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第148回  「ヒーローショー」と「息もできない」


韓国は強い。2010年ワールドカップが始まる前の親善試合、韓国×日本。フィジカル・メンタル・しつこさ、いずれをとっても韓国に劣っていた。韓国にはどうやってもかなわない気がした。スポーツ、経済、文化、日本はあらゆる面で韓国に抜かれていく、いや、もう抜かれているかもしれない、いやいや、はじめから韓国の方が優れていたのかもしれない。日本は韓国より優位に立ちたいばかりに、いつも韓国より一歩先に歩いてきたように思っていたが、実はまったく先になんか立っていなかったのではないだろうか…。

僕は本来、国同士の優劣なんかどうでもいいことで、お互いに弱い部分を補い合いながらやっていけばいいと思っているのだけれど、お互いの国同士の歴史をみれば、そうは簡単にいかないこともわかっている。しかし、隣接する国同士というものは、どうしても優劣を気にする。隣の芝生とはよく言ったもので、隣を意識するあまり、いらない嫉妬心を増幅させる。いやはや人間というものは実にみっともない生き物だと思う。

話をサッカーに戻そう。とにかくサッカーに関しては、とてもじゃないが韓国にはかなわない。これははっきりしていること。そしてもうひとつある。それは映画。映画に関してもはっきり言える。いま、韓国映画は日本映画より面白いと。


人間の暴力を描いた作品を二本立て続けに見た。日本映画の「ヒーローショー」(井筒和幸監督)と韓国映画の「息もできない」(ヤン・イクチュン監督)。二本とも暴力の連鎖を軸に、そのまわりを取り巻く人間関係を描き、「ヒーローショー」は青春映画に、「息もできない」は人間ドラマとして作品を仕上げている。

「ヒーローショー」は井筒監督が日本映画としてなかなか企画が通りづらい題材を、お笑い漫才コンビのジャルジャルを起用して、後味のすっきりしないストーリー展開を強引に青春映画としてまとめ上げている。ストーリーを簡単に要約すると、ある男がある男の女を寝取ったことを発端に殴り合いの喧嘩が始まる。その結果、よくある喧嘩がどんどん周りの人間を巻き込み、いわゆる暴力の輪が広がっていき、最終的に暴力の着地点「犯罪」を生む、というお話。

  脚本上、企画が通りづらい要因として、
  1. 起きてしまった「犯罪」に関してはほったらかしにしているところ。いまの日本映画ははっきりとした解決を望む。それなのに敢えてそこを外している。もちろんそれは、青春映画として軸がぼやけてしまう、そこのところを掘り下げると時間が長くなってしまう等々、それは監督の意図であるとは思う。僕の個人的趣味から言うとそれは好きな方向性ではあるけれど、この手の映画はなぜか日本ではヒットしない。
  2. 暴力が全編を支配しているので女性客の動員を見込めない。
  3. 見ていて決して心地いい映画ではない。
等々があげられる。

そういうことも含めて今ある日本映画の作品とは反した作品作りで、かなり健闘している。特に、たわいもない小さな暴力が、どんどん拡がっていく様は、ウワサ話がすぐに伝染する日本人の性質にとても似ていて、見ていて凄くイヤな感じになる。しかし、どうせやるならもっと徹底的にリアルに描いてしまってもいいのではないかと思ったのも事実。けれど、青春を謳っている映画だから今の日本映画の現状ではこれが限界かもしれないなぁ…とも思ったりもする。

気になったのは、人を殴る擬音の入れ方がコメディ映画のようで、音が入るたびにしらけた気分になったことと、それに似たようなことで、悪い奴らの描き方がマンガのようだったこと。これには日本の俳優の意識も関係する。ジャルジャルの二人に代表される俳優陣は予想以上にすごく健闘しているのだけれど、やはり暴力を振るう人間の裏に潜む狂気が希薄。日本の俳優の暴力演技はどうしても狂気がその俳優の内側から出てくるものではなく、暴力を振るう人の演技をしている俳優がそこにいる感じにしか見えない。そこに狂気が存在しないのだ。だから暴力シーンが心に突き刺さってこない。簡単に言うと、作り物過ぎて怖くないのだ。

内なる狂気、これは北野武の映画「ソナチネ」を最期に日本映画から見られなくなってしまった、日本映画のひとつの不幸である。ここにも、日本映画の限界が見受けられる。


これから紹介する韓国映画「息もできない」の暴力は凄い。目に見える暴力だけではなく、そこから滲み出てくる人間の本質がこちらの心を突く。しっかりと作品に向かい合っている。今の日本映画とは違い、やりたい作品をやりたいようにつくり、世界的にも評価を得た韓国映画「息もできない」。監督主演はヤン・イクチュン。ストーリーはこんな感じだ。

男は友人が経営する債権回収業者で働く暴力的な取り立て屋。父親は妹と母親を殺している。女は女子高生。父親はベトナム帰りのアル中で精神を病み、母親は屋台で働いていたが、強制撤去にあい撲殺、弟は学校も行かずにぶらぶらしている。ある日、道を歩いていた男が吐いた唾が、たまたま通りがかった女の胸にかかる。文句をつける女に男はいきなり拳を上げ、女は気絶する。そんな最低の出会いをした二人が、運命に導かれるように惹かれ合い、それぞれの心の中を剥き出しにしていく。

