第151回 孫にささげる言葉
私は今年、50歳になった。これまで文章を書くときは「僕」を主に使ってきたけれど、50歳にもなって「僕」は気持ちが悪いと思うのでこれを機に「私」にすることにした。最初はぎこちないかもしれないけれどそのうち慣れるだろう。
私は50歳になってもアホである。大学での講義中、現実逃避の「逃避」を「頭皮」と書き間違え、映画「借りぐらしのアリエッティ」を「一人暮らしのアリエッティ」と言い間違え、NHKの「ミラクルボディ」というスポーツ選手の肉体の神秘に迫る番組を「ダイナマイトバディ」というNHK初のお色気番組と勘違いしてテレビの前に陣取るという、まったくもって何も変わらないアホである。
それでも勘違いから見た「ミラクルボディ」は面白かった。陸上100メートル走のパウエル、世界最強の水泳選手マイケル・フェルプスらの天才アスリートの驚異的な肉体を超スロー再生によって、筋肉の繊細な動きの一つ一つをいままでにない美しさで映し出す。
水泳のフェルプスのコーチが言っていたが、フェルプスは5年間一度も練習を休んだことがないという。これには驚いた。三日坊主の常習犯であるこちらとしては、こういったストイックな人物に対して本当に頭が下がる。
そういえばイチローもかなりストイックと聞く。食事、球場までの道順、練習、試合後の食事の店まで全て決まっているらしい。これは凄い。たまには違う空気で…なんてことは間違ってもないということだ。ひょっとしたらセックスの時も、腰の角度、ピストン運動のスピード、フィニッシュ到達までの回数まで、事細かに決まっているかもしれない。だとしたらパートナーもそれに合わせないといけないから、天才バッターのパートナーも意外に楽じゃないのかもしれない。
フェルプスに影響されたわけではないけれど、夏から区民プールで水中ウォーキングとスイミングを始めた。数年前もプール通いをしていた時期はあったのだけれど、ギックリ腰になったのをキッカケに、冷えが怖いという理由で行かなくなっていた。しかし今年のこの猛暑、暑さで死ぬ思いの毎日に悲鳴を上げ、もうたまらなく水に入りたくなって飛びこんでみた。これが意外に身体に心地よく、腰の状態もまずまずの様子。以来、時間の許す限り続けることにしている。
近くの区民プールまで家からチャリンコで10分以内。海水パンツは家から履いていく。その日もズボンの下には海水パンツを履いてチャリンコを漕いでいた。そしたらどうだろう、すれ違う人がみんなこちらに目を向けてくる。うーん、きっと何かがおかしいに違いない。ペダルのスピードを速め、急いでプールに向かい、入り口の扉に自分の姿を写す。指さし確認…足下、青いスニーカー、異常なし…ズボン、黒の七分パンツ、異常なし…上着、白い七部Tシャツ、異常なし…そして頭、黒いスイミングキャップ…異常あり。なんと、家からスイミングキャップをかぶって来てしまった。これはアホだ。人々が見るのも納得だ。恥ずかしいったらありゃしない。意気消沈したままプールに入る。
こういった恥ずかしい出来事は早く忘れるにかぎる。仰向けになったままプカプカと水に浮かびながら強引に頭を空っぽにする。しばらくすると落ち込んだ黒い塊が身体からすぅーっと水に流れ出していく。水に包まれるのはとても心地いい。母親のお腹の中にいたときもこんな感触だったのかもしれない。
そういえば先月、長女が母になった。千葉の田舎で旦那と二人きり、自宅で自分たちの子供を自分たちの手で立派に産んだという。たいしたものだ。初めて娘の懐妊を知ったとき、自分に孫が生まれるかもしれないという気持ちより、娘が母になるという気持ちの方が強く、いつのまにか成長した娘に対して涙がこぼれた。
子どもが産まれた数日後、車を飛ばして会いに行った。みんなが私のことをおじいちゃんと呼ぶが、なんだか自分の子供が生まれたときのような実感がない。孫と言うよりは、やはり娘の子供と言った方が近い感覚がする。
