのかもしれません。
しかしその感度を上げる為の材料というものは、実はこの世にたくさん溢れています。むしろ常に身の回りに満ちているといっても良いかもしれません。芸術や学問もそうですが、何より恋人や家族、そして友人の言葉や行いの中にたくさん存在しているのです。そんなことに注意して彼等の心を感じてみて下さい。もしそこに柔らかなことを少しでも感じられたならば、あなたの「心のアンテナ」はとても優れているものなのだと思って下さい。その時、既にあなたのアンテナのスイッチはオンになっていて、その電池は「命」のある限り続くのです。
聖書という書物は、読む人の置かれている状況や心の状態によって様々な響き方をするものだと云われています。人それぞれ、その時々に必要なメッセージを受け取ることができます。読むたびに新たな意味を発見し、またその中で新たな自分を見つけられるのです。クリスマスに何も約束ごとのない方は聖書の扉を叩いてみてはいかがでしょうか。そんな静かなクリスマスの過ごし方も素敵だと思います。しかし、恋人や家族や友人と集うチャンスがある方々は、ぜひとも彼等と一緒にクリスマスを祝い、共に過ごして下さい。そして彼等の存在のやさしさに触れ、人の内にある愛と命を感じ、豊かな時を過ごして下さい。そうしたことこそが神のもとで集うという「キリストのミサ」の本来の意味なのだと思います。イエスは人々が赦し合い、愛し合うことによる救いを強く説いた人であり、また自らもそうすることを望み、行なった人だったようです。二千年の時を超えて僕のアンテナを通して聴こえてくるイエスの声はこう云っています。『みんな、愛し合っていますか?』と。
2005.12.13 掲載
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