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第143回  久しぶりの演出

随分とご無沙汰しております。久しぶりの更新です。8月、9月と更新できなかったのにはいろいろ理由があります。まず、8月の下旬から急に演出の仕事が入ったこと。それがこれまでやったことのない仕事だったので、そちらの方にかなりの時間を取られてしまいました。

僕はふつう、一本の芝居を作るのに、かなりゆったりとしたスケジュールでことを運びます。決して急いで作ることはしない。少なくても半年はかけて、じっくり芝居を作るようにしている。それが今回は、話があってから本番まで二カ月足らず。たった二カ月の間に、取材、脚本の直し、演出、本番をこなさなくてはならない。これはもう必死でした。

8月の中旬、某制作会社のK君、彼とは十年前に一緒に芝居を作ったことのある仲間、その彼から連絡が入り、演出をお願いしたいということで会うことになりました。内容は、ある有名企業のイベントの中で20分程度の芝居を作ってほしいとのこと。僕は速攻で断りました。まず、20分という時間の短さ。たった20分では、観客を芝居の世界に引きずり込むにはとてもじゃないが足りない。

「やるなら落語とかコント、あとは朗読劇みたいに短時間で勝負できるものにした方がいいよ」
  と言いました。しかしK君は、
  「どうしても芝居という枠でやりたい。内容も決まっています。三度も癌と闘っているある癌患者の方を軸に芝居を作ってほしいのです」
  「うーん、僕がやるやらないに関わらず、もし20分という短い芝居にするのなら、ひとり芝居にした方がいいよ。それも演技が達者な人にやってもらった方がいい。たとえばYさんとか」
  「Yさんがやってくれると言ったら、演出してくれますか」
  「えっ?ちょっとまってよ。それとこれは別だよ」
  「脚本は誰がいいでしょうか」
  「うーん、M君がいいんじゃないかなぁ」
  「わかりました、ちょっと聞いてみますね」
  なんだかK君のペースでこの日の会合は終わってしまった。
  でも、僕はどこかでタカをくくっていた。YさんもM君も、本番までにこんなに時間のない仕事を引き受けることはないだろうと。

数日後、
  「YさんもM君もやってくれるそうです」
  そうK君から連絡が入った。
  「あっ、そう・・・。じゃあ・・・僕は断れないよねぇ・・・」
  「はい、そうです」
  「そうか・・・自信はないけど、やってみますか」
  「取材は今月の末、福岡まで行って、その癌患者の方に会っていただきます」
  「・・・わかりました」

この一言をきっかけに、プロジェクトは動き出してしまった。
  言ってから急に不安になった。
  やったことのない一人芝居、実在の人物をモデルにした脚本、スタッフは全て芝居関係ではなくイベントスタッフ、会場は劇場ではなく一流ホテルの大ホール、お客も一般客ではなくて全て関係者、それも700人。もう前途は多難、あるのは不安ばかり。次の日には、K君から癌患者の方の資料とイベントの企画書が早速送られてきた。

資料の方は関係者が事前に行ったインタビュー映像。それを繰り返し見続けた。癌であるにもかかわらず、その人、Tさんは、見た目も健康そのもので、とても癌には思えないほどの健啖家。どこをどう芝居にすればいいのか、僕は悩んでしまった。
  次にイベントの企画書に目を通すと、この芝居のところに「感動セッション」とある。ええっ、感動させなきゃいけないの?いきなり胃が痛くなってきた。

三日後の早朝、真夏の不快感に加えて、芝居へのストレスで、とうとう胃がおかしくなり、救急車で広尾の日赤病院に運ばれてしまった。朦朧とした意識のまま精密検査を受け、けっきょく急性胃炎ということで解放。パジャマのまま救急車に乗ってしまったので、パジャマ姿のままフラフラと渋谷の雑踏を抜け、歩いて帰宅。このときにすれ違った人は、きっと僕のことを変態親父として見ていたに違いない。

そんなこんなで、体調が万全でないまま取材旅行に突入。久しぶりに大嫌いな飛行機に乗り、脂汗をかきながらも無事に福岡に到着。
  K君、M君と共にその日は博多に一泊。二十年ぶりの博多は相変わらず熱気にあふれていた。たった一人の暴走族が爆音を響かせながらぐるぐると町中を支配していたのが面白かった。

翌日は早朝から、久留米の方に車で移動してTさんの取材。御年55歳のTさんは豪快で自由な人だった。
  癌にも関わらず、人工肛門を付けたまま、酒は飲む、煙草は吸う、女遊びはする、そして少年野球の監督もする。この少年野球の監督もするというところがこの人の魅力で、とにかくこのTさん、野球が大好き。野球の話をするときの楽しそうな顔に僕たち3人は惹きつけられた。