描かれるのは、暴力の連鎖と家族に象徴される血の系譜、そして底辺に生きる男と女。韓国語の原題を翻訳すると「ウンコ蠅」。これは監督がどうしても付けたかった題名と聞いた。映画「息もできない」は人間に内在する暴力をあらためて考えさせられる作品。主人公の男は、父親の暴力によって妹と母親を失ったにもかかわらず、暴力を糧にして生活をしている。女は暴力によって母を失い、暴力によって父親の精神を失った。それなのに暴力に包まれた男に心を寄せる。

暴力とは他者の身体や財産などに対する物質的または精神的な破壊力のこと。わたしは暴力は嫌い、オレは暴力なんか絶対にふるわない、そういう言葉はよく聞く。もちろん暴力は善くない、だからそう言いたいのはわかる。しかし、ただ言っているだけではいけない。日頃そう言っている人間が、追い詰められたあげく最終的に突然暴力を振るうのを何度か見たことがある。追い詰められた人間が最後に出す本能は暴力なのだ。

人間である以上、暴力を振るう可能性はゼロではない。正当防衛も含め、いつか暴力を振るわなくてはいけない場面があるかもしれない。だから、人間である以上、言っているばかりでなく、もっともっと自分の中の暴力を識る必要がある。個人が個人でできることをしっかりやっていけば、この世の中の暴力(戦争も含む)をなくすことはできないけれど、減らすことはできる。こればかりは個人でやるしかない。

社会学者の宮台真司が何かで言っていた──多くの人に大きな誤解がありますが、人類社会にはいまだかつて「人を殺してはいけない」という規範が一般化したことは一度もありません。…(中略)…人類社会が伝統的に維持してきたのは「仲間を殺すな」「仲間のためには人を殺せ」という二つの規範です──と。

ハッとさせられる意見だった。人間はどこかで、大義名分さえあれば暴力は正当化されると思っている節がある。大きな間違いだと思う。そこに気がつくことができなければいつまでも暴力は減らないし、戦争も死刑もなくならないし、減ることもない。たった一つの暴力が他者の何かを、またはその人自身を破滅させてしまうことの恐ろしさ。その暴力から発生するあらたな暴力。暴力と噂話はウィルスのようにあっという人の心に侵入し、瞬く間に拡がり、ものすごいスピードで人々を巻き込んでいくものだということを、もっと識る必要があると思う。


話を映画に戻す。
  「息もできない」の主人公の男は母と妹を殺した父親を憎んでいる。刑期を終え、廃人のように生きている父親を憎んでいる。ある日、ムシャクシャした主人公は父親をボコボコに殴る。その数日後、父親が手首を切る。男は父親を背負い、必死に病院へ運ぶ。血だらけの背中の父親に、男は叫ぶ、「人生は辛く苦く不幸に充ちているけれど、生きなくちゃ駄目だ!」、そして医者に言う「オレの血をこいつ(父親)に使ってくれ!こいつを殺さないでくれ!!」と。いくら恨んでみても、家族だけは変えられない、血の流れをたとえ否定しても、その流れを止めることはできない。すべて受け入れて生きていかなければならない。父は父であり、子は子であるしかないのだ。悲しいことかもしれないけれど、運命や宿命には逆らえない…。映画を見ながら、様々な考えが頭の中を走り回り、まさに息もできない状態だった。

いい映画とは、見終わったあとに、いろいろなことを考えさせてくれる。
  暴力を前にすると、普通の人間はなす術がない。
  映画の中盤で主人公が言うセリフがいつまでも残る、
  「人を平気で殴る人間は、自分が殴られるとは思っていない、いつか痛い目に遭う」

大学で教鞭を執っていて感じることがある。学内で生徒同士の喧嘩、または口論すら見ることが殆どないのだ。それはいいことかもしれないけれど、本当のところはどうなんだろうかと。

たしかに争いのない学内は平和でいい。でもそれが、本当は頭にきている奴がいるのだけれどただ我慢しているだけだとしたらそれは危険だと思う。いつか暴発する恐れがあるからだ。「どうして君たちはぶつからないの?喧嘩までいかなくても意見を闘わせるぐらいはしてもいいんじゃないの?」、とある生徒に聞いたことがある。「めんどくさいから」、とその生徒は答えた。

たしかに人と争うのは面倒なことだ。でももっと違うところに原因があると思う。いろいろ若者たちの意見を聞いてみると、「喧嘩をしても仲直りの仕方を知らないから、そこで全てが切れてしまうのが怖い」というところに行き着いた。だから、腹が立っても我慢をする、無視を決め込む、そしてそのストレスを溜め込み、いつか自分より弱いものにぶつける、それは親だったり、兄弟だったり、彼女だったり…結局はどこかにストレスをまき散らし、「我慢」はしていないのだ。

人間が他者に対して腹を立てる殆どの原因は、人間のプライドや劣等感の在り方にあると思う。
  完璧な人生なんてありえない、絶頂に時期があれば奈落に落ちる時期もある。落ちているときほど感情的にならず冷静に生きていたいものだ。

人はどんな風に生きたかで、価値が決まると思う。
  だからもっと識らないといけない。自分のことも他者のことも…。

…今回はこの辺で。


2010.6.24 掲載

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