第145回 落語の魅力
春が近くなった。気温や気圧の変化が激しくて、身体のバランスを取るのがとても難しい今日この頃。こんな時期は寄席にでも行って笑って過ごすのがいい。歳を重ねるにしたがって、寄席に足を運ぶ回数が増えてきた。新宿の寄席、末広亭は通常、昼の12時から夜の9時まで昼夜入れ替えなし。約9時間ずっと寄席にいることができる。時間に余裕があって、椎間板ヘルニアの調子がいい日は、昼の部の前座から夜の部のトリまでたっぷり落語を楽しめる。こんな素敵なところは他にない。
落語は面白い。演劇で言うところの美術や音響効果に頼らず、噺家一人の技術と感性と生き方のみで勝負をする。すごくシンプルな話芸である。シンプルと言うと聞こえはいいが、実際は頼るべきものが自分以外なにもない、それはそれは恐ろしい表現ともいえる。
立川談志は以前「落語は業の肯定」だと云っていた。いまは「落語はイリュージョン」だとも云っている。人間の持つ業を徹底的に語り尽くし、それを最終的に肯定して笑いに転化させる。業の根源は人にあり、もちろんそれは自分にも跳ね返る。噺家個人の業も、人前にさらけ出しては笑いに変える。落語は業との格闘の上で成り立っている。
落語の中に登場する人々は、主に江戸下町の住人。噺家は言葉と間(ま)と気(き)を操り、客を江戸の下町に引きずり込んでいく。それはまさにイリュージョン。気がつくと江戸の町に迷い込んでしまっている自分がいる。わりと不思議な感覚があるせいか、神社とか土俵とか寄席にいると、居ながらにして異次元にタイムスリップしてしまうことがある。何かの拍子にポーンと大昔に時空移動し、妙に懐かしい空気に包まれるのだ。そんなことも寄席好きの一因になっていると思う。
先日、新宿末広亭で柳家小三治の高座を観た。これが凄かった。お囃子に乗って登場し、ひょいと座布団に坐った小三治は、そのままぼんやり客席を見回し、ぶつぶつ呟く得意のくすぐりで小さな笑いをとったあと、おもむろにお茶に手を伸ばした。そのまま湯呑みを口に持っていくのかと思いきや、途中で手を休め、ジッと間合いをとる。これが侍の間合い(侍の間合いなんて実際に見たことはないのだけれど…)のように実に長い。何をするでもなく、ポカーンとした「空」の時間が約30秒。高座も客席も「空」。何事も起こらない。ん?と思っていると、そのまま、まるでマジックのように寄席の中の空気がすぅーっと江戸時代に移り変わっていく。演劇ではあの手この手を駆使して20分はかかる空間誘導をたった一人で、それもわずか30秒ほどでやってのけてしまった。
一瞬にして江戸の風にさらわれた客は、そのまま噺の中に連れて行かれ、「落ち」まで一気に魂を奪われた。圧倒的の高座に度肝を抜かれた僕は、背中がぞわーっとした。こういう高座は生でしか味わえない。たとえ寄席に通い詰めていても、その場に居合わせることができるのは滅多にないと思う。僕自身、過去の鑑賞の記憶を辿ってみても、マルセ太郎の一人語り、大野一雄の舞踏、それくらいしか思い浮かばない。それだけ貴重な生の体感。これほどのぞわぞわを落語で体験したのは小三治が初めてだった。
たった一人の噺家が醸し出す空気によって、落語という虚構の世界に嵌り込む。これが落語の凄さ、素晴らしさ、おそろしさ。これを一度体感すると、まず間違いなく中毒になる。客はもう一度体験したい欲望にかられ何度も足を運ぶようになって、寝ても覚めてもあの感覚をもう一度と思うようになる。しかし、そんなものはそう何度も味わえるわけがない。でも、忘れられない。ふらりふらりと寄席に足を運ぶ。そうして落語の地獄に堕ちていく。これぞ、まさしく人間の業。落語にハマると、観る側も業を背負うことになる。そうなると、もう落語以外に興味がわかなくなってしまう。
もう少し落語の魅力を話す。