なんとかこの野球を軸に話を作れないかと思い。野球に焦点を当てて、M君を中心に取材が始まった。兄の影響で野球を始めたTさんは、野球の名門校柳川高校へスカウトで入学。当時のスターティングメンバー表にはTさんの他、現阪神監督の真弓や元阪神キャッチャーの若菜の名前もあった。これだけでもこのチームがどれだけ強かったかがわかる。
  強かったけど個性がありすぎたため、甲子園には行けずじまい。高校出てノンプロへ。そこで肩を壊し、プロへの道を断たれ、ヤサぐれる。その後、高校野球の審判を経て、少年野球の監督になり今に至る。

人から、「野球バカ」「あいつから野球を取ったら何も残らん」「野球以外は何も出来ない人間」と言われ、一年中少年野球に身を投じている男、それも癌患者。自由で豪快で情の深い九州男児。
  とても20分の芝居では語り尽くせないTさんのおもしろ人生。僕とM君は時間があると、脚本のハコを考えるのだけど、入れたいことがたくさんありすぎて、なかなか主軸が定まってこない。こうなってくると、整理するのに時間がかかってしまう。しかし、期日は決まっていて、いったん寝かしている余裕は全くない。「とにかく第一稿を書き上げてもらって、それを土台にしていろいろ作るよ」とこの段階では、M君に任せるしかなかった。帰りの飛行機の中、芝居としてまとめる自信のない僕はK君に、「負け試合だけどベストは尽くすから」と言い訳めいた弱音を吐いた。

二泊三日の取材旅行から帰京した次の日、K君から早速膨大な資料がまたまた届いた。福岡での取材DVD、取材音源、取材写真、Tさん所有の少年野球のDVD、写真等々、もう目を通すだけで一日が潰れ、何度も見返しながらポイントをメモ書きしたりしていると、あっという間に数日が過ぎてしまうほどの分量。
  そのチェックがようやく終わったときに、M君からの第一稿が届いた。これが9月9日。俳優さんに脚本を手渡す日までに、あと9日。M君の書いた第一稿を片時も離さずに、頭から最後まで何度も読みながら演出プランを練り、脚本に手を入れていく。この作業をまる4日間続け、演出込みの脚本完成。

ここからK君を通しての企業側との擦り合わせが始まった。企業からの返事を待っている間に、大学の後期授業が始まったり、前期生徒の公演の稽古が始まったりと忙しくしているとき、訃報が飛び込んで来た。前妻の妹が癌で亡くなったのだ。享年47歳、自分より年下の若すぎる死。これはこたえた。
  彼女もレベル4の癌だった。にもかかわらず、最後まで他者に弱音を吐くことなく、明るく生きた。ちょっとのことで、すぐ死ぬ死ぬと大騒ぎをする僕とは大違い。Tさんもそうだ。死ぬなんてキーワードはどこをさがしても見あたらない。病気の受け止め方、死への思いは、人それぞれに全く違う。己の気の弱さに嫌気がさす。

もう絶望的に自己嫌悪に陥っているときに、いきなりパソコンが落ちた。何時間経ってもウンともスンとも言わない。修理に出そうとお店へ持って行くと、最低でも6万はかかると言われる。もう7年も使っているし、これは買った方がいいと思い、新しいパソコンを購入。
  しかし、今度は新しすぎて、プリンターや古いソフトが全く使えない。メーカーに問い合わせると、数ヶ月待ってくれれば使えるようになるとのこと。こちらはすぐに使いたいのだ。
  しかたがないので息子に頭を下げ、脚本が完成するまでという条件で、パソコンを借りた。

企業側からの脚本の直しは大変だった。これを入れて欲しい、これは入れないで欲しい、予想はしていたことだけれど、実際に言われると正直頭にきた。けれどこのときはすでに、なんとかTさんのことを芝居という表現にしたいという気持ちが強かったので、企業側の要望をいかにプラス材料として脚本に反映させることができるのか、という方向に気持ちを切り替え、ついに脱稿。俳優さんには5日ほど遅れて脚本が渡った。稽古初日まで5日前だった。
  芝居に使う映像の編集をM君とK君に任せ、稽古内容を考えてのスケジュール作りや会場であるホテルの下見、平行して脚本の細かい直しなどをしているうちにあっという間に稽古初日をむかえた。

