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第14回 「子ぎつねヘレンがのこしたもの」(1999年)


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生まれつき翼の骨の一部が無く飛ぶことが出来ないトビが、子供たちに支えられながら人間の元で短い日々を幸せそうに生き、そして死んでいったということを体験した獣医の竹田津先生は、安楽死は正しいことではなく、育てる人間にとってただ都合の良いことなのではないかと思い、治療が完了しても尚、自然の中へと帰すことが出来ない動物の面倒を一生看るようになりました。そんな先生のことを村の人は、家畜だけでなく、病気になったり傷ついたりした野生動物を診る医者と言い、苦しむ野生の動物たちを見つけると先生の元へと連れてくるようになりました。

ある日の午後、先生の元に一匹の雌のキタキツネの子供が運ばれてきました。道路端でひとり、ぼんやりと佇んでいたという彼女には、どうやら視力、聴力、嗅覚の能力が備わっていない様子でした。先生ご夫妻はそんな彼女に、三重苦を背負いながらも力強く生き抜いた「ヘレン・ケラー女史」に肖って「ヘレン」と名付けることにしました。初めて出会った時の彼女は、自分以外の存在すべてに対して恐怖を感じているかのように、いつも震えていました。餌付けさえ思うようにならない中、ひとつの小さな命を何とかして助けたいと願うご夫妻は、与えられた時間のすべてをヘレンと共に生きて行くのでした。

臆病な様子のヘレンの気持ちを少しでも知りたいと思った竹田津先生は、自分の目と耳をタオルで塞ぎ、四つん這いになって行動してみることにしました。その時、己の身に傷を負いながら、ヘレンの感じている不安、恐怖、悲しみを少し感じられたように思いました。「誰かの気持ちを理解する為には、まずその相手が置かれた立場に立つことが大切」などと言葉で言うことは簡単ですが、実際に自らを困難な状況に追いやることは容易いことではありません。しかしそれを乗り越えついに相手の心に触れた時は、その相手についてだけではなく、向き合ってきた自分自身の心についても明らかになってゆくのです。

命あるものと共に生きる以上、いつかは別れが訪れます。その理由は「死」だけとは限りません。時にそれ以外の様々な事情によっても、大切に築き上げた関係を壊されてしまいます。理由がどうであれ変わらないことは、別れる瞬間は常に悲しみが伴うということです。そして愛情を注げば注ぐほど辛くなるものなのです。しかしどれほど辛いからといって、自分にとって大切な存在に対して愛情を注がないなどという選択は、愚かな過ちとしか言いようがありません。別れが辛いという感情も、愛おしいという感情も、その存在に出会い、思いを注ぎ、共に生きた証であるという意味においては、同じぐらいかけがえのない心の経験なのです。

やがてヘレンは脳か神経にある障害から起きる発作により、ひどく苦しむようになります。そして竹田津夫妻の元に運ばれてきてからちょうど一ヶ月目の朝、彼女を愛してくれた者の暖かい腕の中で、短い生涯を安らかに閉じたのでした。

僕は今まで様々な別れを経験しました。そしてその度、様々な思いが心に刻まれてきました。人にせよ、動物にせよ、この世で触れ合えることは実は奇跡のようなことなのです。そんな運命の恵みの中で人の心は少しずつ豊かになってゆくのだと思います。別れの悲しみばかりに捉われ、共に生きることの素晴らしさを実感できた大切な時間を忘れてしまうということは、僕にはまるで、愛した存在に対する裏切りのような気さえしてしまいます。それよりも出逢えたことに感謝し、自分の人生に活かしてゆくことの方がずっと素敵なことに感じられるのです。僕が多感な少年期に「死」というものを介した別れを経験したことは、その後の僕の人生においてとても大きな意味を持っていたと、今では理解することが出来ます。

僕はこの本を通じてヘレンと彼女の周りに溢れた愛たちに出会い、かけがえのないことを思い出しました。それは自分の愛すべきものの存在を与えられたことへの感謝の気持ちです。そんな思いに浸っている瞬間、僕は何にも代え難い自由というものを感じ、それを感じているこの場所こそが「天国」なのではないかとさえ思えてしまうのです。

この世界に満ちているひとつひとつの存在には、接する者の意思によってたくさんの尊いメッセージを見つけることが出来ます。かけがえのないひとつの命がこの世界に残してゆくものの偉大さは計り知れません。それはひとりひとりが長い道の上で、時折振り返りながら少しずつ気付いてゆくことでしょう。いつまでも人の心の中に生き続けてゆくもの、それこそが「命」そのものなのだと僕は思うのです。

2005.10.31 掲載

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