落語は生身の人間がたった一人で演じきってしまう芸。高座に上がる噺家、それは敵地にたった一人で乗り込んでいく兵士のように潔く、実にかっこいい(見てくれはそうでもないだが…)。それでもって、噺の中身は実に下らなく、馬鹿馬鹿しく、そして、時にせつない。笑いを期待している客に、実に下らない噺を聞かせ、当たり前のように客席を盛り上げ、沸かせ、時には泣かせ、そして去っていく(そこまでかっこよくはないか…)。おまけに、いつもうまくいくとは限らない。すべて、噺家の腕や生き様、その日のコンディションやノリ(客も含む)、はたまた季節や天気等々によって左右される。前日客を引き込んだ噺が、今日もそうなるという保証はどこにもない。まさに一期一会。その日の噺は生涯二度と体感することはできない。とても儚い芸でもある。これがたまらないのだ。
どんな名人でもよく言う言葉に、落語はわからない、というのがある。わからない、とはどういうことかと自分なりに考えてみる。それはきっと完成という終着点がないからだと思う。これで終わりという、はっきりしたゴールがない。それは死ぬまで落語と格闘することを意味する。
これは観る側にも言えることで、これでもう満足、死んでもいいと思える高座を観るまで、見続けることになる。僕ならこう言う、落語は恐ろしい、と。人を笑わせる落語が恐ろしいなら、それを演じる噺家も恐ろしい。名人と言われる人ほど、その瞳は犯罪者のように冷めている。人間の業を身体で理解しないと、人前でそれを面白可笑しく語ることはできない。自然と瞳が冷めていくのは仕方がない。しかし、その瞳の裏側には、たしかに微笑ましいあどけなさがあるのも事実。それがないと決して笑いは生まれない。恐ろしい落語を、恐ろしい噺家が語り、庶民の日々の悩みや苦しみをほぐす。こんなものにハマった自分は不幸、いや、幸せ者だ。この先、当分落語づけになるだろう。
先日、平成9年に起きた神戸連続児童殺傷事件で亡くなった少女の遺族の元に、加害者の男性から謝罪の手紙が届いたとニュースで報じていた。男性は亡くなった少女の命日に合わせ、手紙を19年から毎年届けているという。内容は、男性が社会と関わり、人とのつながりの中で生活しているといったことと、謝罪や反省の言葉も書かれていたそうだ。遺族である少女の母親は、「男性が日常の中での(人の)ふとした言葉に、『人の優しさ』を感じているように思えた」とし、「自分のしたことの重さを自覚し、被害者の苦しみを想像しようとする姿勢が感じられた。読み返すなかで思うことがあれば、返事を出したい」と述べていて。また、毎年手紙が届いたことを公表してきたが、男性が本心を書けなくなる可能性もあるとして、今後は公表を控える意向も示した、とあった。
大学の授業のテキストで、宮沢章夫氏の脚本「14歳の国」を扱ってきた身としては長い間ずっと気に掛けていた事件であったので、こうゆう報道に触れるとホッとする。生きている者同士が、長い時間を掛けてなんとかしていかなければならないことに向かって、お互いにようやく歩みだしたのだ。不況だ不景気だといって殺伐とした世の中だけれど、人間まだまだ捨てたものじゃない。
3月、4月、5月はもっとも自殺者が多い時期。また変な事件も多発する時期と聞く。たしかに嫌になることが多い世の中ではあるけれど、嫌なことばかりでもないのだ。どこかにホッとすることがきっと隠れている。もっとよく見て、もっと大切に、もっと丁寧に日々を生きたいと思うし、日々願っている。
もうすぐ新年度が始まる。また、世の中がザワザワし始めるだろう。さて、焦らずのんびり生きますか。
2010.3.29 掲載
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