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第153回  電子書籍『真夜中の虹』


とうとう二〇一二年になってしまった。入院と病気療養の為、昨年は一話も書かずに終わった。それでもこのエッセイを電子書籍化してくださるという嬉しい話が来たので、ちょっとした手直しと昨年の入院のさいの話を電子書籍「真夜中の虹」の「あとがき」に加えさせて貰った。なぜ一年もの長い間更新できなかったのか、ということがなんとなくそこに書いてあるので、そちらをご覧いただけると嬉しい。

それにしても文章の直しというものを正直言って甘く見ていた。直しをするには自分の文章と向き合わなくてはならない。これが辛かった。どうしようもない下手くそな文章を何度も読み、直し、また読み、そしてまた直す、それでもいくら直しても気に食わず、納得がいかない。やがて自分のあまりの無様な文章に頭が混乱を来し、肉体共に駄目になりそうになったので、編集長にSOSを出し、助けを借りてなんとか最後まで辿り着くことができた。編集長のおかげである。知力・気力・体力・精神力、どれが欠けても本は創れないのだとあらためて知った。

三月に入った。相変わらず寒い日が続いているし、地震が多い。いつになれば春が来るのだろうか。そんなことを考えながら、先日、羽田空港まで飛行機を観に行った。飛行機が離陸する姿を見たくてわざわざ行ったのに、着陸するところしか見られない。どこへ行けば離陸の瞬間を見られるのかわからなくて、飛行場の中をウロウロしていると、自然とそこかしこに家族連れが小さな塊となって移動している姿にぶつかる。あらためて家族連れというものにコンプレックスを抱いている自分に気がつく。

なぜ自分はこれまで「家族」という「群れ」で行動をしてこなかったのか。理由はいくつかあるが、ひとつに自分の親がそういうことをしてこなかったというのがある。両親が生きている間に、家族で旅行に行った記憶がまったくない。だから自分が親になっても家族旅行と言えるものは数えるほどしか行っていない。それもほとんどの場合が嫌々だ。基本的に人混みが嫌いな上に、家族といえども自分以外の人間に歩調を合わせるのが苦手なので、いつもひとり留守番を選び、部屋で本を読んだり、映画を観ていた。

しかし、羽田空港で目の前を家族連れが横切る度に、その塊を幸せそうに思う自分がいて驚く。通り過ぎていく家族のように、みんなで楽しく笑いながら旅行がしたかったのだろうか。いや、決してそうではない。そうではないが、どこかで羨んでいる自分が確かにいる。所詮は「ないものねだり」なのだろう。いきなり鬱の気に襲われたが、少しの間そこに立ち尽くすだけで元に戻った。家族は人と同じ、いろいろな家族があって、それぞれでいいのだ。

知り合いの夫婦がいる。旦那も妻も勤め人で、両方に恋人がいて、それでも別れずに夫婦を続けている。離婚しない理由はよくわからないが、それで二人がいいのなら、こちらとしては何も言うことはない。それぞれの家庭や暮らしがあっていい。男と女のことは、当人同士で解決するしかない。

子供が出来て家族となるとそうはいかないと人は言うが、同じだ。子供が出来ようが、何をしようが人と人はいつか必ず別れる。それは人には死があるからだ。それに、離婚したからといって縁が切れるわけではないし、離婚しなくてもとっくに縁が切れている夫婦は何処にでもいる。要はその人次第で、何をどうするかは自分で決めるしかないのだ。

面白いのは、この知り合いの夫婦の親だ。誰の子でもいいから早く孫の顔が見たいとそれぞれの親が言っているという。妻が先に産むのか、恋人が先に産むのかわからないが、はっきりしているのは、よほどのことがない限り夫婦の間の子供は望めないということだ。それでもどちらかの女性に子供が生まれれば、そこに家族という塊ができるわけだし、そういう訳ありの家族は世の中にごまんといる。決して珍しいことではない。訳ありを受け入れて、ある意味楽しみながらそれなりにやっていくしかないし、外野としては、見守るだけしかできない。それでも、今後どうなっていくのか、どう対処していくのか、野次馬根性も含めて楽しみではある。

昨年は入院があって、退院したとたんに地震があり、ひさしぶりにナレーションの仕事をして、後期から大学に表現の授業に行き、年末は電子書籍の直しにかかり切りになった。そのほかは通院とリハビリと散歩と映画と読書に時間を使った。あっという間に時が過ぎ、結局ほとんど仕事をしないで過ごした。

すごく退屈で楽しい時間だった。時間があるぶんいろいろなことを考え、頭の中を整理したが、物事は何も進展しなかった。ただ自分の心の中だけが幾分すっきりした。今年は少し自分の持ち物を片付けようと、使わなくなった古いものを捨てている。断捨離という奴だ。かなりの本やCD等を整理し、形見分けと称して知り合いに配っている。少しずつだが身の回りが整理されていく。いつ死ぬかわからないので、できるだけ身軽な状態で、その日を迎えたいと思っている。

今日は明治神宮まで歩いて行って帰ってきた。ここの御神籤は変わっている。吉凶はなく、皇室の方の御歌が大御心として書かれてある。引いたのは、

明 治 天 皇 御 製

た ら ち ね の 親 に つ か へ て ま め な る が
人 の ま こ と の 始 め な り け り

裏を返すと次のようにあった。

心をこめて、父母にお仕えすることが、人のまことの行いの始まりであります。
親と子の敬愛の情は、生まれながらの自然のものです。これが人の誠の始まりで、広く社会生活を営む基本となります。(孝は人の行いの基本です)

なるほど、親のいない自分にとっては「孝」がなく、基本がなっていないということか。そうか、そうだったのか。

帰り道、靴底に空いた穴が大きくなったので、渋谷の街で新しいものを買った。山登り用の赤い靴がセールで安かったのでそれにした。生まれて初めて履く赤い靴。異人さんに連れられていかないか心配だ。そう言えば、うちの母は昔、「異人さん」を「曾爺さん」だと思い込み、「曾爺さん」に連れられて行く女の子を羨ましいと思ったと言っていた。

今年の夏には二人目の孫が生まれるし、両親や姉、祖母、叔母の合同の法事がある。久しぶりに顔を出そうと思っている。たぶん一度に大勢の親族に会うのもこれが最後だろう。

そんなことで、ゆっくりとですが再開です。


2012.3.30 掲載

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