娘の子供は当然のことながら可愛い。どこのどんな子よりも可愛い。しかし、だからと言って頬ずりをしてベタベタするような気持は不思議と湧かない。自分の子どもを授かったときのような現実感はなく、神様からの授かり物のような、なにか神秘的な感じが強い。いきなり目の前に現れた血の繋がった神様からの授かり物。遠い昔からの縁を辿ってこの世にやってきた命の子。どうか、大事にしっかりと育ってください、まるで神様に対するように、娘の子どもに向かって静かに手を合わせた。
娘の子が娘のお腹にいたときにチリの落盤事故があった。生存者たちはいま現在、地球のお腹の中にいる。地上では必死になって産道をつくっている。生存者の方たちはいまどんな気持ちでいるのだろうか。いずれにしろ、事故前と後では、善くも悪くも彼らの状況はいろいろな意味で変わってしまう。
中でも気になるのは5人の給料受取人が出てきたAさん。穴の中の生存者には毎月給料が支払われる。普通は妻が取りに来るのだけれど、Aさんには妻を入れて5人の女性が給料受け取りの権利があると名乗り出て、修羅場になっていると聞く。この件は地下にいるAさんにはストレスを与えないようにという理由で内緒にされているらしい。もし本人の耳に入ってしまったら、穴から出て行く気力が半減するに違いないし、そもそも穴に籠もったまま出てこなくなってしまうからだ。
また同じような理由のBさんは、妻が怖くて穴から救出されるのを拒み、仲間が20日もかけて説得したという。いろんな意味で話題に事欠かないチリの事故。まもなく救出作業が始まり予定よりも早く救出される可能性が出てきた。すでに映画化も決まっているという。救出が始まれば必ず世間は大騒ぎをする。彼らのいままでの日常は暴力的に奪われるに決まっている。静かな生活が彼らに訪れるのはいつの日だろうか。そんなことを考えると他人ごとながら哀しくなる。
それにしても生存者には申し訳ないが、自分が生き埋めにならずに本当に良かったと思う。閉所恐怖症のうえに人間嫌い、おまけにオナラ(量も音も匂いもすごい、これの被害にあった人は三重苦だ)がすごいし、本と映画と散歩がないと生きていけない自分は果たして何日持つのだろうか…。と思っていたらチリの救出作業が始まり、全員無事救出。良かった。本当に良かった。
一人一人順番に救出作業が進められ、救出穴の周りに限られた家族が待ち受ける。救出作業のテレビ中継を偶然見ていたら、ちょうど24歳の男性が救出された。普通、親か妻か娘が出迎えるのだけれど、その人を出迎えたのは三十代と思われる男性と十代と女の子だった。もしや男の恋人?と思ったのだけれど、お兄さんと娘さんだった。コメンテーターが「奥さんはいないのかな?」と言うと、すかさず女性キャスターが「ただいま別居中です」と答えた。
奥さんを気にするコメンテーターと女性キャスターの素早すぎる対応、人間の持つ野次馬根性というのは果てしない。今後彼らはしばらくの間マスコミの餌食になる。生活の全てをさらけ出さなくてはならなくなる。世間は彼らを丸裸にし、やがて飽き、そして捨てる。せっかく穴の地獄から出てきたのに、世間の地獄が彼らを待ち受けている。それこそ坂口安吾のいう、あちらこちら命がけである。
人は未来がわからないままこの世に生まれてくる。チリの落盤事故被害者の方々も生まれたときには、将来地下での穴暮らしが待ち受けているとは思わなかっただろう。
どんな人生でもいい、静かにタフに生きてください、そんな言葉を生まれたての孫に捧げたい。
暑い猛暑が終わり、秋の気配がしたと思ったらいきなり冬がやってきた。急激な温度の変化に身体がついていけずにぎっくり腰になってしまい、今度は痛みで死ぬ思いの日々を過ごすことになってしまった。とうぶんプールもお預け。残念…。
2010.11.1 掲載
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