稽古場に登場した俳優のYさんは開口一番「騙された!短い軽いコントとかと思ったら、台詞のたくさんある重たい話じゃないか!ああ、騙された!!」と笑いながら言った。なぜかその瞬間、この芝居はうまくいくかもしれない、と悲観的で有名な僕にしては珍しく、ひょっとしたらうまくいくかもしれない感じがした。
  稽古場のメンバーは、僕とYさん、お手伝いのNちゃん、K君、これに時間のあるときにM君が参加してくれることになった。少数精鋭、地味で短い2週間の稽古が始まった。
  Yさんの演技は素敵だった。これまでは同じ俳優として何度も共演してきた尊敬する大先輩だったけれど、役者と演出家として対峙すると、その凄さがひしひしとこちらに伝わってきた。こちらがひとこと言うと、それを十倍に膨らまして返してくれるああ、役者を辞めて良かった、とあらためて実感。それにしても久しぶりのプロの俳優さんとの共同作業はものすごく楽しいものだった。

稽古が始まって数日後、今度は叔父が亡くなった。86歳の大往生。御遺体と対面したときはびっくりした。なんと髪の毛も眉毛も、大部分がまだまだ真っ黒なのだ。60歳過ぎと言っても過言ではない若さ。静かに手を合わせ、お世話になりましたと告げた。

稽古も終盤にさしかかり、稽古場の部屋が会場の舞台と同じ寸法の取れる大きな部屋に変わった。
  ここにきて音響の代理を務めて音出しをしていたNちゃんの様子がおかしくなった。稽古で出す音のバランスがメチャクチャなのだ。あまりにひどいので声を荒げると、「すみません、実はわたし難聴で、音のバランスがとれないのです・・・」、という。おいおい、そんなの初めに言ってくれよ。仕方がないので、K君とM君がつきっきりで彼女を特訓して、なんとか使えるようになった。

この時期になると、イベントスタッフとの打ち合わせ、最後の台詞直し、スライドや映像の最終チェックなどで、もうたいへん。はじめは20分という条件だった芝居も、結局25分の長さになったが、それは了承を得た。
  そのまま小屋入りとなり、初日のイベントが終わった後の午後10時から、舞台稽古(場当たり、キッカケ会わせ)が始まった。僕はふだん、舞台稽古にものすごく時間を割く、それを今回は二時間であげてくれという。したがって、仕切りはM君にやってもらい、あとはイベントスタッフを信じ、自分のこだわりはある程度捨てて、大事な箇所だけ重点的に仕上げ、ぴったり二時間で終了。

終わった後、演出席の後ろからすすり泣きが聞こえた。振り向くとTさんがいた。明日の本番を観るため、福岡からやってきたのだ。
  「これ、泣けますね・・・」
  豪快なTさんが背中を丸めて呟いた。
  「泣けますって、言われても、これ、Tさんの話ですよ」
  僕が笑って言うと、
  「ええ、でも・・・泣けます・・・」
  この一言で、作ってよかったと思った。

その日はそのままホテルに宿泊、あしたの本番に備えた。
  宿泊先であるディズニーランドが見える大きなホテルは、芝居作りには場違いな場所で、その大きな一室で横になっていると、どうも居心地が悪く、ゆっくり寝ることができなかった。

昨晩の居心地の悪さと違って、本番はとても良かった。Yさんの芝居はすごく良かったし、イベントスタッフもいい緊張感を持って望んでくれた。M君、K君のフォローも最高だった。久しぶりに落ちついて自分の作品を観ることができた。Tさんは昨日に引き続き涙をぬぐっていた。そして芝居の終わったステージに呼ばれ、口を開いた。
  「一番大切なのは野球、その次が遊び、それから、生活しないといけないので仕事」
  自分が世話になっている企業のイベントでも、正直に自分でいることのできるTさんは素晴らしい。

帰り際、Tさんが一人の若い女性を紹介してくれた。
  「こんど、再婚しようと思っております」
  いつ、死ぬかもわからない身体で、再婚とは正直びっくり、と同時に、まだまだやるんだTさんは、とそのバイタリティーの凄さに思わず笑いがこみ上げてきた。
  「では、また縁がありましたら・・・」
  Tさんは僕の手をグッと握りしめ、帰って行った。

その後、映画の撮影のあるYさんを見送り、K君は別の仕事に向かった。
  僕とM君は近くの温泉で芝居の垢を落とし、都内に戻ってラーメンを食べた。
  別れ際、
  「また、お互い次の芝居まで、旅だね」
  「そうですね」
  「まだ、腐っていないか?」
  「大丈夫ですよ」
  「そうか・・・」
  そんな言葉を交わした。

わずか、二カ月の間に作った芝居。
  十年ぶりの、K君、M君との三人での共同作業。
  大先輩Yさんとの稽古。
  癌患者Tさんと出会い、近親者が二人亡くなり、そしてTさんは再婚を決めた。
  さて、次はあるのだろうか。期待をしないで、生きていよう。

更新できなかった言い訳を書いているうちに長くなってしまいました。今回はこの辺で。



2009.10.30 掲載

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